遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『白日夢 素行調査官』  笹本稜平  光文社文庫

2020-03-22 10:56:56 | レビュー
 『素行調査官』シリーズの第2弾。「小説宝石」の2009年10月号~2010年9月号に連載発表され、2010年10月に単行本が出版された後、2013年6月に文庫本化されている。
 
 東北地方の中央部にある都市の駅前の繁華街にほど近いマンションの屋上から一人の男が8月下旬に飛び降り自殺をした。巡査部長で殉職した父の警察官人生を継ぐように、その男は高校卒業後、警視庁に奉職した。彼は潜入捜査員となった。依願退職の後、車のトランクにおとり捜査用の約1kgの覚醒剤を所持したまま全国を彷徨った。どこに身を隠しても、覚醒剤密売組織が放った刺客が、間を置かずに身辺に出没するようになったからだ。その挙げ句の果てに東北地方で自殺した。プロローグはこの自殺した潜入捜査員の警察官人生がまず描かれる。
 
 9月半ば過ぎ、キャリアの警視正で警務部首席監察官の入江から、人事第一課監察係の本郷と北本は、山形に出張し元刑事のお骨を受け取って来るようにとの指示を受ける。その男は死ぬ1ヵ月前に依願退職していて、自殺については事件性がないということで決着していたから、お骨を受け取りに行く理由がわからないと本郷が反論すると、入江は覚醒剤1kgが出て来たことと、その男が組織犯罪対策部第五課所属だったと答える。北本は薬物に関係したおとり捜査員が依願退職をして1ヵ月くらい後に自宅近くの路上で刺殺されたという事例を本郷に語る。入江がそれに補足する。自殺した元刑事は、この刺殺事件が起きた年に所轄の刑事課から生安の薬物対策課に異動していたのだと。さらにその薬物対策課が組対部に吸収されたことにより、組対部第五課の薬物捜査第三係に横滑り異動したと言う。

 本郷と北本が山形新幹線で東北地方に出張することになる。自殺した元刑事は坂辻誠一でその道12年の薬物捜査エキスパートだった。ミイラ取りがミイラになったのか。組織の圧力が働いたせいなのか。二人には謎が多く残されたままの出張となる。
 本郷と北本は、県警本部の黒井首席監察官に会い、坂辻自殺の発見場所と車が回収された場所やその後の経緯を確認し、改めて車全体からの指紋採取を桜田門からの依頼として行うように話をつける。マンションの屋上を見聞した二人は、そこから再びタクシーを拾い、坂辻の車が放置されていた林道の場所に向かうが、そのタクシーの運転手がある事実を目撃していたことを、道中の会話から知ることになる。坂辻の車の傍にシルバーメタリックのクラウンが停まっていて、堅気の感じがしない二人の男を見かけたと言う。坂辻の車があった場所付近で、北本が偶然にも小さな銀バッジを見つける。運転手は、中くらいのはヤクザの幹部がつける類いのバッジだと、その業界にいる中学時代の同級生から聞いた話だがとして語った。だが、地元のやくざのものでないのは確かだと付け加えた。二人は貴重な手がかりを得たのだ。
 おもしろいのは、本郷がそのお骨を現状では重要な物証だと入江に言われて、官舎の自室でしばらく預かる羽目になることだ。

 入江が銀バッジを手がかりに、事務所が大田区山王にある龍仁会という組の代紋だと割り出してきた。その組のシノギが覚醒剤ということも信憑性が高いと言う。
本郷と北本は龍仁会の事務所に出入りする車を糸口にするために張り込みの下見から始める。だが、幸運なことに、山形のタクシー運転手が言っていた車と同型のものが事務所の方にやってきて、庭に車を駐めるのを目撃する。そのナンバーと車をNシステムで調べるとヒットした。さらに、坂辻の車とこのシルバーメタリックのクラウンが全国のNシステムの通過ポイントで数時間からせいぜい1日以内の時差のもとに記録されているという事実までわかったのだ。それに携帯電話の位置情報が加われば、ピンポイントで現在場所が把握できることになる。だが、それなら警察関係者が協力していた可能性が濃厚だと考えざるをえない。
 依願退職をした元潜入捜査員が、警察手帳という魔除け(防御壁)をなくした時点で、警察組織の情報収集力を悪用した形で追跡され追い込められていたとすれば・・・・、そこには暴力団組織と警察組織内のいずこかとの癒着が想定されることになる。警察という伏魔殿からどんな魑魅魍魎が蠢きだしてくるかわからない。
 警察組織内に巣くう悪と覚醒剤を扱う暴力団等の悪の両面を暴くために、どのように調査して確証を掴んでいけるのか。警察の警察である監察という立場にとって、そこが正念場となっていく。

 放置された坂辻の車からは別の指紋が検出された。また、クラウンの所有者笠井を張り込んで、笠井が誰と会うかを追跡し会った人間すべての写真を撮るという行動を本郷と北本は始める。その笠井はクラウンを使い、警視庁本庁舎の少し手前で、組対部五課長の川喜多邦義と出逢い、車に乗せて移動したのだ。これはどういうことか・・・・。
 北本はかつて川喜多をセクハラ問題という別件で監察対象にしたことがあり、その顔をよく知っていた。
 読者にとってはおもしろい展開の始まりとなる。敵の方から本郷たちに突破口を作ってくれたようなものである。さて、どういうことになるのか・・・・。

 本郷が川喜多の周辺調査を始めていくと、なんと土居沙緒里が私立探偵の仕事として川喜多を調査していた。川喜多の妻の依頼で不倫調査を手がけているという。沙緒里の仕事との接点が出て来た。本郷は沙緒里との間で守秘義務違反の共犯関係に巻き込むことで、協力関係を作っていく。沙緒里は川喜多の不倫相手の名前とメールアドレスだけは掴んでいた。私立探偵には限界があるが、本郷には警察という公権力での調査の仕方がある。興味深い展開がここに加わってくる。また、入江の持つ職権が有効に機能し、入手情報が相乗効果を上げ始める。
 また、北本は監察活動を通じて過去に累積してきた裏ネタから、川喜多とリンクする糸口となる人物を抽出してくる。興和セキュリティの営業部次長に天下っている山田欣司である。山田に面談して川喜多について過去の背景情報を聞き込みする。山田は元監察官の時期があった。その折り、内部告発による川喜多と暴力団関係者との癒着問題が浮かびあがってていた話が出て来た。
 地道な調査から、警察関係者と暴力団関係者とのどす黒い人脈が浮かびあがっていく。それが坂辻の自殺に結びついていく。
 また、かつて川喜多を内部告発した男・岸上が独自に行動を起こしていた。彼の行動への動機には坂辻ともリンクする接点があった。岸上が本郷らに協力するようになる。
 
 一つ一つの糸口からの地道な調査が相互にリンクする接点や交点を持ち始め、全体像が見えていくという構成がスリリングでもある。
 最終ステージで、坂辻が自殺に追い込まれることになった潜入捜査がどのようなものだったかが明らかになる。麻薬特例法で認められたコントロールド・デリバリーという特殊な捜査手法があるというのを、この小説で初めて知った。
 遂に、入江、本郷、北本のチームは、坂辻の遺骨の受け取りから始まった事実の解明により、警察組織内に巣くう魑魅魍魎の最高地位者にまで到達する。「監察の職務で逮捕状を執行してはおりません。司法警察職員の権限においてです」と言い切る正しい理屈で逮捕に臨む。タイトロープの如き緊迫感に溢れるクライマックスの逮捕劇となる。
 ここからは読んでいただいて楽しんでもらうと良い。

 本書のタイトルは「白日夢」である。私が読んだ限りでこの語句自体が本文に出て来た記憶は無い。(見落としているかもしれないが・・・・・)
 手許の辞書を引くと、「白日夢」は「白昼夢」と同じ意味という。そして、「白昼夢」とは「非現実的空想」(『新明解国語辞典』三省堂)を意味すると記す。
 この小説のタイトルは反語的にネーミングされていると受けとめた。監察係の一員となった本郷は、徹底して調査をしてもその結果を非現実的空想として抹殺されかねないという、この組織独特の圧力、体質に屈することを常に危惧している。だがこの事案は非現実的空想に堕せずに、現実的のものとして逮捕を執行する結果に至る。魑魅魍魎を打破できるエンディングとなった。入江の目指す組織風でへの一歩前進を示した訳だ。正夢となったのである。読者にとってもスッキリとする結末である。

 さらに、勘ぐればこのタイトルはダブルミーニングとして批判的視点が含まれているのかもしれない。この作品はフィクションである。だから、この成果を出すに至った。
 現実の警察組織における監察システムでは、事案に応じてそこまで徹底したことが行われているのか。警察の警察という監察機能は、組織防衛という名のもとに落とし所を定めた白日夢を繰り返すにとどまっていはしないか・・・・という意味として。

 ご一読ありがとうございます。

本書からの関心の波紋でネット検索した事項を一覧にしておきたい。
おとり捜査  :ウィキペディア
おとり捜査 身近な法律問題  :「西野法律事務所」
「おとり捜査」線引きは 覚醒剤事件で12日地裁判決 :「朝日新聞DIGITAL」
大麻事件のおとり捜査  :「あいち刑事事件総合法律事務所」
【Nシステムとは?】設置されてる場所や目的、オービスとの違いも解説 :「Car-nalism」
自動車ナンバー自動読取装置  :ウィキペディア
全国簡易型Nシステムマップ(都道府県警端末/警察庁端末/AVI等/オービス)

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『素行調査官』  光文社文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館


『素行調査官』  笹本稜平  光文社文庫

2020-03-21 10:24:14 | レビュー
 このタイトルのネーミングが注意を引き、読んで見た。既に一つのシリーズになっているが、これが第1作である。2008年に「小説宝石」に連載され、同年10月に出版された後、2011年8月に文庫本化されている。

 私立探偵を生業にしていたが、高校時代のクラスメートの引きで、特別捜査官枠に応募して、警視庁警務部人事一課監察係になった本郷岳志がこの小説の主人公である。監査係は警察官の不品行や不正を取り締まる部署。他の部署からは蛇蝎のごとく嫌われている。
 本郷はなぜその職務に転職したのか。実はバブル崩壊後私立探偵としても失業中だった折に、かつてのクラスメートで、東大卒業後キャリア組として警視庁警務部首席監察官になっている入江透に声を掛けられたのだ。尾行の専門家、私立探偵としての専門能力を買われたのである。本郷の応募に対して、入江が裏工作をした結果、本郷は警察組織の一員になった。監察官はあくまで役職名であることから、監察係に属する平の職員が監察官と称することはできない。本郷が己の立場をどう呼べばよいかと入江に質問した。それに対して、入江は官名として「素行調査官」と称することを提案した。つまり、それがこのタイトルになっている。
 警察サイドの考え方では、刑法に抵触する犯罪に対して行う行為が「捜査」である。監察という仕事は、警察組織内部の警察官を対象とする。犯罪とはいえない素行不良、犯罪とみなされる行為でも万引きのような軽微なものや、まだ世間に知られていない犯罪行為で、犯罪として立件せずに葬れる可能性のあるものを取り扱う。「要するに本郷たちの真の使命は、警察官の不品行全般を世間に知られる前に発見し、然るべく処分をして、警察組織へのダメージを最小限にとどめることなのだ」(p27)。それ故、監察係の業務を「捜査」ではなく「調査」と呼ぶという。
 捜査能力があり、警察組織内部の情実とは無縁で警察官を調査できる人間を入江は腹心の部下として確保したかったという。こうして、本郷素行調査官が誕生した。

 プロローグは、第一機動捜査隊の小松佳文警部補が相方の斎藤巡査部長と深夜の警邏勤務中に警察無線を聞き、一番乗りした殺人事件現場から始まる。林試の森公園内で女性の刺殺死体が発見された。小松は第一発見者に聞き込みをした後、現場からは20mほどの距離にある舗道で、有名ブランドのロゴ入りの革の名刺入れが落ちているのを発見した。犯人の遺留物という可能性がある。中身の名刺の肩書を見て小松は息を呑む。日本の警察組織の頂点を成す超エリート官僚の一人の名前が記されていた。犯人の遺留物に繋がる可能性があるとしたら・・・・警察組織の一大スキャンダルを引き越し兼ねない。小松はこの名刺入れを発見物として直接報告せずに済ませる選択をした。
 ここから、小松独自の密かな私的捜査(調査)が始まる。つまり、サブストーリーが進展していく。警察官小松の欲得・野望が絡みついた行動が展開されていく。

 第1章は、本郷が監察係に着任後三ヵ月近く立ってから、公安部外事二課所属浅野光男警部補の不倫に関わる疑惑の究明という事案を任せられるところから始まる。2週間の海外出張から戻った浅野が初の逢瀬をしている西五反田のマンションを本郷が張り込む。だが、この時同僚の人事一課監察係の北本巡査部長が本郷を尾行していた。尾行の専門家である本郷はすぐに見破る。これが契機となり二人はコンビを組んでいく展開になる。このストーリーのプロセスで、北本の持ち味がなかなかおもしろい役回りとして描かれて行く。
 西五反田のマンションの住人名簿から、浅野の不倫相手は蔡絢華だとわかる。この名前を本郷と北本は最近どこかで聞いた気がした。二人が警視庁の大部屋に戻って手分けして調べた結果わかったのは、林試の森公園での刺殺された被害者蔡麗華という中国籍の女性だった。二人が同じ中国籍ならば、姉妹、もしくは親族の可能性が高くなる。そうなると、事案は厄介な方向に進展する可能性が高くなる。本郷は蔡麗華、北本は蔡絢華と分担して区役所の外国人登録調査から始めることにした。二人の調査結果から、絢華33歳、麗華31歳で港区浜松町所在のイースタン交易が二人の勤務先とわかる。外国人登録原票から、二人が姉妹か従姉妹という関係であると推測できる。ここから、事態は思わぬ方向に展開する可能性が出てくる。
 高級シルク、淡水真珠、純金製宝飾品など中国製品輸入販売を行うイースタン交易には裏の顔があったのだ。

 北本は入江の指示を受けて本郷を尾行していたことが明らかになる。入江は本郷を試していたのだ。入江、本郷、北本の三人はチームを組み、この事案の調査を徹底していく。浅野と蔡絢華の関係が単なる不倫関係だけなのか、その背後にスパイという国を裏切る行為に絡む関係が潜んでいるのか・・・・。蔡絢華の行動を監視し、調査し、究明の手がかりをつかもうと行動する。

 このストーリーの面白さは、公安でも刑事でもない監察係の本郷と北本が、調査の対象として公安事案あるいは刑事事案と直接に関わり兼ねない状況の中で、独自にかつ地道に調査を推進していくところにある。蔡絢華の住むマンションのたまたま空室だった隣室を不動産屋から借り受けて盗聴と張り込みの調査を行うこと、及び「イースタン交易」の事業内容を調べることから着手する。盗聴記録には、本郷と北本がイースタン交易を調査中に、蔡絢華の部屋に何者かが盗聴器を仕掛けて行った気配が残っていた。思わぬ方向から事態が進展していく。また、本郷は蔡絢華の部屋に仕掛けられた盗聴器の関連から、私立探偵時代に一緒に仕事をし因縁の深い土居の許を訪れ、調査への協力を依頼する。そして、土居の関わりからまた事態は意外な方向に展開し始める。
 本郷たちの盗聴記録からは、蔡絢華と浅野の関係において蔡絢華の背後に蛇頭の存在が見え隠れし始める。

 サブストーリーは、小松が名刺に記載の高級官僚の自宅を私的に監視するところから始まる。そのときこの高級官僚を襲おうとする暴漢が出現した。それを小松が阻止する立場になり、その結果この高級官僚に小松が直接接触する羽目になる。そして小松は予想もしない人生の方向転換を余儀なくされていくことになる。一方、小松の相方・斎藤巡査部長は林試の森公園での蔡麗華刺殺事件の捜査本部に捜査員として加えられていたことから、小松は捜査の進展情報をそれとなく入手できる伝手が確保できていた。

 本郷と北本の調査ストーリーと、小松が深みにはまっていくサブストーリーがパラレルに進展する過程で、読者としての関心事はこの二つのストーリーがどのように、どの時点で交差していくかになっていく。さらにその交差がどういう形で波及効果を及ぼしていくかである。もう一つ、蔡麗華殺人事件の捜査もパラレルに進展している。こちらの捜査本部がどこまで殺人の真相に迫れるのか。その捜査がどう関わっていくかが興味深くなる。
 当初警察官の不倫関係調査と思われた事案が、警察組織を震撼させる大きな闇の蠢きに繋がっていくというストーリー展開が読ませどころになる。
 素行調査官である本郷と北本の活動に、入江が了解を出して私立探偵の土居父娘が加わり、彼らがチームを組み、複雑に絡み合っていく事案の解明に取り組んで行くことになるという展開の異色さもおもしろい。
 巧妙に仕組まれた謎解きのストーリー構造になっていて、読者は引きこまれて行くことになる。

 ご一読ありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『越境捜査』 上・下  笹本稜平  双葉文庫

2020-03-17 10:45:35 | レビュー
 2017年4月27日付で改正刑事訴訟法が成立し、即日施行された時点で、殺人などの時効は廃止された。この警察小説は2007年8月に単行本、2009年12月にノベルスとして刊行され、2010年11月に文庫本となった。つまり、殺人犯罪に時効が成立した時代のストーリーである。
 主人公はこの秋に警視庁捜査一課殺人犯捜査六係から同課特別捜査一係に配転となった鷺沼友哉である。継続捜査担当に回されたのは、春に配属となったキャリアの管理官とそりが合わず、捜査方針を巡って派手な衝突を繰り返したことによる。継続捜査扱いとなっている事案に鷺沼が取り組むというストーリーである。
 その事件は14年前に発生し、捜査一課所属の鷺沼もまたその捜査本部に加わっていた。警視庁捜査二課は巨額詐欺事件の被疑者、森脇康則を追っていた。その森脇の遺体が本牧埠頭D突堤で夜釣りをしていた住民により発見されたのだ。だが彼は登山ナイフ様の刃物で刺され、死後海中投棄されたと推定された。仲の悪い警視庁と神奈川県警が捜査本部の主導権争いを含めて捜査活動の確執を繰り広げる過程で、事件は迷宮入りとなる。森脇が詐取した12億円も行方がわからぬままとなる。詐欺事件自体は既に時効となってしまっているが、殺人事件はあと1年足らずで時効となる時期に至っていた。鷺沼はこの継続捜査事案に単独で取り組み始める。

 継続捜査とは言え、遺体が発見された現場は神奈川県警の管轄である。鷺沼が現時点で特別捜査一係に所属していると雖も、警視庁の所轄エリアから越境して捜査を始めることになる。再捜査を始める挨拶を兼ね、神奈川県警に状況を問い合わせると、余計なことはしてくれるなという意向を伝えられる。捜査への協力を拒否された。鷺沼が14年前の勘を呼び戻そうと頻繁に多摩川の橋を渡り始めると、早速県警の尾行がつき始める。死体の発見場所である本牧埠頭D突堤に夜出かけた時、鷺沼は三人の男に襲われヤキを入れられる。それがこのストーリーの始まりとなっている。鷺沼はその男たちが県警の人間ではないかと推測する。つまり、時効間近になってきたこの事件をほじくってほしくない連中がいるということなのだ。
 鷺沼は、今は神奈川県警警務部監察官室長となっている韮沢克文に面談の約束を取り付ける。14年前、韮沢は警視庁捜査二課の刑事として森脇を捜査していた。その韮沢は捜査実績を評価されノンキャリアながら警視正に昇進した。その結果警視庁から警察庁職員に移籍する。そして監察官室長として神奈川県警に横滑りしていたのである。鷺沼は刑事としての韮沢に学ぶところが多く、彼を尊敬してきた。鷺沼は韮沢から何かヒントを得られないかとコンタクトを取ったのだ。
 韮沢は県警内部の不祥事隠蔽体質に風穴を開け、膿を出し切ることを狙っているという。森脇の巨額詐欺事件に関しては、その12億円が県警の裏金として丸呑みにされている可能性が二人の話題になる。12億円については刑法上の時効は7年で成立し、民法上の請求権も10年で既に消滅している。当時の捜査関係者が関わっていたとすると、森脇の殺害に時効が成立することにより、12億円は自由な金に化けるのだ。
 鷺沼が韮沢に面談したことが契機となり、逆に鷺沼は韮沢から森脇殺人事件と12億円の所在究明に対して協力することを要請され、鷺沼はこの継続捜査に専念する立場に位置づけられていく。そこから鷺沼単独の公然とした越境捜査が始まっていく。

 鷺沼は森脇の妹であり、ファミリーレストランチェーンのオーナー経営者となっている三上真弓の自宅を訪ね再度聞き込みをすることから始める。その折り、県警の宮野刑事から1週間ほど前に接触があったと聞く。鷺沼が東京に戻る磯子駅のホームでその宮野が直接鷺沼に接触してきた。
 宮野は鷺沼をショットバーに誘う。そこで、1枚の旧札のピン札を宮野は鷺沼に見せた。それは、消えた12億円に印刷されている記番号の1つに一致するものだった。宮野はそれが県警本部の管理官から帳場の打ち上げの折に買い出しに行けと手渡された万札3枚の内の1枚だったという。宮野はその出所は県警にプールされた裏金だろうと言う。宮野の狙いは12億円の所在の究明である。12億円を奪取したい、そのために鷺沼と協力関係を結びたいと言う。そんな宮野は鷺沼が敬愛した滝田刑事の甥だという。
 鷺沼は森脇を殺した犯人の究明と逮捕、宮野は12億円の所在の究明と奪取が直接目的である。森脇の殺害と行方不明の12億円の関係は切り離せない。また、少なくともその一部は神奈川県警内部の裏金になっているという。二人の奇妙な同盟関係が始まって行く。
 鷺沼と宮野の捜査活動が進むにつれて、14年前の捜査本部の実態と捜査情報が見え始める。そして、この14年の時間的経過を経て警察組織内の職階と人間関係の相関図がどのようになってきたかの実態が見えて来る。閉ざされていた闇の中から蠢きだす人々が鷺沼の前に現れて、真相の解明を阻み始める。かつての捜査活動のプロセスに警察組織を覆う腐敗が絡んでいた事実が明らかになっていく。
 
 このストーリーを興味深くする背景がいくつかある。
1. 東京都の警視庁と神奈川県の県警との確執、対抗意識が諸に描き込まれていること。
2. 全国の警察組織内に根を張っている裏金づくりとその悪用をはかる人々の存在。裏金がどのように作られどのように利用されているのかという実態を赤裸々に描き込んでいること。
3. 法の下に正義を執行するはずの警察組織内において、法を無視した治外法権意識が上層部に巣くっているという実態およびそれを当然の如くに受け入れ己の利をはかる一群の人々がいるということ。仕組まれた冤罪、隠蔽工作の事例が織り交ぜられている。
 そのような警察組織の腐敗により事件の捜査が歪められて行った部分が明らかになるに連れて、鷺沼の信条、捜査意識、正義とは何かの感性にも変化点が生まれ始める。警察官としての倫理感に「越境」次元が加わっていく。このストーリーが一層おもしろくなる部分でもある。

 このストーリーは、鷺沼が尊敬する韮崎が仕組まれた事件に遭遇することから、急展開を始めて行く。そこが読ませどころに繋がって行く。
 後は、本書を開いて読み進めてほしい。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書と関連して、現実に語られている警察等の組織体質に関わる事象・事例の情報を検索してみた。一覧にしておきたい。
北海道警裏金事件  :ウィキペディア
警察組織における裏金問題を実名で訴えた現職警察官に対する警察庁の対応等に関する再質問主意書 質問本文情報  :「衆議院」
裏金問題について  :「警察よくある質問」
愛媛県警裏金問題告発者 拳銃を没収され仕事も与えられず :「NEWSポストセブン」
警察の裏金を証言。裏金は400億以上。警察とパチンコ屋の闇の関係 換金は?警察庁「存ぜぬ」  :「NAVERまとめ」
現役警官として初めて「警察の裏金」実名告発した仙波敏郎氏が :「格差階級社会をなくそう」
仙波敏郎「警察の裏金問題」結論  :YouTube
00033 Edit  :YouTube
稲葉事件  :ウィキペディア
北海道警がひた隠す「下半身露出警官」の父親は署長だった :「BLOGOS」
検察庁による報道機関への情報の漏洩等に関する質問主意書 質問本文情報 :「衆議院」
証拠物のフロッピー改ざんした大阪地検特捜部・前田恒彦元主任検事に実刑判決 :「東洋経済ONLINE」
大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件  :「LeagalSearch」
証拠改ざん事件をめぐる三井環・元大阪高検公安部長の告発状  :「魚の目」
証拠改竄で主任検事が逮捕! 「村木裁判」で露呈した特捜部捜査「終わりの始まり」 
  郷原信郎    :「現代ビジネスプレミアム」
鹿児島県警察における供述調書の改ざん事件を受け、直ちに取調べの全過程の全面可視化(録画)を求める会長声明  :「鹿児島県弁護士会」
運転者の過失理由を勝手に書き込んだ警察官3名を警視庁が処分:「Reaponse.20th」
神奈川県警察の不祥事  :ウィキペディア
各県警返還額一覧  :「全国市民オンブズマン連絡会議」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『スカーフェイスⅡ デッドリミット 警視庁特別捜査第三係・淵神律子』 富樫倫太郎 講談社文庫

2020-03-14 17:48:42 | レビュー
 プロローグは、異様な場面描写から始まる。四方をコンクリートに囲まれた殺風景な部屋で、天井近くのスピーカーから聞こえる指示に従い、中年男が死体から耳と手首を切断し、眼球と心臓を抉り出す作業をさせられる。  
 その中年男がそれらを持参して警視庁に出頭する。

 「ベガ」と呼ばれる連続殺人犯を逮捕しようとして重傷を負った淵神律子が職場復帰し、警視庁の地下にある特別捜査第三係の部屋に出勤すると、篠原理事官から呼び出しを受けていた。6階の捜査一課の大部屋に出向くと、永倉課長と篠原理事官に連れられて、取調室の隣りの小部屋に行く事になる。マジックミラー越しに、取調室にいる中年男を知っているかと律子は課長と理事官から尋ねられる。「一度も会ったことがない男です」と律子は答えた。その後、律子は東郷刑事部長の部屋で事件の発端を聞かされる羽目になる。それが異様な事件に深く関わっていく始まりとなる。

 中年男が警視庁正面玄関の受付で警察官にボストンバッグを渡した。その中身は眼球・耳・右手首・心臓・指輪・パソコン・イヤホンの7点と1枚のメッセージだったという。中年男の身元は一切不明。
 メッセージは4行。「パソコンのスイッチを入れる以外のことを禁ずる。淵神律子以外の者がイヤホンを付けることを禁ずる。淵神律子は常にイヤホンを付けなければならない。パソコンとイヤホンの分析を試みれば女は死ぬ。」
 パソコンのスイッチを入れると、薄暗い画面には粗い映像で若い女が狭い場所に密閉状態で閉じ込められているらしい情景が映っている。数字とペットボトルのようなマークが見える。数字は空気中の酸素量が減り、窒息死するまでの時間を示しているようなのだ。律子が画面を見た時点の数字は「45:41:22」だった。
 取調室に居る中年男は何も喋らない。律子には全く面識のない男だった。
 律子はイヤホンを耳に装着することになる。

 何も捜査の手がかりがない故に、一時的な特例措置として、律子が捜査の中心になり強行犯係が淵神律子をサポートする形で捜査を進めよと上層部から指示が出される。律子は2つの条件を出した。一つは藤平と円を捜査に加えること。もう一つはいつでも好きなときに捜査情報にアクセスする許可を藤平と円に与えることである。篠原理事官はふざけるなと激怒するが、永倉課長が許可を出す。出さざるをえないのだ。

 このストーリーは2部構成になっていて、第1部は1日目、第2部は2日目の捜査状況を描き出していく。カウントダウンが始まるタイムリミット・ストーリーと言う点が読者を惹きつける。

 このストーリーのおもしろいところはいくつかある。
1. 律子の過去の独断専行的で強引な捜査活動を毛嫌いする捜査一課強行犯係の連中と律子・特別捜査第三係がまずどのように折り合いをつけながら事件解決に邁進するかにある。律子の捜査行動がどのように受けとめられ、理解され、支援されていくか。警察組織内の人間関係描写というストーリーの側面がやはりまずおもしろい。

2. 中年男が持参したもの。意図的に取り出された人体パーツと指輪、パソコン、イヤホンというわずか7点と律子を名指しした事実の中に、事件解決へのどんな糸口があるのか。そこに関心をかき立てられるという構図がおもしろい。
 最初の捜査会議で明らかになったことがある。
 心臓という人体パーツからわかった事実。被害者の年齢幅が推定され、古い手術痕があり先天性疾患だったことが判明する。それが貴重な手がかりとなり、聞き込み捜査が進展する。
 パソコン画面に映る女性の顔写真を撮り、その画像を顔認識ソフトに取り込んで検索したことから、身元が判明した。三日前に行方不明届が出ている人物と一致したのである。さらに、その人物の父親は警察官だとわかった。
 中年男が持ち込んだ指輪と同じ指輪をパソコン画面上の女性が右手薬指にしていた。象牙を使いデザインされ違法に製造された特殊で高額な指輪と推定された。
 犯人側が提示した物体から見出された糸口が、事件の解明プロセスのどの時点でどのように相互に絡み合っていくのか。その捜査の進展が興味深い。ここが読ませどころになっていく。
 捜査が進展するにつれ、今は解散してしまったアダルト・ビデオ(AV)製作グループに関係していることが浮かび上がってくる。
 律子をサポートする藤平と円の持ち味が十分に発揮されていて読者を楽しませる。

3. 律子が装着する羽目になったイヤホンからは、時計の音がするだけだと律子は言う。
 このイヤホンがストーリーの展開でどのような役割を担っているのか。犯人側の意図は何なのか・・・・・。この点が読者にとっても大きな気がかり、興味を惹きつけるポイントになる。そして、勿論なぜ装着者が律子でなければならないのか、という謎がつきまとう。

4.ストーリー構成として興味深いのは、律子の関わった事件とパラレルにもうひとつの事件が発生し進展して行くことである。それは律子の実家で発生した。律子と一緒に暮らす景子が律子の代わりに実家を訪ねるのだが、そこで事件に巻き込まれてしまう。つまり町田惠子も被害者となる。この事件が本筋の事件とどう関わっているのか。こちらの事件の加害者の行動が少しずつエスカレートして悪化していく。しかし、どこでどう事件がつながるのか先が見えないところが興味津々となる。

5.このストーリー、イアホンが最後の切り札になっている。それがなぜ切り札になるのか。それがすべてを集約できるキーアイテムだったからである。
 2つの事件を並存させてエンディングに導き、読後印象として自然な流れに感じさせるところは、このストーリーが二重構造の意外性で構想されているからと言える。

 フィクションの警察小説としてはおもしろいストーリー展開である。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『スカーフェイス 警視庁特別捜査第三係・淵神律子』 幻冬舎
『早雲の軍配者』 中央公論新社
『信玄の軍配者』 中央公論新社
『謙信の軍配者』 中央公論新社

『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

『法隆寺の謎を解く』  武澤秀一  ちくま新書

2020-03-12 18:56:38 | レビュー
 法隆寺は現存する世界最古の木造建築であり、日本で最初に世界遺産に登録されたことでも有名である。その一方で未だに不確かなところや様々な謎が語られる寺でもある。法隆寺の僧侶であり、仏教学者でもある高田良信師(1941-2017)による2冊の本がその後再編集され『法隆寺の謎と秘話』(小学館ライブラリー)と題して出版されている。この本に「法隆寺の七不思議」が載っていておもしろい。それに加えて、「七不思議以外の謎」として七項がまとめられている。その二つ目に「『日本書紀』に法隆寺再建の記事がない」という項がある。明治以降、長年にわたり、法隆寺再建・非再建論争が続いてきた。だが、この点は昭和14年の発掘調査の結果、裏付けの証拠が出土したことから、一応再建説で決着がついたようである。
 「七不思議以外の謎」の最初が「中門の入口が二口あること」である。 本書はこの第一項に直接関連した謎解きをテーマにしている。2006年6月に出版されている新書である。一昔前の出版だが、鎌倉時代の法隆寺の僧侶も話題にしていることを考えると、ごく最近の問題提起と言える。この新書はかなり前に入手していたのだが、先日法隆寺を探訪したことを契機にして読んだ次第。
 
 法隆寺の南大門を入り、真っ直ぐに北に歩むと大きな中門がある。その正面には2つの出入口があり、中門のちょうど真ん中に柱がでんと立っている。多くのお寺の中門の入口は一つなので、正面に立てば境内の建物群を遮るものなしに見ることができる。だが、法隆寺はそうではない。これはなぜかという疑問が論議を生み出してきた。なぜ、著者がこの謎解きにチャレンジするようになったのか、その経緯から本書を書き始めている。

 「はじめに-挫折から」では、まず、突然に舞い込んだ大きな仕事-納骨堂の設計-が頓挫した事実を語る。しかしこの仕事に関わったことが結果的に著者を法隆寺へと導いたという。

 「序章 法隆寺の謎」では、建築家であり大学教授である著者が、法隆寺に関わるいくつかの大きな謎を概括する。そして未だ解明されていない事項に絞り込む。著者の所見を後で展開していくための問題意識の伏線になっている。「法隆寺に謎を見いだすのは、法隆寺に大きな価値と魅力を感じているからこそです」(p34)と述べ、「今まで見えてなかった法隆寺の本当の姿、本当の意味、本当の価値に到達すること」(p34-35)をめざすという表明で締めくくる。いわば所信表明である。

 「第一章 法隆寺をめぐる」では、法隆寺の立地と歴史的な位置づけの説明を導入として、建築家の視点から法隆寺の西院伽藍をめぐったときの観察、体験と印象をわかりやすくまとめて行く。勿論、中門についての第一印象も記されている。中門・回廊・五重塔・金堂を順にめぐっていく過程から、「めぐる」という行為に着目していく。それは「はじめに」での著者の体験とリンクしている。「このめぐる動きがあって空間はいよいよ生気を帯びていきます」(p86)と記す。

 「第二章 めぐる作法/めぐる空間」では、「めぐる」という行為に関わる作法と空間を、朝鮮半島からインドの源流まで溯る。その行為の伝搬という歴史的な時間軸・空間軸に転じて捉え直していく。列柱回廊、東院の夢殿、祈りのかたちとしてめぐる空間の間に共通する「めぐること」の意味を著者は「言い知れぬ充足」に見出す。そして、「めぐることの魔力はワープすることにある。確かに何かが了解されるのです」(p138)と論じている。めぐる行為への意識の喚起と言える。

 「第三章 法隆寺は突然変異か」がいよいよ謎解きの第一段階になる。中門の「門の真ん中に立つ柱」の謎についての謎解きである。まず最初に、著者は従来の説として、明治以降の代表的な見解を7つに整理して提示している。詳細は本書をお読みいただくと頭の整理ができると思う。その第4に『隠された十字架 法隆寺論』という大胆な仮説を発表した梅原猛説を挙げている。それは一時期大評判となった見解、つまり怨霊封じ込め説である。
 「できるだけ他の見地を包含し、ゆたかな意味を汲み上げてゆきたいというのがわたしの基本的なスタンスです。」という立場から著者は持論を展開していく。結論的にはこの梅原説の怨霊封じ込め説と第3にあげられた竹山道雄説(ひとの選別説)の二種の見解を否定している。他の5つの見解は自説と両立すると説明していく。
 著者は四天王寺に代表されるタテ型伽藍配置に対して、法隆寺がヨコ型伽藍配置に転換された点を重視する。そして、中門の真ん中のタテに並んだ4本の柱は、横並びの配置を決める隠された中軸ラインを想定させるものと言う。それはいわばビテイコツのような位置づけであり、真ん中にあるからこそ重要な意味を持つのだと論じていく。
 中門の二つの口について、列柱回廊は聖域をめぐる通路、プラダクシナー・パタとして、大勢の人々が右廻りでめぐっていく場所でもあり、入口と出口として区別することで有効に機能したのだろうと推定している。第一章・第二章がこの第三章での自説展開の基礎になり、呼応する関係になっている。

 「終章 日本文化の原点に向かって」は、第三章で建築家の視点から中門の柱を論じることに重点を置いた自説に対し、学際的な視点から考察を加えて自説を補強していく。四天王寺のようなタテ型伽藍配置は、南北に中軸をとる中国伝来の垂直的構図という大原則の導入であると説く。それに対し、日本列島で古来から尊重されてきたヨコ並び、東西軸の水平的構図という空間意識に転換した結果が法隆寺の伽藍配置に反映していると著者は論じていく。近年の発掘調査で発見された百済大寺の復元図や、川原寺の伽藍復元図に再建新生法隆寺以前の先行段階が見られると言う。つまり、天皇直属ないし系列下の寺院でみられる伽藍配置の系譜なのだと論じていく。「伽藍建立は発願者の政治的権力のみならず美意識や文化レベルの高さをも示しうる機会」(p230)だと論じる。著者はその政治的意味合いがはるかに大きかったとみる。そこには古代王朝における権力闘争の一端が垣間見える。
 さらに、塔と金堂が独立する二つの焦点となり、正面を向いて並び立つことから生まれる相互のゆるやかな関係を読み解く。そして、真ん中に立つ柱を避けて左右どちらかの入口に立つことから塔や金堂への視線が斜めの角度となる。その時に生まれる間合いが心をととのえるゆとりにつながると論じている。

 中門の真ん中に柱があるという意味が新たな視座から論じられている。この謎解きの論理的な説明プロセスが興味深くかつおもしろい。そこには怨霊が入り込む余地はない。

 法隆寺の西院伽藍配置を外に立ち眺めるという視座からだけの発想ではない。中門の入口から内部に一歩踏み入り、配置された伽藍そのものをめぐるという視座から発想された見解である。読者自身も、著者の立ち位置、視座から追体験できるところが著者見解の強味と言える。つまり、めぐるという視点から観察された記述部分は、法隆寺境内をめぐるガイドブックとして役に立つ。現地で該当箇所を部分読みしながら拝観すると法隆寺をより深く知ることができるだろう。

 ご一読ありがとうございます。

本書並びに法隆寺に関係した事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
法隆寺  ホームページ
  法隆寺伽藍  
武澤秀一  :ウィキペディア
「世界遺産をめぐる」 武澤秀一先生  :「宗教情報センター」
高田良信 :ウィキペディア
怨霊封じ?秘仏の祟り? 法隆寺の謎に肉薄した高田良信長老とは :「AERAdot.」
隠された十字架  :ウィキペディア
法隆寺の七不思議 :「日本の宝物殿 法隆寺地域の仏教建造物」
世界遺産1300年の歴史 法隆寺のことがすべてわかる!  ホームページ
  法隆寺の七不思議1
  法隆寺の七不思議2
百済大寺
吉備池廃寺跡  :「古寺巡訪」
吉備池廃寺発掘調査報告  :「全国遺跡報告総覧」
謎多き大寺~川原寺~  :「川原寺」
せん仏埋納坑の全容判明 - 明日香川原寺裏山遺跡  :「奈良新聞」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

『決戦! 関ヶ原2』 葉室・吉川・東郷・箕輪・宮本・天野・冲方  講談社

2020-03-06 16:29:35 | レビュー
 決戦シリーズの第6弾で、7人の作家による短編競作集である。奥書を見ると「過ぎたるもの」「戦さ神」「蜻蛉切」「秀秋の戯」「燃ゆる病葉」の5篇は岐阜新聞・信濃毎日新聞に2016年7月より随時連載が開始され、「ダミアン長政」は「小説現代」2017年7月号に掲載されたという。「名だけを残して」は書き下ろしの作品とのこと。2017年7月に単行本として出版されている。

 慶長5年(1600)9月15日早朝、関ヶ原に白く濃霧が漂う中で天下分け目の戦が東軍と西軍の間で始まった。この戦いはわずか半日で決着がついた。関ヶ原に臨んだ東軍・西軍の個別の武将の立場から、この戦いが語られて行く。関ヶ原の戦いは武将の立場に応じて、見え方と実相が異なっている。その多面性を楽しめるところが競作集の利点と言える。個々の短編の読後印象をまとめてみたい。

「ダミアン長政」 葉室麟
 冒頭は慶長の朝鮮出兵の場面から始まる。黒田長政は、加藤清正の蔚山籠城戦を救援するために長躯し、背後を急襲して明・朝鮮軍を退却させる。だが、追撃しなかったと秀吉に報告され秀吉が激怒したことに対し、長政は石田三成に怒りを抱く。「豊臣家に神の罰を下してくれる」と。著者は長政が徳川家康に味方する原点をここに見ている。
 秀吉の九州征伐の折、20歳の長政が陣中で自ら進んで修道僧から受洗したと記す。父の如水(通称官兵衛)のことは有名だが、長政の受洗は知らなかった。
 秀吉の死後に三成が「<啐啄同時>の機がわかるのは黒田殿だけと存ずるゆえに」と長政に語る。長政は家康に味方し、西軍の小早川秀秋、吉川広家の調略も行い、積極的な戦を行う。その長政の行動と戦ぶりが描かれていく。だが、それは三成の語った言葉に対する長政の解釈であり行動でもあったという論理の転換が興味深い。捕縛され大津城外でさらしものになっている三成に長政が言う。「石田殿は一粒の麦でござる。ようなされた」と。
 関ヶ原の合戦の位置づけについて、著者の視点がここに描き出されている。

「過ぎたるもの」 吉川永青
 笹尾山に本陣を置いた石田三成の前衛として島左近(清興)は陣を張る。そこで繰り広げられた黒田長政ら東軍の右翼との間での戦いぶりを描いていく。
 この短編は、なぜ島左近が三成のためにかくまで奮戦するのかという根源を描くところが核になっている。左近は三成の家臣となったが、友と呼び合う人間関係を築いていた。世の行く末を思う心が同じ方向を向いていたからだと著者は掘り下げていく。
 清興が三成の許に仕官した後、「三成に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」という歌が人々の口の端に上るようになったという。この短編のタイトルはここに由来する。島左近を描くことは、石田三成を描くことにもなっている。

「戦さ神」 東郷隆
 会津の上杉景勝征伐という名目で豊臣恩顧の大名衆を率い、慶長5年(1600)7月に徳川家康は北上する。現栃木県小山市の思川沿いにある小山三城跡の一つに建てた大井楼上から家康が小荷駄隊の先頭を騎乗で進む武士を目に止める場面からストーリーが始まる。名は仙石久勝。略歴及び福島正則に属することを知ると家康は不機嫌になる。
 石田三成が挙兵した報せを受けた家康は、急遽反転して東を目指す。真っ先に家康に味方すると宣言した福島正則とその配下の仙石久勝及び可児才藏たちの思いと行動を描く。
 久勝と才蔵が盟友となった経緯を中軸に、山城国の愛宕権現を戦さ神として尊崇しつつ、活躍する姿を描く。そして、久勝の晩年の姿と高知市内の愛宕神社の由緒で締めくくる。家康のしたたかさと関ヶ原に名を残した一武将の生き様が活写されていておもしろい。

「名だけを残して」 箕輪諒
 戦国時代、大半の大小名は家名の存続を第一目的に、主家の乗り換え、寝返りという変節を繰り返すのが常だった。関ヶ原の戦いにおいても、東軍の調略により寝返った者が多くいた。その中で、吹けば飛ぶような小領主から七万石の大名にまでのし上がった変節漢小川祐忠の生き様を著者はその典型例として描いて行く。
 寝返りを繰り返し、無節操さを嘲笑われても、生き残った者の勝ちだと信じてきた祐忠が、関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、大谷吉継の采配のもとで、最後の勇名を残そうとする。大谷吉継の催した軍議の席で、過去の変節ぶりを脇坂安治に罵倒される。だが、その脇坂自身が密かに東軍側に変節していた事実を土壇場で知る羽目になり、祐忠はまたも小早川の裏切りに同調して大谷陣を攻撃する行動をとる。
 賊名だけを後世に残した武将に光を当てた短編である。だが、大半の凡将は関ヶ原において、五十歩百歩の生き様だったのでは・・・・と考えさせる一篇でもある。

「蜻蛉切」 宮本昌孝
 本田平八郎忠勝の生き様を描く。幼名を鍋之助と呼ばれた忠勝が、岡崎城下の伊賀八幡宮の社前で、長さ二間半・径二寸の鉄棒(如意鉄にょいがね)を自力で持ち上げるという試練に挑む場面から書き起こされる。これは本田平八郎家の男子が5歳を迎えた年の始めに行う家法だという。鍋之助がこれをやり遂げる姿がまず活写される。
 その忠勝が元服し、十三歳の時に、叔父忠真が忠勝の手に合わせて作らせたと察せられる槍の柄とともに、忠勝の初陣の折に授けるようにと植村氏明から託された槍の穂を与えられる。その槍の穂は、三河文珠派の名工、藤原正真の大笹穂だった。それとともに、「この槍一筋をもって、終生、主君の御命を守り奉れ。なれど、決して、主君より長命を保ってはならぬ」と言う氏明の遺言を聞かされる。それが、忠勝のその後の人生の命題となっていく姿を描く。
 蜻蛉切とは忠勝がある思いを込めて自らこの槍に付けた銘である。
 信長の面前で、蜻蛉切の銘の由来を尋ねられる。従兄の栄政が代わりに答えるという機知を働かせた。この偽りを述べるエピソードがおもしろい。なぜか? その真意は最後に明かされる。忠勝の忠義一筋の生き様が鮮やかに描かれ、読ませどころとなる短編である。

「秀秋の戯」 天野純希
 小早川秀秋は、関ヶ原の合戦に西軍の武将として加わり、松尾山の山城を横取りして将兵15,000人を率いて着陣した。秀秋自身の思いと判断という観点から、関ヶ原の合戦を描きあげて行く。早朝から始まった戦の半ばで、初めて秀秋は己の旗幟を明らかにし、西軍を裏切り大谷隊を攻撃する。この秀秋の裏切りが一気に東軍勝利への決定因となっていく。
 一旦、秀吉の養子にさせられた秀秋は、秀吉の都合だけで、小早川家の養子に放り出される。その秀秋が戦というものに興を覚えるようになった経緯を織り込みながら、秀秋が関ヶ原の東西両軍をどのような観点から眺めていたかという秀秋の内心を描きあげていくところが興味深い。ここに描かれた秀秋は、腑抜けでも言いなりの馬鹿殿でもない。この大戦の勝敗を己の行動の選択で決定づけさせたいという思惑一点で動いた男として描きあげていく。秀秋が主観的主体的に行動したととらえ、そのしたたかさを描写するところが新鮮であり、おもしろい。

「燃ゆる病葉」 冲方丁
 大谷吉継を正面から取り上げ、関ヶ原の合戦に彼がなぜ、どういう立場で、どういう思いで臨み、華々しく大谷隊の采配をふるい、最後は戦場で自刃して果てたかを描く。
 戦は速度であり、速度をもって勝機をつかみ、戦に勝つことで富むことへ展開させていかねばならないという思いが、大谷吉継の義の根底にあると著者は記す。
 壮年期に入り、奇怪な業病に罹患した吉継は、顔を白い頭巾で覆い、白い衣に甲冑を描かせた画鎧という姿で輿に乗り戦陣に出る。吉継は秀吉の没後、家康との親交を重ね、家康と三成の仲裁を行い、天下のためにともに歩むという願望をもっていた人物だと著者はいう。だが、最後は盟友三成の「貴様は幸いにして病んだから、わしのように矢面に立たずにすんだのだ」という言葉に、唐突に一理あると自覚し、吉継は三成に協力し西軍に加わる。その吉継の行動を描いていく。
 「三成も自分も、最後まで一国の領土を得るためになど、戦いはしなかった。あくまで天下太平の義に従い、殉じるのである」(p279)と吉継の思いを著者は記す。
 もし、大谷吉継が業病に無縁の武将であったなら戦国の世は・・・・と想像の翼を広げたくなる人物である。

 関ヶ原の合戦には、まだまだ限りない作品化への視点がありそうである。作家の創作欲をかき立てる宝庫なのだろう。関ヶ原の3が続くのだろうか。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索で得られる情報を調べてみた。一覧にしておきたい。
関ヶ原観光ガイド  :「関ケ原古戦場おもてなし連合(関ケ原観光協会 事務局)」
関ヶ原観光実用マップ~関ヶ原の戦い史跡めぐり観光スポット情報50選
黒田長政  :ウィキペディア
「黒田長政」知略の父・官兵衛とは一線を画す、武勇に優れた将。 :「戦国ヒストリー」
島清興 :ウィキペディア
「三成に過ぎたるもの」島左近の墓の通説・異説 :「iRONNA 毎日テーマを議論する」
仙石久勝  :「コトバンク」
可児吉長  :ウィキペディア
小川祐忠  :ウィキペディア
本田忠勝  :ウィキペディア
戦国時代に神がかりの57戦無傷!徳川家康を支え続けた猛将、本多忠勝の忠義 :「和楽」
本多忠勝の生涯と5つの最強エピソード!年表付【徳川四天王 壱之太刀】:「武将ジャパン」
小早川秀秋  :ウィキペディア
小早川秀秋  :「コトバンク」
大谷吉継   :ウィキペディア
大谷吉継   :「武士道美術館」
大谷吉継   :「敦賀の歴史」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

決戦シリーズとして、以下のものを読み継いでいます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『決戦! 関ヶ原』 作家7人の競作集  講談社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社
『決戦! 本能寺』 伊東・矢野・天野・宮本・木下・葉室・冲方  講談社
『決戦! 桶狭間』 冲方・砂原・矢野・富樫・宮本・木下・花村  講談社
『決戦! 川中島』 冲方・佐藤・吉川・矢野・乾・木下・宮本 講談社
『決戦! 忠臣蔵』 葉室・朝井・夢枕・長浦・梶・諸田・山本  講談社
『決戦! 三國志』 木下・天野・吉川・東郷・田中  講談社
『決戦! 新選組』 葉室・門井・小松・土橋・天野・木下   講談社


『風神雷神 Jupiter, Aeolus』上・下  原田マハ  PHP

2020-03-02 21:38:46 | レビュー
 「風神雷神」というタイトルと表紙の絵を見た時、即座に俵屋宗達を思い浮かべた。まず、タイトルに惹かれた。読んでみなきゃ・・・というのがまず最初の思い。宗達をどのように描いて行くのだろうかという強い関心があるからだ。
 読後印象はまず面白かった。フィクションとしての面白さと言える。
 この小説は現在時点と天正8~13年、つまり1580~1585年という時代との二重構造の構成になっている。現在時点から天正年間へタイムスリップする媒体が一束の古文書である。その古文書の記録を天正年間に起こったこととして描いて行く故に、著者が創作したストーリーがフィクションだとわかりつつ、違和感を感じずに自然に引きこまれていく。天正年間のヴアーチャル・リアリティの世界にすんなりと入り込めるという仕掛けになっている。
 著者は、同時代に生きた一群の人々を「もし」という観点で結びつけた。基盤となる史実を踏まえた上でどのようなヴァーチャルな現実を描けるかということにチャレンジしたのだろうと思う。それも謎多い俵屋宗達を基軸にして・・・・・。
 この小説では、主な登場人物として、俵屋宗達を核に、織田信長・狩野永徳・イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ、パードレのオルガンティーノ、遣欧使節となる少年-伊東マンショ・千々石ミゲル・原マルティノ・中浦ジュリアンー、ゴアのコレジオ・デ・サンパウロの院長、ヌーノ・ロドリゲスが結びついていく。そして、イタリアのミラノではミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョと運命的に結びつく。まさにフィクションの面白さにのめり込んでいける組み合わせである。

 すべての始まりは宗達が描いた「白象図」にある。この杉戸に描かれた親子の白象図は、京都国立博物館の少し南に位置する養源院に現存する。この杉戸絵の「白象図」が現在時点と天正年間時点という2つの時空で、それぞれのストーリーのトリガーになっていく。
 現在時点のストーリーはプロローグとエピローグで描かれ、天正年間時点は第1章~第4章という4章構成でストーリーが展開する。
 現在時点のストーリーは、天正年間にタイムスリップするための導入である。少し類のない点は、プロローグが55ページの長さで書き込まれていることだろう。それが、全体のストーリー展開をなめらかにしている。

 現在時点の主人公は京都国立博物館研究員、望月彩。彼女が「江戸初期の謎の絵師 俵屋宗達『風神雷神図屏風』をめぐる解釈」という演題で講演するという場面から書き出される。この望月彩は子供の頃、父方の祖父の法要のために母に連れられて養源院に行き、杉戸絵の「白象図」に出逢った。その時の体験が原点となり、その後宗達にのめり込み、研究者としての道を歩むことになった。謎多い宗達の人生と作品を解明し、いつか宗達の真筆を集めた美術展の企画したいという抱負を抱く研究員である。
 彼女が、講演後にマカオ博物館の学芸員と名乗るレイモンド・ウォンに面会を求められる。レイモンドとの面会が、望月彩をマカオに旅立たさせることになる。そして、マカオ博物館の一室で、レイモンドから一枚の板絵に描かれた油絵を見せられ、その後ぼろぼろに傷み黄ばんだ古い紙の束を見て欲しいと要望される。
 その古文書のいちばん上の紙には、流麗なアルファベットで、「ユピテル アイオロス 真実の物語」と記され、作者名はファラ・マルティノと記されていた。天正遣欧使節の一人、原マルティノの可能性が高いと推測されるのだ。レイモンドは彩にどういう経緯でこの板絵と古文書を一緒に入手したかを語る。そして、彩とコンタクトを取ったのは、この物語の本文は日本語の古文で、行書で書かれていたことと、その文中に俵屋宗達という名が楷書で書かれていたからなのだ。学芸員であるレイモンドにとり、この板絵と古文書は宗達に関わる新たな発見になるかもしれないのだった。
 彩はこの「ユピテル アイオロス 真実の物語」を読み始める。
 プロローグはこのストーリーにとって一種劇的な始まりとなる。

 つまり、この古文書が時空を天正年間にタイムスリップさせて、遣欧少年使節の経緯と宗達の関わりを描くストーリーに転じさせるリンキングになっている。時空の二重構造へすんなりと読者を導いていく。遣欧少年使節の渡欧に宗達が同行することになる。キリシタンの4少年と宗達の渡欧における立場・視点の違いがもう一つの二重構造として加わっていく。
 天正年間のストーリーが4章構成で語られていく。これが、いわば起承転結という展開構成になっていると思う。

 第1章は「起」である。何が始まるのか?
 このストーリーの冒頭は、天正8年(1580年)肥前・有馬である。原マルティノが有馬に新設されるセミナリオに入学することが決まり、実家での剃髪式に臨む場面から書き出される。ファラ・マルティノ名での「ユピテル アイオロス 真実の物語」ということなので、これは当然かもしれない。
 なぜ遣欧少年使節を日本から送るという発想が生まれたのか。なぜ俵屋宗達がその一行に加わることになったのかが、明らかになっていく。ストーリーとしては、展開の始まる準備段階になる。
 ここで「白象図」が宗達をローマに行かせる原因となる。それは織田信長の命令によりということになるのだが、その経緯が描き込まれていく。京の扇屋「俵屋」の息子であり、数えで12歳になった頃に、彼の扇絵の評判が伝わり、安土城の信長の面前に呼び出される。信長の面前にて今までに見たこともない絵を即興で杉戸に描かねばならない土壇場に追い込まれる。結果的に「白象図」を描いたのだ。信長は大いによろこび、彼に「宗達」という名前を与えた。
 そして、信長は、狩野永徳に、宗達を使い3カ月で新たな<洛中洛外図屏風>を描けと命じる。信長の目論見は、永徳が描いた屏風絵をヴァリニャーノに託して、ローマの教皇への贈り物にするということだった。その屏風に宗達を同行させるという肚だった。なお、そこにはもう一つ、隠された信長の狙いがあった。この経緯の描写が最初の一つの読ませどころとなる。
 一方で、ヴァリニャーノが考えた遣欧少年使節という意図が4人の少年たちの日常生活とともに描かれて行く。このあたりは、たぶん史実の裏付けがかなりある部分にフィクションが加えられているのだろう。その日常生活描写に、宗達がのフィクションの要素として加わることになる。
 「おもしろき絵」という言葉がストーリーを貫く一つのキーワードとなっていく。

 第2章は「承」である。上巻から下巻にまたがって、事の発端を承けることになり、この章が進む。
 1584年(天正12年)8月、激しい嵐の後に、陸地ポオルトガルが見えるという感動的な場面から始まる。そして、時間軸を1582年(天正10年)2月20日、のちに「天正遣欧使節」と呼ばれる一行が長崎を出港した時点に時を溯ってこのストーリーが進展する。ここではヨーロッパへの上陸前の船旅での経緯が描かれる。それは少年たちの対立・融和という人間関係が築かれるプロセスでもある。著者はヴァリニャーノの意図の真の理由にも触れている。勿論、航海の危険姓と苦しさもリアルに描き込まれていく。
 とりわけ宗達とマルティノの間に築かれる信頼関係が描かれて行く。マカオを経由してゴアに到着する経緯が主として描かれる。マカオを出港する時に、ヴァリニャーノは現地に留まり、ヌーノ・ロドリゲスに遣欧少年使節を託することになる。少年たちの心理が描かれて行く。ゴアを出発する前に、ヴァリニャーノは、マルティノに日記をしたためなさい、日本語で道程のすべてを記録しなさいと、勧めたのだ。その結果が「ユピテル アイオロス 真実の物語」という古文書につながるということなのだろう。

 第3章は「転」である。状況がゴロリと変化する。航海中の苦しさから、驚嘆と寬喜の連続へと転換していく。
 1584年(天正12年)8月11日、使節団一行が、ポルトガルのリスボンに足を踏み入れた時点から、ヴァチカンのシスティナ礼拝堂を経て、隣接する「帝王の間」で、使節団一行が第226代ローマ教皇グレゴリオス十三世に謁見する場面までが描かれる。宗達が信長からの献上品の<洛中洛外図屏風>を教皇に披露し捧げる役目を果たし終える場面がこの章の末尾となる。
 ヨーロッパ上陸後の少年使節たちの姿、西洋の文化に適合していく側面と謁見の機会を得た感動が描き出されていく。独自の立ち位置を貫く宗達の姿と行動の描写がおもしろい。また、その謁見にはイエズス会サイドの一つの作為とも言える演出があった側面も描き込まれていて興味深い。
 
 第4章は「結」である。1585年(天正13年)7月25日の見出しから始まる。
 グレゴリオス十三世に少年使節が謁見したことで、4少年にとっての渡欧目的は達成された。後は長旅となるが無事帰国の途につくまでの日程をこなしていくことになる。ヴァチカンを後にしてミラノへ移動する。8月8日には、ジェノヴァから出港し、帰途に就くことになる。
 だが、宗達にはまだ彼自身の目的は達成されていない。<洛中洛外図屏風>を教皇に届けるという使命は完遂した。だが、宗達のもう一つの目的は、絵師の工房を訪ねて、油絵の具で布に絵を描いているところを実際に見てみたいということである。ミラノでの数日の滞在が最後の機会なのだ。マルティノの助力を得て、ロドリゲスに宗達は己の望みを伝える。だが、その目的は時間的に無理だと否定される。宗達はせめて、ミラノ随一の絵師が描いた絵を見ることができないかと食い下がる。レオナルド・ダ・ヴィンチの名前を出してみる。
 宗達はマルティノとともに、ロドリゲスの配慮を得て、ドミニコ会派の教会なのだが、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪れる機会を得る。第4章は、あの有名な壁画と、そこで絵師を目指す一人の少年との偶然の出逢いを描いて行く。少年の名はミケランジェロ・メリージである。この場面が最後の読ませどころとなっていく。
 そして、それが、「Jupiter, Aeolus」という本書の副題、さらには、古文書の表題「ユピテル アイオロス 真実の物語」に結びつくだ。
 第4章、つまり天正年間の時空は、使節団一行がジェノヴァを出港する場面で終わる。それが、古文書「ユピテル アイオロス 真実の物語」の末尾でもあるのだろう。

 二重構造は現在時点に戻り、「エピローグ」となる。マカオ博物館の一室で、レイモンドから一枚の板絵と古文書を見せられた望月彩が、香港行き高速船のフェリーターミナルでレイモンドと別れる場面である。この一枚の板絵と古文書との出逢いに対する彩の思いが綴られている。
 最後に、二人はいつか協力しあって展覧会が開けるといいなという考えを語り合う。
 彩には、その機会がきたときの展覧会のタイトルはもう決まっているとひそかに思う。 末尾には、その展覧会のタイトルが記されている。おもしろいエンディングでもある。
 宗達とマルティノの間に育まれた友情、信頼関係が実によい。それが読ませどころである。

 ご一読いただきありがとうございます。

本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
俵屋宗達  :ウィキペディア
俵屋宗達  :「美術手帖」
京都観光の穴場!俵屋宗達の名作がいつでも見られる! 「養源院」は必見スポット:「和楽」
  杉戸に描かれた「白象図」の画像が掲載されています。
風神雷神を描いた俵屋宗達。実は琳派の創始者だった! :「和楽」
狩野永徳 :ウィキペディア
狩野永徳 :「美術手帖」
洛中洛外図  :ウィキペディア
天正遣欧少年使節 :ウィキペディア
2.天正少年遣欧使節 日本のカトリック教会の歴史 :「Laudate ラウダーテ」
[帰国シテから大変だった!?]天正遣欧使節のその後  :「歴人マガジン」
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ :ウィキペディア
まえがき:ヴァリニャーノ :「seseragi せせらぎ」
日本に「西洋的な考え方」を導入する方法 —(巡察師ヴァリニャーノと日本):「isologue(イソログ)」
天正遣欧使節を仕組んだ男 ヴァリニャーノの誤算 :「ONLINEジャーニー」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)