この本の背表紙を目にしたとき、まず「コペルニクス的転回」という語句に目が行った。何がコペルニクス的転回をするのだろうかと。そして「土左日記」という言葉を読んだのだが、その時、目はその文字を見ながら、頭の中では「土佐日記」と反射的に読みかえてしまっていた。そしてそのまま、何ら違和感を持たずに、「土左」という書き方をスルーしてしまい。本文での表記は一貫して「土左日記」にも関わらす、無意識に頭の中で土左を土佐に読み替えて読み進んでいたようである。
それに気づかされたのは、フリーディスカッションの記録文の中で、編者の一人、東原(敬称略、以下同様)が語っている箇所(p80-81)を読んだときである。『古事記』のはじめの方で、「土佐」の地名表記は「土左」であり、紀貫之が土佐に国守として赴任した頃はちゃんと「にんべん」が付いた「土佐」の表記地名になっていた。しかし、貫之は『土左日記』と外題で記し、伝本はすべて『土左日記』なのだと説明している。そのため、この本では、伝本どおりの『土左日記』として表記されている。この箇所を読んで、まず頭にガツン!である。私にとっては、このことがまず一種のコペルニクス的転回のハシリである。
なぜか? 義務教育の中で初めて「男もすなる『日記』というものを、女もしてみむとてするなり」という書き手の宣言文を習い、だが作者は紀貫之、『古今和歌集』の撰者の一人で『仮名序』を後に記した人物であると学んだ時以来、『土佐日記』という表記以外に私は目にしたことがなかったからである。手許にある年表や学習参考書、歴史書もすべて『土佐日記』と表記されている。伝本のタイトルは『土左日記』と書かれていたという註釈はどこにもない。知らなかった! 『土左日記』研究者と一部関係領域の研究者、好事家くらいが意識しているだけなのかもしれない。
知った今の段階で、改めて手許の情報をたぐると、岩波文庫の日本文学古典には『土左日記』と言うタイトルで鈴木知太郎校注本が出ている。岩波書店の日本古典文学大系20の表記も『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記 』であるようだ。一方、一例だが、小学館の日本古典文学全集13は『土佐日記 蜻蛉日記』で表記されている。角川ソフィア文庫も『土佐日記』と表記する。
さてこのブログ記事のタイトルを目にした人は、どういう第一印象を持たれたのだろうか?
手許に置く『クリアーカラー 国語便覧 第4版』(監修:青木・武久・坪内・浜本、数研出版)を読むと、見開き2ページで、「土佐日記」を解説している。冒頭に大きく「女性のふりをした男性の日記」と記し、「平安時代前期に歌人紀貫之によって記された紀行文。女性仮託の作。仮名文学の先駆け。亡くなった娘への哀惜」(p124)とキーポイントがまとめられている。そして、古典文学の流れ図(p56)では、「日記・紀行」の冒頭に、『土佐日記』が記され、その先に『蜻蛉日記』が続く。これが多分一般的な定説的理解となるのだろう。
そこで、本書の登場である。本書は二部構成になっている。
第一部は、「シンポジウム 座談会『土左日記』再検討」である。2015年10月17日(土)に高知県立大学永国寺キャンパス教育研究棟Aを会場としてシンポジウムが実施された内容の記録となっている。このシンポジウムの再検討には「思想文化、歴史哲学、世界文学、散文」という観点が多彩に盛り込まれている。学生時代に受験勉強の一環程度でしか『土佐日記』に触れた機会がなかった。ほぼ、無知識のレベルでいきなりこのシンポジウムの発表記録を読んだことになる。第一の読後印象は、『土左日記』って、そんな風に読み解けるのか! 再検討すべきことが一杯ある日記なんだ! という門外漢にとっての新鮮感覚である。
シンポジウムの発表者は5名。このシンポジウム、門外漢の一般読者の目からは、インターディシプリナリーな『土左日記』への問題提起として、興味深くて、目からウロコ的次元もあって、おもしろい。
発表Ⅰ 930年~40年代、世界の思想文化 ヨース・ジョエル
発表者は同大学の准教授で、日本文化論・日本思想史の研究者。10世紀半ばの世界がどんな状況であったかをマクロ的に概説し、『土左日記』の内容自体ではなく、日本の位置づけとその中でのこの日記の位置づけを捕らえている。世界がまだ中華・ローマ・イスラームが併存しただけのそれぞれの世界に分かれ、それぞれに中央と周縁があったこと。一方でそれら世界に接点もあったことがわかりやすく語られる。そして、中華世界の中で日本が中央に対する周縁であり、どういう位置づけの時代であったか。さらに、日本の中での中央と周縁という関係性の中で、任地の土佐から京に戻るという過程で記された『土左日記』を捕らえ直していく。非常にマクロな展望でとらえ直してみたらどうかという問題提起がおもしろい。どっぽりとこの日記自体の研究をする研究者にとっても、刺激的な提言と思われる。
発表Ⅱ 「国風文化」の中の『土左日記』 木村茂光
発表者は、帝京大学の教授で、東京学芸大学名誉教授。歴史学の研究者。『「国風文化」の時代』という著書がある。このシンポジウムの発案者東原はこの著書から日記研究の上で刺激を受けたことがあるという。そんな契機で、このシンポジウムの発表者の一人に加わったようである。中央となる都市平安京が大きな変化を遂げつつある時代であり、地方から能動的に人々が京に流入する時代と述べ、民衆史の視点から、下級官吏の位置づけにある紀貫之の民衆に対する目線を論じる。『土左日記』に記述された旅程の期間を「公的世界」と「私的世界」に区分してとらえ直すという問題提起が興味深い。また、貫之より数十年早く讃岐国の国守に赴任した経歴のある菅原道真が詠んだ「寒早十首」という漢詩と貫之の『土左日記』との対比から両者の身分差の視点を論じる切り口が興味深いものになっている。道真は右大臣まで昇り、一方の貫之は和歌の大家となったが従五位までしか昇れなかった。両者の身分差とその目線に光を当てている。
発表Ⅲ 知のアマチュア/哲学者が読む『土左日記』 鹿島 徹
発表者は早稲田大学教授で、哲学の研究者。哲学者の目線がおもしろい。土佐から京に戻る55日間の大半で貫之一行は船旅をしたのだが、その船自体の大きさはどれくらいだったのか、船そのものについて日記に記述はあまりない。その船の大きさを掘り下げることからはじめて、『土左日記』の登場人物たちに言及していく。そして、「乗った船がかなり大きかったということを考えてみるだけで、その船内の生活はなかなかおもしろかったと考えられるんじゃないか」と進展させ、船中に居た筈で、日記に書き込まれていない人々の存在にも触れていく。『土左日記』をもっともっと豊かに読めるのではないかという指摘である。刺激的な一石といえる。
発表Ⅳ 『土左日記』における子どもの表象 スエナガ・エウニセ
発表者は日系ブラジル人で東京大学で博士号を取得した日本文学の研究者。物語研究会会員であり、翻訳家である。村上春樹作品のポルトガル語訳を行っている人だと末尾の著者紹介に記されている。本書第二部の論文を読むと、『土左日記』のポルトガル語訳を試みているそうだ。スエナガにとり、日本そのものが外国であり、さらに『土左日記』は全くの異言語、異文化の世界だったと述べている。そのスエナガが、平安時代に書かれた『土左日記』はローカル性の強い作品であるが、そこに描かれた子どもをなくした悲しみや望郷の念は、現代人にも共感でき、いわゆる普遍的な感情が描かれているとし、「世界文学」としての可能性について、具体的な日記の記述例を分析して論じている。分析的読み解き方が学べる。第二部の論文では、一層綿密な分析へと展開している。
発表Ⅴ 『土左日記』の散文文学性、あるいは歌学批判 東原伸明
高知県立大学の教授で、日本文学、特に『土左日記』の研究者のようである。「あとがき」で、このシンポジウムを発案したきっかけに触れている。東原は「散文文学」という言葉を用いて『土左日記』を研究しているとまず、立場を明らかにしている。その上で、一つの国語辞書の説明を引き合いに出し、「散文」ということばの規定において、現状では散文が公式には文学と認められていないという現状認識を指摘している。そして、過去の文学研究の歴史において、『土左日記』は、近世歌学の視点から注釈が付せられ論じられてきただけであるという。そして、萩谷朴が「権門の子弟のために書かれた個人用教科書としての初歩的歌論書というこの作品の表層的使命」を論じており、それが通説となっていることに対し、「散文文学」として捕らえ直す重要性を提唱する。それは、歌人の藤原定家が『土左日記』の写本を作成した時の書の体裁のサイズ、また諸伝本が同様に作成した写本のサイズから見ても、歌学の枠組みから脱却してとらえなおすことが必要ではないかと論じていておもしろい。つまり歌学の領域での文学性ではなくて、散文文学としてのとらえ直し、見方をごろっと変える意義を論じている。それがコペルニクス的転回になっていくという主旨だと理解した。このシンポジウムは、それに弾みをつけていく第一歩という印象を持つた。
パネリストが10分間という短い発表をした後、その補足を含めた「フリーディスカッション」がここに記録されている。このフリーディカッションの記録は、発表内容の理解を深めるのに役立つ。
第二部は「論文」というタイトルであり、ここにはシンポジウムで各発表者が語った視点、アイデアに、さらに内容の補足と論理的整合性などを加えて論文という形でまとめられたものが収録されている。第一部はこの第二部を読むための一種のウォーミングアップにもなり、両者の内容の照応が、私のような一般読者には読みやすくしてくれているように思う。第一部と対照するために、掲載論文のタイトルを紹介しておこう。
『土左日記』と世界 -10世紀後半の「世界」と日本文明-
ヨース・ジョエル
『土左日記』の主題について・再論 -ジェンダー史・民衆史の視点から-
木村茂光
船のなかの「見えない」人びと -哲学者/知のアマチュアが読む『土左日記』-
鹿島 徹
『土左日記』の主語や呼称、主題や「第三の項」についての覚書
スエナガ・エウニセ
歌学批判から見た『土左日記』の散文文学性
-もしくは『土左日記』のコペルニクス的転回- 東原伸明
紀貫之『土左日記』と菅原道真『菅家文章』
巻三「寒早十首」の表現について -「楫取」を軸として- 佐藤信一
第二部はやはり「論文」であるので私のような門外漢、一般読者には大凡の内容は理解できても、詳細部分で理解が及びづらい箇所が多々ある。しかし、その論旨はロジックを追っていくことでほぼ理解でき、『土左日記』への関心を呼び覚まさせるトリガーとなった。
最後の論文は、発表Ⅱ(木村)の後半で語られた紀貫之と菅原道真の表現における関係性を文学研究者の見地から、分析的に例証しつつ論じた論文である。<はじめに ー研究史を通覧して->は、『土左日記』に関する過去の諸論文をまさに古注釈から初めて論点をまとめ通覧している。この領域の研究論文を読んでいる人には興味深い通覧となっているのだろうと思うが、私には猫に小判の類いである。基盤がないので残念ながらその論点整理が読み込めない。
その後に、<1『菅家文草』巻三「寒早十首」の叙述と比較して > 、<2「叙意一百韻」の一節に関して>、<3 『土左日記』の表現との関連を廻って> と展開し、最後に<まとめ>を付されている。1から3は、「寒早十首」の詳しい論述もあり、紀貫之の日記執筆との関係性も分かって興味深いところがある。
本書を読み、『土左日記』が執筆された後、紀貫之はそれを公表しなかったということを知った。文暦2年(1235)に、藤原定家が貫之自筆の本を発見し書写したのがこの日記が世に知られるはじまりだったとか。東原は、定家が写本した後その奥書に書誌的記録を残しているという。『土左日記』は定家により発見されるまで、300年余の期間、蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収蔵されたままになっていたそうである。
そうすると、紀貫之の『土左日記』は「日記・紀行」文学の流れの嚆矢・淵源と図式化されてはいるものの、その死蔵されている期間に、現在伝わる女性の手になる日記である『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』が書き残されていく。ということはこの系譜は、女性自身の発想から独創的に生み出されたものといえるのだろうか。本書はこの点には一切ふれていない。
『土左日記』が公表されていないならば、『蜻蛉日記』との間は系譜化できない。そこには断絶があるのか。『蜻蛉日記』がモデルとする女性により記された日記が先行的にあったのだろうか。それとも、『蜻蛉日記』の著者は、男が記す日記を前提モデルとして、独自に私的日記を書き綴るという着想を得て、実行に移したのだろうか。個人的な疑問が残った。手許の便覧では、流れとして実線で結ばれた形にしてあるので、私は何となく、『土左日記』が秘蔵されていたのではなくて、世に広まり、それをモデルとして、女性自身が日記を記すという形での進展が進んで行ったと思い込んでいたのである。日記・紀行を書き記す系譜ということに関わる疑問が残った。
ご一読ありがとうございます。
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インターネットでどんな情報が得られるか検索してみた。結果を一覧にしておきたい。
土佐日記 紀貫之 :「青空文庫」
土佐日記 紀貫之 pdfファイル :「青空文庫」
土佐日記 ― 全文全訳(対照併記) :「学ぶ・教える.com」
『土佐日記』所収和歌一覧
紀貫之 土佐日記 :「正岡正剛の千夜千冊」
土佐日記 :「コトバンク」
土佐日記 ホームページ :「アイコン・エム」
土左日記 :「文化遺産オンライン」
定家本土佐日記 : 尊経閣叢刊. [本編] :「国立国会図書館デジタルコレクション」
土佐日記附註 :「国文学研究資料館」
土佐日記 (國文大觀) :「WIKISOURCE」
土左日記 (群書類從) :「WIKISOURCE」
10分でできるテスト対策 古文 「土佐日記 門出」 これで10点アップ! :YouTube
『土佐日記』と『蜻蛉日記』 古典への招待 :「JapanKnoeledge」
紀行文学としてみた『土佐日記』 中里重吉著 論文
土佐日記の歌論-人物描写という方法 北島紬著 論文
土佐日記の植物 :「文学作品に登場する植物たち」
「土佐日記」の授業 -導入期の古典指導から 続- 金子直樹著 論文
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
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それに気づかされたのは、フリーディスカッションの記録文の中で、編者の一人、東原(敬称略、以下同様)が語っている箇所(p80-81)を読んだときである。『古事記』のはじめの方で、「土佐」の地名表記は「土左」であり、紀貫之が土佐に国守として赴任した頃はちゃんと「にんべん」が付いた「土佐」の表記地名になっていた。しかし、貫之は『土左日記』と外題で記し、伝本はすべて『土左日記』なのだと説明している。そのため、この本では、伝本どおりの『土左日記』として表記されている。この箇所を読んで、まず頭にガツン!である。私にとっては、このことがまず一種のコペルニクス的転回のハシリである。
なぜか? 義務教育の中で初めて「男もすなる『日記』というものを、女もしてみむとてするなり」という書き手の宣言文を習い、だが作者は紀貫之、『古今和歌集』の撰者の一人で『仮名序』を後に記した人物であると学んだ時以来、『土佐日記』という表記以外に私は目にしたことがなかったからである。手許にある年表や学習参考書、歴史書もすべて『土佐日記』と表記されている。伝本のタイトルは『土左日記』と書かれていたという註釈はどこにもない。知らなかった! 『土左日記』研究者と一部関係領域の研究者、好事家くらいが意識しているだけなのかもしれない。
知った今の段階で、改めて手許の情報をたぐると、岩波文庫の日本文学古典には『土左日記』と言うタイトルで鈴木知太郎校注本が出ている。岩波書店の日本古典文学大系20の表記も『土左日記 かげろふ日記 和泉式部日記 更級日記 』であるようだ。一方、一例だが、小学館の日本古典文学全集13は『土佐日記 蜻蛉日記』で表記されている。角川ソフィア文庫も『土佐日記』と表記する。
さてこのブログ記事のタイトルを目にした人は、どういう第一印象を持たれたのだろうか?
手許に置く『クリアーカラー 国語便覧 第4版』(監修:青木・武久・坪内・浜本、数研出版)を読むと、見開き2ページで、「土佐日記」を解説している。冒頭に大きく「女性のふりをした男性の日記」と記し、「平安時代前期に歌人紀貫之によって記された紀行文。女性仮託の作。仮名文学の先駆け。亡くなった娘への哀惜」(p124)とキーポイントがまとめられている。そして、古典文学の流れ図(p56)では、「日記・紀行」の冒頭に、『土佐日記』が記され、その先に『蜻蛉日記』が続く。これが多分一般的な定説的理解となるのだろう。
そこで、本書の登場である。本書は二部構成になっている。
第一部は、「シンポジウム 座談会『土左日記』再検討」である。2015年10月17日(土)に高知県立大学永国寺キャンパス教育研究棟Aを会場としてシンポジウムが実施された内容の記録となっている。このシンポジウムの再検討には「思想文化、歴史哲学、世界文学、散文」という観点が多彩に盛り込まれている。学生時代に受験勉強の一環程度でしか『土佐日記』に触れた機会がなかった。ほぼ、無知識のレベルでいきなりこのシンポジウムの発表記録を読んだことになる。第一の読後印象は、『土左日記』って、そんな風に読み解けるのか! 再検討すべきことが一杯ある日記なんだ! という門外漢にとっての新鮮感覚である。
シンポジウムの発表者は5名。このシンポジウム、門外漢の一般読者の目からは、インターディシプリナリーな『土左日記』への問題提起として、興味深くて、目からウロコ的次元もあって、おもしろい。
発表Ⅰ 930年~40年代、世界の思想文化 ヨース・ジョエル
発表者は同大学の准教授で、日本文化論・日本思想史の研究者。10世紀半ばの世界がどんな状況であったかをマクロ的に概説し、『土左日記』の内容自体ではなく、日本の位置づけとその中でのこの日記の位置づけを捕らえている。世界がまだ中華・ローマ・イスラームが併存しただけのそれぞれの世界に分かれ、それぞれに中央と周縁があったこと。一方でそれら世界に接点もあったことがわかりやすく語られる。そして、中華世界の中で日本が中央に対する周縁であり、どういう位置づけの時代であったか。さらに、日本の中での中央と周縁という関係性の中で、任地の土佐から京に戻るという過程で記された『土左日記』を捕らえ直していく。非常にマクロな展望でとらえ直してみたらどうかという問題提起がおもしろい。どっぽりとこの日記自体の研究をする研究者にとっても、刺激的な提言と思われる。
発表Ⅱ 「国風文化」の中の『土左日記』 木村茂光
発表者は、帝京大学の教授で、東京学芸大学名誉教授。歴史学の研究者。『「国風文化」の時代』という著書がある。このシンポジウムの発案者東原はこの著書から日記研究の上で刺激を受けたことがあるという。そんな契機で、このシンポジウムの発表者の一人に加わったようである。中央となる都市平安京が大きな変化を遂げつつある時代であり、地方から能動的に人々が京に流入する時代と述べ、民衆史の視点から、下級官吏の位置づけにある紀貫之の民衆に対する目線を論じる。『土左日記』に記述された旅程の期間を「公的世界」と「私的世界」に区分してとらえ直すという問題提起が興味深い。また、貫之より数十年早く讃岐国の国守に赴任した経歴のある菅原道真が詠んだ「寒早十首」という漢詩と貫之の『土左日記』との対比から両者の身分差の視点を論じる切り口が興味深いものになっている。道真は右大臣まで昇り、一方の貫之は和歌の大家となったが従五位までしか昇れなかった。両者の身分差とその目線に光を当てている。
発表Ⅲ 知のアマチュア/哲学者が読む『土左日記』 鹿島 徹
発表者は早稲田大学教授で、哲学の研究者。哲学者の目線がおもしろい。土佐から京に戻る55日間の大半で貫之一行は船旅をしたのだが、その船自体の大きさはどれくらいだったのか、船そのものについて日記に記述はあまりない。その船の大きさを掘り下げることからはじめて、『土左日記』の登場人物たちに言及していく。そして、「乗った船がかなり大きかったということを考えてみるだけで、その船内の生活はなかなかおもしろかったと考えられるんじゃないか」と進展させ、船中に居た筈で、日記に書き込まれていない人々の存在にも触れていく。『土左日記』をもっともっと豊かに読めるのではないかという指摘である。刺激的な一石といえる。
発表Ⅳ 『土左日記』における子どもの表象 スエナガ・エウニセ
発表者は日系ブラジル人で東京大学で博士号を取得した日本文学の研究者。物語研究会会員であり、翻訳家である。村上春樹作品のポルトガル語訳を行っている人だと末尾の著者紹介に記されている。本書第二部の論文を読むと、『土左日記』のポルトガル語訳を試みているそうだ。スエナガにとり、日本そのものが外国であり、さらに『土左日記』は全くの異言語、異文化の世界だったと述べている。そのスエナガが、平安時代に書かれた『土左日記』はローカル性の強い作品であるが、そこに描かれた子どもをなくした悲しみや望郷の念は、現代人にも共感でき、いわゆる普遍的な感情が描かれているとし、「世界文学」としての可能性について、具体的な日記の記述例を分析して論じている。分析的読み解き方が学べる。第二部の論文では、一層綿密な分析へと展開している。
発表Ⅴ 『土左日記』の散文文学性、あるいは歌学批判 東原伸明
高知県立大学の教授で、日本文学、特に『土左日記』の研究者のようである。「あとがき」で、このシンポジウムを発案したきっかけに触れている。東原は「散文文学」という言葉を用いて『土左日記』を研究しているとまず、立場を明らかにしている。その上で、一つの国語辞書の説明を引き合いに出し、「散文」ということばの規定において、現状では散文が公式には文学と認められていないという現状認識を指摘している。そして、過去の文学研究の歴史において、『土左日記』は、近世歌学の視点から注釈が付せられ論じられてきただけであるという。そして、萩谷朴が「権門の子弟のために書かれた個人用教科書としての初歩的歌論書というこの作品の表層的使命」を論じており、それが通説となっていることに対し、「散文文学」として捕らえ直す重要性を提唱する。それは、歌人の藤原定家が『土左日記』の写本を作成した時の書の体裁のサイズ、また諸伝本が同様に作成した写本のサイズから見ても、歌学の枠組みから脱却してとらえなおすことが必要ではないかと論じていておもしろい。つまり歌学の領域での文学性ではなくて、散文文学としてのとらえ直し、見方をごろっと変える意義を論じている。それがコペルニクス的転回になっていくという主旨だと理解した。このシンポジウムは、それに弾みをつけていく第一歩という印象を持つた。
パネリストが10分間という短い発表をした後、その補足を含めた「フリーディスカッション」がここに記録されている。このフリーディカッションの記録は、発表内容の理解を深めるのに役立つ。
第二部は「論文」というタイトルであり、ここにはシンポジウムで各発表者が語った視点、アイデアに、さらに内容の補足と論理的整合性などを加えて論文という形でまとめられたものが収録されている。第一部はこの第二部を読むための一種のウォーミングアップにもなり、両者の内容の照応が、私のような一般読者には読みやすくしてくれているように思う。第一部と対照するために、掲載論文のタイトルを紹介しておこう。
『土左日記』と世界 -10世紀後半の「世界」と日本文明-
ヨース・ジョエル
『土左日記』の主題について・再論 -ジェンダー史・民衆史の視点から-
木村茂光
船のなかの「見えない」人びと -哲学者/知のアマチュアが読む『土左日記』-
鹿島 徹
『土左日記』の主語や呼称、主題や「第三の項」についての覚書
スエナガ・エウニセ
歌学批判から見た『土左日記』の散文文学性
-もしくは『土左日記』のコペルニクス的転回- 東原伸明
紀貫之『土左日記』と菅原道真『菅家文章』
巻三「寒早十首」の表現について -「楫取」を軸として- 佐藤信一
第二部はやはり「論文」であるので私のような門外漢、一般読者には大凡の内容は理解できても、詳細部分で理解が及びづらい箇所が多々ある。しかし、その論旨はロジックを追っていくことでほぼ理解でき、『土左日記』への関心を呼び覚まさせるトリガーとなった。
最後の論文は、発表Ⅱ(木村)の後半で語られた紀貫之と菅原道真の表現における関係性を文学研究者の見地から、分析的に例証しつつ論じた論文である。<はじめに ー研究史を通覧して->は、『土左日記』に関する過去の諸論文をまさに古注釈から初めて論点をまとめ通覧している。この領域の研究論文を読んでいる人には興味深い通覧となっているのだろうと思うが、私には猫に小判の類いである。基盤がないので残念ながらその論点整理が読み込めない。
その後に、<1『菅家文草』巻三「寒早十首」の叙述と比較して > 、<2「叙意一百韻」の一節に関して>、<3 『土左日記』の表現との関連を廻って> と展開し、最後に<まとめ>を付されている。1から3は、「寒早十首」の詳しい論述もあり、紀貫之の日記執筆との関係性も分かって興味深いところがある。
本書を読み、『土左日記』が執筆された後、紀貫之はそれを公表しなかったということを知った。文暦2年(1235)に、藤原定家が貫之自筆の本を発見し書写したのがこの日記が世に知られるはじまりだったとか。東原は、定家が写本した後その奥書に書誌的記録を残しているという。『土左日記』は定家により発見されるまで、300年余の期間、蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収蔵されたままになっていたそうである。
そうすると、紀貫之の『土左日記』は「日記・紀行」文学の流れの嚆矢・淵源と図式化されてはいるものの、その死蔵されている期間に、現在伝わる女性の手になる日記である『蜻蛉日記』、『和泉式部日記』、『紫式部日記』、『更級日記』が書き残されていく。ということはこの系譜は、女性自身の発想から独創的に生み出されたものといえるのだろうか。本書はこの点には一切ふれていない。
『土左日記』が公表されていないならば、『蜻蛉日記』との間は系譜化できない。そこには断絶があるのか。『蜻蛉日記』がモデルとする女性により記された日記が先行的にあったのだろうか。それとも、『蜻蛉日記』の著者は、男が記す日記を前提モデルとして、独自に私的日記を書き綴るという着想を得て、実行に移したのだろうか。個人的な疑問が残った。手許の便覧では、流れとして実線で結ばれた形にしてあるので、私は何となく、『土左日記』が秘蔵されていたのではなくて、世に広まり、それをモデルとして、女性自身が日記を記すという形での進展が進んで行ったと思い込んでいたのである。日記・紀行を書き記す系譜ということに関わる疑問が残った。
ご一読ありがとうございます。
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土佐日記 紀貫之 :「青空文庫」
土佐日記 紀貫之 pdfファイル :「青空文庫」
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『土佐日記』所収和歌一覧
紀貫之 土佐日記 :「正岡正剛の千夜千冊」
土佐日記 :「コトバンク」
土佐日記 ホームページ :「アイコン・エム」
土左日記 :「文化遺産オンライン」
定家本土佐日記 : 尊経閣叢刊. [本編] :「国立国会図書館デジタルコレクション」
土佐日記附註 :「国文学研究資料館」
土佐日記 (國文大觀) :「WIKISOURCE」
土左日記 (群書類從) :「WIKISOURCE」
10分でできるテスト対策 古文 「土佐日記 門出」 これで10点アップ! :YouTube
『土佐日記』と『蜻蛉日記』 古典への招待 :「JapanKnoeledge」
紀行文学としてみた『土佐日記』 中里重吉著 論文
土佐日記の歌論-人物描写という方法 北島紬著 論文
土佐日記の植物 :「文学作品に登場する植物たち」
「土佐日記」の授業 -導入期の古典指導から 続- 金子直樹著 論文
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