遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『鬼神伝 [龍の巻] 』  高田崇史  講談社NOVELS

2015-12-31 22:22:28 | レビュー
 天童純は高校1年の春のオリエンテーションで、鎌倉・長谷寺に行く。そして、地蔵堂の前であの水葉に瓜二つの少女が目の前を通り過ぎるのを見たのである。無意識にその少女の後を追う。少女はお堂の先にある弁天窟に入って行く。勿論、純はその後を追った。 しかし、それは天童純が再び異次元世界にワープしてしまう始まりだった。この「龍の巻」は、天童純が何と鎌倉時代、それも北条氏が実権を握り、すでに八代目・北条時宗の治世の最中に飛び込んでしまって起こる異時空冒険譚である。

 三代将軍源実朝が亡くなってから50年余、争乱は絶えることなく、僧侶達は末法の世と言い、仏を恐れぬ悪鬼がはびこると吹聴する。異国の鬼が渡海し攻めてくるという風評も流れているという時代。鎌倉幕府は、世の乱れを地獄谷や葛原ヶ岡に棲み着く鬼のせいだとし、北条時宗は鬼の殲滅を講じているという。なぜ、鬼の殲滅を狙うのか? 鎌倉の資源の多くを握っているのは、山奥の鬼たちであるためだ。「戦って、鉄を勝ち取るしかない」という点に時宗のねらいがある。

 この物語、図式的に言えば、時宗を筆頭とし鬼を殲滅せんとする鎌倉幕府と、鬼と呼ばれる人々との争闘である。鬼の頭目は赤目と呼ばれる。そして、鬼の娘・水姫(みずき)がいる。

 まず関わりを深めて行くのが刀鍛冶師・鬼正の弟子、15歳となった王仁丸(わにまる)である。王仁丸は住まいのある佐助稲荷から十二所まで使いに来ていて、龍ノ口で蛇胴丸という銘の刀を使い、鬼の斬首刑が行われると聞く。王仁丸は龍ノ口刑場に太刀蛇胴丸を見たさに出かけて行く。刑場に引き出された赤目が、振り向き王仁丸を見据えて、蹈鞴(たたら)の神・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)の名を口に唱えたことに驚愕する。そこに土蜘蛛に乗り、四尺八寸あるかもしれない「鉄丸(くろがねまる)」と呼ばれる大太刀をひっさげて水姫が現れ、赤目を救出していく。これがこのストーリーの起点となる。
 
 この対立図式の中に、様々な人物が登場してくる。
 時宗の側では、御家人の安達泰盛が信州・戸隠の山奥から僧形の三眼坊を呼び寄せる。三眼坊は「人頭杖(にんずじょう)」を携えてきて時宗に目通りする。そして、三眼坊を介して、三百年昔のあの源頼光の霊を呼び寄せて、鬼の殲滅に利用しようとする。さらに、帝釈天も呼び出されてくる。さらには、十六神王までも・・・。
 
 小町の辻で説法中に危難に遭う日蓮が登場する。強引に鬼正の弟子になった宗丸とともに王仁丸がその場の日蓮を救う。それが縁となり、日蓮が王仁丸が不思議と考えることを絵解きをする立場として関わって行く。善とは何か、悪とは何か、鬼神とは、「人」とは? 日蓮の語ることが、この小説の一つの筋となっている。
 日蓮の語りとして、こんな一文が出てくる。「『鬼』というのは戦う『神』のことだ。そして、『神』は我々『人』の祖先。また『人』は『仏』となる。つまり、鬼も神も人も仏も、みな同じ」(p134)そして、王仁丸にしっかり考えよと言う。
 刀鍛冶師鬼正の刀に関わる考え方も底流に流れる一つの筋である。その鬼正は一心に一本の刀の研ぎに打ち込んでいる。
 だが、鬼正の考えには日蓮が王仁丸に告げた問いと関わる部分がある。日蓮は王仁丸に言う。「おまえが鍛え上げた刀は、一体何を斬るべきなのかを。悩み、そして考えろ」と。
 
 化粧坂(けわいざか)近くの薬師堂に危難を逃れて逃げこみ、そこの古ぼけた薬師如来像を拝む日蓮の前に、阿修羅王に命じられた十二神将のうちの伐折羅(ばさら)大将が訪れる。伐折羅大将を通じた阿修羅王の頼みは、帝釈天が鎌倉に張り巡らした結界の突破口をこの薬師堂にするためという。無駄な犠牲、血を流さずに敵・帝釈天と対峙したいがためという。日蓮に四日三晩、薬師如来を祀ってもらうことが、その突破口となるのだと。
 そして、赤目・水姫のところに、小野篁が再びストーリーの後半で登場する。石となって三百年眠る「大和の雄龍霊(おろち)」を目覚めさせ、赤目・水姫達の鎌倉幕府との戦いに参戦させんがためである。「大和の雄龍霊」には天童純が必要だったのだ。だから、弁天窟から純がワープさせられた。しかし、後半の小野篁の登場まで、純が純としては登場しない。なぜか? それがこのストーリー構成の一つのおもしろさでもある。純は既にストーリーに登場していたのだ。それが誰かは、本書を楽しんでいただきたいと思う。

 この小説は、前作から三百年後の鎌倉時代に設定されているが、根底にあるのは「鬼」と「人」の対立・争闘である。それが神々の対立・争闘と絡まっていく。その背景にあるのは本来の土着の民族と移住・侵入者してきた民族の戦いである。侵略者による支配の中で被支配者に甘んじていく民と対立・反撃を続けて行く民の乖離。抵抗を続ける民に降りかかる必然的な圧迫などが背景にあるといえる。それが「鬼」「鬼神」として記号化され、SF的ストーリー展開で語られているのだと思う。しかし、その争闘は「同じ」であるべきという思いに至るための過程でもある。「まことに残酷なのは、私たち人間」ということが、繰り返し語られているテーマであるようだ。その背後にあるのは「怨念は怨念しか生み出さない」。
 ストーリーにはその繰り返しパターンが重層的に描き込まれていく。阿弓流為(アテルイ)と母禮(モレ)の斬首のこと。大江山の酒呑童子と平安京の貴族の関係。北条一族と梶原一族の関係。御霊神社と鶴岡八幡宮の関係。火の神と武甕槌(たけみかづち)神・経津主(ふつぬ)神の関係。などである。

 鬼正は事情も知らされずに「草薙剣」を研ぐ。そして小野篁から「国光」と名乗れと言われる。国光となった師は、宗丸が梶原貞成から引き受けた刀の研ぎの件を知る。宗丸が引き受けたのは「大進坊」だった。国光はこの太刀の研ぎを引き継ぎ、それを宗丸に見せるプロセスがある。ここは一つの読ませどころになっている。
 もう一つは、梶原貞成の有り様を描くプロセスである。ここもなかなかドラマチックだ。

 最終ステージは、純が石になったオロチを解き放つ。オロチの復活である。そして、純と阿修羅王は戦いの場で再会する。
 大和の雄龍霊が真の姿を現出することになる。
 最後の展開は日蓮が龍ノ口刑場に引き出される場面と重ねられていく。興味深い。

 このストーリー、最後に立派な刀工誕生エピソードという楽しいオチも付いている。勿論、これはSF的異時空世界での物語としてだが・・・・・。
 それでは、最後の最後に、純のつぶやきに触れておこう。「ぼくがどうしてこの世界に呼ばれたのか、その本当の意味が分かった気がする。きっと水葉に頼まれたんだ。・・・・・」 何を頼まれたのか? それは読み進めてみて、味わってほしい。

 日蓮聖人が龍ノ口の法難に遭ったのは史実である。文永8年(1271)9月13日子丑の刻(午前2時前後)と伝えられている。


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本書に出てくる語句とそこからの関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
帝釈天  :ウィキペディア
インドラ :「コトバンク」
阿修羅  :ウィキペディア
北条時宗 :ウィキペディア
日蓮聖人略年譜  :「大本山 清澄寺」
龍口  :ウィキペディア
龍ノ口法難  :「龍口寺」
龍口寺 :ウィキペディア
天女と五頭龍  :「龍伝説」
五頭龍と天女様 岸本景子 マンガで見る江島縁起 :「江島神社」
御霊神社  :「鎌倉手帳」
御霊神社(鎌倉市)  :ウィキペディア
面掛行列 :「鎌倉ビデオ・アーカイブス」
  メニューの中、「鎌倉の行事」の一つとして掲載あり。

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徒然に読んできた作品で、このブログを書き始めた以降に、シリーズ作品の特定の巻を含め、印象記をまとめたものです。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『神の時空 -かみのとき- 三輪の山祇』 講談社NOVELS
『鬼神伝』 講談社NOVELS
『毒草師 パンドラの鳥籠』 朝日新聞出版
『鬼神伝 鬼の巻』 講談社
『神の時空 -かみのとき- 貴船の沢鬼』 講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 倭の水霊』  講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 鎌倉の地龍』 講談社NOVELS
『カンナ 出雲の顕在』 講談社NOVELS
『QED 伊勢の曙光』 講談社NOVELS


『マインド』 今野 敏  中央公論新社

2015-12-28 09:33:56 | レビュー
 オウム真理教のあの忌まわしい事件が起こった当時、マインドコントロールという言葉が大きくメディアに取り上げられていたと記憶する。この作品のタイトル「マインド」はこの言葉と関わりを持っている。
 幾重にも扉で閉ざされた人の心(マインド)の深層心理が解き放たれるという状況において、無自覚のうちに発現した結果がいかに恐ろしいかを感じさせる作品だというのがまず第一の読後印象である。
 
 警視庁捜査一課・碓氷(うすい)弘一警部補が、捜査過程のある段階から警察庁の心理調査官・藤森紗英(さえ)の参加により、かつての連続通り魔事件と同様に、コンビを組み、事件の解明にあたることになる。殺人事件の捜査本部とは一線を画して、田端課長の指示による特命部隊として、人間の心の奥底に蠢くものと格闘していくという、興味深い設定になっているところが、おもしろい。少し異色な新機軸の作品になっている。

 一人の警察官が自殺したという事実を碓氷は朝のニュースで知る。特別な感情を抱くことなく登庁する。梨田洋太郎巡査部長から、都内で昨日もう一件ほぼ同時刻に中学生の自殺があったことが新聞に載っていたと聞く。また、碓氷の第5係は当番明けの翌日だったのだが、高木警部補から昨日捜査一課全体としては、2件の殺人事件が発生していたということを伝え聞くことになる。新宿署の管轄では、不動産会社の管理職・51歳の男性が殺され、その遺体が会社の契約駐車場で発見された。一方麻布署の管轄では、私立高校の男性教員38歳が自宅近くの公園で遺体として発見されたのだという。

 登庁した日の夕刻、鈴木係長を通じて、田端課長が碓氷たちに直接話をしたいという旨を聞く。そこで、第5係は殺人事件の捜査本部が立つ新宿署に出向いていく。

 田端課長が、捜査本部とは別の会議室を準備させ、鈴木係長以下第5係の碓氷たちに語ったのは、課長の心に引っかかったこだわりだった。課長自身がどう説明してよいか迷っているという。都内で発生した2件の自殺と2件の殺人事件が、どの事案も死亡推定時刻や目撃情報から、昨夜の午後11時に発生したことがほぼ明らかになっているというのだ。一つ一つの事案の捜査はそう難しいものではない。自殺も疑う余地がなさそうなのだという。課長は同じ時刻に都内で4人の人間が死んだということにひっかかかりを感じるという。このあたりが、長年の刑事経験が生み出す勘という形で描かれる。碓氷も同様の感覚を第5係のメンバーの話から感じ始めていたのだ。このあたりが、この小説のイントロとなる。

 そこで、課長は捜査本部には属さない別働隊としてこれら4つの事案に、何か共通点はないか調べて欲しいと指示する。いわば、課長の特命班として捜査活動をする事となる。こういう設定の作品はあまり記憶が無い。
 第5係のメンバーは、手分けしてそれぞれの事案の詳細情報を集めるという行動から始めて行くことになる。本部の中心として碓氷が残り、残りの8名が2名ずつで4班に分かれ、各事案を担当し、調べ始める。殺人事件の捜査本部や所轄には、第5係の特命行動での情報収集に対する協力を課長が事前に根回ししておくということになる。このあたりも、警察の組織体制を感じさせる。まあ、どの世界にもスムーズに進めるための根回しが必要というところか。

 この小説では、ほぼ同一時刻に発生した事案という唯一の共通点から、何か別に重要な共通点が隠されていないかという各班の捜査に進展する。これを契機として、詳細情報が蓄積されていくというプロセスの展開が描写されていく。そして、さらに、田端課長が殺人事件の被疑者の供述が腑に落ちないことから、心理調査官・藤森紗英に連絡してみたところ、思いもよらぬ事件が他にも発生していたのだ。都内で、ほぼ同時刻に強姦未遂が2件、盗撮事件が1件発生していたのだ。5月6日の午後11時に起きた事案が合計7件の及んでいた。そこで、藤森紗英が特命班に参加するという次第。
 
 情報が集積された結果、7件の事案の関係者それぞれが『アクア・メンタルクリニック』に行っていたという新たな共通点が浮上して来る。『アクア・メンタルクリニック』がどういう形で関与しているのか、碓氷と藤森紗英が直接話を聞きに行くことになる。
 状況認識とその分析が二転三転しながら、事実関係が徐々に明らかになって行く。

 この小説の興味深いところは、独立して発生した事件(事案)がそれぞれは物的証拠や目撃情報などから比較的解明しやすいものであるにもかかわらず、事案を発生させた真因が個別事案からは捉えがたい部分に潜んでいたという設定である。一見、一件落着になる事件の真相が別のところにあったというところに、ある意味で深刻な事態の提示がなされている作品だ。物理的証拠からは見通せない事案の存在。こんなことが発生するとすれば、実に由々しきことではないか。

 マインドコントロールに起因して事件が発生した場合、その事件の実行犯は法的にはどう扱われるのか? これも犯罪の起訴、求刑と裁判という観点に立てば、判断論拠をどう押さえていくのかと言う点で、関心の高まるところである。
 人の心をコントロールするのは立派な犯罪だろう。しかし、マインドコントロールを行った側の存在の立証、その被疑者を起訴するには、どういう条件が必要となるのか? 
 マインドという目に見えない局面を本当に操ることが可能なのか・・・・。それを立証できるのか? この接点をテーマとしたこの小説の特異さがある。

 マインドコントロールはどのような方法でなされたのか? それは本書を開いて読み進めてみてほしい。
 碓氷自身がマインドコントロールの対象とされてしまい、事後的にそれに気づいた藤森紗英が、碓氷にそれを気づかせ、コントロール除去を施すのだから、おもしろい展開が組み込まれている。
 心理専門家同士が対峙するという設定がストーリー展開の中に組み込まれていて、人間の心理構造についての知識情報が副産物となっていて興味深い部分もある。

 マインドコントロールの下にあった事件の犯人が逮捕されたとして、それら犯人を起訴するに当たって、どういう位置づけとなるのか? この小説の最終段階で、碓氷ら刑事達が論議する会話に登場するキーワードを羅列してみる。こういう犯罪関連用語がどういう文脈で使われるかということをこの小説で認識するのもまた、興味深い副産物だと思う。 こんな用語が出てくる。自殺教唆、殺人の間接正犯、殺人の教唆犯、心神喪失、心神耗弱、実行犯、情状酌量の余地などである。

 普段普通に生活している精神的に正常な健常者の心の奥深くに潜む異常性、狂気と願望。マインドコントロールを無意識のうちに受け、己の心のタガが解き放されたとしたら・・・・・実に恐ろしい状況設定である。興味津々と読み進めて行く中で、ストーリーに紆余曲折があっておもしろい。碓氷と藤森紗英、いいコンビである。心理調査官として自信を深め、しかし謙虚さを失わない紗英、一段成長した紗英がこの小説では描かれていて楽しめる。

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この作品に出てくる用語など関連事項と本書とは直接関係はないが、関心が波及した事項も含めて、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
Q. 心神喪失又は心神耗弱とは何ですか。 裁判手続 刑事事件Q&A :「裁判所」
心神喪失  :「コトバンク」
責任能力  :ウィキペディア
マインドコントロール  :ウィキペディア

マインドコントロールは簡単でした無意識に人を操る8つの方法 :「TTHE CHANGE」
あなたも注意! 「マインド・コントロール」や「洗脳」の行われ方 :「スピリィ」
マインドコントロールを解く方法  :「レジデント初期研修用資料」

カウンセリング  :ウィキペディア
臨床心理学    :ウィキペディア
日本心理臨床学会 ホームページ
日本臨床心理学会 ホームページ
深層心理学  :ウィキペディア
自我  :「コトバンク」
精神分析学って、なに?  :「カウンセリングルームアクト」
イド、自我、超自我  :「心理学基礎用語」

催眠の表と裏
催眠の「本質」を理解すると、何故だか人生はあなたの思い通りに
癖や仕草でわかる深層心理・性格  :「NAVERまとめ」
おもしろ画像心理テスト集   :「NAVERまとめ」

マインド・コントロールと間接正犯(前編)  :「ゆるふわ刑法ブログ」
マインド・コントロールと間接正犯(後編)  :「ゆるふわ刑法ブログ」

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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『わが名はオズヌ』 小学館
『マル暴甘糟』 実業之日本社
『精鋭』 朝日新聞出版
『バトル・ダーク ボディーガード工藤兵悟3』 ハルキ文庫
『東京ベイエリア分署 硝子の殺人者』 ハルキ文庫
『波濤の牙 海上保安庁特殊救難隊』 ハルキ文庫
『チェイス・ゲーム ボディーガード工藤兵悟2』 ハルキ文庫
『襲撃』  徳間文庫
『アキハバラ』  中公文庫
『パラレル』  中公文庫
『軌跡』  角川文庫
『ペトロ』 中央公論新社
『自覚 隠蔽捜査 5.5』  新潮社
『捜査組曲 東京湾臨海署安曇班』  角川春樹事務所
『廉恥 警視庁強行犯係・樋口顕』  幻冬舎
『闇の争覇 歌舞伎町特別診療所』  徳間文庫

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新4版 (45冊)



『最後の晩餐の暗号』 ハビエル・シェラ  イースト・プレス

2015-12-25 10:29:25 | レビュー
 イタリアのミラノにサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院および教会がある。その修道院の食堂に、レオナルド・ダ・ヴィンチ(以下、レオナルドと略す)の有名な「最後の晩餐」が壁画として描かれている。
 壁画は通常、フレスコ画という技法で描かれてきたが、この「最後の晩餐」はなぜかテンペラ画という技法でレオナルドは描いた。壁画には適さない技法なのに、なぜそれを承知でこの技法を使ったのか? 事実、壁画が完成してから20年足らずで、顔料の剥離が進行し、壁画が劣化していたという。それ以降に度重なる修復や書き足しがなされたようだが、最終的に1977年から1999年にかけ、20世紀の大修復作業が行われた。
このテンペラ画という技法を使ったことにも、レオナルドの重要な意図が秘められていたのだという見方をこの小説の展開に著者は組み込んでいる。この小説では「乾式法 ア・セッコという、なぜそんな方法でと物議を醸した、とても傷みやすい技法で描かれいることもあって」(p364)と記述されているのがこれに相当するのだろう。なかなか巧みなレオナルドの戦略的発想だと思わせ、説得力がある。

 2002年にミラノに旅行した折、事前に見学を予約しておいた。少し早い目に出かけ、予約時間どおりに、限られた人数の見学群の中に加わり、限られた時間枠でしかなかったが見学できた。ひととき静かに「最後の晩餐」を眺めることができたのは、懐かしい思い出である。

 このタイトルを見て、すぐに読む気になった。スペイン生まれ、スペインで活躍するという。私は初めて知った作家である。翻訳出版されたのが今年、2015年3月である。その時点では、気づかなかった。ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』が2003年に発表され、2004年5月には翻訳が出版されている。一方、この『最後の晩餐の暗号』は2004年に刊行されていたのだ。「スペインで2004年に刊行されるや大ベストセラーとなり、その後世界40カ国以上で出版されて発行部数は200万部をゆうに突破、スペイン文学としてはまれに見る国際的成功を収めた」(訳者あとがき)という。著者の「謝辞」を読むと、この作品を書くために3年の歳月をかけて調査研究して執筆したと記されているので、ダン・ブラウンと同時期にレオナルド・ダ・ヴィンチとその作品を小説の題材に取り上げていたことになる。

 この小説のまず興味深いところは、神のしもべ、アゴスティーノ・レイレ(以下、アゴスティーノと略す)が晩年に書き綴った回想録という形式で語られていることである。彼はどこに居るのか。アゴスティーノはエジプトのナイルの大河からそう離れていないジャバル・アル・ターリフと呼ばれる洞窟群の一隅に居る。そこは1945年にエジプトのコプト語で書かれた失われた福音書『ナグ・ハマディ文書』が発見されたとされるくぼみから僅か数十メートルほどしか離れていなかった場所である。アゴスティーノは1526年8月に洞穴の場所で死去する。失われた福音書がほんの近くに存在したことも知らずに・・・・。
 なぜ、ローマから遠く離れた辺境の地でアゴスティーノは死ぬに至ったのか? この回想録として描かれるプロセスが、アゴスティーノ・レイレ神父がなぜこの生き様を選択したかの謎解きにもなっていく。

 この小説は、レオナルドが「最後の晩餐」をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描いているその制作過程と同時進行で描かれて行く。「最後の晩餐」にどのような悪魔的意味が描き込まれようとしているかという暗号の解読、謎解きにある。その目的は「最後の晩餐」の完成を阻止せんとすることなのだ。その渦中にアゴスティーノ神父が投げ込まれる。
 アゴスティーノ神父は、ローマにいた若い頃、特権的な暮らしをしていた。ベタニア団という教皇庁の秘密諜報組織の一員であり、異端審問官だったのだ。アゴスティーノは、ドミニコ修道会の第35代総長であるジョアッキーノ・トッリアーニ師の指示を受けて、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に描かれつつある「最後の晩餐」に関わる計画を阻止するために派遣される。それは、<予言者>と名乗る匿名の手紙がトッリアーニ総長に頻繁に送られて来たことに端を発していたのである。
 イル・モーロと呼ばれるミラノ大公(=ルドヴィーコ・スフォルツァ)が、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂に、「最後の晩餐」を描くようにレオナルドに依頼する。<予言者>は、イル・モーロが、レオナルドに「最後の晩餐」という芸術作品を描かせて、教会に対する魔術をかけようとしているというのである。芸術作品の根本は科学そのものでああり、「ひそかに隠したある種の暗号に従ってつくられた作品には宇宙の力が宿るようになり」(p31)芸術作品は武器になるというのだ。<予言者>はレオナルドが教会並びに信仰を破壊する暗号を描き込もうとしていると告げてきているのである。
 レオナルド自身が、壁画を描きながら弟子に、秘密がここにあると語る。
 一方、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の院長であるヴィチェンツォ・バンデッロ神父自身が、描かれつつある「最後の晩餐」を眺めて、聖書に記される内容と相違する箇所をいくつも見出し、ある種の恐れを抱いているのだった。

 トッリアーニ総長に<予言者>から送られてきた直近の手紙には、ミラノ大公妃の死について書かれていて、それは大公妃の死去する3日前に投函されていたものなのだ。さらに、予言者の手紙には謎の七行詩が記されていた。
 
   目を数えろ
   だが顔を見るな
   わが名の数は
   側面で見つかるだろう
   よく観察せよ、そして他者に
   われらの観察の結果を知らしめよ
               真実

 ベタニア団では、レオナルドが一見敬虔に見える作品に異端的なアイデアを忍ばせる傾向があることをすでにつかんでいるし、レオナルドがイル・モーロの考え方に共感しそうな芸術家とにらんでいるというのである。
 この最新の手紙と七行詩が、アゴスティーノをミラノに赴かせ、「最後の晩餐」の暗号解明という困難な作業に追い込むことになる。そして、結果的にそのプロセスが、異端審問官アゴスティーノ神父の生き様を変えさせる動因ともなる。

 この謎の解明プロセスには、アゴスティーノにとっていくつかの課題がある。
 1. 予言者とは誰なのか? 如何にして予言者を発見するか。
 2. 「最後の晩餐」に秘められた暗号の解明という目的を修道院の修道士たちに気づかれることなく、どのように進めて行けるか。ベタニア団からの派遣ということを知られてはならないのだ。あくまで異端審問官であるということまでの身分開示である。
 3. 謎の七行詩を手がかりにして、「最後の晩餐」の絵に秘められつつあるという暗号を解明しなければならない。他に手がかりとなるものはないかの探索から始まる。

 結び目という象徴、暗号解読法ゲマトリア、異端の書『新黙示録』、ギリシャ人の発明した<記憶の宮殿>という記憶術、大公妃ドンナ・ベアトリーチェのタロットカード、十二使徒の特徴を示すリスト、キリスト教世界の正統派と異端派、図像学などがさまざまに組み合わされ、謎解きに援用されていく。興味深い進展となる。

 ダン・ブラウン著の『ダ・ヴィンチ・コード』は、ラングドン教授が宗教象徴学の視点から、暗号解読官ソフィー・ヌヴオーとともに、事件の解明にあたる。現代という時点から、「モナ・リザ」「岩窟の聖母」「ウィトルウィウス的人体図」なそ、レオナルドの絵画に潜む謎に導かれていく。そして「最後の晩餐」に秘められた暗号も登場してくるが、このストーリーの中では「聖杯」についての暗号の読み解きという形に展開されていく。 「最後の晩餐」に秘められた意図の読み解きが全く異なる展開になるというのも、実におもしろいところである。

 手許の『ダ・ヴインチ・コード』を改めて開き、「最後の晩餐」に触れている箇所をスキャンしてみたのだが、このストーリーの中では、宗教史学者ティービングの発言として、「最後の晩餐」はフレスコ画と記され、ソフィーも「歴史上最も有名なフレスコ画である<最後の晩餐>を見つめた。(下巻 p332)と翻訳されている。原文がそういう記述なのだろう。そうすると、ダン・ブラウンはフレスコ画とテンペラ画を識別していなかったということなのか? あるいは意図的に、壁画ならにフレスコ画と思いがちな普通の一般通念のレベルで場面の会話を作っているだけなのだろうか・・・・。この小説を読んでいるときは、全く気にせずに読み進めていた自分に気づいた次第でもある。

 本書の著者は、「最後の晩餐」に秘められた暗号解読を「最後の晩餐」制作過程での同進行のストーリーとして描き出したので、具体的に識別した上で、この技法自体を上記のごとく、レオナルドの意識的な選択での構想に展開しているのだ。実に興味深いところである。

 最後に、本書の副産物として、レオナルドの生きていた時代の背景が具体的に見えて来ることが興味深い。「敵対する異文化がぶつかり合う激動の時代だった。15世紀にわたって蓄積されたキリスト教文化が、東方からどっと流れ込んできた新たな概念によって脆くも崩れ去ろうとしていた、流砂地獄のさなかにあった。」「キリスト教世界は混乱期にあった」(p13)と冒頭に出てくるが、これが具体的な時代背景として描き込まれていく。
 
 ご一読ありがとうございます。

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この作品に関連する語句などをネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ルドヴィーコ・イル・モーロ  :「歴史人物辞典」
スフォルツァ家        :「歴史人物辞典」
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(ミラノ)  :ウィキペディア
ヴェッキオ宮殿  :ウィキペディア
レオナルド・ダ・ヴィンチ  :ウィキペディア
最後の晩餐(レオナルド)  :ウィキペディア
東方三博士の礼拝  :「Salvastyle.com」
岩窟の聖母 ルーブル版        :「Salvastyle.com」
岩窟の聖母 ナショナル・ギャラリー版 :「Salvastyle.com」
ミラノ貴婦人の肖像  :ウィキペディア
受胎告知 ダヴィンチ  :「有名な絵画・画家」
ドミニコ会   :ウィキペディア
ドミニコの生涯 :「説教者兄弟会カナダ管区」
フランシスコ会 :ウィキペディア
異端審問  :ウィキペディア
魔女狩りと異端審問の歴史
ゲマトリア :「新・世界の裏窓」
マルシリオ・フィチーノ  :ウィキペディア
ピントゥリッキオ :ウィキペディア
西洋神秘伝統の歴史  :「IMN」
異端カタリ派 :「ヴォイニッチ手稿」

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『若冲』 澤田瞳子  文藝春秋

2015-12-22 09:47:30 | レビュー
 平成10年(1998)に「京の絵師は百花繚乱」(京都文化博物館)というタイトルの展覧会があった。京の都はまさに様々な絵師が様々な画風・技法・技巧で競ってきた場である。数多の絵師の中で、江戸時代にあって、個性的な絵を描き続けた若冲は心惹かれる絵師の一人である。手許の図録を見ると、このとき「白鶴図」「雪中遊禽図」「鶏図」が出品されていた。最初の2作品は、この小説のストーリー中でも触れられている。
 若冲の絵を鑑賞することが中心で、若冲がどんな人物だったのか、史実に基づく伝記は読んだことがない。出版されているかどうかも調べていない。美術館・博物館での若冲に関わる展覧会を幾度か鑑賞してきた折に、会場の解説文を読んできた程度。
 そこで、連作短編小説として作品化されたこの本を知り、関心を抱き読んでみた。本書は2015年4月に出版されている。この小説に関連する事項をネット検索していて、この小説が第153回直木賞候補作品になっていたことを事後的に知った。

 一言でいえば、一気に読み進め、読み応えがあった。ここに描かれた若冲像に徐々に引き込まれて行き、連作の最後の二作品では感情移入していた。感情移入して読み終えた小説は久しぶりである。

 この小説を読むとき、2000年に京都国立博物館で開催された「特別展覧会 没後200年 若冲」の図録も書棚から久しぶりに引き出した。時折関連する若冲の絵を参照しつつ読み進めた。

そのときの図録がこれ。
 若冲の作品をいくつか加えた展覧会はいくつも見ている。若冲作品だけに的を絞った展覧会は、私の見た範囲では、2007年に相国寺承天閣美術館で開催された「開基足利義満600年忌記念 若冲展」がもう一つ。その図録の内表紙を改めてみると、「釈迦三尊像と動植綵絵 120年ぶりの再会」と記されている。こちらも久しぶりに眺める。

 この小説は、錦高倉市場の青物問屋枡源の長男・源左衞門(後の若冲)が40歳になった春、絵を描いている場面から始まる。手許にある図録には、若冲に一時期とはいえ妻が居たという記述はない。「かれは生涯、独身を貫いた」という記述はある(上掲図録)。 この小説は、8年前に土蔵で首を吊って死んだ源左衛門の妻・お三輪の存在という設定になっている。枡源の主としてお三輪を妻とした2年後に、お三輪が自殺したという。その弟が弁蔵であり、弁蔵は枡源に奉公していたが、お三輪の死後、玉屋に奉公先を変えている。彼は姉に対する枡源の人々の仕打ちと源左衛門に恨みを抱き続ける。源左衛門は義理の妹・お志乃と弁蔵を夫婦とし、枡源の跡を継がせる考えを実行しようとする。しかしそれが、逆に弁蔵の心を逆なでし、油に火を注ぐことになるのだ。弁蔵は、源左衛門の絵なぞ糞食らえ、源左衛門より秀でた技量を修得し見返してやると、出奔する。

 この小説は、若冲がお三輪を死なせたことで原罪意識を心中に深く蔵し、己の絵の世界へ没入していくというスタンスが原点になっている。その視点で若冲の作品が絵解きされ、若冲の生き様が描きこまれて行く。お志乃を義理の妹というのは、先代源左衛門が枡源出入りの百姓の娘に手を付けて生ませた子、妾の子なのだ。お志乃が十代の秋に母が流行風邪で死去、先代が亡くなっているのに、叔父夫妻が姪のお志乃を枡源に押し付けたのだ。お志乃の枡源における居場所は、お三輪亡き後、独身のままで絵を描くことに没頭する源左衛門の身近にしかない。源左衛門が絵を描くのに必要な膠を煮て顔料を準備するなど、身近な世話である。つまり、若冲の挙措を一番身近に感じ、若冲の思いを斟酌できる観察者的存在となっていく。
 一方、弁蔵は絵師の世界に飛び込み、若冲を主にしながら有名画家の贋作を得手とし、それを生業とする絵師となる。市川君圭と名乗る。そして若冲流の絵を描いて、若冲の技量を超えようと対峙する。ある時点から、若冲の描く絵に対し、市川君圭の絵が若冲の眼前に現れる。若冲と君圭、二人の男の長年の相剋が生まれていくのである。
 これが事実に基づくのか、史実の隙間を著者の想像力が織りなした創作であるのかは、私にはわからない。しかし、ネット検索してみると、市川君圭という絵師は実在人物のようだ。勿論、若冲作品の展覧会でこの絵師の名前に触れられてるのを見た記憶が無い。
 実に興味深い設定のストーリー構成になっている。若冲に妹がいたことは、上掲図録にも出てくる。ただし、「妹」という語のみなのだが・・・。
 
 本書の構成は、基本的には一つの短編小説が、若冲の特定の作品を背景にして描かれている。そこに著者流の絵の解釈、絵解きという趣向を織り交ぜながら、若冲の生涯のあるステージを描き出し、連作の形で語っていくという設定である。若冲の生き方、有り様を語る黒子的役割をお志乃がになっていくという構想のように理解した。この点も、私には興味深い側面である。
 各短編を追いながら、読後印象をまとめ、ご紹介したい。上掲図録を参考に、直接関連する若冲の作品を題名に併記してみた。

【 鳴鶴 】 文正筆「鳴鶴図」、その写し「白鶴図」 双幅、「雪中遊禽図」 一幅
 冒頭に触れてきた若冲40歳の背景状況が語られていく。この小説では、お志乃の質問を受けて、若冲が狩野探幽の高弟・鶴沢探山の弟子にあたる青木左衛門に半年ほど最初に絵を習ったと答えている。上掲2冊の図録には、大坂の在野の狩野派画人・大岡春卜に最初に就いたのではないかと推定されている。調べて見ると、近年京狩野鶴沢派の青木左衛門言明という写生を得意とした画家についたという説があるようだ。著者はこちらの説を取り入れている。若冲研究が進展しているということなのだろう。若冲の心奧、若冲と弁蔵の桎梏の始まりが描かれる。
 
【 芭蕉の夢 】 鹿苑寺大書院障壁画 宝暦9年(1759)
            「竹図」(狭屋之間)襖四面、「葡萄図」 襖四面
            「芭蕉に叭々鳥図」 襖四面 ほか
 枡源の家督を弟に譲った若冲は帯屋町の隠居所で描絵三昧の生活に入る。大典和尚は、池大雅を若冲に引き合わす一方、若冲に鹿苑寺(金閣寺)大書院の障壁画を描けという。大典和尚の恩に報いるための若冲の新たな挑戦が描かれる。
 隠居所を訪れた池大雅に同行を頼まれ、内裏に行き、後に「宝暦事件」と呼ばれる騒動で蟄居中の裏松光世に引き合わされる。そこで、市川君圭の描く若冲「鴛鴦図」の贋作を見せられることに。一方で、裏松光世と彼の弟・日野資枝との桎梏の深さを知る。
 絵を介して、若冲が弁蔵に対峙しなければならないという現実が始まる。
 
【 栗ふたつ 】 動植綵絵 宝暦8年(1758)~明和3年(1766) 三十幅
 枡源の三男・新三郎の病死とお志乃への縁談話、そして円山佐源太(後の応挙)の若き時代を描くエピソード話を綴る。弟・新三郎の死が契機となり、枡源と若冲との間が絶縁状態に発展する。そして若冲は重大な決意をする。その結果、「動植綵絵」と大典和尚が名づけた一連の若冲筆の絵が相国寺に喜捨される原因になる。
 一方、お志乃は五条問屋町の明石屋半次郎に嫁ぐことになる。
 後でふりかえると、若冲のこの心境の変転あたりから、この小説への感情移入が進んでいったように思う。これはあくまで連作として読み通した場合の作用が大きい。

【 つくも神 】 付喪神図(つくもがみず) 50代後半の制作との推定 紙本墨画
 3年前に『平安人物志』が刊行され、画家の項で若冲が大西酔月、円山応挙に次ぐ第三座を得たということに触れた記述から始まる。この時の『平安人物志』は明和5年(1768)出版なので、明和8年、若冲56歳。
 明石屋半次郎を筆頭とした五条問屋町の店々が、東町奉行所に錦高倉市場の営業差し止めを願い出るという騒動が起こる。隠居の身である若冲が帯屋町の町年寄とならざるを得なくなり、この錦高倉市場の存続問題にかかわっていく。このとき上坂してきていた江戸幕府の勘定所の下役中井清太夫の助力を得ることになる。若冲の人生において中井が要所で関わるというストーリー展開は、著者の想像力の産物かもしれないが、なかなかおもしろい設定になっている。
 付喪神図という作品の絵解きとして興味をそそられる。
 一方で、お志乃は離縁され、再び若冲の許に身を寄せる。

【 雨月 】 果蔬涅槃図  紙本墨画
 お志乃は卒中で倒れた義母・お清の世話をする立場になっていく。病人のたっての望みだという。枡源(本家)を弟に譲り、絶縁状態の若冲は、実母・お清との確執が心にある。妹・お志乃の行為を「物好きやなあ」と傍観する。このあたり、若冲という人物の生き様が出ているのか。
 この章では、若冲が斗米庵という別号を使い、深草にある石峰寺(せきほうじ)に五百羅漢石像の建立発願、与謝蕪村の晩年の子・おくのをきっかけにした蕪村と若冲の出会い、がある。
 六匁の代金で依頼された三十三回忌追善の絵を若冲が引き受ける。若冲の母お清の死は、若冲が仕上げた絵の絵解きという形のエピソードに連動していき、興味深い解釈と感じる。
 上掲図録の作品解説によると、「果蔬涅槃図」について、佐藤康宏氏が、安永8年(1779)の母の死が契機となって若冲がこの絵を描いたという説を呈しておられるようだ。著者はこの見方を踏まえて描き込んでいるのだろう。

【 まだら蓮 】 蓮池図 (旧襖六面)、仙人掌群鶏図 襖六面  西福寺蔵
 天明8年(1788)正月晦日、五条北の団栗辻子界隈から発生した火災が蔓延し、京都大火となる。団栗焼けとも言われるこの天明の大火により、若冲の居宅、相国寺、枡源も焼亡する。若冲の生活環境が激変していく。若冲は火事の中、弟子の若演に助けられる一方、若演は逆に火災の犠牲になる。若演の行方を捜す過程で、若冲は恨みを抱き続ける市川君圭に遭遇する。市川君圭は赤子を抱き、行方の解らぬ妻捜しをしていたのだ。そして、若冲は彼の赤子を押しつけられる羽目になる。
 火災に遭遇した後の若冲の生き方、市川君圭の生き方が描かれていく。錦高倉界隈から離れることの無かった若冲が、摂津国豊島の西福寺の障壁画を描くために赴く。また深草の石峰寺が寄寓先となっていく。
 己のために絵を描き、描いた絵が金を生むという立場から、73歳になって暮らしのために絵を描くという立場への転変・・・・。若冲と市川君圭の対比という形で描かれていくところに、深い意味が込められているように思う。  

【 鳥獣楽土 】 白象群獣図 一面 紙本墨画淡彩 (制作年次不詳)
 この章に若冲という号の由来が記されている。枡源の長男源左衛門が弟に家督を譲り、主を退くと決意したときに、相国寺の大典和尚が『老子』第45章にある「大盈(たいえい)は沖(むな)しきが若(ごと)きも、その用は窮まらず」(満ち足りたものは一見空虚と見えるが、その用途は無窮である)という一節から、「若冲」と付けたという。「冲」は「沖」という字の俗字であるそうだ。
 その裏付けは、上記図録に掲載の狩野博幸氏「伊藤若冲について」に説明がある。
 
 天明の大火から復興の進む京の町に祇園会が巡ってくる。前年に若冲は碁盤の目の上に、白象と獅子を二枚折り屏風として描くという新画法の試みをしていた。それが宵山の屏風祭で、金忠の店先を飾り、評判を取ったのだ。それを今年、若冲は素直な8歳の少年に育っている晋蔵を連れて見に出かける。だが、その見物は、谷文五郎(後の谷文晁)という武士で画人の三十男との出会いであり、彼がスケッチしてきた画図から、再び市川君圭との確執復活となる。若冲の新画法をベースにして、六曲一双の屏風絵で挑戦してきたのだ。このショッキングな場面展開が鮮やかにストーリー展開していく。これを裏付ける話があるのか著者の想像力が織り込んだフィクションなのかは不明だが、小説としてはダイナミックに展開し、若冲の最晩年の対決意欲を盛り上げている。この章から最終章にかけて、私は特に引きこまれ、感情移入して行く結果となった。
 巧みなストーリー展開であり、読ませどころとなっている。

 上記図録には、「樹下鳥獣図屏風」六曲一双(静岡県立美術館蔵)と、「鳥獣花木図屏風」六曲一双(エツコ・ジョウ プライス コレクション蔵)が掲載されている。しかし、その作者については様々な論議がなされているようだ。

【 日隠れ 】 石燈図屏風 六曲一双 文化庁蔵
 若冲が深草の石峰寺で没した後の四十九日法要の場面を中心にして、クライマックスとなる。場所は相国寺鹿苑院。この場面の主な登場人物は、導師役の大典和尚の侍香(じこう)に任ぜられた明復、お志乃、玉屋の隠居・伊右衞門、金田忠兵衛、谷文五郎(文晁)、中井清太夫である。最後の最後に、市川君圭が登場する。
 中井清太夫という具眼の士とその卓見を組み込むところがおもしろく、興味深い。
 お志乃が若冲の心のうちを顧みて思いを整理する姿が描かれる。お志乃はこの小説では、若冲の心の代弁者という役割をも終始担っていていた。若冲の黒子に徹した存在、いぶし銀のような存在である。そしてラスト・シーン。市川君圭と画人・谷文晁の交わす対話がその読み応えを増幅していくように思った。
 ほっとさせるエンディングでもある。

 この小説の文に記述はないが、上掲図録によれば、伊藤若冲が没したのは寛政12年(1800)9月8日あるいは10日という。前者は『参暇寮日記』・「喝名」に記録され、後者は相国寺祖塔過去帳・宝蔵寺過去帳に記録されている日付という。伏見深草にある石峰寺に土葬されたそうだ。

 最後に、印象深い記述のいくつかを引用し、ご紹介しておこう。自分のための覚書でもある。

*お前は--お前はわしという画人そのものやったんやな。そうや、君圭、お前がわしを絵師にしたんや。  p288
*お前の絵はすべて、己のためだけのもの。そない独りよがりの絵なんぞ、わしは大嫌いじゃ。  p293
*絵師とは、人の心の影子。そして絵はこの憂き世に暮らす者を励まし、生の喜びを謳うもの。いわば人の世を照らす日月なんやで。 p294
*生の輝きは、絶望の淵の底より仰ぎ見てこそ、最も眩しく映る。そう、光り満ち、花咲き乱れるあの鳥獣の国は、決して贖えぬ罪を犯し、孤独に老い朽ちた若冲だからこそ描きえた、哀しき幻の世界。  p320
*中井さまのお言葉、ごもっともどす。そやけど、兄さんの絵についてとやかく言うてええんは、うちでも中井さまでもなく、当の兄さん一人なんと違いますやろか。 p332
*それは所詮、若冲の生きた意味、絵を描き続けた意味を知らぬ者の語る由なし事。どれだけ懸命に思いを巡らせたとて、彼らが若冲の--そして君圭の胸裏に迫ることは叶うまい。  p333
*人の心というのは、誰であれどっか薄汚れて欠けのあるもんどす。・・・・美しいがゆえに醜く、醜いがゆえに美しい、そないな人の心によう似てますのや。そやから世間のお人はみな知らず知らず、若冲はんの絵に心惹かれはるんやないですやろか。  p353

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本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておいたい。
伊藤若冲  :ウィキペディア
あの人の人生を知ろう~伊藤若冲  :「文芸ジャンキー・パラダイス」
伊藤若冲プロフィール  :「古美術 景和」
大岡春卜  :ウィキペディア
鶴澤探山  :ウィキペディア
池大雅   :ウィキペディア
池大雅   :「京都大学電子図書館」
円山応挙  :「コトバンク」
円山応挙について :「大乗寺 円山派デジタルミュージアム」
市川君圭 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
張 月樵  :ウィキペディア

伊藤若冲の作品画像コレクション  :「NAVERまとめ」
『平安人物志』  :「日本文化研究センター」
  上辺にある明和5年版の項をクリックして、26-27ページを開くと、画家の3人目に「滕汝鈞 字 景和 号 若冲」として載っています。

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店




『海と月の迷路』  大沢在昌  毎日新聞社

2015-12-19 09:16:57 | レビュー
 長崎県の端島は通称「軍艦島」と呼ばれる。1974年(昭和49)に閉山となったが、明治から昭和にかけては海底炭鉱の拠点だった。今年2015年、世界文化遺産の登録をめぐり様々な論議があった。結果的に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素の一つとして、この軍艦島が内包された形で世界文化遺産に登録されている。
 この作品は、連絡船が来なければ海の中に孤立した空間であるN県H島を設定し、そこでの事件を扱う警察小説である。その島のモデルが「軍艦島」なのだ。著者は「後記」として、この小説が著者の想像の産物であり架空のものであると記している。

 平成7年3月、18歳でN県警察に奉職し、N県警察学校校長で、四十余年の警察官人生に別れを告げようとしている荒巻正史警視の若かりし頃の回顧談という形をとった小説である。
 退職送別会の終盤で、要職にある警察官の多くが中座し退席した後、30人近い人間が席を立とうとしない。警察官になった人間には捜査のことが未だ何ひとつわかっていない時代がある。「誰だってそういう時代がある。失敗や試行錯誤をくりかえして一人前になっていく。ただ警察官には、許される失敗と許されない失敗がある。そこを常に考えて仕事にあたらなければならない」と荒巻が発言したことで、N県警刑事部長の遠山警視正が、荒巻にその宴席に残った若い警察官たちに荒巻のH島での話をしてやって欲しいと懇請する。荒巻は、わずかに顔をゆがめ、後悔と追憶が混じり切なげにすら見える表情を浮かべる。
 遠山「他ではしとらんでしょう」
 荒巻「しとらんね。忘れたわけではなし、忘れようとしても忘られんことだしね」
 そして、荒巻は36年前、荒巻24歳のときH島派出所勤務に赴任した当初の経験を語り始める。1960年頃の話として語られる。それがこの小説である。エピローグで荒巻はいう。事件は解決したのだが、若気の至りとはいえ、何もかもひとりでおこなおうとした結果が招いた事実として、自分にとっては忘れられない失敗だと。

 H島は海底炭鉱の拠点として順次周囲を埋め立てて規模を拡大して行った結果、外観が軍艦のように見える形となった島である。荒巻が赴任した当時、5,000人程の人がその小さな島に住んでいた。H島に住む人は、すべて何らかの形で島の地下数千メートル以上に掘られた炭鉱からの採炭に関わる存在だった。一企業が運営するこの炭鉱業に関わって、小さい島に一つの都市機能がすべて凝縮しているのである。
 鉱山会社の炭鉱施設。鉱長用木造二階建一軒家。木造の社宅、低階層コンクリート製の社員用社宅がある。職員は130人。鉱員約1,400人とその家族が住む五、六階建てコンクリート製のアパート群、鉱山の周辺業務に携わる下請の組夫の住むアパート、そしてそこに、郵便局、共同浴場、商店街・食堂、映画館・麻雀荘・スナックなどの娯楽設備、そして小・中学校の校舎・体育館・運動場・プール、神社・寺・病院施設と隔離病棟などが凝集している。病院や体育館まで入れると70号棟まであり、さらに下請の人々用の住宅がある島である。
 その5,000人余が住むH島に警察官の常駐は2人だけである。先人は岩本巡査であり、荒巻はそこに独身警察官として赴任する。

 警察官2人体制でいけるのは、鉱山会社に外勤という生活指導係の組織と事務所があり、島内のもめごとの大半は住民どうしの解決と外勤の担当者により解決されてしまうからなのだ。岩本巡査は赴任してきた荒巻に企業を讃美する言葉を口にする。荒巻は最初それを奇妙に感じる。岩本巡査はあまり警察官の出番はないという。外勤事務所との連絡を密にしているのだ。

 そんな環境の中で、岩本巡査の妻・千枝子は島の子供たちのために書道教室をやっている。その教室の生徒の一人、浜野ケイ子が行方不明となる。千枝子夫人の体調が悪くていつもより30分ほど早く教室を切り上げて終えた日、帰りづらくしていたケイ子の行方が知れなくなるのだ。勿論、外勤担当者や居住区の人などが手分けしてくまなく島中を捜索したが発見出来なかった。島に魚の干物の行商に来た漁師夫妻が来る途中で偶然に土左衛門を引き揚げた。それが浜野ケイ子の遺体だった。病院の若い外科医師が岩本巡査の依頼を受け検死する。そのとき、荒巻は立ち会い、検分する。検死後のケイ子の遺体の措置を担当した看護婦がふと何事かに気づいたのだが黙ってしまうのを目にした。検死結果は事故死と判断される。
 立ち合った荒巻は後日、ケイ子の遺体の世話をした看護婦に尋ねてみる。看護婦はケイ子の髪の毛のほんのひとにぎりが切りとられていたことに気づいていたのだ。
 事故死と判断されたものの、釈然としない荒巻はケイ子の死因を一人で調べ始める。ケイ子の母親が、鉱員の父親が勤務で山に入って居る時間帯に売春をしていることがあるという噂を耳にする。ケイ子が早く帰りづらくしていたのはそれが関係しているのか。男の出入りがケイ子の死にかかわるのではないかという疑いを持つ。一方、看護婦からの聞き込みで、8年前に似たような13歳の少女の事故死(水死)があったことを知る。そして、そのことは今は島を離れて本土の市民病院の看護婦をしている人が知っているという。
 何の証拠もないところから、独りで捜査をおこなおうとする荒巻の苦闘のプロセスが展開していく。

 この作品には2つの視点があると思う。軍艦島という一鉱山会社の運営する島が一つの自治的都市機能を持ちながら、ムラ的風土を形成している特殊な環境に荒巻が投げ込まれる。荒巻が公務員・警察官という目で眺め、この島の人間関係と日常生活の構造、鉱山という組織構造、軍艦島の社会風土や暗黙の慣習・不文律の存在などを徐々に深く理解していくというプロセスである。一種社会学的視点で、軍艦島という閉じられた社会構造の複雑さが描き込まれて行く。それが事件とどういう風にかかわるかである。
 著者は想像の産物というが、かつて現実にあった軍艦島の社会構造・風土をアナロジー的に描きだしているのではないかというリアル感がある。それは必ずしも軍艦島に限らず、比較的閉ざされた本土のムラ社会にも通底していく日本の風土的側面を描いているのだと感じる。
 また、軍艦島の各種施設の配置や住宅の立地と構造、建物群のつながり状態などが、荒巻の観察として描き出される。その描写は、現在廃墟状態で存在する軍艦島の外観や建物群の映像などと重ね合わせると、想像しやすく、いっそうリアル感が強化される。

 もう一つは、まだ捜査の何たるかがわかっていない荒巻が独りで始めた捜査活動の試行錯誤、顛末、そのプロセスでの葛藤と自覚、生長を描き出すという側面である。
 検死の結果、事故死と判断され、浜野ケイ子は荼毘にふされてしまう。検死自体も綿密なものではなかった。その結果、何の証拠も残っていない。岩本巡査はあまり疑うことなく事故死で処理してしまい、この件は落着したものとするので、荒巻は相談すらできない。鉱山会社寄りのスタンスを取る岩本巡査を荒巻は頼れないのだ。
 漁師夫妻が引き揚げた土左衛門を一旦資材倉庫の一隅に移し、そこから検死のために病院に運ぶことになる。そのためのリヤカーを引いてきた組夫は、現場に呼ばれて来ていた医師に死因を尋ねる。そこに居た外勤の片桐はそれを咎めるが、組夫は海に浮かんだから溺れ死んだとは限らないと言い返す。その組夫は長谷川と名のる。後日、長谷川が荒巻に声を掛けてくる。そして、浜野ケイ子が行方不明と騒いでいた前夜が満月だったこと。満月だったことから浜野ケイ子が何者かに殺されたのかもしれないと言う。荒巻は、この長谷川自身が不審な人物に見え始める。長谷川の素性を調べ始める。
 事故死の処理手続きをした後に、荒巻の心に湧く疑問から始まる捜査は、派出所の正規の勤務外の行動とならざるを得ない。岩本巡査にも知られることなく独自にしなければならないということで、如何に時間を捻出し、何からどのように始めるか・・・・、不審な長谷川の素性もまずどのように調べるか・・・・。隠密裡に進める荒巻の私的捜査が克明に描き出されていく。試行錯誤の連続、その中で長谷川についても意外な事実が判明する。この捜査活動のやりかたのプロセスは、捜査が何たるかをしらない警察官の時代の経験談なのだ。その捜査の有り様、プロセスから、逆に荒巻が捜査について体験を通して学んでいく。このプロセスと荒巻の心理・思考の描写が興味深いし、読みどころにもなる。

 世界遺産に登録され、脚光を浴び始めえいる軍艦島なので、その写真や映像も増えていることだろう。これらの写真・映像を参照しながら、この小説を読み進めると、おもしろいかもしれない。
 
 ご一読ありがとうございます。

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軍艦島について、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
端島 (長崎県)  :ウィキペディア
軍艦島を世界遺産にする会 公式 WEB

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徒然にこの作家の小説を読んでいます。読後印象記を書き始めた以降のものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『獣眼』  徳間書店
『雨の狩人』  幻冬舎

『年表で読む 日本近現代史 増補三訂版』  渡部昇一  海竜社

2015-12-15 09:37:06 | レビュー
 歴史は勝者が書き残したもの、と言われることがある。歴史の記録として資史料に残る物はその時代にあったもののほんの一部だろう。その時その場での事実の一端が残されているにすぎない。
 その残された資史料をどう読み解くか。そこに様々な見方がでてくる。あるイズムに基づいて歴史を読み解いていくもの。例えば、唯物史観、皇国史観、実証主羲歴史学などという言葉がある。歴史をひとつの茶碗に見立てれば、真横からみるか、真上から見るか、斜め上から見るか、真下から見るか・・・・どの側面から見るかで、外形が変わって見える。手にとって見られる茶碗一つでも、ある側面に注目すると、見え方が変化する。同様に、様々な要素要因が複雑に関係した歴史を眺めるということは、一筋縄では行かない。

 本書は日本近現代史にという期間に限定した著者流の通史である。仮に「渡部史観」と称してみる。
 少し調べてみると、『年表で読む明解!日本近現代史』が2004年6月に出版されていたようだ。そして、『年表で読む日本近現代史』が2009年5月に増補改訂版として出ている。この本も出版されていることを知らなかった。「増補三訂版へのまえがき」によると、この数年間に「我々は日本史年表上、いや世界史年表上からも特記すべき、最大級の”激震”を幾つも経験した」ので、増補三訂版として、前版の最終項目のあとに「集団的自衛権 2014(平成26)」の項目までを増補して出版。「本書は十年以上前に出たものに、その後の推移の主な出来事を追加したものである」という。つまり、増補改訂版に対する本文再度の修正改訂はなくて、項目を追記しただけと推測する。
 
 本書は日本近現代史を見開き2ページで、重要な歴史事実の一項目を要約し、渡部史観で読み解くという編成である。右のページ上部に歴史事実の項目見出し、年次、著者のとらえたエッセンスのキャプションが記され、左ページ上部にその年次近傍の世界と日本の歴史的な重要事実項目が数年分記載されている。そしてその下に、見開きで1000字前後の文章、つまり渡部史観による読み解き、解説文がまとめられている。文字数が限定されているので、渡部史観でみた結論的な説明が主体となっている。具体的にそれを裏付ける事実データの類いが詳細に記されているわけではない。それ故に年表で通史として概略の歴史の流れを「渡部史観」という前提で知るには読みやすい。

 著者の立場は、「はじめに」のところに、比較的明確に記されている。理解したところを抽出要約するとこんな立場で本書がまとめられている。
*戦後の日本の読書界や教育界で支配的だった見方を批判する立場にたつ。
*戦前の日本は侵略主義・帝国主義の犯罪国家だという見方に異を唱える立場にたつ。
*「曳かれ者史観」から自由になれるように日本近現代史を編年的にまとめる。

 「曳かれ者史観」とは故・山本夏彦氏が日本左翼の史観に対して付けた呼び名のようである。上記「まえがき」に付されたキャプションは「戦後日本が失ったものを取り返す新たな時代へ」である。

 編年史としてのまとめであるが、本書は大きく三部構成になっている。その見出しをご紹介する。そこに含まれる事件(項目)の年次の最初と最後を併記しておく。
 第1部 栄光と活力に満ちた独立近代国家・日本への道  
  1.世界に並ぶ近代国家・日本の確立  1867[慶応3]~1890[明治23]
  2.北から迫る脅威に対抗した日清・日露戦争 1894-95[明治27-28]~1905[明治38]
 第2部 大正デモクラシー期の日本を覆った国際情勢の暗雲
  1.アメリカの野心とソ連の思想的脅威 1905[明治38]~1925[大正14]
  2.右翼社会主義の台頭と日米開戦、そして敗戦 1929[昭和4]~1945.8.15[昭和20]
 第3部 戦後日本の経済成長と”東京裁判コンプレックス”
  1.欺瞞だらけのGHQ統治と日米の新たな関係 1945[昭和20]~1951[昭和26]
  2.日本の生き筋はどこにあるのか 1965,1978[昭和40,53]~2014[平成26]

 この見出しが著者自身によるものか、編集協力者がかなり関与しているのかは不明だが、渡部史観の雰囲気はこの見出しの文言からも窺えるだろう。

 また、編年的な事件(項目)の中には、手許にある高校生対象の日本史年表の記載項目、並びに高等学校の学習範囲を超える箇所もあると記しけっこう詳説している日本史の学習参考書の索引語をチェックしても出てこない名称がある。それは、「桂・ハリマン仮条約 1905(明治38)」「オレンジ計画 1906(明治39)~」「右翼社会主義の台頭 1930(昭和5)~」「通州事件 1937・7(昭和12)」「企画院設立 1937・10(昭和12)」「ABCD包囲陣 1941(昭和16)~」である。
 手許の学習参考書(1998年10月ニ刷)には、ファシズムという用語説明の一環で日本での国家社会主義という表現を含む記述がある。渡部史観では右翼社会主義という表現で論じられている。年表(1991年2月改訂15版)では南京大虐殺、学習参考書では南京事件と表記されている事項が、「南京攻略 1937・12(昭和12)」という語り口になる。

 本書を通読して思うのは次の諸点である。歴史をどう読み解くかにおいて、どの事実をとりあげて論理的展開をするかが史観と連動している。歴史書には触れられないが事実として歴然と資史料に残るものが存在する。茶碗を多角的視点から見るごとく、歴史を様々な立場・史観を併読して、自分として歴史を捕らえ直さないと、特定の史観に洗脳される可能性が強い。それぞれの立場・史観をディベート的な思考材料とすることが役立ちそう。著者の特定の結論を裏付けるデータの存在、データに立ち戻って歴史的文脈とその結論を考え直すことが必要かもしれない。なぜ他の立場・史観では、ある事件(項目)に触れていないのか、その理由を考えることも重要な意味があるかもしれない。
 
 著者が取り上げた事件(項目)から、適宜その名称と、そこに記されたキャプションを抽出してご紹介してみよう。

 明治維新: 近代文明を白人の独占物にしなかった世界史初の例
 岩倉使節団: なぜ日本が西欧に追いつけたか、その謎がとける明治政府の妙案
 日朝修好条規: 朝鮮が独立国であることを謳った画期的な条約
 西南戦争: 西欧を「見なかった」西郷隆盛の悲劇
 日清戦争: 朝鮮の独立を助け、アジアを列強から守るための義戦
 アメリカの西進政策: 貪欲なフロンティア精神の次なる行き先はアジアだった
 日露戦争開戦: 元寇の悪夢の再現を恐れた祖国防衛戦争
 桂・ハリマン仮条約: アメリカの念願を叶えてやれば、日米関係はこじれなかった
 韓国統治: 莫大な持ち出しを行なって韓国の発展に努めた日本政府
 国家社会主義の台頭: ヒトラー、ムソリーニの登場は、ロシア革命の悪影響
 世界大恐慌: アメリカの暴力的法律が、日米開戦の種をまたひとつ蒔いた
 満州国建国: 日本をも凌ぐ発展を見せた五族共和の地
 通州事件: 「誤爆原因説」の嘘に抹殺されたシナ人の凶行
 南京攻略: 和解を実現させるための強硬手段
 日米開戦: 日本大使館の怠慢と無知が「奇襲攻撃」にした
 ミッドウェー海戦: 「油断大敵」の大原則を忘れ、圧勝するはずの戦闘に惨敗
 東京大空襲: 戦争の大原則を破った英米の無差別民間人殺戮
 日韓基本条約と日中平和友好条約:
        条約は過去を清算するもの、過去を謝罪するものではない
 バブル経済: バブルに浮かれても、悪くなったものは何もない
 TPPからAIIBへ: グローバル化という経済の罠が日本に襲いかかる
 
 渡部史観の躍動するこの編年的通史は、歴史を読み解くことへの刺激になる本である。なるほどと思う部分、???の部分が混在する。もう少しデータを示して・・・と思う箇所も。見開き2ページでは無理な話なのだが。
 いずれにしても、上記項目のキャプション事例は、その読み解きかたは如何なるものかに、関心を引かれるのではないでしょうか。賛同するにしろ、反論するにしろ・・・・。

 最後に、この増補三訂版での2009年以降の項目名を列挙しておこう。何が取り上げられているかも、直近の歴史を考える材料になるだろう。
「民主党による政権奪取 2009」「尖閣問題 2010」「東日本大震災 2011」「自民党による政権奪回 2012」「TPPからAIIBへ 2013~2014」「日本人のノーベル賞受賞 2012,2014」「日韓関係悪化 2013、2014」「集団的自衛権 2014」

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本書に関連して、ネット検索したものを一覧にしておきたい。
唯物史観  :ウィキペディア
唯物史観  :「コトバンク」
唯物史観について考える  豊島成彦氏  :「松下政経塾」
皇国史観  :ウィキペディア
誤った戦争観と「皇国史観」による歴史教科書  上杉 聰 氏
皇国史観を批判する  :「隠された事実」
実証主義歴史学 :「コトバンク」
THE NANKING MASSACRE: Fact Versus Fiction
   CHAPTER 1: THE ROAD TO THE CAPTURE OF NANKING
通州事件  :ウィキペディア
通州事件の惨劇 (Sさんの体験談) :「徳島の保守」
惨! 津州事件  :「電脳日本の歴史研究会」
忘れ去られる通州事件 :YouTube
南京事件-日中戦争 小さな資料集  :「ゆうのページ」
南京事件資料集
南京事件論争史
南京大虐殺証拠写真を検証する 2007年9月29日 【拡散】 :YouTube
南京~つくられた”大虐殺”【シリーズ南京事件①】 :YouTube
南京大虐殺と原爆投下【シリーズ南京事件②】   :YouTube
【衝撃!証言】南京大虐殺は無かった!『南京の真実・第二部』製作へ[桜H27/3/28]
真珠湾攻撃   :ウィキペディア
パールハーバーの誤算(1)  :「産経WEST」
パールハーバーの誤算(2)  :「産経WEST」
東京裁判史観
東京裁判の正体  :「Kolia」
東京裁判 vol1/4 (極東国際軍事裁判)  :YouTube
東京裁判 vol2/4 (極東国際軍事裁判)  :YouTube
東京裁判 vol3/4 (極東国際軍事裁判)  :YouTube
東京裁判 vol4/4 (極東国際軍事裁判)  :YouTube
「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判知られざる攻防~ 」What Did Justice Radhabinod Pal Ask Tokyo Trial, Unknown Battles   :YouTube
反日・自虐史観を排した歴史年表

史料閲覧室  :「防衛省 防衛研究所」

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『ねこたち 猪熊弦一郎 猫画集』  企画・編集 ilove.cat  リトルモア

2015-12-11 17:39:11 | レビュー
 最初、表紙の題名とおもしろいねこの絵に興味を惹かれ絵本かなと手に取ってみた。表紙下辺に猪熊弦一郎猫画集としてあったので、画集なのかと思った次第。絵画の美術展はよく出かける方なのだが、この画家は寡聞にして知らなかった。この本を手にとって、私には初めて出会えた画家である。
 関西に住む私は見たことがないのだが、東京の上野駅改札口の上に描かれた絵画が猪熊弦一郎の作品「自由」だという。

 奥書を見ると、香川県のJR丸亀駅前に駅前美術館として「丸亀市猪熊弦一郎現代美術館」が1991年に開館されているという。猪熊弦一郎は香川県高松市に生まれ、丸亀市に転居し、この地にゆかりのある画家だったようだ。その縁で、画家の全面的協力のもとにこの美術館が誕生した。画家は1993年に90歳で逝去されたので、その2年前に美術館がオープンされたことになる。画家本人より約2万点に及ぶ作品が寄贈されているようだ。

 この画集の巻末に作品リストがまとめられている。それによれば108点がこの画集としてまとめられている。
 「猫が十二匹もうちに住んでた」と画家は記す。画家宅に訪問し「動物園みたいな臭いがしましてね」と画家が記すほどの臭いに閉口したお客さんもいたようだ。

 この画集には実に様々なねこたちの姿態が描かれている。一つとして同じ猫がいないと感じる。形やタッチ、描法、画風が実に多岐にわたる。写実的に描かれた猫、一筆書きタッチの猫、太い線で描かれた猫、まるで幼稚園児が描いたという感覚の猫、猫の版画、カンヴァスに油彩で描かれた猫、カンヴァスにアクリルで描かれた猫、キュービズムで描かれた猫・・・・・実に多彩である。

 うずくまる、歩む、飛び跳ねる、振り向く、睨む、ひっくり返る、居眠る、群れる、母猫の乳房に群がる子猫たち、裸婦と猫、喧嘩する猫、びっくり眼の猫、ほんわかな猫・・・・・実にさまざま。

 本書には、著者のこんなメッセージが記されている。原文を引用しよう。
*今まで色々と沢山描かれている猫は、どうも自分には気に入らない。
 それで猫の形と色を今までの人のやらないやり方で描いてみたいと思った。
*この小さな動物を永く描いて行く事は、
 そして一つとして同じものを描かないで行く事は、至難の業である。
つまり、この猫画集はそのチャレンジの結果が企画編集されたもの。この画集の背後にはさらに何倍もの、あるいは何十倍の猫の絵が存在するのではないかな・・・・と思う。

 本書には、「ねこたち」と題した谷川俊太郎の詩が5つ、コラボレーションしている。
 本書の末尾には、画家本人のエッセイ「筆」「赤い服と猫」「猫の平和」の3つが掲載されている。画家と猫の関わり方とそのエピソードが楽しく読める。そして、このエッセイを読んで再びねこたちの絵を眺めると、また奥行きが加わる感じである。
 さらに、弟子・荒井茂雄の見た「猪熊弦一郎と猫達の暮らし」という談話が載っている。その末尾の文がおもしろい。「猫と先生は似たもの同士なのかもしれません。猫の絵を見ていると、猪熊先生そっくりだなあーって思います。分身のように感じていたのかもしれません。」
 もう一つ、学芸員(古野華奈子)の視点から「画家と猫と妻」という題でその関わりが客観的に記されていて、興味深い。この画集の良いしめくくりになっていると思う。たとえば、「彼ら(注:ねこたち)を区別なく愛し、と言っても溺愛じゃなく、どちらかと言えば少しの距離と敬愛の念をもって、彼らの様子を画家の鋭い目で観察していたことが、より一層伝わってくる。」という一文がある。

 画家自身が猫をどう見ていたか。画家の文から抽出するとこんな記述がある。
*猫は性質が人間でいえば女性の様なもので、・・・・・(略)
*犬よりもデリカシーを持っているし、強くも感じる。
*猫はどこか野生的で居て、自我をしっかり持っている動物である。

 コラボレーションの谷川俊太郎の詩を一つ、引用させてもろう。惹かれる詩だ。

    しなやか
    ひそやか
    ひややか
    たおやか
    かろやか
    したたか

    ヒトの言葉で猫に
    追いつくことが出来るだろうか

 紙やカンヴァスの上に、インク、コンテ、鉛筆、色鉛筆、墨、水彩、油彩、アクリル、版画で「ねこたち」を描き続けた画家は、「猫に 追いつくことが出来」ただろうか。この画集をあなたもパラパラと眺めてみてはいかがだろうか。
 さまざまな猫の姿が楽しい。楽しめる画集である。

 最後に画家のこの言葉を引用しておきたい。

   「愛しているものをよく絵にかくんです。
    愛しているところに美があるからなんです。」

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この本で出会った画家からの波紋で、画家に関連した事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
猪熊弦一郎  :ウィキペディア
MIMOCA丸亀市猪熊弦一郎現代美術館 公式Twitterアカウント
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館  :「丸亀市」
  美術館巡り動画が載っていて、その中でこの美術館も紹介している。
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館  :「うどん県旅ネット」(香川県公式観光サイト)

企画展「猪熊弦一郎展 猫達」丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて、6 月 13 日から開催
  :「ilove.cat」
 本書に掲載されている作品が何点かこのページに掲載されている。
猪熊弦一郎展 2012年7~9月のそごう美術館のPRページ
  画家の作品6点、絵本表紙、自画像が載っている。

「私の履歴書」猪熊弦一郎 Guen Inokuma 1988年   :YouTube

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『聖玻璃の山 「般若心経」を旅する』  夢枕 獏  小学館文庫

2015-12-06 16:23:44 | レビュー
 般若心経には関心を持っているので、題名と文庫本の表紙の写真に惹かれて、読んで見た。普通作家は写真家とのコラボで写真入りの本を出すことが多い。写真家の名前が載っていないので、ちょっと奇妙に感じたのだが、掲載写真はすべて著者の撮った写真だった。ネパールとチベットの風景や仏像、建物、人々と生活風景などを撮った写真が各ページに載っているといえる位に掲載されている。蒼空に屹立する雪山、燃え上がる天空に聳えたつ峰と黒くシルエットとなった山脈など、なかなかすばらしい写真が載っている。文庫本末尾に付された宮坂宥洪氏の解説を読み初めて知ったのだが、著者には「写真家」という肩書もあったのだ。ウィキペディアの「夢枕獏」項も初めてアクセスしたが、写真家の一項が記されていた。認識を新たにした。
 奥書を読むと、本書は1995年10月に『聖玻璃の山』として早川書房から刊行された。2008年7月に小学館文庫として出版されたものである。

 「あとがき」にこの作品ができた経緯が詳しく記されている。「あとがき」自体が一つの独立したエッセイのようなものでかなり長い。それ故に、本の出来上がる背景がよくわかり興味深い。その記述によれば、23歳の時に初めて海外に出て、ネパール・ヒマラヤをトレッキングして歩き、10年後に再びネパール・ヒマラヤに旅したという。その2度目のネパール・ヒマラヤ以来10年間に何度もネパールとチベット、つまりチベット仏教文化圏を訪れて撮りためた大量の写真があるという。その中から選択された写真がこの一冊にまとめられているのだ。一冊の写真集にまとめたかったという著者の気持ちが、幾度も現地に通う内にコンセプトとして般若心経と結びついて行ったという。現地を見聞し、現地で写真を撮りまくる著者の思いが、「『般若心経』という概念、あるいは思想、あるいは抽象、あるいは現象へと突きあたったのである」(p138)という。
 そえがこのネパール・ヒマラヤの写真と般若心経のコラボレーション作品として結実したのだ。

 般若心経に関わる本は数多く出版されている。手許にも何冊かあるが、それらを読み進めてきたとき、四季が変化する日本の自然風土をあたりまえに感じ、その環境の中で般若心経を受けとめて、諸行無常を感じ理解するというセンスである。インド、シルクロード、中国を経て日本に将来された過程で変容を経た上で、日本という仏教圏に将来された般若心経の概念、思想の受けとめである。
 この本に掲載の写真を眺め、写真と併存する般若心経の経文の句を読んで、般若心経そのものをちがう感性で受けとめる見方があるのかもしれないとふと感じた。ヒマラヤの山を前提にした般若心経である。自然風土の違いが大きく人々の感性にも影響するのではないだろうかという思いである。日本に渡来した般若心経のルートを逆に途中まで遡った旅としてのネパール、チベットという現地の般若心経センス次元とのコラボがここにあると言えるのかも知れない。

 本書は三部構成となっている。著者自身の言葉が詩句の形で要所要所に挿入されている。そこに、幾度もヒマラヤ周辺を旅した著者の般若心経があると感じる。
 目次の前にこんな詩句が記されている。「答えよ 人の行為の 何が 不毛で 何が 不毛で ないのか 答えよ」と。

 第1章は、262文字の「摩訶般若波羅蜜多心経」の経文(漢文)がルビ付きで写真とコラボしている。その経文の前後に、著者の詩句が記されている。前に記されているのが「ぼくはいつも 想っている 微かな背徳の 罪の 匂いの 赤のことを 想っている」という詩句だ。

 第2章は、「摩訶般若波羅蜜多心経」の経文を読み下し文として載せている。この章も経文について一切説明・解説はない。前後に著者の詩句があり、壮大なヒマラヤの風景写真とのコラボでまとめられている。

 著者は「あとがき」に次の文を記す。ここに、掲載された著者の詩句に反映された思いの原点があり、それが著者の般若心経への旅となったように感じている。
「彼の地の仏教は、日本のそれと違い、猥雑で、汚れていて、肉や血の香りがするばかりでなく、腐臭さえ漂ってくるようである。しかも、みごとに宗教として現役である。」(p139)
「チベットやネパールの仏教寺院の尊神は、大きく口を開き、怒り、歓喜して、女尊を抱いている。太い陽根で女尊を貫き、腰に人骨の飾りをぶらさげている。
 二十年以上も前、初めてこれを見た時にはぶっ飛んだ。なんという仏教か。こういう仏教があったのか。」(p139)

 現地に触れた著者の感性と思いは、第2章の経文の前に記された詩句の中で「荒野 荒野 おれの心 自由で淋しいぞ」「十億年 待つというなら 待っていろ」と叫ばせる。経文の後は、「二億年続く 悦びはなし 二億年続く 哀しみもなし」で始まり、「エロスの仏の お前の顔に 太い精液を かけてやりたし」という詩句の終わりとなる。
 たぶん、日本国内に居るだけでは、般若心経からの感性の発露としてこんな詩句が湧くことはなかったのではなかろうか。少なくとも、私はこの著者の詩句にぶっ飛んでいる。
 第3章は、何と「摩訶般若波羅蜜多心経」が戯曲になっているのだ。そして「あなありがたやほとけのおしえちえのマントラ」とルビがふられている。歌舞伎の演目名称にふられるルビの感覚である。この説明、実に的確にこのお経の名称の意味を説明しているのだから楽しい。「ゴータマ・シッダールタ・原案 玄奘三蔵・訳 夢枕獏・脚本」という記載も実に楽しい。「ゴータマ・シッダールタ・原案」という表現が楽しい。
 なぜ著者は般若心経を戯曲化したのか? その経緯は「あとがき」に著者が詳しく触れている。本文をお読みいただくとなるほどと思われるだろう。

 戯曲自体は実質21ページほどのもの。冒頭に宮沢賢治が登場し、舞台を去り、本舞台が演じられる。そして最後に再び宮沢賢治が登場してこの劇は終わる。本舞台の劇は舎利子と観自在菩薩の対話が中心になり、浄瑠璃語りが間奏に入る形である。
 この第3章の戯曲ページの間に併存するのは主に仏像の写真である。実にいいコラボである。その仏像の形象、造形は図像学的には共通するのだろうが、日本のそれと外形上は大きな隔たりがある。私にはエキゾチックであるが、現地ではあたりまえのものなのだ。実にいい。

 舞台に登場した宮沢賢治が語り始める。「わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です。・・・・」
 このセリフ・・・・そう、宮沢賢治『春と修羅』という詩集の「序」冒頭の詩句である。

 「あとがき」に著者は記す。
 「今でもチベット文化圏では、仏教の教えを仮面劇のかたちで、皆の前で演じている。それを思えば、『般若心経』をここで戯曲にするというのは、当然なされてよい試みである。」(p160)と。
  この戯曲、舞台で演じられるのを観劇しみたい!

  本書のタイトルは『聖玻璃の山』である。宮沢賢治の心象スケッチ『春と阿修羅』は「序」から始まる詩集だが、その中の「春と阿修羅」と題する詩の、

    砕ける雲の眼路(めぢ)をかぎり
    れいろうの天の海には
    聖玻璃(せいはり)の風が行き交ひ
    ZYPRESSEN 春のいちれつ

という詩句部分に「聖玻璃」が出てくる。ここから取られている語なのだろう。「玻璃」は辞書を引くと「(1)水晶、(2)ガラス」(日本語大辞典・講談社)を意味する。仏典では七宝の一つとして出てくるので、水晶を意味している。「ヒマラヤ」はサンスクリット語では「雪の住みか」を意味するという。聖玻璃の山は、一方で「ヒマラヤ」という山そのものを暗喩しているのだろうか。

 本書のページを適当に開き、般若心経の経文のフレーズを読み、併存する写真を眺める、戯曲のフレーズを読み前後のページに掲載の写真を眺める、そして、想いを広げる・・・そんな読み方もある気がした。
 
 ご一読ありがとうございます。

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本書からの波紋で、いくつかネット検索した。一覧にしておきたい。
『春と修羅』 宮沢賢治  :「青空文庫」
ヒマラヤ山脈  :ウィキペディア
ヒマラヤの画像加藤忠一ホームページ ヒマラヤ巡礼写真館

[YouTubeより]
チベット僧侶によるチベット般若心経(Tibetan The Heart Sutra)
ヒーリング般若心経 Heart Sutra (サンスクリット/梵語/Sanskrit) by N.M.Todo
般若波羅密多心経 (梵音) Prajna Paramita Hrdaya Sutram (Sanskrit) Bat Nha Tam Kinh
般若心経 Heart Sutra ~サンスクリット、チベット、アジア各国言語チャンティング
大本山永平寺/雲水さんの般若心経
癒しの響き 般若心経・太鼓
法楽太鼓 2 「般若心経~諸真言」 東谷寺 (真言宗豊山派)
般若心経  日本語 字幕付き   ベートーベンの歓喜の歌に般若心経をのせて
ゴスペル風「般若心経」つのだ☆ひろ

般若心経 天台寺門宗   音声

チベット仏教  :ウィキペディア
チベット仏教の特色  :「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」
チベット仏教の歴史と特色 :「チベット仏教ゲルク派宗学研究室」
チベット仏教普及協会 ホームページ

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『「フルベッキ写真」の暗号』  斎藤充功  mu NONFIX (学研) 

2015-12-03 09:17:54 | レビュー
 本書は2012年10月に『「フルベッキ群像写真」と明治天皇”すえ替え”説のトリック』というタイトルでミリオン出版から上梓されたものの改訂新版である。
かなり以前に一度このフルベッキ群像写真を何かの機会に見た記憶があり、幕末維新の頃に、当時の数多くの歴史に名を残した人々が一堂に会している写真があったという程度で頭の隅に残っていた。そのため本書のタイトルに興味を抱き読んでみた。
 
 フルベッキ氏とは安政6年(1859)11月7日に長崎にプロテスタント宣教師として来日した人物である。そして本書で検証の対象となっている写真は長崎において、「日本初のプロカメラマン」といわれた上野彦馬の写真場で撮影されたウェットプレート(湿式)写真である。印画紙はアルビュメン・プリント(鶏卵紙)が用いられたものという。ウィキペディアからその写真を引用させていただこう。

 フルベッキ親子の周りに44人の日本人、髷を結い刀を携えた人々が写っている。この写真が初めて掲載されたのは明治28年で雑誌『太陽』7月号だという。戸川残花(詩人・牧師)の「フルベッキ博士とヘボン先生」と題する文章とともに、「維新前の長崎洋学生」というキャプションが入って掲載されたそうだ。
 フルベッキ氏は、1869年(明治2)3月、政府から開成学校の教師と政府顧問に招かれ東京に移住、その後東京で教師と宣教師の生活を送る。1886年(明治9)、明治学院創立のために初代理事に選出され、日本での永住権を得ている。1898年(明治31)3月、東京赤坂葵町の自宅で急逝、青山墓地に埋葬された。享年68歳。
 この写真が『太陽』に掲載された当時並びにその後80年ほどは、特に大きな話題になった形跡はないという。

 では、なぜこの写真が問題なのか?
 1974年(昭和49)に島田隆資という肖像画家が、『日本歴史』1月号に「維新史上解明されていない群像写真について」と題した論考を発表。このフルベッキ群像写真を幕末の英傑たちが長崎に一堂に会して、上野写真場で撮影された「歴史的な記念写真」として発表したことがきっかけのようだ。島田氏は、46人の人物の内、推定を含めて25人を同定して論じたのである。島田が断定した名前には保守・革新を含めあっと驚く面々が集合しているというのだ。それ自体の信憑性が歴史的には大きな話題だろう。
 だが、この写真のその後の展開は、その群像の中に「大室寅之祐」という人物が同定され、その人物が明治天皇にすり替わったのだという「明治天皇”すり替え”説」が発表され、さらには明治天皇の父である孝明天皇について、「孝明天皇暗殺説」が提起されるに及んだことである。その孝明天皇の暗殺の首謀者が伊藤博文だという話に発展したのだ。 本書は、この「フルベッキ群像写真」と「明治天皇すり替え説」「孝明天皇暗殺説」のルーツを探索し、それに検証を加えたものである。

 著者の結論の要点は私の理解不足でなければ以下のとおりである。
1)孝明天皇の子、睦仁親王が即位後に暗殺され、この群像写真の中に同定された大室寅之祐とすり替わったという説は否定できる。明治天皇の写真と大室寅之祐の写真を「法人類学」的観点で検証してもらった結果を併せて、すり替わり説は成立しない。
 明治天皇すり替え説の嚆矢とされるのは、鹿島の論考『日本侵略興亡史-明治天皇出生の謎』(新国民社・1990年)なのだが、「鹿島はフルベッキ写真については言及していない」(p183)とする。
2)伊藤博文を首謀者とする孝明天皇暗殺説も明確な証拠に欠けるものであり、宮崎鉄雄の証言をベースにした孝明天皇暗殺説もその証言が不確かな伝聞としか言いようがない。つまり、この暗殺説も諸検証の結果成立しない。
3)フルベッキ群像写真に幕末明治の英傑が一堂に会したというのは成り立たない。もう1枚のフルベッキ写真が残されている。「フルベッキが人物の名前を誰一人として語っていないのは、幕末・維新の英傑が写っていなかったということの証左ではないだろうか」(p163-164)
 本書はこの検証のプロセスを追っていくことにその面白さがある。

 本書での検証プロセスの一環として、著者は伊藤博文のハルビンにおける遭難事件から論考していく。第1章と第2章で「ハルビン事件」について論じている。ここで興味深いのは、伊藤博文を狙撃した犯人が安重根と結論づけられ処理されているが、諸資料から伊藤博文の撃たれた弾道の角度が安重根の狙撃とは一致しないという証拠が残されていること。安重根が主張した「伊藤博文罪状十五箇条」の第14条に孝明天皇を伊藤が暗殺したことを「現日本皇帝の御父君に当たらせられる御方」と述べている点。安重根裁判に政治的介入があったという点などを克明に検証している。この辺り歴史的事実の理解を深めるためには、一読の価値がある。歴史の闇に留まるのだろうが、そこには仕組まれた暗殺劇があったようだ。

 明治天皇すり替え説という偽説がどのような経緯で独自の進展をみせたのかを著者は本書で検証している、この検証プロセスが読ませどころである。偽説の主張点を丁寧に引用しつつ疑問点を論じていく。
 フルベッキ群像写真の中の大室寅之祐と明治天皇のすり替えの否定は専門家による法人類学的検証で、科学的見地からの手法を追加して論じている。それはある意味でとどめの一発というところだろう。
 一方で、群像写真の他の人物が様々な人によって同定(推定)されている点については、明確な論拠がえられないという検証にとどめ、フルベッキの発言記録もないところから幕末維新の英傑はここに会していず、単なる洋学生の一群とするに留めている。ここも同種の科学的手法で検証を進める方が、とどめの一発になるのではないかという読後印象をもった。
 
 本書の読後感として副産物がさらに4つある。
1)小説としてのおもしろさとしての意味で、加治将一著『幕末維新の暗号』(文庫本・上下巻)が紹介されていること。
2)第7章で論じられているのだが、記録から抹殺されていた1枚の禁断の「盗撮」写真が存在すること。オーストリア人・スティールフリードのよって「盗撮」された写真である。それは横須賀造船所に行幸した明治天皇を撮ったもの(明治4年)だという。この写真と明治5年の山口行幸の翌年にバストショット写真として撮影された明治天皇である。この2枚に別人の印象を抱くというのだ。それが何を意味するのか。著者は新たな疑問を提示している。
3)次に引用する著者の推測がもう一つ興味深いものだ。
 「フルベッキ写真と大室寅之祐、そしてフルベッキ写真と陶板額ビジネスは、2000年から2003年にかけて、『明治天皇の孫』を自称する中丸薫を中心として始まった、新たな動きだったのではないだろうか。それは、中丸自身が『明治天皇の孫』であるという根拠を補強する材料としてフルベッキ写真を利用しようと考えたからではないかと私は推測する。そして、そこに便乗したのがあ、フルベッキ写真の陶板額をビジネスにしようとした人間たちだったのではないか。そして、フルベッキ写真の偽説が流布された経緯には、宗教団体が絡んでいる。」(p166)
4)大金を横領し、終身懲役の判決を受けた渡辺魁が、脱獄に成功し、巧妙な戸籍操作で辻村庫太と改名した。そして何と、名実ともに一人前の裁判官となったという。しかし、それが露見して逮捕されるのだが、その脱獄判事が、「無罪」判決を受けたという。著者はこの事実を資史料で追跡しており、それが孝明天皇暗殺説にも否定の論拠の要因になっているという面白さである。
 明治維新後の政府の確立期、何があってもおかしくないということか。
 歴史の闇に潜む事象が、明確な証拠、資史料が残されていないことから解明されないままに、様々にあるのかもしれない。
 
ご一読ありがとうございます。

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いくつかネット検索したものを一覧にしておきたい。
フルベッキ群像写真  :ウィキペディア
グイド・フルベッキ  :ウィキペディア
フルベッキ写真の考察   :「舎人学校」
 「フルベッキ写真」に関する調査結果(慶應義塾大学 高橋信一氏)を掲載。
フルベッキ写真の真偽   :「フルベッキ写真」
  写真の人物名を同定したとされている内容を併せて併載紹介しているページ

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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