遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『アンカー』  今野 敏   集英社

2017-10-26 10:54:08 | レビュー
 『スクープ』から始まった布施京一記者をストーリーの中心に据えた事件報道シリーズ第4作になる。布施はTBNテレビ報道局社会部に属し、看板番組「ニュースイレブン」所属の遊軍記者である。デスクの鳩村からは、番組の打ち合わせ会議に出席しないなど素行に問題がある点を日頃から不快に思われている。しかし、キャスターからは布施がスクープをとってくる特異な能力を認められ、少々の素行不良も容認され、逆にそれもスクープを取ってくる要素の一部くらいに思われている。そんな布施が事件をスクープするという経緯がおもしろいシリーズである。

 この第4作では、『ニュースイレブン』の視聴率低下傾向が放送局の運営面から光が当てられる。一つのテーマとして視聴率至上主義のテレビ業界における報道番組のあり方、視聴率確保との両立という問題である。鳩村デスクは『ニュースイレブン』を正統派報道と位置づけ、ジャーナリズムの理念と矜持を持つ報道番組という信念をもつ。だが、番組発足当初の魅力からすると視聴率低下傾向が見られるのは事実なのだ。そこに油井局長が、大阪の局からセントラル映像に出向した栃本を『ニュースイレブン』のサブデスクとして起用する。視聴率アップのために番組に新たな発想を持ち込む助っ人、あるいは鳩村への刺客として送り込んだのである。栃本は冒頭から布施に興味があると言う。また報道番組が視聴率を上げるためには視聴者に魅力を感じさせる要素はどんどん使えと言い始める。「ウケればええんですわ。所詮、テレビやし」(p38)という現実主義の観点を主張する。鳩村は「私がデスクでいるうちは、『ニュースイレブン』では下品なスキャンダルや人を笑いものにするようなネタは、絶対に認めない」(p38)と反論する。さて、この二人の主義主張がどういうストーリー展開を見せるか。興味をそそる観点が一つの軸として織り込まれていく。
 更に、著者は日本における報道番組のあり方についても、大きな問題提起を織り込んでいる。それは、本書のタイトルが表象している「アンカー」である。鳩村は報道する側の良心、客観性があり公平性を維持した中立不偏の報道という立場を取る。それは一方で特自性のない報道に堕しかねない。さらに、日本の場合は、報道番組のキャスターが取り上げるニュースを選んだり、自らの言葉でインタビューすることは稀で、デスクの方針に従う。キャスターの発言もインタビューの質問も事前に用意されているという約束ごとになっている。ところが、アメリカではキャスターがニュースを選び、生でインタビューもするし、、質問で相手を追い詰めるということもある。アンンカーパーソンとして重要性が求められている。個性や独自性が重視されたものになっているという。
 鳩村がデスクを務め、鳥飼がキャスターだった『ニュースイレブン』が曲がり角に来ているのである。これは日本の報道のあり方、現状に対する日本の報道ジャーナリズムへの問題提起なのかもしれない。そういう意味で、サブストーリーの面白さがある。

 さて、布施の行動に目を転じよう。メイン・ストーリーは何か。布施は警視庁の黒田刑事が担当する事案に関心を寄せたのである。警視庁捜査一課の黒田刑事は、谷口刑事とともに未解決事件の継続捜査、つまり特命捜査対策室の事案を担当することになったのである。それは、10年前、大学生が飲み会の帰り道、町田市内で誰かと口論になり午後11時半琴に殺害されたという事件だった。町田市内で一人暮らしをする大学2年生、当時19歳だった福原亮助が帰宅途中、居住するアパートの傍で誰かと口論になったようで、相手に刃物で刺されたのである。事件発生は4月30日の午後11時半頃。通報が約5分後の11時35分頃。被害者は失血死した。口論していたという目撃証言があっただあけで、犯行の瞬間を見た者はいない。行きずりの犯行のようでもあった。殺人の公訴時効が撤廃されているため、未解決事件の継続捜査になっているのである。
 事件発生から1ヵ月ほど経った頃から、町田の駅前で10年近くビラ配りを続けてきた被害者福原亮助の両親に、布施は関心を抱き、事件について取材に行った。被害者の両親は事件の解決に繋がる情報に懸賞金を出すということまでしていた。その夜、布施は『かめ吉』でさりげなく黒田にアプローチし、黒田が事案を引き継いで担当することになったことを確かめた。
 布施はこの事件を調べる行動に踏み出そうとする。鳩村は報道の話題性に乏しいと判断し、布施に勝手な行動を取るなと言う。サブデスクに入り込んだ栃本は布施の事件に対する嗅覚、感性に興味を示す。メインキャスターの鳥飼は取り上げないと言う鳩村に同意するが、キャスターの香山恵理子は布施の関心に対して、布施の行動に賛成する。布施のスクープに対する嗅覚を信じているのである。そして、情報収集に協力すると言う。
 結果的に3対2で、布施がこの事件を調べ始めることになる。香山は周辺の関連情報を調べ、町田の大学生刺殺事件に直結するとは思えないものの、当時町田の近くで興味深い事件が数件発生していたという事実を拾い出したのだ。そこから警察組織と警察文化に関わりの無い布施は、独自の視点で事件性を追究する事になる。一方、己の発想をさりげなく黒田にメッセージとして投げかけていく。町田の大学生刺殺事件を担当する黒田は、布施のメッセージを勿論重視して深く考え、捜査行動に移していく。布施が記者の立場で独自に行う取材行動、黒田の警察組織を使った捜査行動が、徐々に事件の本質に迫り、収斂していく。当時捜査における捜査方針と捜査活動の限界と陥穽が明らかになっていく。

 この小説は、いくつかの問題視点を巧妙に組み合わせてストーリーとして織り交ぜながら、人間行動の盲点を暴き出し、意外な方向へと進展させていくおもしろさで読者を引きつけていく。
 次の問題視点が含まれていると思う。本書に描き出される場面から、興味深い断章を上掲と重複しない部分で並記しておく。

1. 捜査本部体制で短期間に事件の解決に臨む警察組織と警察文化に潜む陥穽の視点。
 捜査方針の貫徹による組織行動がもつ効率性とミスリードというリスクの可能性。
 「殺人事件でもっとも捜査が難しいのが行きずりの殺人だ。被害者と加害者との間に人間関係がなく、鑑取りができないのだ。」  p50
 「2週間経っても事件が解決しない場合は、捜査本部が縮小されます。それは、2週間を過ぎると、証拠も証言も集まりにくくなるからです。初動捜査が勝負なのです」p66

2. 警察組織が管轄領域を線引きし、所管の区域を分担することからくる相互不干渉、縄張り意識により事件性や発生事件についてのコミュニケーション・ギャップが生まれる可能性。

この2と3が、この小説のメインストーリーのテーマにもなっている。そこに部外者の視点で布施が風穴をあけるトリガー役となっていく。警察組織の縦割りによる問題点と解決への糸口の意外性をうまく俎上に載せていくおもしろさが描かれる。
 換言すれば、発想の切り替えといえるのかもしれない。
 このストーリーとは全く次元が異なるが、読後にアナロジーとして、かつてのオウム真理教のサティアンが警察の捜査という観点では盲点となるような場所に立地していたという事実を連想してしまった。

3. 未解決事件が継続捜査となったときはどうなるかという視点と実情。
 「犯罪の証拠は、時間の経過に従い急速に失われていくからだ」 p50
 「いわゆる思い込みで記憶が改竄されることもあれば、他人に言われて変化してしまうこともある」 p50
 「警察から連絡がなくなり、こちらから問い合わせても、進展はない、と言われるだけになりました。マスコミはすぐに、事件に関心を示さなくなりました。マスコミが取り上げないということは、世間から顧みられないということです。つまり、もうそんな事件はなかったのと同じことになるのです。」 p63
 
4. 民間テレビ局のスポンサー依存と視聴率至上主義を背景とする中での報道番組のあり方という視点。
 メインキャスターの立ち位置とアメリカのアンカーパーソンの違いは上記した。
 栃本という仕掛け人を登場させたことが、この視点で一石を投じ、揺さぶりをかけるおもしろさとなっている。

 こんなシーンも出てくる。
 鳩村「知る権利は民主主義の根幹です」
 黒田「知る権利なんて、あんたらには関係ない。問題は視聴率でしょう? スポンサーには逆らえない。そして、政府にも楯突けない。放送は許認可事業だ、というのが言い訳だ。反骨精神なんて、今のテレビにあるんですか?」
 
 「ニュージャーナリズムが登場してからは、アメリカのニュース番組も変容していったんや。客観性よりも自分の意見や立場を鮮明にするキャスターが現れたんや」p111

5. 布施の対極に居る『ニュースイレブン』のデスク鳩村の心の葛藤を介して、ジャーナリストの矜持とジャーナリズムを考えるという視点。
 4とはコインの裏表の関係にあると言えるが、布施記者の行動を鏡として、己を考えるという鳩村の心の揺れ動きが興味深い。栃本の発言も揺さぶりの起爆剤になっている。
 さらに、鳥飼がキャスターを降りると言い出す。どんな展開になることかと、先を読ませる動因にもなる。
 ここでは、鳩村をモデルにして、日本の報道諸媒体の有り様・現状に対する社会批判的視点が重ねられているように思う。

 私は、まず布施と黒田の阿吽の呼吸とでも言えるやり取りを楽しく感じる。さらに、布施の問題意識は上記の5つの視点を、立ち位置を変えて眺めたところから生み出されているように思う。それが、事件性への臭覚の背景になっていると思う。東都新聞の持田が脇役として登場するが、狂言の太郎冠者的な存在としておもしろい。また、今回はキャスターの鳥飼と香山恵理子が、今までよりも一歩踏み込んだ行動を取っているところも、各々異なる次元で織り込まれていく読みどころとしてうまく機能している。特に香山のデスクワークでの情報収集がメインストーリーの進展の上で、重要な布石となっている。
 一方、私はこのシリーズで鳩村の悩みと行動を楽しみに読んでいる。布施と鳩村はいい補完関係にある。それがこのシリーズの魅力の一つでもある。
 読ませどころを巧みに組み入れたストーリー展開になっていて、エンターテインメント性もありおもしろい。

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本書の関連で少しネット検索してみた事項を一覧にしておきたい。
ニュースキャスター  :ウィキペディア
News presenter   From Wikipedia, the free encyclopedia
Best TV Anchorperson   :「INLADER」
ジャーナリズム    :「コトバンク」
ニュージャーナリズム  :ウィキペディア
ニュージャーナリズム  :「コトバンク」
「ジャーナリズム」の構築過程に関する一考察     
  -不確実性下における「信頼」概念を手がかりに-   山口 仁 氏
       「慶応義塾大学メディア・コミュニケーション研究所紀要」
データ・ジャーナリズムの展望  :「データ・ジャーナロイズム・ハンドブック」

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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『継続捜査ゼミ』  講談社
『サーベル警視庁』  角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』  新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』  文藝春秋
『海に消えた神々』  双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新5版 (62冊)

『継続捜査ゼミ』 今野 敏  講談社

2017-10-22 10:36:07 | レビュー
 ちょっと異色な切り口から構想された警察小説バリエーションである。著者のチャレンジ精神が発揮されている。奥書を読むと「週刊現代」に連載後、2016年10月に単行本として出版された作品である。

 法律の改正で殺人等重要事案の公訴時効が廃止されたことにより、捜査本部が設置されて一定期間に解決できなかった事件は、捜査規模を縮小し、特命捜査案件として継続捜査が行われる。継続捜査は以前からあったが、公訴時効の法規が未解決で捜査打ち切りの壁となっていた。法改正により「特命捜査対策室」が警視庁に設置された。当然ながら、その担当者規模は小さいものとなる。時間が経過すれば新しく見いだせる証拠は急減していくばかりだから。一方で新たな犯罪が次々と生まれているという実態がある。
 
 さて、この小説の異色なところは警視庁特命捜査対策室の捜査活動を直接に扱うのではなく、おもしろいワンクッションを置いた点にある。特命捜査対象となり、継続捜査が行われているという案件を、女子大学の中でのゼミ演習として取り扱うという設定で構想されたストーリーなのだ。発想の切り替えである。女子学生たちによる疑似捜査活動という切り口で継続捜査の謎の解明に取り組むというところが斬新で面白い。それが荒唐無稽ではなく、自然に受け入れられる条件設定を巧みにとりいれている。

 三宿女子大学人間社会学部に籍を置く小早川一郎は警視庁退官後に、この女子大の学長からの話があり、准教授として大学で教え始めた。晴れて教授となったことにより、ゼミを担当することになった。ゼミは『刑事政策演習ゼミ』が正式名なのだが、別名が『継続捜査ゼミ』という次第。
 小早川は、警視庁在職中に刑事として活躍し、警察学校の校長が警察での最後の仕事だった。警視庁の刑事としてレジェンドを持つ人物でもある。その小早川自身が継続捜査を担当した経験もある。つまり、捜査の実務経験者が大学教授としてゼミ生を指導する立場に立つ。
 小早川はネット検索で継続捜査案件から15年前に起こった事件を選び出した。選び出した継続捜査案件の関係から、現職警察官の協力者を得る。協力者は警視庁目黒署、刑事組織犯罪対策課刑事総務係の安斎幸助巡査部長。小早川にとって、安斎は警察学校での教え子の一人でもある。小早川は安斎を通じて捜査関連で外部に出せる範囲の資料を入手することにしたのである。安斎はこれをきっかけにして、ゼミのオブザーバーとなることを小早川から認めてもらう。場合によれば、現職警察官からのコメントなども入手できるし、ゼミ生もまたオブザーブされることに抵抗はなく全員が同意した。ゼミとしてまず討議ベースで机上捜査活動が始まって行く。安斎はこのゼミをオブザーブできることを楽しみにしている。

 この小説が成功しているのは、女子大学生がゼミの討議で、警察組織の文化風土に捕らわれることなく、素直な疑問と率直な質問・自由な発想を述べあい、継続捜査対象事件の解明に立ち向かうという新鮮な切り口にある。もう一つは、継続捜査ゼミを選択したゼミ生がそれぞれに個性的な趣味嗜好を持ち、それが事件解決の糸口を導く上でプラスの相乗効果となっていく。つまり、ゼミ生のメンバーを趣味嗜好の領域で特異な能力を持ったキャラクターとして設定している点にある。

 そこでこのストーリーの主役となっていく継続捜査ゼミのメンバー5名を紹介しておこう。彼女たちは三宿女子大の3年生である。
 瀬戸麻由美 世界の謎オタク。常識では説明できないものに関心が強い。
      UFOの画像などの関係から、画像処理技術などにも詳しい。
      身長165cm。胸の大きさが目立ち、それを強調する服を好む。派手好き
 安達蘭子 法律が趣味という。刑法・刑訴法はもちろん民法や商法も通暁している。
      小早川が弁護士をめざしたらというくらいに。
      身長170cm。いつもパンツ姿。ショートカットでシャープな体型。
 戸田 蓮 薬に詳しい。幼い頃体が弱く薬を多用させられたことがきっかけという。
      小早川薬学部に行くべきではと思うくらいに。
      身長155cm。ゼミ生の中で一番小柄。いつも控えめな印象を与える。
 加藤 梓 日本史が好きで、特に城について詳しい。
      身長160cm。セミロングで知的な印象がある。
 西野 楓 大東流合気柔術の修行をしている。直心影流薙刀の使い手でもある。
      身長159cm。長い黒髪が特徴的。
 
 継続捜査ゼミで小早川が取り上げたのは15年前の事件で、マスコミがあらかた事実を報道してしまっていて、いまやマスコミが関心を抱いていない殺人事件である。

 事案の概要:目黒署館内で発生。被害者は結城元79歳、結城多美78歳。自宅で台所にあった包丁で刺され失血死。結城元は台所で、結城多美は二階から降りてきた場所で死亡。犯行時刻は午後3時から4時の間。発見者は孫の林田由起夫、当時15歳、中学3年生。祖父母宅を訪れた由起夫が発見し、午後5時頃通報。目撃情報なし。警察は空き巣狙いが見つかったことで居直り強盗となった犯行と読み捜査したが、逮捕に到らず継続捜査扱いになり、現在に到る。捜査結果で金品は盗まれていなかった。台所の裏口から侵入したことは残された足跡からわかるが、犯人が家から出た足跡はない。
 学生達は何に関心を向け、何を疑問として、仮説を立てていくか・・・・・。警察の筋読みでは犯人が逮捕できなかったことを前衛に、進められる分析と推測のプロセスが読ませどころである。
 
 継続捜査の事案とは別に、蘭子の提案を受けて、小早川は大学構内で今起こっている事件を演習の一環として手掛けていくというサブ・ストーリーも織り込まれていくことで、ストーリー展開が単調にならず広がりができ、推理にバラエティが加わり、山場づくりで読者を楽しませる効果が出ている。
 学内で発生していた事案は、スポーツシューズが盗まれているというもの。バレーボールサークルで3件、バスケットボールサークルで2件、合計5件の被害が出ているという。
 継続捜査ゼミの演習後にゼミ生の発案でゼミコンパが行われ、そこに安斎も参加する。このコンパの席で今起こっている事案の話題となる。情報の整理分析が、その後大学構内の現場検証に発展し、小早川と学生たちの推理が事案解決につながっていく。
 
 面白いのは、この教授1年生の小早川が学生とコンパをしたということを、噂で知った人間文化学部日本語日本文学科の竹芝教授が小早川に食堂で声を掛けてくる。小早川にとっては、まさに学者らしき教授との交流にも繋がる。そして、学内事件の解決の噂も知ったその竹芝が、初めてゼミの学生たちとコンパをした後で、送信されてきた画像に驚愕し、悩んだ上で小早川に相談を持ちかけるという事案が、もう一つのサブストーリーとして登場する。竹芝教授に身の覚えのない画像なのだ。教え子とラブ・ホテルの前で一緒に居る画像だった。小早川は、この事案もまた、今起こっている事案として、ゼミ生に投げかけてみる。勿論、ゼミ生の特異な持ち味を引き出しつつ、事案解決に役立てていくというところがおもしろい展開となる。

 メインストーリーの展開で面白いのは、研究室での演習としての継続捜査ゼミが、実際の捜査に関わっているというつもりでの学生の発言のその先として、研究室を出て、関係者から聞き込みをしたいという欲求段階に進展する。小早川は警視庁・特命捜査対策室にいる後輩と連絡を取り、出向いて事情説明と情報収集を試みると、第一係長保科警部補が小早川の話に乗ってくる。そして、その事件を引き継いでいる丸山刑事を参加させ、自分もオブザーバーに加わると言い出すのである。研究室のゼミが、継続捜査担当者と連携する形となる。この展開が現在の警察組織文化において現実的か、非現実的か・・・・それは抜きにして、おもしろい展開として一気読みしてしまう流れとなっていく。
 勿論、事件は解決する。それは読んでお楽しみいただくとよい。

 新基軸の警察もの推理エンターテインメント作品である。若い女子大生たちが智慧を絞った分析と推理を元警察官の教授1年生の小早川が指導しつつ、成果を生み出していくという切り口は新鮮であり、かつ、まず楽しく読めることは間違いがない。

 ご一読ありがとうございます。

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継続捜査という領域への関心から、ネット検索してみた結果を一覧にしておきたい。
「視庁本部の課長代理の担当並びに係の名称及び分掌事務に関する規程」:「警視庁」
警視庁組織規則
    第64条の7 刑事部捜査第一課に警視庁特命捜査対策室
         (以下「特命捜査対策室」という。)を附置する。
みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件 :「警視庁」
   アンケート結果 1位から10位まで   未解決事件も含まれている。
   アンケート結果 11位から50位まで
   アンケート結果51位から100位まで

未解決事件 追跡プロジェクト  :「NHK」

【閲覧注意】日本で起こった不可解な10の未解決事件【迷宮入り】 :「NAVERまとめ」
【閲覧注意】2000年以降の未解決殺人事件4件  :「NAVERまとめ」
未解決事件ファリル一覧 [~2000年] :「未解決事件X」
未解決事件ファリル一覧 [2000年~] :「未解決事件X」
【未解決事件総覧】(1)日本未解決殺人事件一覧・大全 
     :「未解決事件・失踪/行方不明事件・印象に残った事件」

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『サーベル警視庁』  角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』  新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』  文藝春秋
『海に消えた神々』  双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新5版 (62冊)


『機巧のイヴ』  乾 緑郎  新潮文庫

2017-10-19 17:07:52 | レビュー
 江戸時代に精巧な「からくり」の人形が作られたという。写真はいくつか見ているが、そのからくり人形が動いている実物を実際に目の前で見たたことはない。現代において、近年人型のロボットが作られ始めている。人体の部位の機能に似せた部分的な機能ロボットで、人間以上の能力を持たせたものは出現しているが、人型ロボットで人間と同じ水準になることは、まだまだかなり先の時代における次元の話だろう。未来において、クローン技術の方が先行するのかもしれない気すらする。

 こんな思いを冒頭に記したのは、この小説が実に奇怪な設定になっていることである。時代は江戸時代あたりと思える。ならば歴史的には非現実的な想定である。「幕府精錬法手伝 釘宮久蔵」という主な登場人物の設定が時代を匂わせる。一方、彼が扱っているのは「機巧」である。「からくり」の技術力を最極限まで修得し、極大レベルの精度の人工部品あるいは天然素材の加工から「機巧人形(オートマタ)」を造り出す。それは「機巧人形」というより一種の人造人間」次元の人形である。現在のロボット技術ですら足元にも及ばない「機巧人形」を登場人物としている。それが自ら考える能力を持つ伊武(イヴ)と称される人形である。この組み合わせは、まさに伝奇的である。SF発想+伝奇的発想+異時代発想をミックスしたバーチャル世界の物語。よくぞ、こんな妄想・幻想・空想を思いつき描き出せるなと感歎する。勿論それの下敷きになる題材、アナロジーのタネはあるのだろう。とにかくおもしろいストーリーである。

 この小説は、5つの短編から構成されたオムニバス形式の作品と言える。
まず、全体図をご紹介しておこう。2つの対立構図が設定されている。地理的には抽象化されているが、御公儀、幕府は、天府城とその城下町にあり、一方で天帝陵が存在したところに御所が作られ、そこに天帝家が存在する。幕府は天帝家を将来継承するに人を送り込み、天帝家を幕府の支配下に置こうと考えているというもの。これは江戸時代の徳川幕府と京都の朝廷・天皇家との併存、対立がアナロジーとして下敷きにあると思う。構図から先は伝奇的設定である。天帝は代々女性が継承するしきたりである。現在の天子には兄の比留比古親王が居て、日常はこの親王が政務と代行する。妹が天帝となった。だがそこには、大きな秘密があった。この妹が出産されるとすぐに母が死に、生まれた子も程なく亡くなってしまう。継承者の断絶を極秘にして、機巧人形を造り出したのである。赤ん坊の形の人形から順次人形も造り替えて生長させていくという離れ業を積み重ねてきたという次第。それを行ってきたのが比嘉恵庵だった。そして、その比嘉恵庵が伊武を造り出したのである。そこにも一つの秘密があった。
 比嘉恵庵は、釘宮久蔵の師でもあった。釘宮はもとは「からくり人形」を造る職人だった。それが幕府側の公儀隠密の手先となり比嘉の工房に弟子入りする。その力量を比嘉から認められ、技術を修得していく。だが、比嘉が幕府を転覆する計画を画策した段階で、「やらせ訴人」となる。だが、比嘉はそのことを見抜いていた。しかし、結果的に比嘉の計画は失敗し、捕まり処刑されてしまう。その結果、「幕府精錬法手伝 釘宮久蔵」が誕生することになる。一方で、天帝をメンテナンスできる者が居なくなったことで、天帝は窮地に陥る形となる。また、機巧人形伊武を比嘉から引き継いだ釘宮久蔵は、イヴのメンテナンスを通じて、機巧人形の構造を熟知していく。
 こんな状況を踏まえて、5つの連作が織りなされていく。まさに幻想怪奇な小説である。それぞれの短編について少し触れておこう。

<機巧のイヴ>
 仁左衛門が主人公である。彼は御上覧の闘蟋会で対戦相手の蟋蟀が八百長であると見抜き、相手方の蟋蟀を切る。それは機巧人形だった。そのことで、藩主から蟋蟀と養盆を賜る。仁左衛門はこの蟋蟀と養盆をひそかに売った代金で、十三層という遊郭で気に入っている遊女羽鳥を身請けしようと考えて居る。国許に妻子の居る仁左衛門は、羽鳥とそっくりの機巧人形を作成し、それを手元に置き、羽鳥を身請け後に自由の身にしてやろうと考えて居る。久蔵は機巧人形の制作に合意する。そして仁左衛門がその段取りを立て、実行していく。羽鳥の身請けには成功するが、その後仁左衛門の考えが破綻に到るプロセスを描いていく。羽鳥は機巧人形の伊武と瓜二つだった。それと併せて、仁左衛門にも彼自身の知らない秘密があったのだ。話はあちらこちらでどんでん返しを重ねていくという不可思議な構成となっているところがおもしろい。読者の頭が一瞬混乱する展開となる。

<箱の中のヘラクレス>
 背中一面に長須鯨の刺青を彫り込んだ天徳鯨右衞門という相撲取りが主人公である。普段は湯屋の下働きで三助をしている。彼は褄取りの掛け手を特異とする。だが、本人の関わらない形で錦絵に描かれそれが評判にもなっている。その天徳が蓮根稲荷の勧進相撲で鬼鹿毛が取組相手となる。長吉という地の親分から負ける八百長試合をするように迫られるが、天徳はつい勝負に勝ってしまう。天徳を伊武が好いていたことから、天徳が久蔵の助けを得て、機巧の手を得ることから、悲喜劇が始まるというストーリー。そして、天徳の人間的部分は箱の中に入るという経緯が描かれて行く。このプロセスが読ませどころである。天徳がヘラクレスに例えられている。

<神代のテセウス>
 幕府懸硯(かけすずり)方の柿田淡路守から呼ばれた甚内という隠密は、貝太鼓役の芳賀家から詮議無用で1,500両の公金を精練方に流す下知が出ていることに対して、内偵するよう命じられる。精練方手伝の釘宮久蔵が金の流れの隠れ蓑ではないかという疑いである。甚内は中州観音堂でお百度を踏む伊武を監視する。かつて比嘉恵庵の許に居た松吉を見つけだし、恵庵が「神代の神器」を調べていたこと、「其機巧巧之如何を了知する能わず」と言っていたという情報を得る。伊武と話す機会を得た甚内は、逆に伊武から見当違いのことで動いているようだと言われることになる。松吉から得た書を探索することから、甚内は天帝の秘密を理解する事になる。さらに、松吉、久蔵、伊武の隠された事実を知ることになる。
 この短編、起承転結に例えるなら、機巧人形を造るということに関しての転換点を押さえる役割を果たしていることになる。テセウスとは、調べてみると、ギリシャ神話に登場する伝説的なアテナイの王であり、ミノタウロスを退治する国民的な英雄を意味する。
 天帝陵の関わりが明らかになる短編でもある。どうかかわるのかは読んでのお楽しみ。
<制外のジェペット>
 天帝は日頃、帳内(とばりのうち)の娘数名と接するだけである。御所に仕える他の人々は幾段階化に区画された活動領域の制約の中に居る。つまり、天帝と接することはない。
 比嘉恵庵なき今、天帝をメンテナンスできる者がいない。つまり天帝は娘のままで造り替えられないし、メンテナンスもできないために問題が生じつつあった。天帝が機巧人形であるという事実は絶対的秘密として注意深く維持されてきた。
 舎人寮に住み、帳内の娘の一人である春日は、天帝が機巧人形であることを天帝から知らされる立場となる。天帝はもうすぐ己の機巧が動きを止めると春日に告げる。そしてそれを知らされたことから春日は一層天帝の秘密と天帝自体を守る任務に邁進していく。春日が主な登場人物の一人となる。
 比留比古親王は30年前の遷宮においてその費用を公儀から借りていた。その経緯から将軍家の娘を妃に迎えた。そして、帝家待望の女児が生まれたのである。建前は女子である天帝の腹から生まれた女子のみが天帝の血筋として世襲を継承することになる。つまり、紛糾の原因が生まれたことになる。現在の天帝が機巧人形であると知る将軍家は如何なる行動に出るのか。幕府の隠密の甚内も主な登場人物として、御所側の動きを探る。そして、近く天帝近くに仕える官職を終えて御所を出る者が居ること知り、甚内は確たる証拠を入手する画策を図る。
 話は意外な方向に展開していく。ストーリーの組み立てがおもしろい。
 ジェペットはピノキオの冒険に出てくるおじいさんを意味し、ここで象徴的にその名を使っているのだろうか。ジェペットじいさんは丸太からピノキオを彫りだした人である。
<終天のプシュケー>
 天帝の崩御が公にされた後、比留比古親王の娘、つまり将軍の娘が産んだ女の子が天帝を継承することになっていく。このストーリーは、天帝陵が暴かれて、奥深く安置されていた鉄の厨子を取り出してそれを開けようとする工事の場面から始まる。取り出し作業で事故が起こるが、結果的に厨子の蓋が開きやすくなる。梅川喜八が覗くと、一匹の蟋蟀が隙間から飛び出してきた。喜八はそれを捕まえる。そして、その蟋蟀は後に、闘蟋会に御公儀の闘蟋「鳶梅」として登場することになっていく。
 天帝陵から掘り出された「神代の神器」のために釘宮久蔵は御公儀から呼び出しを受けるという事態に進展していく。久蔵は目指していたものに辿り着けた喜びの一方で、苦難に直面していく。神代に造られた人型の機巧人形を検分して動くようにせよと命じられるのだ。
 一方、甚内は公儀隠密の立場から放り出されてしまっていた。一介の町人であり、殺されなかっただけが儲けものだった。そして、久蔵の許で機巧について学び始めていた。
 このストーリーでは、闘蟋会の進展状況が克明に描き込まれていく。一方で神代の神器の経緯が書き込まれていく。天府城に呼び出された久蔵の状況を探りに、闘蟋会に紛れて甚内は城内を探索する。そんななかで久蔵の対処から神器が動き出す。
 それがシリアスな騒動を引き起こしていくことになる。そこには鳶梅と名づけられた蟋蟀が重大な関係を持っていた。奇想天外な展開となる。
 天府城から救出された久蔵は甚内に己の技術を伝える最後の場面、天帝の機巧人形の修繕という技術伝承に臨んでいく。
 メンテナンスさえできる体制が整っていれば動き続ける人型の機巧人形と命がいつかは果てていく機巧を修繕できる技術を持った人間のコントラストが最後に鮮明になる。この機巧人形は己自身で考え、心を持っているように見える行動を取っているのだ。両者の間に心が通うのか。それはあくまで錯覚なのか。そんな哲学的な問題を残すかのような場面でストーリーが終わる。甚内が「嫉妬していたのさ。あの腰掛けに」という伊武への言葉が、一つの落ちになっていて、興味深い。末尾の一文は次の通りである。
   甚内の言葉に、伊武が顔を真っ赤にして怒り始めた。
伊武は機巧人形なのだ。このバーチャルな小説の中では、己で考え、心を持つ機巧人形である。この一文、哲学的解釈は様々にできそうな気がする。なんとも奇妙でもあり、伝奇的な時空の世界がここに生み出されてて、おもしろい。
 プシュケーは古代ギリシャの言葉だそうである。もともとは、息を意味し、そこからこころや魂を意味するようになったという。ソクラテスやアリストテレスがプシュヶーを論じているという。ここでも、やはり、命や心、魂の意味で使われているのだろう。機巧人形にプシュケーが存在するのか、である。興味深い未来型テーゼと言えようか。

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この作品からの関心事項の波紋をひろげネット検索してみた。一覧にしておきたい。
からくり  :ウィキペディア
からくり  :「コトバンク」
オートマタ :ウィキペディア
からくりの基礎知識   :「九代目玉屋庄兵衛後援会」
からくりって何? ~名古屋のからくり 現代ロボットへの伝承~ 玉屋庄兵衛
テーセウス   :ウィキペディア
ピノキオの冒険 :ウィキペディア
プシュケー   :ウィキペディア
からくり人形 :YouTube
東芝未来科学館 からくり人形の仕組み  :YouTube
茶運(ちゃくみ)人形の機構 :「収蔵資料」
「江戸からくりに学ぶ日本のものづくり力 上の巻」 学生編集委員
茶運び人形  :「はらっく工房」
芸工大生の卒業制作「書き時計」、ネットで話題に :YouTube
宮城大学卒業制作 「からくりを覗く」  :YouTube
歯車は“からくり”の基本  :「TDK Tech Mag」
世界のクールなロボット10選  :YouTube
人工知能ロボットKibiro(キビロ) :YouTube
Palmiが十八番の「恋するフォーチュンクッキー」をダンスする  :YouTube

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『鬼と三日月 山中鹿之介、参る!』   朝日新聞出版
『完全なる首長竜の日』 宝島社
『忍び秘伝』      朝日新聞出版
『忍び外伝』      朝日新聞出版

『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

『潮騒はるか』 葉室 麟  幻冬舎

2017-10-16 16:59:51 | レビュー
 2015年9月に、『風かおる』という小説に、佐久良亮・菜摘という医者夫妻が江戸時代幕末期を背景に爽やかに登場した。この時、佐久良亮は長崎に赴きオランダ医学を修得中であり、菜摘は黒田藩の城下、博多で鍼灸医として開業していた。ストーリーの中心舞台は筑前博多であり、菜摘の養父の過去に関係するストーリーだった。
 2017年5月に出版されたこの第2作では、佐久良亮・菜摘夫妻を中軸に長崎を舞台として新たなストーリーが展開されていく。
 この小説では、菜摘が長崎で蘭学を学ぶ夫の亮のもとにやってくる。その際に、弟の渡辺誠之助、博多の眼科医稲葉照庵の娘、千沙がともに長崎に来る。そして、それまで長崎の浜町の町家に下宿していた亮は、外町とも呼ばれる袋町に一軒の町家を借りて、皆がその借家に住むことになる。

 長崎に来た菜摘は、鍼灸医として職を得て長崎奉行所に通うようになる。長崎奉行岡部駿河守長常が妻や娘を伴い新任の長崎奉行として着任していたのだが、その妻が病を患っていたことと、奉行所に留置されている女囚の病気への対処のために、女医者のニーズがあったのだ。運良く菜摘はこの職に就くことができた。そのことが、菜摘をある事件に関わらせる契機にもなっていく。

 この小説では江戸幕末期の長崎という地理環境と時代背景が大きく影響を及ぼしていく。時代状況をまず大きく捕らえておこう。併せて、登場人物群にも触れておく。
 *安政5年(1858)の7月に結ばれた日蘭通商修好条約の交渉は岡部長常が担当した。
  その5年前の嘉永6年(1853)にはペリーが来航し、1854年に日米和親条約が結ばれ、それ以降各国との条約締結が進む時代だった。この小説は1858年の秋から始まる。
  岡部長常が長崎奉行として、どういう立場にいて、何を行ったかと言う点も書き込まれていて、時代を知るという点で興味が湧いた。
 *文政11年(1828)のシーボルト事件によりシーボルトが国外退去処分となり、はや30年が過ぎていた。そして、ポンペというオランダ海軍の軍医が長崎で医学校を開設していた。佐久良亮はこの医学校で蘭学、オランダ医学をポンペから学んでいる。オランダ医学の伝習風景とポンペの人物像が点描されていて興味深い。
 *長崎奉行所は寛永10年(1633)に立山役所と西役所に分けられていた。立山役所がメインであり、ここに牢屋がある。岡部長常は立山役所内に起居し政務を執っている。
 *ポンペによる西洋医学伝習は西役所内で行われている。松本良順を筆頭に12人の聴講生が居て、亮はもぐりの聴講生という位置づけである。松本良順が塾生頭のような代表者の位置づけとなっている。松本良順の行動がストーリー展開で点描され、重要なサポート役として活きている。
 *幕府の海軍伝習所が開設されていて、勝海舟が長崎に居住し伝習所に関与していた。その勝海舟も重要なポイントでストーリーに登場するところがおもしろい。
 *シーボルトの娘、いねがシーボルト国外退去の後、長崎においてどのような存在となっていたかがサブストーリーとして描き込まれ、かつ産科医となっているいねがこのストーリーでは重要な脇役として活躍する。いねを介して当時の長崎の人々の視線や思いも語られていて興味深い。

 こんな時代状況の中で、菜摘が巻き込まれていくのは、長崎に共にきた千沙の姉に関わる事件である。『風かおる』に横目付田代助兵衛が登場し、菜摘の依頼で動いていた助兵衛は殺される結果となった。その弟、甚五郎が兄の後を継いで横目付となり、長崎に佐久良亮に用意があると言って現れる。田代は福岡において事件を起こし、長崎に逃亡したと思われる女の探索に出向いてきたという。その女とは千沙の姉・佐奈のことだった。
 千沙の姉佐奈は書院番百石の加倉啓に嫁いでいた。彼は和歌に堪能で、藩主の覚えもめでたく、招来は重臣となると目されていた。その加倉啓が自宅の居室で吐血して死んでいた。毒を盛られたのではないかと医師は診立てた。一方、佐奈は「申し訳ないことをいたしました。死んでお詫びをいたします」という遺書を残し、姿を消していた。佐奈は夫の加倉啓と和歌仲間であった男と不義密通をして、夫に毒を盛った後、男の後を追って長崎に向かったのではないかと推測されたのである。甚五郎の出現は、長崎にて佐奈とその男を捕らえる目的だった。なんと、甚五郎は亮たちが住む借家の一室に居候をして探索をするという展開となる。

 佐奈が不義密通をしたとみなされている男は、数年前には長崎聞役を務めていて、8月に脱藩した平野次郎、名を国臣という。父は福岡藩の足軽で、その次男として生まれ、長崎勤めの頃に水戸学の影響を受けて尚古主義を深めて行き、黒田藩主に犬追物復興を直訴し、1ヵ月の蟄居処分を受けたという人物である。後に、京都の六角獄舎で惨殺される勤王志士・平野国臣をここに不義の相手として登場させてくるのだから、俄然話が興味深くなっていく。
 ちょうどその頃、長崎の牢屋の女囚の一人に、早苗と名乗る女が居た。女牢で菜摘はその女と会っていたのだ。菜摘の質問に役人はその女の入牢理由を語った。路銀に困り春をひさごうとしたが、途中で嫌になり懐剣で相手の商人に切りつけ、巾着を奪って逃げたのだという。武家の妻女らしい身なりの清楚な女だったので、その理由を聞き菜摘は驚いたのである。もしや、その早苗が佐奈なのか・・・・・。こんな出だしから、ストーリーが展開し始める。福岡藩の事件、千沙の姉に関わる事件が、長崎を舞台にした謎解きとしてストーリーが進んで行く。

*加倉啓が吐血して死んだのは服毒による自殺か、毒を盛られた他殺なのか。他殺ならその方法は? 殺されたとするなら、その理由は? 
*佐奈の遺書のメッセージが意味することは何か? 佐奈は不義を働いたのか?
*平野国臣が不義の相手とみなされているが、本当にそうなのか? そこには何か隠された意図が含まれているのか? 平野国臣はスケープゴートなのか?
*女囚早苗は佐奈なのか? それを人知れずどのように確かめられるか?
*居候を決め込んだ甚五郎に知られずに、どのように対応していくことができるか?
*加倉啓の死の経緯をどのように立証できるのか?

 幕末期に実在した人物とその事績に、佐久良亮・菜摘、渡辺誠之助、千沙・佐奈、田所甚五郎その他福岡藩の藩士たちという架空の人物群の言動を関わらせていき、謎解きストーリーのフィクションを織上げている。単純な不義密通の外観を呈した事件の裏に、福岡藩内の内政、お家問題が絡んでいくという展開がおもしろい。
 『風かおる』では、田所助兵衛がおもしろい役回りで登場したが、今回もまた兄の職を継承した横目付・田所甚五郎が一筋縄では捕らえがたいおもしろい役回りを果たしていく。なかなか巧みな設定となっている。千沙の姉が疑われているという設定が、まず読者を引きつけるだろう。菜摘にとっては、いまや身内同然の千沙に繋がる問題なのだから。
 今回は、亮と菜摘が二人三脚のように行動し、その相互連携が描き込まれる。第1作とは異なった謎解きのアクション、対処法が描かれていて、楽しく読める。
 
 メインストーリーの謎解きに併せて、著者は複数のサブテーマを置いている思われる。それに関するストーリー上の描写も興味深い。いくつかのサブストーリーが併行して織り込まれていくから、関心の範囲が自ずと広がっていく楽しみが加わる。
 1. 幕末期の長崎の状況と雰囲気が背景として描かれる。併せて、幕末期の重要人物が点描的にメインストーリーの中に登場する。その人物を髣髴とさせる形で役割を持たせ織り込んでいく描写の面白さがある。勝海舟、松本良順、ポンペなど。
 2. 平野次郎国臣という勤王志士の生き様、人物像を浮かび上がらせるストーリー。
   私は月照を京から九州に逃がすプロセスで平野国臣が関与し、サポートしていたということをこの小説で初めて知った。
 3. 長崎奉行岡部駿河守長常の略伝というタッチでの描き込みとメインストーリーへの関わり方のおもしろさがある。
 4. シーボルトの娘いねについても略伝風のタッチで描き込まれていく。幕末期の女性としては、特異な生き様である。
  謎解きストーリーのフィクションの最終段階で、いねが重要な発言をする。これが興味深い。現代なら、さらに科学的分析検証手段が追加されているのだが。それが幸いか不幸かが別として・・・・。
 
 この小説の最大の山場は「二十四」の章にあると私は思う。著者が「思い」の次元を描き込む巧者であるという局面が遺憾なく発揮されている。不義密通殺人事件という見立てから始まる謎解きストーリーの次元は、この「思い」の次元を読ませるための準備とすら言えるかもしれない。感極まるシーンとしてこの章が事件自体の解明の後に重ねられていく。
 この章の末尾の数行が伝承事実としてあり、そこに発想を得て著者がこのフィクションを紡ぎ出したのか? あるいは、それ自体がフィクションの一部なのか? 確かめる術があるとおもしろいと思うのだが・・・・・・。
 
 このストーリー、「二十五」の章は、長崎奉行の勧めもあり、菜摘が町医者として「時雨堂」という看板を上げるという経緯が書き込まれる。長崎に定住する町医者「時雨堂」が第3作として描かれて行くことを期待したい。
 本書の題名に相当する語句はこの小説には出て来なかったと思う。だが末尾の一文が、この小説のタイトルのネーミングに照応していると思った。
 
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本書に関連して、関心の波紋を広げ、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
平野国臣  :ウィキペディア
平野国臣  :「コトバンク」
西郷隆盛と平野国臣
平野国臣殉難の地  :「京都観光Navi」
平野国臣以下三十七士の墓(竹林寺)
平野国臣  :「邪馬台国大研究」
幕臣 岡部長常  :「なるほど!幕末」
大久保一翁の長崎奉行辞退と岡部長常ーポンペ:長崎養成所 :「ヒポクラテスの木」
ポンペと養成所  近代西欧医学教育の父ポンペ :「長崎大学図書館」
ヨハネス・ポンペ・ファン・メールデルフォールト :ウィキペディア
松本良順と長与専斎 :「長崎大学図書館」
日本の誇り(四)~松本良順~  :「日々想うこと」
郷土の医傑たち ~シーボルトの娘・楠本イネ~  :「木村専太郎クリニック」
日本初の女医・楠本イネ父はあのオランダ人医師・シーボルト
    :「BUSHOO!JAPAN (武将ジャパン)

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26


『あしたの君へ』  柚月裕子  文藝春秋

2017-10-09 17:51:28 | レビュー
 家庭裁判所調査官という職業に光を当てた小説は初めて読む。家庭裁判所という司法機関は知っていても、家裁調査官という職務自体の存在を知らなかった。その観点でも興味深く読める小説と言える。家裁調査官は家庭裁判所に持ち込まれる問題、つまり少年犯罪や離婚問題などを取り扱う。問題案件の対象者と面談し、必要に応じて関係者とも面談して問題の背景を調べ、関連機関との連携方法を築き、案件への対処策について考慮し、報告書の作成・提出をするそうである。
 この小説は、家裁調査官を目指し、研修期間中は家庭調査官補という身分である望月大地が主人公である。そして2人の同期と上司たちが登場する。
 一言で言えば、家裁調査官補望月大地が専門職として成長していく物語である。家裁調査官という職業が己にとって適職なのか、その職業に熟達し、使命を果たせる能力が己にあるのか、研修中の担当課題に悩みながら取り組んでいく姿が活写されている。
 この小説は、5つのストーリーを扱う。家庭裁判所が扱う様々な案件が問題解決の対象になっていく。つまり短編小説の累積の中で、大地が悩みながらも家裁調査官へ少しずつ前進するというオムニバス形式になっている。5つの話は独立し一応完結しているので、どれからでも読むことはできる。しかし、その問題に取り組む大地に着目していくと、大地の成長という局面では各短編は緩やかに一つの流れが通貫していて、第1話から順次読み進めるのが素直なところと言える。

 私がこの小説で知った家裁調査官という専門職のアウトラインをまずご紹介しよう。
 裁判所職員採用総合職敷試験を受け、合格すれば家裁調査官に採用される。
 2年間の養成課程研修を受ける。その期間は家裁調査官補という身分に位置づけられる。研修プロセスの大枠は、次のとおり。
  1) 前期合同研修 3ヶ月間 埼玉県和光市所在の裁判所職員総合研修所にて
  2) 実務修習 1年あまりの期間 全国にある修習庁配属にて
     家事事件担当と少年事件担当の2分野の事件課題取り組む。
  3) 後期合同研修 約6ヵ月間 裁判所職員総合研修所にて
 この2年間の研修コースを修了してやっと正式な家裁調査官に任官する。

 この小説は、大地が実務修習として、九州の某県庁所在地・福森市にある福森家裁に配属され、1年間を過ごすことになった期間を舞台とする。この福森家裁には、同期である藤代美由紀と志水貴志とともにやってきたという設定になっている。
 家裁調査官には大きく分けると3通りの人間がいるという。法律畑、心理学畑、社会学畑の出身者である。大地は静岡県出身で、大学は法学部の出身である。同期の藤代と志水は心理畑の出身である。出身の違いにより、物事の見方に違いがあることもストーリーの中に面白みを持ち込んでいる。
 この福森家裁は42歳の真鍋恭子が上席の総括主任であり、真鍋の下に離婚や相続問題を扱う家事事件担当と少年犯罪を扱う少年事件担当、各6人で計12名の家裁調査官がいる。大地は最初、少年事件を担当する溝内圭祐の下で実務修習を始める。溝内は大学院で心理学を学び任官し、調査官歴8年で、ここ5年は少年事件を担当している人物。
 上席の真鍋をはじめ調査官は、見習いの家裁調査官補をカンポちゃんと親しみをこめて略称する。つまり、これは若きカンポちゃん奮戦成長物語である。
 
 この小説の視点は、大地が溝内の次に実務修習として家事事件を担当するときに指導をうける露木調査官の発言に端的に表れている。彼女は溝内と同期であるが、福森家裁の中で裁判官から大きな信頼を寄せられている一人であり、同期のなかでも一目置かれているという。彼女は言う。「家裁調査官は、当事者が置かれている状況を丹念に調べて、裁判官に双方の詳細な情報を報告するのが仕事」(p149)であり、「担当することになった事案を、世間一般と同じ見方しかできないんじゃ家裁調査官としては失格」(p150)だと。つまり、世間一般の通り一遍の見方を超えた見方で事案に取り組めるか。悪戦苦闘しながら、己は家裁調査官に向いていないのではと悩みつつ、担当する案件を解決に導いていく大地の成長プロセスが5つの短編で描き込まれていく。

 この小説、カンポちゃんが主人公で家裁の案件を扱うが、調査官としての仕事は、案件(事件)の問題解決に対する糸口の究明発見プロセスである。推理小説と同じ要素が大きく絡んでいて、いかに通り一遍の見方から脱却し、問題に取り組めるかのストーリー展開となる。そこには思いもしない意外性やどんでん返しなどが含まれていて、興味深く楽しめるストーりーとなっている。
 どんな事件、案件が取り上げられているかに簡単にふれておこう。

第1話 背負う者(17歳 有里)
 少年事件。加害者は鈴川有里、17歳。窃盗事件。スマホのラインで知り合った小林を、ラブホテルに誘い込み、小林がシャワーを浴びている隙に財布を盗み逃走。通報を受けた警察官から職務質問を受けて逮捕され容疑を認め、検察から家裁送致案件となる。
 「百聞は一見に如かず」と真鍋から大地はこの事件を担当する指示を受ける。窃盗容疑を認めた有里が、窃盗で得た金を何に使うつもりだったか。有里は窃盗を認めたことそれ以外は語ろうとしない。大地が送致書類に記されていた有里の現住所を訪ねる行動を取ったことから、問題点が見え始める。有里が背負っていたものが何かが、明らかにされていく。

第2話 抱かれる者(16歳 潤)
 大地たちが福森家裁に来て2ヵ月半が経った時点での話。
 少年事件。ストーカー事案。加害者は星野潤。進学高校の2年生、16歳。被害者は市内の別の高校に通う1年生の相沢真奈。スマホのネット上で知り合い、潤が交際を申し出、付き合い始めるが、2ヵ月後に真奈が「もう合わない」と別れのメッセージを送る。そこから潤の真奈へのストーカー行為が始まる。潤が真奈の自宅近くで待ち伏せ、カッターを真奈にちらつかせた。真奈は悲鳴を上げ、近所の住民が駆けつけて潤は取り押さえられる。暴行の罪で逮捕となり、家裁送致に。潤は大地の面接に対し、優等生的態度で悔悛していることを示す。母親譲りの優等生ぶり、それは本物なのか、そうでないのか。それを見極めるために大地が行動する。そこから星野家の家庭問題が明らかになっていく。
 書類の記録では見えない事実が意外な方向に展開していくところが興味深い。

第3話 縋(すが)る者(23歳 理沙)
 大地はカンポちゃんとして福森家裁で実務修習期間中、年末年始の休暇を利用して帰省する。故郷で同期会に出席し、後に特別な感情を抱いていたことを自覚する羽目になった理沙とも再会する。この第3話では、大地の高校時代の姿が描かれるとともに、なぜ大地が家裁調査員という道を選択したかの理由が語られる。同期会の後で理沙が語った体験談と大地へのメッセージが大地にとって重要な示唆となる。同期会と併せて、その2週間前に大地が参加した福森市での合コンのエピソードが織り込まれていく。合コン後の同期志水の発言が大地にとって重みを持つ。志水の言動を鏡として、大地は己のふがいなさを痛感する。
 この短編は、「やるだけやってみよう。それで駄目なら、そのとき、もう一度考えればいい。だけどいまは、まだ諦めたくない」(p142)と奮起する結末を導く。いわばインターミッション的なショートストーリーである。
 理沙と志水の発言は、大地が職種選択の適正性に悩むことへのメルクマールとなる。

第4話 責める者(35歳 可南子)
 大地は実務修習として、少年事件担当から家事事件担当に代わる。カンポちゃんは、実務修習期間中に、両方を体験することになっている、この第4話は上席の真鍋から、大地がはじめての家事事件案件として指示された事件を描く。
 家事事件。離婚訴訟問題。離婚申立人は朝井可南子、35歳。相手方は夫朝井俊一、40歳。戸籍謄本ではお互いに初婚であり、婚姻届は5年前に出されている。子供はいない。可南子からの離婚申し立てにあたり、金銭的要求は一切なし。そんな案件である。
 この事件の担当から大地の直属の先輩は、少年事件担当の溝内から、家事事件担当の露木千賀子に移る。露木は溝内より3歳下だが、任官では同期の女性であり、裁判官からも信頼されている。同期からも一目置かれている存在であり、考え方は厳しい。大地が書類を読んだ範囲では離婚申請の経緯・理由がわからないと露木に言うと、「わからなくて当たり前よ。紙に書かれた情報だけで真実がみえるなら、私たち調査官なんて必要ないわ」(p147)と答え、通り一遍の見解しか出せないなら家裁調査官の資格はないと、大地に厳しく言う。
 大地の取り組みは調停の話し合いの場に同席することからスタートする。可南子と調停委員との面談、俊一と調停委員との面談の場面が克明に描き込まれていく。家裁調査官補としての大地が、通り一遍の見方からどう脱却していくかを描く。読み応えのある短編となっている。書類では見えない側面をどう見える形にしていくか・・・・。判断できる客観的な証拠があるのか。離婚を申し立てるほどの理由があるようには熟練の調停委員にも見えない案件の陰に何があるのか? 大地が調停立会の先に、自分の足で調べた事実が、決定的な証拠入手に繋がって行く。最後に、露木が大地に語る。「あなたは、ひとりの女性を救ったのよ」と。通り一遍に読み進めると、見えない背後の意外性がテーマとなっている。世の中、離婚訴訟に限らず、こんな事象が増えてきているようである。そういう意味で、社会事象の断面をうまく切り取っていて読ませる短編となっている。大地がカンポちゃんとして一皮むけるというところか。
 
第5話 迷う者(10歳 悠真)
 大地は実務修習を始めて年を越し、少年事件担当から家事事件担当となった。6月上旬に大地は露木から親権争い事件の一式の書類を受けとる。裁判官から夫と妻の生活環境や経済状況を精査し妥協点を探る依頼があること、1週間後の2回目からの調停に立ち会うこと、子供の意思確認を慎重にすることと、という指示を大地は露木から受ける。
 家事事件。親権問題。離婚申立人は妻の片岡朋美、35歳。相手方の夫は信夫、46歳。親権争いの対象となっているのは、悠真10歳、小学校5年。悠真は父親とその両親の住む家で生活している。一方、悠真を引き取りたい朋美は、悠真が現在通う小学校の学区内にあるマンションに別居していて、悠真を引き取った後も、通学を含め悠真の生活環境への体制は十分できていると主張する。
 このストーリーも、朋美と信夫それぞれと調停委員の面談を軸にしながら進展する。調停に立ち会う場面の描写が、この事件の背景情報を累積していくプロセスとなる。さらに大地が己の足で関係者に会いに出かけ、調べるという行動から、面談内容とは異質の事実が見えていくという展開となる。露木の言った{子供の意思確認」という観点が、大きな意味を帯びていく。そして、このストーリーでは、誰にも語らなかった己の生い立ちを、志水が大地に明かすという意外な局面も織り込まれていく。
 この短編でも、調停のための面談の場だけでは到り得ない事実、大地が足で調べた結果わかったことが決め手となっていく。それが調停面談の場で、どんでん返しの告白を引きだすという結果になる。この最終話はカンポちゃんの実務修習の集大成版にもなっているストーリーにはいくつかの大きい山場が造り出されていて、読ませどころを巧みに織り込んだ短編である。。

 実務修習中の家庭裁判所調査員補を主人公にしているが、この小説は、警察小説に通底する調査という行動が太い軸となっている。担当した事件について、己の足で調べ、自分が確認した事実情報を着実に累積し、書類に記された内容を捕らえ直していくというプロセスである。世間一般の通り一遍の考えに捕らわれない問題意識、独自の視点での情報収集、推定と論理の展開。そして到るべき結論を着実に導き出すという歩みである。
 裁判所というシステムの中に、こんな専門職の領域があったのだということを知った小説でもある。

 著者は、成長の一歩を踏み出し得た大地の姿を、同期の美由紀からの携帯電話への着信、応答の場面を描くことでこのオムニバス作品を締めくくっている。
 家裁調査員として正式に任官した後の望月大地のストーリーを、いずれ紡ぎ出してほしいと思う。

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本書に関係する事項を検索してみた。一覧にしておきたい。
裁判所  :「裁判所」
家庭裁判所 :「コトバンク」
京都家庭裁判所における手続案内  :「裁判所」
家庭裁判所調査官  :ウィキペディア
裁判所職員総合研修所  :ウィキペディア
25B-Q02 少年による犯罪   :「総務省統計局」
少年犯罪が12年連続の減少、戦後最低に :「ベネッセ 教育情報サイト」
家庭裁判所 平成28年版犯罪白書第3編
人事訴訟事件の概要-平成28年1月~12月-  :「最高裁判所事務総局家庭局」
 「家庭裁判所調査官の関与状況について」という項目とデータも掲載
種類別にみた離婚  :「厚生労働省」
統計から見る離婚訴訟の結末 :「厚木の弁護士事務所ブログ」
定着する中高年の離婚~多様化するライフコースの選択~
   :「三菱UFJリサーチ&コンサルティング」

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徒然に読んできた著者の作品の中で以下のものについて印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社