遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『生贄のマチ 特殊捜査班カルテット』 大沢在昌  角川文庫

2016-05-31 22:22:06 | レビュー
 単行本として出版された時(2010年)は、『カルテット』が主タイトルでそれにナンバーが付され、副題が付いていたようだ。つまり、『カルテット1 渋谷デッドエンド』、『カルテット2 イケニエのマチ』と。この2冊が合冊されてこの文庫本になっている。このカルテット・シリーズの構想と設定がおもしろくて、立て続けに『カルテット3 指揮官』『カルテット4 解放者(リベレーター)』を単行本で読んでしまった。読んでから気づいて調べて見ると、このシリーズ3と4が合冊本で既に2015年10月に文庫本化されていた。

 文庫本化において、副題に「特殊捜査班カルテット」となったようだ。結果的にはこの副題の方が関心を呼ぶ気がする。また、「イケニエのマチ」よりも「生贄のマチ」の方が漢字の醸すインパクトが強いように感じる。
 「特殊捜査班」ってどういうこと? どんな特殊な捜査をするのか? カルテットってこの特殊捜査班のコード名? それともカルテットだから4人で構成された班なのか? 「生贄のマチ」って、すごいネーミングだけど、マチが生贄になるってこと・・・?という風に、本の背表紙を見ただけで興味を惹かれるネーミングだから。

 読後印象記を書き始める以前に、著者の『新宿鮫』シリーズにまず引きこまれ新書版で全部読んでしまっていた。それ以来、タイトルに惹かれた本を時折読み継いできている。そんな読み方なので、このシリーズもまず、文庫本のタイトルに惹かれたのがきっかけである。なかなかおもしろい設定と構想のシリーズで、物語としては読みやすいと思う。

 さて、読後印象に移る。文庫本の解説で、ゲームデザイナーの小島秀夫氏は「本作は、ジュブナイルではなく、ライトノベルとハードボイルドの間、その空白地帯に位置すると思う」と記されている。確かにそういう次元の物語だと思う。「まさに若者達、特に十代の思春期に必要な刺激物」としての冒険小説であり、若者が「ハードボイルドの息吹」を感じるのに適した「物語」に位置づけらる内容になっている。だが、この構想の設定と取り上げられている内容を考えると、活字離れしている「大人」にとっても十分おもしろく楽しめる内容の物語だと言える。活字離れしていない私自身でも、立て続けに読んでみたくなるシリーズになっているのだから・・・・。
 勿論それは、「物語」の範疇であるという前提を置けばである。というのは、構想と設定がかなりぶっ飛んでいるからだ。だからこそ、逆にマンガ風に楽しめるとも言える。このストーリーは、劇画にしたらさらに読者が増えるかもしれない。

 まず第1作は、特殊捜査班の編成ができる契機を描いた物語である。「カルテット」というのは中核が4人-クチナワ、カスミ、タケル、アツシ-で構成されるという意味だった。ただし、この4人は特殊な編成プロセスを経る。クチナワにある目的を持って協力するカスミという少女が中心になり、カスミに見出されたタケルとアツシが納得して加わる。そしてカスミ・タケル・アツシの3人がチームを組む。直接の特殊捜査行動を取るのはこの3人。クチナワは特殊捜査の指示だけ出し、監視し、バックアップするという立場である。
 「特殊捜査」とは国家権力である警察組織を背景にして、警察の合法的な立場でありながら、通常では想定できない法規の縛りを逸脱した次元の捜査活動をする、超法規的権限を与えられ行動するということである。クチナワと呼ばれるエリート警察官僚がかつて構想し、理由は定かではないが頓挫した構想・方法論を別の形で復活させたのだ。それがこの特殊捜査班というわけである。クチナワの目的は悪の根元を殲滅すること。そのための手段は問わないとでも言える極めて特殊な捜査活動となる。なぜなら、カスミ・タケル・アツシは警察とは無縁の若者なのだから。

 このシリーズのおもしろいところは、章立てがこの4人の名前で編成されていくことである。それは、各人に関わる過去について情報を差し挟みながら、その思いと行動をストーリーとして展開していく形になっていく。それら4人の動きが交錯しながら一つのストーリーに収斂し、織り上げられていくのである。

 タケルは18歳。一匹狼として、渋谷で悪を潰すという目的で獲物を狩るという行動を取っている。それはタケルの内奥にある怒りのなさしめる結果である。この物語の始まる8年前に、引っ越したばかりの郊外の一戸建ての家にタケルが帰宅したとき、ひとつ下のミツキが玄関口の階段の中腹にて、両親がリビングにて、それぞれ惨殺されている現場に遭遇したのだ。この殺人事件は未解決のままである。家族を一度に惨殺されて一人残されたタケルの怒りがタケルを、悪だと判断した獲物を狩る獣に変えたのだ。渋谷でドラッグを売るプッシャーなどをターゲットにして、潰していくという行動を取り続ける。
 このタケルが窮地に陥ったとき、クチナワが助けることから二人の関わりが始まる。だが、クチナワがタケルを助けるという筋書きを前提として、クチナワが提示したリストからタケルを選んだのはカスミなのだ。

 第1作は、残留孤児二世のホウ(日本名はアツシ)がチームに加わる経緯がまず特殊捜査の活動に関係する。ホウは、同じ残留孤児二世で天才的DJであるリンの才能に敬服し、リンの個人的セキュリティという立場、いわばボディガードの機能を果たしている。リンは24,5才。クスリを常用している。ホウは20歳そこそこ。

 リンがDJをこなすイベントはすべて塚本が企画する。その塚本の資金源は”本社”と呼ばれる組織。イベント会場では、”本社”が卸したドラッグが売りまくられるという構造である。クチナワの狙いは塚本を押さえることを契機に本社を潰すことにある。
 カスミは既に塚本の懐に飛び込んでいた。そして、タケルがまずカスミとのチームとして活動する。それが平和島の「ムーン」で開催されるリンのイベントである。「ムーン」を舞台としてストーリーは意外な展開となる。
 そして、その現場に現れたクチナワは最後に「警視庁組織犯罪対策部特殊斑だ」と名乗る。また、クチナワはホウについて「リンがいなくなった今、ホウは糸の切れた凧だ」と評価する。
 この第1作が興味深いのは、クチナワとカスミが協力する関係が今ひとつベールに包まれた形で終わり、関心を惹きつけること。そして、この特殊捜査班がどこまで超法規的行動を取るのかが見え始めることである。「物語」故にできるストーリー構想と言える。

 この作品は、クチナワがパソコンに次の文を入力する事で終わる。
「活動は停止するが、チームの解散は延期するものとする。次回任務については、摘発に潜入捜査を必要とする、青少年がらみの組織犯罪に限定して案件を絞り込み、チームの訓練に当面専念する」と。

 第2作のタイトルが「生贄のマチ」である。
 この物語には2つのストーリーがある。最初は、第1作で登場したホウ(=アツシ)がどのようにしてチームの一員となるかの描写。2つ目がカスミ・タケル・アツシがチームとして特殊捜査班の活動をするストーリーである。
 
 この第2作にクチナワのスタンスが明確に記されている。1.犯罪捜査を戦闘だととらえる。2.自分を含め捜査員すべては消耗品である。3.必要以上に人間を消耗するような作戦は選ばない。つまり、クチナワにとり、カスミ・タケル・アツシは消耗品なのだ。また、常に身体的な危険にさらされ、それに対応できる戦闘能力をもち、己が消耗品だという覚悟を持つ補佐官として、通称トカゲが登場している。クチナワはトカゲ一人を補佐に従えているだけである。現在のクチナワは両脚を失い、電動歩行車を使う身なのだ。なぜこうなったのか? それはなぞのまま・・・。先取りすると、第4作でもその過去は語られていない。興味津々というところである。
 
 第1作の末尾でクチナワがパソコンに入力した内容がこのストーリーの枠組みとなっていく。
 潜入捜査活動実行者: カスミ・タケル・アツシのチーム。
 潜入捜査の目的  : 10歳未満の4人の女の子が首を絞められ殺され遺棄された。
  性的な暴行は受けていない。死体遺棄地点は殺害現場でないことは判明している。
  4人全員がミドリ町の住人だった可能性が強い。犯人の捜査と逮捕を目的とする。
 潜入捜査の対象地 : 川崎市川崎区にあるミドリ町(ちょう)。
  古いアパートが何棟も建つ区域が買い取られ、一帯に推定2,000人の中国人が在住。
  1990年代の初めに中国吉林省で生まれた「無限(ウーシェン)」教団の信者が多い。
  閉鎖的で特殊な街が形成され警察はもちろん一般の人間もまず立ち入れない区域。

 このミドリ町に3人が潜入捜査に入る。残留孤児二世のホウの中国語力が役に立つという設定である。このミドリ町に入り込むための3人の犯罪歴はクチナワがお膳立てするという次第。両親と共に日本に戻ってきたホウは、日本人を憎み、日本人であることを望んでいない。しかし、中国人の住むこのミドリ町では中国人として人々から認められない。中国語を母国語として話せるホウは、己のアイデンティティ問題にまさに直面する。
  
 経営危機に陥り工場跡地を産業廃棄物処理場にする予定が、バブル崩壊の影響でブラックマネーが流れ込んだこともあり、「塩漬け」の土地になった。なかば不法占拠されている状態だが、地権者問題が複雑で民事上の整理ができていず、手がつけられない状態なのである。
 なぜ、この街が作られたのか。街の中で何が行われているのか。誰が支配しているのか。住人の多くは吹き寄せられるようにこのミドリ町に集まってきた下層の一般中国人なのだ。それをカモフラージュにして、何かが行われている。4人の女児殺人事件がこの町とどう結びつくのか? 3人の捜査が始まる。
 
 この設定自体が現在の日本では「物語」にすぎない。しかし、どこか現実味を感じさせる側面がある。こんなゾーンが日本にできないとも限らない・・・。
 いずれにしても、今は「物語」として興味深い設定にとどまる。
 4人の女の子が誰かの生贄になった。このミドリ町に潜み蠢く悪の存在が曝かれるなら、ミドリ町の存在は潰される対象になるだろう。ここに集まった一般在日中国人は結果的に、生贄となるのか・・・・。

 カスミ、タケル、ホウ(=アツシ)の心の中の葛藤が三者三様に始まって行く。
 この第2作は、3人のチームが確実なものになるかどうかの試金石でもある。おもしろい展開となっていく。エンターテインメント性十分な読み物である。

 ご一読ありがとうございます。

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徒然にこの作家の小説を読み、印象記を書き始めた以降のものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『撃つ薔薇 AD2023 涼子』 光文社文庫
『海と月の迷路』  毎日新聞社
『獣眼』  徳間書店
『雨の狩人』  幻冬舎

『舞の本を読む 武将が愛した舞の世界の物語』 石川透/星瑞穂編 三弥井書店

2016-05-27 21:32:15 | レビュー
 『広がる奈良絵本・絵巻』(石川透編・三弥井書店)という本が目にとまったときに、奈良絵本というものの存在を知った。この本を購入したまま未読で書架にある。それを読む前に、この本がまた目に止まり、こちらを先に読んでみる気になった。
 『舞の本を読む』というこの本は、奈良絵本の一つの領域を扱っている。世界遺産の島・宮島を一望できる山の中腹に立地し、広島県廿日市市にある「海の見える杜美術館」が所蔵される作品の内容紹介・解説本である。この美術館が1981年に開館されて以来、様々な物語絵を収集・所蔵されているということを本書で遅まきながら知った。

 室町時代から江戸時代にかけ、能の流行とは別に、幸若舞が流行したという。「幸若舞」を辞書で引くと、「中世におこった芸能の一つ。曲舞(くせまい)の流れを引く語り芸。軍記物などに節をつけて語る。簡単な舞もともなう。室町時代の桃井幸若丸直詮(なおあきら)に始まるとされる」(『日本語大辞典』講談社)とされている。武将たちがこの幸若舞の世界を愛したという。
 『舞いの本』はこの幸若舞曲という演劇のテキストだそうである。能の謡曲本のような雅文ではなく、その語りが散文的な文章だったことから、幸若舞曲のテキストが読み物として絵巻や絵本になり、独自の広がりを始め、読者層を得たようだ。

 本書はその大形奈良絵本で、極めて美麗な豪華本の挿絵の部分を全てカラー刷りで編集し、紹介されている。海の見える杜美術館が所蔵する『舞の本』36種類の作品の挿絵すべてが収録されているという。30.0cm×22.5cmというサイズの特大本で手描き極彩色、江戸前期の写本なのだ。絵はかなり細密なタッチで描かれている。描かれている人々の衣裳の文様なども細密に描かれている。実に楽しい鑑賞本である。

 本書の編集は物語作品毎に冒頭に粗筋の解説ページがあり、それに続いて絵本の挿絵部分が収録されている。その絵の場面毎にキャプションが付されている。つまり、粗筋を読む事なしに挿絵を順番に見て、キャプションを読み継げば絵本の内容がわかる体裁にしてある。挿絵を通覧してから冒頭の粗筋説明を読むのも復習のような感じで見た絵の場面とつながっていっておもしろい。試してみた。

 そして、巻末には編者2人の解説論文が載っている。
 「海の見える杜美術館蔵『奈良絵本 舞の本』について」 石川 透氏
 「奈良絵本『舞の本』と版本の挿絵の関係性」      星 瑞穂氏
 解説論文によると、本書に収録された36種類の作品は、寛永年間に出版された絵入り製版36番という長年の『舞の本』定番と対比すると3作品の違いがみられるが、36作品になるようだ。そして、ここに収録された挿絵は、江戸時代前期に刊行されていた絵入り版本を元にして写された豪華本の可能性が高いという。
 『舞の本』がどういうものだったかを手軽に実感するのには最適な本と言える。一度、美術館を訪れて実物奈良絵本の作品を見たくなった。

 収録されているのは36種類の奈良絵本作品であるが、物語のストーリーは単発的な作品と、一つの物語が、作品としてはストーリーの分割によりシリーズ化しているものに別れている。作品名称と誰の、何についての物語か、要点を付記してみる。

 入鹿 :中臣鎌足による曽我入鹿誅伐物語
 百合若大臣 :嵯峨朝時代の百合若大臣の物語。ユリシーズと関連性論議もあるとか
 信田 :承平・天慶時代、相馬殿御台所と信田殿の物語。小山との領地争い。
 満仲 :六孫王の子・多田満仲の物語。美女御前の身代わりとなる幸寿丸の忠節。
 伊吹・伏見常葉・築島・硫黄が島・文学・夢合わせ・馬揃・木曽願書・敦盛・景清
 九穴貝・常葉問答・笛の巻・未来記・鞍馬出・烏帽子折・腰越・堀河夜討・四国落
 富樫・笈捜・八島・清重・高舘 :
   ここまでは平家物語、源平盛衰記、義経記という世界に関連する物語。
   部分的にああ、あの話か・・・と思う場面が頻出してくる。一連の時代ストーリー
 元服曽我・和田酒盛・小袖曽我・剣讃嘆・夜討曽我・十番切 :曾我兄弟物語。
 張良 :中国の張良の物語。英雄譚。
 新曲 :後醍醐天皇の一の宮・尊良親王の物語。太平記に題材を取った物語。

ずっと通覧していくと、武将が愛したストーリーの世界がここにあると感じる。一所懸命の武将魂、合戦、忠誠と裏切り、英雄譚など、武将好みのテーマが幸若舞で演じられたのだろう。一方で、見聞した舞の世界の再体験としても、これら絵本を楽しみに読んだのかもしれないと思った。

 この本では挿絵が1ページ大、2分の1ページ、4分の1ページで組み合わされ、要所要所にさらに挿絵の部分拡大図が併載されている。部分図では絵の描写の細部まで良く分かり、丁寧な描きぶりがよくわかる。着物などの意匠の細部まで楽しめる。また源氏物語で取り入れられているいわゆる吹抜屋台の方式で建物が描かれている。建物の描き方を対比的に見ていくのもおもしろい。

 この本に収録された絵本作品は、豊後府内藩松平家の旧蔵書だと推測されうるものという。また、奈良絵本は京都において作成されたものと推測されるという。

 この奈良絵本の挿絵を見ていて、日本の現代の漫画のルーツの淵源は、こんな絵巻・絵本の世界にあるのだろうなと、改めて思う。
 
 一読というか、奈良絵本を楽しんでみてください!と述べておこう。
 
 ご一読ありがとうございます。


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本書の関連事項をネット羂索してみた。一覧にしておきたい。
奈良絵本  :「コトバンク」
リンク集 デジタル奈良絵本  Webで見ることができる奈良絵本・絵巻の書庫
奈良絵本・丹緑本  :「国立国会図書館」
新・奈良絵本データーベース  :「国文学研究資料館」
絵巻物・奈良絵本コレクション  :「京都大学電子図書館 貴重資料画像」
奈良絵本 貴重書画データーベース :「白百合女子大学図書館」

明星大学所蔵『新曲』絵本について  :「明星大学」
舞の本  :「コトバンク」
舞の本 歴史と物語  :「国立公文書館」
埋もれていた日本古来の貴重な文化財  石川 透氏 :「こだわりアカデミー」
富美文庫蔵「ふしみときは」について  塩出貴美子氏 :「奈良大学リポジトリ」

幸若舞-敦盛 (2010年版)Japanese traditional entertainment :YouTube
越前発祥の幻の芸 幸若舞 pdfファイル  
大江 幸若舞  :「くるめんもん.com」

海の見える杜美術館 ホームページ
  コレクション 物語絵
海の見える杜美術館 へ行ってみた!  :YouTube
廿日市発MV海の見える杜の美術館庭園!  :YouTube

  インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

『精霊の木』 上橋菜穂子  偕成社

2016-05-22 14:32:18 | レビュー
 引用した本書の表紙は、15年ぶりに改訂新版として2004年6月に出版された本の表紙である。2014年4月の7刷で読んだ。
 著者は2015年に『鹿の王』で2つの賞を得た作家というとわかりやすいかもしれない。デビュー作が『精霊の木』に偕成社から1989年に出版されていた。この創作文学は児童文学のジャンルでのデビュー作である。『鹿の王』の読後印象をブログに載せた時、著者についての私の印象を記している。著者はその後の創作で様々な賞を受賞されているがそれらは、『鹿の王』を別にして、児童文学のジャンルである。
 
 著者の作品群を全く知らずに『鹿の王』を読んだので、興味をおぼえてこのデビュー作を読んでみることにした。このデビュー作の後に、「守り人シリーズ」他が陸続と創作されている。それらを未読なので想像に過ぎないが、タイトルから考えると、それら作品群の発想の原点はひょっとしたらこのデビュー作にあり、形をみる以前の様々な想いがこの本に潜んでいてそれが次元を超えて繋がっているのではないかと思う。いずれ確かめてみたい。

 本書はSFファンタジーの未来物語である。漢字のほぼすべてにルビがふられていて、児童文学というジャンルに入る物語になっている。
 自分たちが起こした環境破壊が原因で地球に住めなくなった人類は、宇宙の様々な星に移住をして行った。それらの星の一つがナイラ星である。ナイラ星に人類が移り住んでから200年を迎えようとしている時点で、そのナイラ星で起こった物語である。

 まずは直接の読者対象を児童としているので文章はよみやすい。287ページの長編なので、小学校の高学年が多分対象だと思う。SFファンタジーなので、現実世界にはない用語が数多くでてくる。ストーリーを読んでいけば、文脈と補足説明から、それらの用語が読み手の想像力をかき立て、現実世界とは離れた独自の物語世界に引きこんでいく材料になることだろう。たとえば、こんな用語が使われている。例示として序章と1の中から抽出し、イメージを持っていただくために列挙してみよう。
 星間輸送ベルト、中央太陽系、太陽系間中継ステーション、生態系復元学、エアカー、スペースバス、他太陽系探査、完全睡眠装置、コンピユータ・カプセル、スペースコロニー、という具合である。

 中長期未来におけるナイラ星での物語となっているが、読み進めて気づいたことがある。この物語の根底にあるのは、日本を含め世界の各地でかつて発生してきた人類の歴史的行動パターンである。ある地域の先住民族が後からやってきた侵略民族に土地を奪われ、追いやられ、追い込まれ、滅亡していく。その一部は混血という形で侵略民族の中に取り込まれていく。そして、歴史は勝者により書かれたもの、侵略者に都合の良い合理化された歴史が事実として語られ、残されていくという行動プロセスのパターンである。
 この行動パターンをナイラ星に投影して、ナイラ星の歴史とある契機のもとに始まる行動のストーリーが紡ぎ出されていく。

 この物語の発想の背景にある思考、思想と呼べるかもしれない局面に想いを馳せると、この物語は児童を読者と限定する必要はない。大人こそ、このSFファンタジーの中に描き込まれたパターンの持つ問題事象の数々を読み取ることが必要ではないか。人類の過去の歴史での行動パターンとその結果創り出された歴史認識、あるいはそういう事実を日常生活で意識すらしていない可能性と重ね併せてみること、省察することが必要ではないか。人類の過去の歴史における愚行の一端を改めて見直す寓話として、読むことができるように思う。大人の為の児童文学、人類の歴史を考え直す寓話と言える。さらに、科学とは何か? 人間の欲望とは何か? を考える物語にもなっている。

 児童文学として素直に読むとするなら、無垢の児童にとっては、未来SFファンタジーの中に、地球に住む人類が犯してきた愚かな行為の行動パターンが何だったか、歴史の書き換えがどのようになされるかということなどを、直感的にストンと感じさせる物語になっていると思う。おとぎ話をはじめ児童文学はやはり現実世界の投影という側面をもつ。期待や希望の反映という側面を持つのだから。

 この物語の内容に少し触れておこう。
 設定は辺境の惑星ナイラ。気候は地球に似て温暖で自転・公転の速さもよく似ていて、陸の比率がきわめて小さい星である。この星にはロシュナールと呼ばれる先住異星人が住んでいて、100年以上も前にほろんでしまったと信じられている。ロシュナールは黄昏(たそがれ)の民とも呼ばれている。
 地球人がこの星に移住したが、それはこの星が鉱物資源に恵まれているという理由からだった。地球人には鉱山の数が人の数より多いと思われている星である。

 地球人は400年ほど前に、自ら招いた環境破壊の結果、地球を放棄し、長いスペースコロニー生活の後、宇宙の様々な星に移住して行った。地球人がナイラ星に移住・開拓をはじめ、ナイラ星誕200年記念祭を迎えようとしている時に、この物語が始まる。
 ロシュナールの遺跡<橋の岩>の間に不思議な光が出現したことを、第4チタン鉱山の夜間監視員が発見したのだ。それが発端となる。
 
 地球人の政府は、狩と採集で生活していたロシュナールが原始的な野蛮人だと人々に教え込んだ。ロシュナールは俗に三ツ目人と呼ばれていた。それはひたいに目のようなアザ<魂の目:トウー・スガ>をもっていたからである。そして、かれらは<精霊の木>を崇めていた。その精霊の木が精霊を産み、人々は<魂の目>を通して己の精霊と出会うという。精霊と出会い、精霊を魂に受けいれたとき、人の魂は完全になると信じていた。人は精霊がいなければ、生きていけないのである。<精霊の木>はロシュナールの命の源だった。

 一方で、ロシュナールが、地球人と混血可能な遺伝子を持っていることが発見されたとき、銀河中の大騒ぎとなったことがある。そこで政府はひそかに一部の人々を混血させ、生まれた子のひたいのアザは手術でとって、孤児として赤ん坊を地球人の中にまぎれこませたのだ。そして、科学者達がその混血人を密かに監視下に置くという行動をとっていた。ロシュナールのもつ超能力を研究したいがために。
 
 主な登場人物は次のとおり。
ヤマノシン: ハイ・スクールに進学する直前の少年。母はロシュナールとの混血児。
ヤマノマシカ: シンの母。10年前のスペースバスの大事故で夫を亡くす。
  歴史学研究所に勤める歴史学者。地球時代の専門家。
  ロシュナールとの混血であり、自分が常に監視の対象になていることを自覚する。
リシア: シンの従妹。ロシュナールの<時の夢見師>の超能力に目覚める。
  自分の見る夢の中でロシュナールの家系の過去の記憶を場面として見始める。
  それを通じて、ロシュナールの歴史の真実を知っていく。夢が<精霊の道>に導く。
  <アガー・トゥー・ナール>の力に目覚めたのは<精霊の道>がきていることによる。
コウンズ: 環境調整局副局長。<精霊の道>が出現し始めた事実を隠蔽しようとする。
  歴史研究所のトカイシュウ主任に記念祭のイベント企画に見せかける命令を出す。
  一方で、超能力者の出現に気づき、その獲捕の先頭に立つ。
トカイシュウ: 歴史研究所に勤める歴史学者。ナイラ星史部門の主任。
  ナイラ星の歴史を地球人が歪曲し隠蔽していることに抵抗し、事実を告げたい人。
  「精霊の道」を伝説として研究してきた。

 この物語は、精霊の道が架かり始めたのがトリガーとなる。ナイラ星開拓における事実を隠蔽し、ナイラ星の歴史を歪曲し地球人に都合のよい歴史を捏造してきたことが暴露されないように、コウンズが政府側の先頭に立つ。彼は歴史研究所に隠蔽工作の協力をさせることと、超能力者を獲捕することに邁進する。 
 一方、<アガー・トゥー・ナール:時の夢見師>の超能力に目覚めたリシアはシンの協力を得て、夢を見ることを重ねていく中で、ロシュナールの過去の歴史を知っていく。そして<精霊の木>をみつけその種を手に入れること、<精霊の道>に近づきコンタクトを取ることをめざす行動を選択する。
 この物語は、リシアの夢見により、ロシュナールの歴史が解明さていくこと併行し、リシアとシンがコウンズ側との間で攻防を展開していく形となる。リシアとシンの冒険物語というストーリーの流れの中で、様々な事柄が重層的に語られて行く。

 表層的には、ロシュナールにとっての<精霊の木>の存在意義と、<精霊の道>が手段として使われた理由、そして<精霊の道>が今現れ始めた意味が明らかにされていく。
 一方、その背後には、ナイラ星を地球人が侵略してきたやり口と歴史の捏造手口が明らかになっていく。
 さらには、ロシュナールとの混血に対する強力な監視の存在と抵抗が語られる。

 このSFファンタジー物語の奥底には、人類の歴史について視点を変えて見直し、省察するためのヒントや視点が幾つも潜んでいるように感じた。「霊」の存在の有無という問題もまた、考えるべき課題として投げかけられている。
 ロシュナールのひたいにある<魂の目>から、私は釈迦如来像・阿弥陀如来像・大日如来像などが額に白毫を持ち、不空羂索観音像をはじめとする観音像がひたいに眼をもっていることを連想してしまった。
 子供の心に立ち戻り神秘的な話に関わる冒険物語を楽しめる一方で、と大人の立場に戻ると考える課題に満ちた物語でもある。素直な心で一読してみてほしい。

 ご一読ありがとうございます。

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こちらもご一読いただけるとうれしいです。

『鹿の王』 上・下  角川書店

『風かおる』 葉室 麟  幻冬舎

2016-05-20 21:46:22 | レビュー
 2015年9月に出版された本書のカバーは、題名と照応するかのように、爽やかなタッチで描かれた装画である。表・表紙の並んで佇む二人は、佐久良亮・菜摘夫妻。佐久良亮は石坂宗哲門下で学びさらに長崎にて蘭方医学を学んだ鍼灸医で、黒田藩・博多の瓦町で開業する。菜摘は16歳のときに佐久良亮に嫁いだ。そして4年ほど亮から鍼灸術を学び、オランダ医学にも通じるようになり、亮の代診ができる腕前になっていた。そんな医者夫妻である。
 一方、裏・表紙には腰に二刀をさし背後を振り返る武家としての男装をし、後を振り向く若い女と両腕を組み後から歩いて行く若い武士を描いている。若い女は筑前国の博多で眼科医を営む稲葉照庵の二女で16歳の千沙であり、若い男は菜摘の弟・誠之助。黒田藩郡方五十石、渡辺半兵衛の二男で部屋住みの身である。

 この小説のタイトルは本書の最終ページから取られた。最終ページはこんな三行で締めくくられる。
 「風がかおるように生きなければ。
  菜摘はそう思いつつ中庭に目を遣った。
  朝方の光があふれる中、風がさわやかに庭木の枝を揺らしている。」

 タイトルは一種の反語である。ストーリーは菜摘の養父に関わる10年余前の長崎でのある出来事に端を発し、悲しい結末を迎えるに至る謎解きのプロセスを描く。亮が菜摘に言う。「長崎での悲しい出来事をわたしたちが吹き飛ばしたほうがいいと思う」と。

 この物語が始まる時点で、佐久良亮は開業医としての仕事は菜摘に任せて、再び長崎に赴きオランダ医学を学んでいる。菜摘は夫・亮との間で手紙の交信をする。というよりも、事態の状況をつぶさに伝えるのである。亮から菜摘にはさして返信はないが、亮は菜摘の手紙から独自に長崎での情報収集を行い、ストーリーの最終段階で急遽知り得た重要な情報を胸に秘めて帰国してくるということになる。謎解きの最後の切り札を亮が掴んでいたというおもしろい設定である。
 
 ストーリーは、千沙が父・照庵の意を受けて、菜摘の許にやってくる。照庵が診た病人側の頼みで、菜摘に病人を診に平尾村の待月庵まで出向いてほしいいと言う。求められれば、どこへでも、どのような患者でも出向くのが医者の努めだ、と亮に教えられていた菜摘は出向く。
 待月庵は、千沙の従姉で馬廻り役嘉村吉衛(かむらきちえ)の妻であった多佳(たか)が髪を下ろし、城下のはずれに住む庵である。菜摘が待月庵で診ることになる病人が実は養父だった竹内佐十郎なのだ。菜摘は渡辺半兵衛の三女として生まれ、3歳のときに佐十郎の養女となり、10年間親子として生活してきた。だが佐十郎が致仕したことから離縁となり実家に戻る。そして3年後に亮の許に嫁いでいた。
 佐十郎の病状を診た菜摘は、放っておけば1年はもたない体だと見立てる。
 多佳の口から、佐十郎は果たし合いのために国に戻ってきたのだということである。

 佐十郎が江戸詰めだったおり、妻の松江が幼馴染みの藩士河合源五郎と密通して駆け落ちしたという。帰国した佐十郎は、ある人物からなぜ妻敵(めがたき)討ちをしないのかと執拗に責められ、腰抜け呼ばわりされたという。そのため、佐十郎は致仕し、妻敵討ちの旅に出たのだ。佐十郎は妻敵討ちをすると告げ、討ち果たした暁には腰抜け呼ばわりした人と改めて果たし合いをするとまで言ったというのである。
 佐十郎は致仕して10年後に黒田藩城下に戻ってきた。佐十郎は相手に果たし状の手紙を出した上で、戻ってきたのだった。
 多佳は菜摘に言う。佐十郎が果たし合いをするのを止めてほしい、もし、それが無理なら、せめて果たし合いができる体にしてあげてほしいと。

 養父の病状と余命を見立てた菜摘は、佐十郎が多佳や菜摘に対して黙して語らないために、養父が果たし合いをしようと考えている相手探しに踏み込んで行く。
 菜摘は養父の体の治療と亮の代診としての日常の仕事がある。そこで、居候をしている誠之助に果たし合いの相手探しを頼むのである。千沙は誠之助が姉の代わりに相手探しの役に立てと言い、みずからも手助けすると申し出る。
 果たし合いの相手探しは、結局佐十郎がなぜそれをしなければならない状況になったのかという謎解きのプロセスでもある。つまり、この小説は、佐十郎が妻敵討ちを終え、帰国し、果たし状を突きつけたことから広がる波紋を描き、その裏に潜む原因究明という謎解きを展開していく。
 
 菜摘は養父佐十郎の治療に待月庵に出向く。佐十郎がなぜか嘉村吉衛の妻であった多佳には心を許しているような印象を、菜摘は初めて待月庵に出向いたときから抱くのだった。
 果たし合いの相手を知るための手がかりがないかと、菜摘は多佳に相談する。多佳は、しばらく考え、横目付の田代助兵衛に訊いてみてはどうかとアイデアを出す。横目付は藩士の非違を見張る役職である。横目付の仕事柄、妻敵討ちの経緯を知っているはずだと言う。菜摘は、かつて竹内家を訪ねてきた田代のことを思い出す。佐十郎が後で田代のことを「鼬(いたち)め」と言ったときの記憶が甦る。

 誠之助と千沙は、菜摘の代わりに田代の家に訪ねることから始めていく。助兵衛は誠之助の依頼に関心を寄せ、手助けを約束する。そして、少しずつ波紋が広がっていく。佐十郎の妻敵討ちは仕組まれたものであり、若き頃佐十郎を始めとする優秀な人々が「長崎聞役」として長崎に派遣されていた時代にその原因が潜んでいるということが見え始めていく。長崎聞役とは、幕府が西国十四藩に長崎での異国船の動きなど情報を集める役を命じており、長崎警備役も勤める福岡藩には重要な職務だったのだ。長崎聞役は他藩の者と組合を作って力を合わせて行動していたのだが、その過程で悪しき慣習も醸成されていたのだった。

 この小説の興味深いところは二重構造性にある。10年余という歳月を経て、長崎聞役の同僚だった連中がそれぞれ出世し、藩の要職に就いていた。それぞれが出世欲を持ち競っていた若い時代の頃のことをそっと闇の底にそのまま潜ませておきたいという自己保身の層(側面)がある。しかし一方で、関係者それぞれにはその事実の核心について不確かさの部分を残す故に、曝かずにそっとしておきたいという友への思いという心情層(側面)がある。
 若い頃竹内佐十郎とともに長崎聞役に出向いていた人物を田代助兵衛は調べあげた。
   峰次郎右衛門  今は勘定奉行に出世している。
   佐竹陣内    同じく、郡奉行に。     
   高瀬孫大夫   同じく、側用人に。
   嘉村吉衛    再度、長崎聞役を志願し、長崎にて死去。
 ここに、佐十郎の幼馴染みであり、城下で私塾を開く在野の人、間部暁斎(まなべぎょうさい)が関わってくる。佐十郎の意を受けて、峰たちに近づくのである。
 これで、大凡主な登場人物が出揃ったことになる。

 著者葉室の作品の多くは、2つの軸が絡み合いながらも広がりと深みを加えていくという構成になっている。この小説では、ストーリーに関係する様々な人々の出世欲という一つの太い軸に、愛というもう一つの軸が関わり合い、織り交ぜられていく。
 出世欲は裏返せば、悪意や見て見ぬ振りという間接的な悪意が関わってくる。そこに愛欲の問題が絡まるという次第だ。

 このストーリーで興味深いのは、やはり2重構造という構図である。
 1つは、過去層の構造である。関係者の出世欲に絡む小さな悪意に、第三者の意図的な悪意がノイズとして加わえられたことにより、悪循環がスパイラル的に拡大していく構造である。関係者に知らされていない原因部分が起爆剤となり、それぞれの関係者の解釈と思いのレベルで、悪循環が広がって行く。復讐という怨念を生み出す。関係者がその悪循環サイクルに陥っていくという構図である。それが過去の事実の謎解きのプロセスとして展開していく。過去の真実が徐々に曝かれて行き、そこに意外性が加わって行く。
 ここで、田代助兵衛は、黒子的存在となる。謎解きの糸口を与える役割を果たす。みずからの関心と欲からその原因をほぼ突きとめるが、結果的に殺害されてしまう。誰に殺されやのか? それが一つの読ませどころにもなる。
 ここで、最後に佐久良亮がこう答えているのが、興味のあるところである。
 「今回の件で悪人はひとりもいないようだ。しかし、ひとの心には時として魔が入り込む。魔は毒となってひとを次々に蝕んでいく。その様はまるで疫病のコロリのようだな」と。
 ここに作者が描きたかったモチーフがあるように思う。

 2つめは、現在層の構造である。過去のことに蓋をしておきたいがために取られる画策。そこには婚姻までも手段として使おうとする行動が現れる。
 ところが、ここに、嫌なものは嫌だとする現代的感覚が盛り込まれ、織り込まれていく。勿論その裏側には想い定めた恋心が潜んでいるからでもある。過去層との違いは、己の想いを拒否という形で行動化するところにある。その行動を取るのは千沙。千沙は誠之助に想いを寄せている。誠之助は気づいていない。しかし、徐々に・・・・。
 千沙の行動は、江戸時代に実際に取り得ただろうか? 私にはわからない。
 だが、この作品世界では千沙と誠之助の関係が実に楽しく読める。そして、菜摘と亮の間の愛の在り方も点描されていく。
 勿論、過去層から連綿と現在層に繋がっているある愛の問題が、この小説の大きな底流となっている。そこから出発しているストーリーでもある。
 現在層では、様々な愛の有り様が織り込まれていく構図となっていて印象深い。
 
 読み終えてから、あらためて表紙の装画を見直すと、う~ん、いいなあ・・・・と改めて感じた次第。謎解きプロセスから浮かびあがってくる暗さに対して、「風がかおるように生きなければ」という明るさが絵に表出されていて、うまくバランスが生み出されているように感じた。
 実は、表紙だけ見たときには、タイトルに合わせたのかちょっと軽い乗りだな・・・内容も楽しいタッチのストーリーなのかなと思って、この小説を読み始めたのである。
 だが、少しずつ核心に迫っていく謎解きプロセスを十分に楽しめ、最初の予想とは全くちがったストーリーに引きこまれて行った。千沙と誠之助の関わり方もおもしろかった。菜摘と亮の信頼関係が巧みに描かれている。そして、多佳という女性の生き方も読後に余韻を残す。一読をお奨めする。

 ご一読ありがとうございます。

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本書を読み、関心事項を少し調べてみた。一覧にしておきたい。
石坂宗哲 :「コトバンク」
石坂宗哲ノート :「疎簾風聞」
大隈言道 :ウィキペディア
大隈言道  千人万首 :「やまとうた」
大隈言道略伝 :「ささのや会」
長崎聞役 :ウィキペディア
長崎聞役 -江戸時代の情報収集者-  山下博幸氏 :「長崎楽会」
本草学 :「コトバンク」
江戸で生まれた植物学-本草学事始  大場秀章氏 :「こだわりアカデミー」
小野蘭山 日本の本草学の始まり もうひとつの学芸員室:「くすりの博物館」
オランダ商館  :「コトバンク」
出島和蘭商館跡  :「長崎市」
平戸オランダ商館の歴史  :「平戸オランダ商館」


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『はだれ雪』  角川書店
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27

『はだれ雪』 葉室 麟  角川書店

2016-05-10 11:43:11 | レビュー
 この作品もまた、赤穂浪士忠臣蔵異聞といえる。異聞としては、雨宮蔵人・咲弥夫妻を軸として描き出された『花や散るらん』につぐ2作目となる。作品構成の基調となるスタイルには通底する部分がある。『花や散るらん』では、西行の歌と能「熊野」に出てくる和歌が底流にあり、蔵人・咲弥という夫婦を中心としたストーリー展開を通して、忠臣蔵が関わり織り込まれて行った。この作品もまた、忠臣蔵の義挙決行を周辺部の観点から織り交ぜながら描くというスタンスである。
 著者は忠臣蔵という史実の間隙に、その周辺部に様々な人物を創作し、鮮やかに織り込んで行くことで、忠臣蔵のストーリーに光を当てていく。周辺部の人物を介して、その人物の生き様を主軸にしながら忠臣蔵の真実に迫るというテーマがここに結実している。

 この作品でも、忠臣蔵の史実に対して、著者が次の和歌などに惹かれたことが創作欲を膨らませているのではないだろうか。
   はだれ雪あだにもあらで消えぬめり世にふるごとやもの憂かるらん
と言う和歌の心が底流になる。この小説の主人公の一人、永井勘解由(ながいかげゆ)がふとつぶやいた歌として登場する。小説の中に『夫木和歌抄』に載る和歌と記されている。調べて見ると、『夫木和歌抄』巻十八・冬三に第7195番目の歌として収録されている。(国際日本文化研究センターの和歌デーダベース)
 そして、戦国時代を生き抜いた蒲生氏郷の辞世の歌といわれる
   限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風
 万葉集に載る大伴家持の歌
   わが薗の李(すもも)の花か庭に降るはだれのいまだ残りたるかも
この三首の歌に、箏曲「六段の調(しらべ)」(八橋検校作曲)、「梅枝(うめがえ)」(同作曲・別名<千鳥の曲>、源氏物語の『梅枝』に出てくる「梅が枝に 来いる鶯や ・・・・・」で始まる催馬楽と、琴、横笛、笙で奏される曲「想夫恋(そうふれん)」が配される。
 さらに、史料が残っているのだろう。この小説のストーリー展開に以下がぴたりと織り込まれていく。
 浅野内匠頭の口述による遺言
    この段かねて知らせ申すべく候へども、今日やむを得ざる事に候ゆえ、
    知らせ申さず候、不審に存ずべく候
 浅野内匠頭の辞世歌 
    風さそう花よりもなお我はまた春の名残をいかにとかせん
 萱野三平の俳句
    晴れゆくや日ころこころの花くもり
 大石内蔵助が作詞したという地歌の<狐火>と<里景色>
 大石内蔵助の詠じた歌 
    とふ人とかたること葉のなかりせば身は武蔵野の露と答へん
    あら楽し思ひはあるる身はすつる憂世の月にかかる雲なし
 神埼与五郎の詠じた歌 
    照る月のまどかなるままにまどいする人の心の奧もくもらじ
 吉良佐兵衛義周(さひょうえよしちか)が詠じた歌
    雨雲は今夜の空にかかれども晴行くままに出る月かけ
        
 この小説を読み、抜き出してみた。これらがストーリー展開のなかでどのように巧みに組みこまれ、織りなされているかも着目できるところだ。

 小説のタイトル「はだれ雪」は、主人公・永井勘解由がつぶやいた和歌の冒頭の句に由来する。著者は「<はだれ雪>は、はらはらと降る雪だとも、とけ残り、まだらになった雪だともいう」(p20)と付記している。勿論、勘解由のつぶやきは「世にふるごとやもの憂かるらん」という下の句に心境が表出されているのである。
 タイトルと照応するように、単行本の表紙に酒井抱一の「四季花鳥図屏風」の冬の場面が装画として使われているのも良い趣向と感じる。
 「はだれ雪」自体は一方で、赤穂浪士の討ち入りの日を象徴しているとも考えられる。
 この小説の時の流れは、元禄14年(1701)11月から16年の春にかけてである。

 主人公となる永井勘解由は、赤穂浪士の討ち入り、忠臣蔵に関わる史実の間隙にフィクションとして創造した人物だろう。手許にある数冊の忠臣蔵に関する事実を分析する書を通覧した限りでは該当の人物は存在しない。逆にいえば、異聞として周辺部から忠臣蔵を副次的ストーリーの軸として語る上で、実に興味深い設定となっている。
 勘解由は、二千五百石取りの旗本で、目付役だった。浅野内匠頭が切腹した日、切腹場所である田村右京大夫の屋敷に内匠頭の切腹する直前に、閉じ込められていた襖越しにわずかに言葉を交したという。勘解由は、稲葉正通の名を使い、目付として派遣されていた多門(たかど)伝八郎に問い合わせがあるとして田村屋敷に入った。しかし、勘解由も目付役ではあるが、浅野内匠頭の刃傷沙汰とは、役目上では無関係だったのである。なぜ勘解由が出向いたのか? そこには勘解由の内心に秘めた解けない思いが行動をとらせえた動機にある。著者も小説に明記しているが、検使としての目付・多門伝八郎は浅野内匠頭の切腹の前に様々な異を唱えた人物で実在した人で、自署を残している。
 勘解由は浅野内匠頭の最後の言葉として何を聞いたのか? それについて様々な立場の人々により様々に憶測され、それが行動にも反映していくところに、このストーリー展開の面白さの一端がある。勘解由は黙して語らずの立場を当初は貫く。

 殿中での刃傷事件の後、老中稲葉丹後守正通(まざみち)は刃傷沙汰発生の経緯が明らかになるまで、切腹の見合わせを主張したが、側用人柳沢美濃守吉保(よしやす)が切腹の断を下し、幕閣が押し切られたのである。浅野内匠頭の切腹見合せを稲葉正通に進言したのが勘解由だったという。また余談だが、上記『花や散るらん』では、柳沢保明という名前で柳沢吉保が登場している。保明から吉保に改名しているだけで、実在した同一人物である。元禄14年3月時点では、既に吉保と改名していたということか。ならば、前作は以前の名前で書かれていたことになる。勿論、小説なので厳密性は問わなくても作品を楽しむ分には何ら支障はない。少し調べた範囲では、不詳。なお、綱吉の諱の一字「吉」を与えられて「吉保」と改名したそうである。保明と吉保を一時期併用していた可能性もある。

 この勘解由の行動が将軍綱吉の怒りにふれて扇野藩にお預けの身となる。実質上は流罪である。
 この小説は、勘解由が扇野藩内の預け置かれる屋敷に到着するところから始まる。
 扇野藩といえば、これも余談だが、葉室ワールドでは、『さわらびの譜』の舞台となった六万三千石の小藩である。
 小藩にも内部に確執がある。家老馬場民部と次席の才津作左衞門は派閥争いを続けている。勘解由を流罪人として預かるにしろ、相手は旗本である。両者にとり、勘解由の扱い方について考え方が異なる。この事態をも政争相手を引きずりおろす材料と考えている。
 流罪は一時的なもので綱吉の勘気が解けて江戸に呼び戻され、勘解由が幕閣に登用されるかもしれない。そうなら預かり中、粗略に扱うと将来に小藩の立場が悪くなるかもしれない。綱吉が気ままであるという噂もあり、綱吉の勘気が解けないと、厚遇しても無駄となる。流罪人を厚遇すれば世間のもの笑いになる可能性もある。勘解由が浅野内匠頭から何かを聞いているなら、浅野の旧家臣が近づくことも考えられる。それを防げなければ、扇野藩のは幕府の責めを受ける立場に陥る。吉良殿が浅野の旧臣に殺されるような事が起これば、その影響が扇野藩にどう及ぶか計りしれない。藩主信家は家老達の考えのいずれかを取るということはできない。ただ見守るだけである。
 馬場民部が「ほどよきとことの対応が大事だ」という考えから始まる。そして、勘解由に関わり派閥抗争の策謀が繰り広げられていく。それぞれが藩のためと称して・・・・。
 勘解由を扇野藩がどのように扱うかというやり方がストーリーの展開を色づけて行く。
 
 扇野藩は勘解由を幽閉する屋敷に接待役として、嫁して3年だが後家となり子も生さずだったため実家の勘定方桑田家に戻っていた24歳の紗英(さえ)に接待役を命じる。家中でも琴の名手として知られ、控え目に世過ぎをしていたので、藩は適任と判断したのだ。接待役という名目だが、勘解由の監視役を兼ね、身の回りの世話をするというもの。勘解由に求められれば、流罪先での現地妻に等しい役割を果たせという訳である。
 藩の為政層の様々な思惑が絡んでいるため、紗英に選択の余地はない。そこで、紗英は「自ら望んだように振舞う矜持を保とうと心に決め」(p14)、「わたしと永井様は結ばれてはならない」(p84)と自分に言い聞かせる。この紗英がもう一人の主人公である。ストーリーは、紗英の想いを主流にして語られていき、勘解由の想いが重奏していく。

 紗綾と勘解由のそれぞれの過去が、二人の関わり方を大きく色づけていく。
 紗綾は中川三郎兵衛の妻だったが、藩主が参勤交代で帰国の途次、間もなく国境というところで不慮の死を遂げる。行列の通過のために、古びた小橋を先行し確認に行くが、野犬が群がり寄ってきた。それを避けようとして足を踏み外し橋から落ち、露出の石に頭を打って死亡する。武士としてその死を取り沙汰されることになる。後家となった紗英は実家に戻る。夫の死に様が障害となり、世間に遠慮して生きる境遇に置かれていた。つまり、扇野藩の為政層にとり、紗綾は体の良い道具とみなされたのである。
 勘解由は、父・松平隼人正と母・よしの息子だったが、勘解由が元服する前のある日、母が屋敷にて自害し、その後を追うようにして割腹死した。側用人の柳沢吉保が父の割腹を乱心しての自害と決めつけたという。松平家は改易となり、勘解由は親類預けの上、永井家の養子となった。親戚の者から母が自害する前に縁戚であるさる大名家に将軍の<お成り>があった際、手伝いのため出向いていたということだけそっと教えられた。また勘解由は「黒田殿に倣われたか」と親戚の者が漏らすのも聞いていた。勘解由の妻は嫁いできた後二年余りで病死したという。子供もいないので、勘解由は天涯孤独の身だった。勘解由は、柳沢吉保に取り立てられてきた反面、両親の死について確かめたい想いを心の内奥に秘めているのである。
 流罪人勘解由、藩から接待役を命じられた紗英、召し使いとして松蔵と百姓娘のなかという4人の生活が始められていく。

 この小説は、忠臣蔵異聞語りが重要な筋ではあるが、メインとなるストーリーは、勘解由と紗英という二人の在り方・関係が徐々に変容を遂げていくプロセスだと私は思う。著者はその経緯を詩情をこめて描いている。和歌や箏曲などが共鳴していく。
 勘解由を幽閉する屋敷内での距離を置いた関係から、互いの人間性が伝わり始め、心に意識的に覆い被せていた氷層が徐々に溶けていく。互いの心情の通じ合いが深まっていく。互いの障壁となる浅野家の問題への対処の姿勢が、互いの関わりを深めて行く媒介に転換して行くのである。読者は次第に葉室ワールドに引き込まれて行くことだろう。

 勘解由の護送役となった佐治弥九郎が、勘解由幽閉後は、藩家老と勘解由の間の窓口となる。江戸表に大石内蔵助が入ったという報せが届くと、弥九郎は勘解由に心当たりがないか問いかけにくる。その翌日、手紙の交信を藩に認められている勘解由は、江戸で旗本の家士を勤める内藤万右衞門宛てに手紙を出す。勘解由が浅野旧臣の動きに関心を持ち、情報を得ようと考えているのではと紗英は気づくが、気づかぬふりをして、飛脚便での手紙の送達を引き受ける。ここから、結果的に勘解由と赤穂浪士の秘やかなつながりが展開していく。勘解由が投げた一石が様々な波紋を広げ、忠臣蔵異聞が紡がれていくことになる。
 密かに大石内蔵助自身が荻野藩内の幽閉屋敷を訪れてくる。さらに、大石の指示を受け吉田忠左衛門が訪ねてくる。そして、堀部安兵衛もまた・・・・。そして、再び大石が密かに再訪することとなる。
 それは、勘解由を監視する藩側に大きな波紋を引き起こしていく。その展開がひとつの読ませどころとなっていく。
 
 大石内蔵助自身も、この小説では准主人公である。大石内蔵助とともに、忠臣蔵の骨子となるストーリーが挿話的に織り交ぜられていく。忠臣蔵の粗筋を知っていても、違った視点からの語り口は新鮮である。

 さらに言えば、佐治弥九郎と堀部安兵衛の人物描写が一つの楽しみ所にもなっていく。副次的にこの二人の生き様にも光が当てられているように思える。

 この小説では、吉良邸討ち入りへのビフォーだけでなく、討ち入り後のアフターが異聞として重要なのだ。勘解由と紗英がどうなったかということである。
 読者には、心温まるエンディングとなるということだけ述べておこう。葉室ワールドに浸る楽しみを奪わないために。
 
 最後に、勘解由が語る言葉をご紹介しておこう。勘解由の人生と生き様に関わる発言である。
*大なるものには、大なるがゆえの都合があり、小なるものには小なるがゆえの意地があるということです。  p25
*武士たるものが口にすべきことではないが、ひとの死はまことに悲しきこと。徒やおろそかにひとを死なせてはならぬ。  p39
*わたしは流人の身とはいえ、幕臣だ。江戸で騒ぎが起きることは望まない。ただ、ひとの誠が尽くされるならば、それは見たいと思うが。  p45 
*武士は戦で殺生をいたすのが、本道だ。それゆえ、地獄は必定を思い定めねばならぬ。しかし、同じ地獄へ参るにしても、武士の誇りはうしないたくないと私は思っている。 p151
*日々、どのように生きるかが士道であると私は思っている。 p209
*花は咲くべき時をおのずから知って、何の迷いもなく咲く。それゆえ、あのように清々しいのかもしれぬ。  p214
*さて、いかなるときも、武士は常在戦場でござる。危難について深く考えを及ぼしてもせんないことでござろう。  p285
*ひとは皆、さしたることでもなく、思わぬところで悲運に出会ったりいたします。嘆き沈むのはやむを得ないと存じますが、何より大事なのは悲運に負けて立ち止まらぬこと、歩き続けることではないかとそれがしは思っております。 p378
*ひとは自らの心願だけで生きられるものではない。生きていることを願ってくれるひとの想いに支えられて生かされているのだ。  p422

 ご一読ありがとうございます。

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この作品を読み、関心事項を少し調べて見た。一覧にしておきたい。
柳沢吉保公  :「財団法人 歴史博物館」
六義園 概要 :「庭園へ行こう」(東京都公園協会)
徳川綱吉  :ウィキペディア
小人症だった犬公方―徳川綱吉  日本史上の絵画 :「健康百科」
吉良義央  :ウィキペディア
吉良上野介義央と吉良左兵衛義周の生涯 :「赤穂においでよ!」
元禄赤穂事件の一部始終  :「赤穂においでよ!」
多門重共  :ウィキペディア ← 多門伝八郎 
多門筆記偽書弁  田中光郎氏
田村建顕  :ウィキペディア ← 田村右京大夫
細井広沢  :ウィキペディア
細井広沢  :「コトバンク」
公弁法親王 :ウィキペディア
公弁法親王 :「コトバンク」
夫木和歌抄  :「コトバンク」
夫木抄(夫木和歌抄) 日文研データベース
いわれ 「笹之雪」の名の起り :「根ぎし 笹之雪」
輪王寺宮  :「コトバンク」
東叡山寛永寺の歴史 :「東叡山寛永寺」
日光山 輪王寺とは  :「日光山輪王寺」 
吉良上野介を巡る旅  :「西尾市観光協会」
江戸の元禄忠臣蔵史跡の散歩 :「東京散歩『江戸史跡散歩』」

現代人の心に響く時代小説編  :「日刊ゲンダイDIGITAL」
連載小説 はだれ雪 を終えて  葉室麟  :「『聖教新聞』宝さがし」


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27


『いのちの樹  The Tree of Life』 内藤順司 主婦の友社

2016-05-07 14:11:57 | レビュー
 この本は写真集である。カラー写真とモノクロ写真がその特徴を生かされて絶妙に織り交ぜられている。写真集は、絹・グラン・母と子・手の記憶・宝・灰の魔法・伝統・纏(まとう)という8セクションで構成されている。その見出しは、日本語、英語、私には読めないが多分カンボジア語の3ヵ国語で表記されている。要所要所に添えられた文は日本語と英語のバイリンガルで記されている。そのためだろう、本書の背表紙には日本語で著者名が記され、表紙には冒頭のカバー写真の通り、PHOTOGRAPHS JUNJI NAITO と英文表記となっている。

 親指と人指し指で絹糸をつまむ深い皺いっぱいの左手に光があたった写真が表紙に使われている。この写真がこの写真集を象徴している。この左手は「手の記憶」の象徴でもあるのだ。

 サブ・タイトルは「IKTT 森本喜久男 カンボジア伝統織物の世界」となっている。IKTTは、Institute for Khmer Traditional Txtiles の略称、つまりクメール伝統織物研究所である。その代表が森本喜久男氏。表紙に惹かれてこの写真集を手にし、初めて、同郷・京都生まれというこの人物を知った。
 本書は、コインの表はカンボジア伝統織物の世界の復興、コインの裏は森本喜久男の生き様を写真に結晶させた作品集といえる。数葉の写真を別にして、森本の生き様はカンボジアの人々と現地の風景写真、それらに添えられた文を通して表出されている。
 復興と再生というストーリーのある写真集だ。その復興と再生の仕掛人が森本喜久男氏だと言える。IKTTはカンボジア国のシェムリアップ州アンコールトム郡に拠点があるという。

 カンボジアは1970年代、ポルポト政権下で70万~300万人が虐殺されたと言われる。内戦で大地は荒れ、人々の生活は奪われた。「疲弊していく国の中で、伝統的なカンボジア絹織物も途絶えかけていた。」
 カンボジア絹織物との出会いが京都の友禅職人として工房を開いていた森本氏をタイ・カンボジアの現地での30年に及ぶ織物の調査に導いたという。
 それが、1996年にカンボジア現地NPOとして、プノンペン郊外でのIKTT設立、2000年にIKTTのシェムリアップ移転、2003年からの「伝統の森・再生計画」着手という経緯になったという。

 「手の記憶」に次の文が載っている。
 ”伝承された絣布の文様、それは織り手の記憶のなかにある。
  そのために必要な図案や設計図などのテキストはいっさいない。
  祖母から母へ、母から子へ。  
  伝えられてきた手の記憶。”
それが内戦の中で途絶えかけたのだ。このカンボジア伝統織物の復興、「その腕に見合った仕事とそれに見合った対価を提供したい」、その想いが森本氏の活動の原点にあるという。
 
 カンボジアの伝統的織物はカンボジアの大地の自然の恵みの賜である。内戦で大地が荒れた結果、人々の生活と伝統の継承が危機に陥って行ったのである。
 蚕を飼い、生糸を紡ぎ出す。染料は全て自然の大地、森からの恵み、採集による。自然の染料は化学薬品には馴染まないという。自然の色を扱う時、絶対にバナナの灰でなければならないそうだ。そこには「灰の魔法」がある。
 伝統織物の復興には、大地の再生、つまり、森の再生が不可欠なのだ。伝統の森の再生である。そこに人々の生活の手段と場が創出され、初めて手の記憶に基づく伝統織物の世界も復興し、未来に継承されることに繋がって行く。

 蚕から糸を引き出す年輪を刻んだ手の作業、畑仕事、準備作業、機織作業などの織物の工程シーンの写真、カンボジアの自然、森に隠れる古代遺跡などの写真が織りなされていく。
 仏像の施無畏印の手のシルエット写真から始まり、仏像が開いた掌を重ねる印相の写真で終わる。その間に、冒頭のセクションで写真が編集されている。
 私はその中にある子どもたちの写真に特に惹かれる。澄みきった瞳、その笑顔がすごく素敵だ。「グラン」は女の子の名前。流れ着いたIKTT伝統の森で輝く心を取り戻した少女。その輝きが2枚の写真に凝縮されている。「母と子」の冒頭にある赤ちゃんの寝顔、実にいい。これらはモノクロ写真だ。
 一方、森の木の葉の様々な色づきがカラー写真で撮られている。自然の生み出す芸術である。なんともいえない色合いの微妙さが写真におさめられている。
 森の再生と人々の生活の再生は一体なのだということを感じることができる。
 最後の「纏」には、自然の染料で染められ、手の記憶で織りあげられた様々な色合いと図柄の伝統織物が写真として切り取られている。素朴だが飽きることなく愛着を持てそうな織柄である。

 本書の冒頭に、この写真集を上梓する契機となった経緯を著者が記している。その中の一文を引用しておきたい。

 「この写真集は、それから数度の訪問を重ね今や私の人生の師であり
  良き兄貴とも呼ぶべき森本喜久男氏が自然の根底から物を見つめ直し実現させた
  究極の美しい布を創生する環境、暮らし、人々の手の記憶を描いたものである。」

 "This photo collection portrays the environment that creates the supreme
  beauty of background, the daily life and culture of these people. The more
  I visited there, I began to realize, as my mentor and soulmate Mr. Kikuo
  MORIMOTO did, a reexamination of the underlying nature supporting life."

「伝統」の冒頭に添えられた文から、次の2行を最後に抽出しておこう。これは森本喜久男氏の想いなのだろう。

   伝統は守ってはいけない。・・・ 伝統というのは今の私たちが創っていくものだ。

 そして、写真家内藤順司は、末尾のメッセージの中にこんな一文を記す。

   種から森をつくり、絹絣の根源的な美しさを生み出す。 

 森本氏との出会いから生まれたこの写真集は、この一文のプロセスの結晶でもあるといえる。手にとって写真を味わっていただきたいと思う。

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『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』  堂場瞬一  中公文庫

2016-05-06 10:14:09 | レビュー
 刑事・鳴沢了シリーズは10作で一応の区切りを迎えている。その鳴沢と関わりを持ち事件に関与した周辺の人々が、事件を通して感じた鳴沢了を語るという短編集である。『久遠』(2008年)から4年経過して、この短編集が2012年2月に文庫本として出版された。
 親子三代にわたる警察官一家において「刑事として生まれた男」鳴沢了の真実が他者の目から浮き彫りにされるという趣向である。シリーズからは漏れていて、鳴沢了が関わった事件を語るというタッチでエピソードが綴られていく。鳴沢という男に対する7人それぞれの証言が事件との関連で語られるのでおもしろい。

証言1 「瞬断」
 この短編での証言者は、警視庁失踪課シリーズの主人公となる高城賢吾である。
 事件は第一機動捜査隊所属の巡査部長、武知治が同僚の麻衣と職場結婚する。その結婚式の当日、高城も鳴沢も披露宴に列席していた。高城の隣の席が鳴沢だった。高城は鳴沢について「マッチを擦っただけでビル火災が起きる男」という評判を耳にしていたことを思いだし、なぜか胸騒ぎがする。その矢先、主賓の機動隊長の許に顔面を真っ青にした係員が駆けつけて耳打ちする。
 隊長が列席する警察官に招集をかけた。この結婚式場に時限爆弾を仕掛けたという電話が掛かってきたという。爆発は30分後という予告電話だった。即座に鳴沢が行動を起こす。高城は鳴沢の後を追う。鳴沢の動きが大事に発展することを恐れて・・・・。
 犯人を押さえ、避難完了と思ったところが、招待されていた人の子どもが一人見あたらないという。
 高城は思う。”あんな「24時間刑事」を標榜する男は、絶対に友人にしたくない”と。 実に鳴沢らしい事件対応が鮮やかに切り取られている。まさに了の「瞬断」が働いた事件エピソードである。

証言2 「分岐」
 この短編での証言者は、元刑事で鳴沢の良き同僚であり、現在は万年寺の副住職になっている今敬一郎である。
 今は実家の坊主になってから、住職の父と一緒にNPO法人「凪(なぎ)の会」を運営している。刑務所を出所した人が仕事を見つけるまで一時的に身を寄せられる施設を運営しているのである。覚醒剤使用で実刑を受け、出所して3日の福井と相部屋だった水野が痕跡を残さずに施設から逃げ出した。福井は、前夜水野が「東京へ行って、仕返ししてやる」と言っていたと告げる。今にとり、水野に縁のある多摩地区で頼りになるのは鳴沢だけ。鳴沢に話をすると、小野寺に頼めばとまずは拒絶の言葉で返答された。今が「復讐」を考えているようなのだと言うと、鳴沢が反応し「早く動いた方が良いだろう」とエンジンがかかる。
 「今夜は何もなかった。犯罪と言えるようなことは」「ここから先は、凪の会の責任だ」鳴沢のこの発言に、鳴沢の変わった部分、変わらない部分を今は意識したのだ。
 今は思う。”この男は・・・情けがないわけではない。以前は、人に同情を感じるハードルが高かっただけなのだろう。”と。人の目には「非情の鳴沢」と映じる。だが、そうじゃないのだというエピソードである。鳴沢の違う局面を見せてくれる。

証言3 「上下」
 この短編での証言者は、新潟県警西新潟署刑事課の係長となっている大西海である。
 東京の事件で殺人として逮捕状が取られている容疑者を大西係長が指揮した張り込みで逮捕する。その時新米の小室刑事が頭部に負傷する。部下の古参刑事金田が大西の判断を咎めて始末書ものだと皮肉る。武井署長は大西に始末書など不用と告げる。
 大西海が容疑者高倉博史を金田刑事と共に車で東京に護送する。鳴沢が取り調べを担当することになる。容疑者逮捕に絡む状況を聞いた鳴沢は大西を取り調べに立ち合わせるという選択をする。それ自体が異例なことだ。
 鳴沢は容疑者に関わる組織の上下関係を読み切った。そこで大西を敢えて同席させたのだった。
 この事件、相棒の藤田刑事が大西との会話でさりげなく触れられているが、鳴沢が結婚した後での事件という設定になっている。
 事件解決後、鳴沢が大西に失敗を恐れていると指摘する。「部下のやり方が間違っていると思えば、拒絶すればいい。君にはそうする権利も義務もある。失敗したら、頭を下げるなり始末書を書くなりすればいい」と。若いというのはやり直しがきくことだとも言う。それに対し、「何とかなります。鳴沢さんみたいな部下が下に来なければ、ですけど・・・・。」と海は答えた。その一言に、鳴沢が食事を奢るのを撤回すると言う。末尾は「その顔には困ったような笑みが浮かんでいた」である。おもしろい!
 
証言4 「強靱」
 この短編での証言者は、横浜地検検事の城戸南である。
 長瀬龍一郎は鳴沢了をモデルに「雪虫」という小説を書こうと取材を続けている。長瀬の知らない鳴沢の一面について情報収集をして小説を膨らませる材料にしたいと考え、関係者に取材をしているのである。そして、城戸南から取材の応諾を得た。
 開口一番、城戸は「好き嫌いが分かれそうなキャラクターだね、彼は」と長瀬に語る。そして、1年ほど前の事件を長瀬に語り始める。城戸は、それが鳴沢の警視庁での立ち位置がよく分かる話だという。
 川崎市内の住宅街で午後5時頃、通りかかった女性が首筋を切られ出血多忙で間もなく死亡。犯人は逃走する。事件発生場所は、神奈川県と東京都の境界付近だった。それで神奈川県警と警視庁の捜査一課長同士が捜査権の主導権争いをすることになる。公団住宅の一室に犯人が立て籠もる事態に発展した。上の裁可なしにその現場近くを捜査していた鳴沢が、己の判断でその部屋の上の階部分に達していた。鳴沢の行動が、後で物議を醸す。 取材の最後に、城戸は言う。「ほとんどの人は、できるだけ彼から離れていて、利用できる時に利用しようとしか考えていない。だけど、人間として好きだと考えている人間も、間違いなくいるんじゃないかな」と。
 鳴沢はやはり人間として魅力があるのだ。わかる人にはわかる・・・・。つまらぬ柵にはとらわれず、目的にむかってズバリと突き進む。己の信念で行動する人間の発する魅力だ。
証言5 「脱出」
 この短編での証言者は、鳴沢の相棒、「鳴沢ストッパー」を自任する藤田である。
 藤田と鳴沢は本庁の組織犯罪対策部から急な指示を受け、麻薬のディーラーをしている暴力団幹部のアジトを急襲するという行動に加わる。拳銃携行である。二人は現地で、アジトの一部とみられる廃工場に潜入し探索することを命じられる。暗闇の中で、二人は背中を押されて地下室に落とされる。蓋がされ、彼らは閉じ込められてしまう。その地下室を調べた鳴沢は2キロぐらいありそうな大きな袋を発見する。それは覚醒剤だった。どのようにして脱出するか?
 鳴沢は負傷した藤田を病院に運ぶ。藤田がロッカーにいれているという子どもの誕生日のためのプレゼントを後で病院に届けると鳴沢は約束する。
 「家族のことは、『無駄なこと』じゃないだろう」と鳴沢は低い声で言う。
 藤田は思う・・・御前、いつからそんな風になったんだ?軟弱だとは言わないけど、優先順位が変わったのか?・・・と。
 鳴沢は、変化しつつあるようだ。家族への比重が大きさを増している!

証言6 「不変」
 この短編での証言者は、小野寺冴である。
 所長が引退した後、探偵事務所を一人で運営する小野寺に、鳴沢が映画のプロモーションで来日中の勇樹の警護を依頼に来る。ニューヨークの自宅に脅迫状が届いたという。七海がそのことを鳴沢に報せてきたのだ。事情を聞き、小野寺は依頼を引き受ける。
 警護を続ける経過の中で、勇樹が「友だちに会いたい」という予定外の希望を冴にぶつけてくる。冴はそれを認めてやり、その間の警護も引き受けることになる。
 勇樹が友だちと会っているのを警護する小野寺の側に鳴沢が現れる。
 冴と了との会話の終わりに、冴は了のことをこう思う。「この男は・・・鈍いというのは、絶対に変わらない性格なのかもしれない」と。
 「不変」というタイトルは、冴の本心を理解しない鳴沢の鈍さをさしているのだろう。その一方で、鳴沢が冴に今まで通り探偵の仕事をつづければいいと言うその思いをもさすのだろう。了は冴に「自分の仕事に強いプライドを持った人でいて欲しい」と語るのである。

証言7 「信頼」
 この短編での証言者は、勇樹である。
 泳げない勇樹が「ハワイ在住の、サーファーを目指す高校生役」を演じるためにハワイに来ている。映画の主役はサーフィンの腕がプロ級という16歳のホリー・アレンであり、彼女は映画初出演である。演技の方は素人同然なのだ。こんな二人がジャック・ヴァランス監督の下で、撮影に入っている。
 夏期休暇を取った鳴沢は、勇樹が撮影に入っているこのハワイで家族の再会をしようと計画した。その一方で、鳴沢は勇樹の警護という意識でいるのだ。
 泳げない勇樹と演技がうまくできないホーリーの間に友情が芽生えていく。
 勇樹の実の父が勇樹に会いたいがために偽名でハワイに来たという。勇樹と了はそれぞれの決断に迫られていく。
 勇樹は「了はいつも近くにいる。たとえ距離が離れていても、親子であることに変わりはない」と思う。鳴沢了にとり確固たる家族の絆がまた強くなった瞬間だ。刑事としての了の信念は不変だが、生きる姿勢は大きく変わりつつある。
 あらたな始まりを予感させて、この外伝が終わっている。

 鳴沢了を周囲の目から多面的に見せるという意味でおもしろいアプローチである。また短編集なので、事件の展開はシンプルでストレートなものばかりであり、読みやすい作品集となっている。

 巻末に、「著者に聞く ~鳴沢という男~」と題したQ&Aが7ページにわたって収録されている。このQ&A、なかなか興味深い回答になっている。この鳴沢了シリーズは、最初はなんと単発のつもりで作品が書かれたという。結果的につぎつぎとシリーズ化したそうである。他にもおもしろいことが話されている。ここを読むことで、逆に刑事・鳴沢了に関心を抱くきっかけになるかもしれない。そんな気がする。

 ご一読ありがとうございます。


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徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下 中公文庫
『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』   中公文庫
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『熱欲 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『破弾 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『雪虫 刑事・鳴沢了』  中公文庫

『鹿の王』 上・下  上橋菜穂子  角川書店

2016-05-03 09:18:55 | レビュー
 タイトルに惹かれて本書を手に取った。この作家を知らなかったので、新人作家が登場してきたのか・・・・と勝手に思っていた。本書の奥書を見て、びっくり!
 1989年に『精霊の木』という作品で作家デビューされていて、児童文芸の領域で活躍されている作家だった。この領域では数々の本を書き、国内外で数々の受賞をされている。児童文芸の領域は子供時代後は近づくこともなかったので、知らなかったのも当然かもしれない。
 さて、本作品は高学年の生徒から大人までを広く読者対象とするのだろう。だが直接の対象は大人だという気がする。
 「あとがき」で著者が使用する言葉でいえば、「共生」と「葛藤」について、壮大でファンタジーな世界を創造し描き上げていった作品である。動物の一つにトナカイが出てくる。北極周辺の奥深い森林地帯と広大な山野の広がる地域に巨大な帝国が築かれていて、その一地方で起こった物語という設定と想像する。
 交通手段に使われるのは、主に馬とトナカイ、そして飛鹿。武器は弓矢、剣、槍と一部火弾(火薬)が使われている。その一方で、顕微鏡が使われている。そういうファンタジーな時代設定になっている。漢字には独自のルビが振られている。その読みが著者による造語なのか、そういう発音をする言語が実際に存在するのかは不詳である。独特の読み方のルビがファンタジーさを高めている。たとえば、設定された強大な帝国は「東乎瑠」という名称で「ツォル」とルビが振られている。タイトルの「鹿の王」につながる「飛鹿」は「ピユイカ」と呼ばれている。最初はその読み方に戸惑うがすぐに慣れ、ファンタジーな独立した時空間に引きこまれて行く。日常生活にはない特異な名称と読み方が独自の世界に読者をワープさせる手段にもなっているようだ。

 まずはこの物語で設定された空間とそこに共生・共存する人々の関係に触れておく。
 トガ山地を最西端とするアカファ王国が強大な東乎瑠帝国に呑み込まれる。アカファ王国が東乎瑠帝国に巧みに恭順することで、アカファの地が帝国の属州として一定の地位を与えられ平民の暮らしも保障されている。アカファ王は統治する王ではなくなったが、この地では隠然たる力を温存していく。最西端のトガ山地に点在する各氏族はアカファ語をしゃべるが、それまではアカファ王に恭順を示す代わりに緩い自治権を許されていた独立民だった。そのため、彼らは東乎瑠帝国からみれば属州平民ではない。征服されれば下層民になる立場で、東乎瑠帝国の拡大において辺境支配のために使われる駒となる。意識的に故地から引き離して、遠方の征服地に入植させられる境遇だ。征服された氏族は下層民として過酷な生活環境での暮らしを強制される。
 トガ山地は東乎瑠帝国の西の国境となる。さらにその西にはムコニア王国があり、ムコニア王国はアカファの地に侵略することを常に狙っている。つまり両者は敵対関係にある。

 さらに一時代遡ると、アカファ王国の地に古オタワル王国があった。南はユカタ平原、北はオキ地方、西はトガ地方のあたりまで緩やかに支配していたのである。オタワル人は医術や土木技術、工芸に優れ、豊かさを謳歌してきたのだが、奇病・疫病の流行により王国は衰退していく。最後の聖王タカルハルが、疫病の害を免れたアカファ地方の交易都市カザンの都主に王国の統治権を譲ったことにより、アカファ王国が誕生するという経緯がある。

 東乎瑠帝国の皇帝は那多瑠(ナタル)であり、東乎瑠帝国の属州となったアカファは帝国から派遣された王幡(オウハン)侯が領主となっている。王幡侯には2人の息子がいる。長男は傲慢かつ強引な男で名は迂多瑠(ウタル)。征服した氏族は下層民として辺境支配に利用し過酷な命令に従わせている。次男は与多瑠(ヨタル)。アカファ王の姪・スミルナを妻にして、内剛外柔で融和的思考をし辺境での柔軟な運営を志向する。対照的な姿勢の兄弟である。王幡侯の支配するこの王幡領には、呂那(ロナ)という王幡侯の主治医の祭司医長が居る。

 そこに、オタワル人で医術に天賦の才を開花させたホッサルが登場する。高名な医術師である祖父・リムエッルの助手として、東乎瑠帝国皇帝の后を恐ろしい死病から救ったことにより、彼の名前が帝国に知れ渡る。リムエッルは<深学院>という名の医学院の主幹であり、ホッサルもまたこの<深学院>を拠点として医療研究と治療活動に携わっている。彼ら<オタワル聖領>の人々は、優れた医術を特技として東乎瑠帝国に恭順の意を示しながら、支配階層の内懐に深く入り込んでいったのである。
 ホッサルの手足として働く従者マコウカンもまた、ホッサルの奇跡の手による治療で一命を取りとめた一人だった。

 アカファの地は古オタワル王国の北西に位置する。アカファにはその宝である岩塩鉱がある。深い森と山稜に生息する獣たちからは良質な毛皮が得られる。塩と良質な毛皮が多くの商人をこの地に惹きつけてきた。
 南部のユカタ平原には広大な草原があり、火を思わせる赤毛の火馬(アフアル)が育つ地で、<火馬の民(アフアル・オマ)>が暮らしていた。<アカファの火馬>がアカファの騎馬軍団を支えていたが、征服されると火馬の種馬は東乎瑠に接収され、火馬の放牧地は東乎瑠から移住させられた牧羊民たちによる羊の放牧地と化していく。それはこの地域の生態系を変えていくことにもなる。と同時に、<火馬の民>が他所の地へ分散移住せざるを得ないという憂き目に導く。さもなければ、東乎瑠との葛藤・対立を続ける反抗の民になる道である。
 ユカタ山地の縁には沼沢地が点在し、そこは<火馬の民>の下層民として召し使いのように扱われてきた<沼地の民(ユスラ・オマ)>がひっそりと暮らしていた。<火馬の民>は分散させられてしまったが、足を踏み入れるには危険な場所となる沼地に住む目立たない<沼地の民>は故郷に留まることができた。だがその沼沢地の一部にまで牧羊民が移住してきている。沼地の生態系も乱され始める。
 北部のオキ地方は遊牧民が集まる土地柄でありトナカイとともに移住する人々あるいは山地と森が広がる地域にはトナカイを飼いながら狩もする半牧半漁の民が暮らしている。 最西端のトガ山地には、トガ山地民がいる。ガンサ氏族の長達は長期の話し合いの結果、東乎瑠軍に徹底抗戦を叫ぶ勇猛な戦士団<抵抗の民>を作り、その戦いによりたやすく支配できる氏族ではないことを示そうとする。東乎瑠と交渉において氏族に取って有利な条件を引きだす策を取る。捨て石として<抵抗の民>が活躍したのだ。
 
 ここで東乎瑠帝国の属州となったアカファの地における人間関係の複雑さが浮かび上がってくる。東乎瑠の支配層、元アカファ王国の王族の人々、アカファ人で被征服者として平民となった人々、オキの遊牧民、<火馬の民>、<沼地の民>、ガンサ氏族などのトガ山地民、東乎瑠から移住した牧羊民たち。これら諸氏族が共生・共存する一方で、葛藤・対立を繰り広げていくことになる。この有り様がこの物語の一つの相になっている。共生・共存と葛藤・対立はいつの世も人間社会に常に併存するという現実。そこには現実の世界を投影する寓意があるように思う。

 こういう全体状況を背景にしてこの物語が始まって行く。
 ヴァンはガンサ氏族が作りだした<抵抗の民>つまり<独角>の頭として東乎瑠を相手に果敢に絶望的な戦いを繰り広げる。しかし遂に敗れて捕まる。アカファ岩塩鉱に囚われて、終身過酷な岩塩採掘の労働を課せられる奴隷に身を落とす。
 その岩塩鉱で鎖に繋がれて眠る奴隷達のところに、恐ろしく剽悍で残酷な山犬(オツサム)たちがある日突然に飛び込んで来る。そして番人をはじめ東乎瑠の死刑囚や敗戦奴隷達を襲い次々に噛みついていく。噛まれた人々は一週間余の間に次々と死んでいく。謎の病が発生し、累々と死体が転がる光景となる。獣と戦ったヴァンも噛まれたのだが、なぜか生き残ったのだ。噛まれたことが原因なのか、生き残ったヴァンには思わぬ能力が生まれてくる。岩盤に繋がれていた鎖を断ち切る力が発揮できたのだ。そして、岩塩鉱から脱出する。
 岩塩鉱の周囲は、物々しい鉄柵で囲われている。内部の人々は死に絶えた。門衛の小屋で足枷を外す鍵をヴァンは見つける。ヴァンは奴隷用の食事を作る厨房の竃の中で、幼い女の子が生き残っているのを発見する。母親らしき女が竃の中を守るようにして死んでいた。幼子の左足に細長く引っかかれたような跡があるのだが、ヴァン同様なぜかこの子も生き残ったのだ。適当な衣服を探して着替え、当座生き延びるのに必要な金を盗み、負ぶい紐で幼子を負ぶって、岩塩鉱からヴァンは逃走していく。ヴァンは幼子をユナと名づける。

 上巻のサブタイトルは「生き残った者」である。ストーリーの始まりにおいて生き残った者は、<独角>の頭だったヴァンと幼子のユナだけ。奴隷の身に落とされたヴァンには、この王幡領からの厳しい逃亡が始まる。岩塩鉱の惨事が発見されるといずれ追われる身となるのだ。その後も、山犬が出現したところでは、死に行く者と生き残った者とに分かれていく。

 なぜ、山犬が岩塩鉱だけを襲ったのか?
 山犬が岩塩鉱内の様々な人々を噛み、傷付けた後、一週間余の間に次々に人々が死んだ原因は何なのか?
 なぜ、ヴァンとユナだけが、噛まれたり傷付けられているのに生き残ったのか?
 
 岩塩鉱の惨事を知ると、与多瑠に同行し、天才的な医術師ホッサルは現地調査に赴く。従者のマコウカンに手伝わせ、遺体の襤褸切れのような衣を脱がせて、5人の遺体の全身を観察する。そして与多瑠の質問に対して、初見と状況からの推測として、黒狼熱(ミツツァル)の可能性を指摘する。黒狼熱は黒狼や山犬に噛まれることで罹る病だが、病んだ獣や人を噛んだノミやダニなどが、病を運ぶのだと説明する。古オタワル王国を滅びへと押しやったのがこの疫病だったのだ。この黒狼熱に対する有効な薬は見つかっていない。
 ホッサルは遺体をカザンにある医院に送り、そこで原因究明と有効な薬の開発研究に専念していくことになる。
 後日調査の結果、<独角>の頭、<欠け角のヴァン>だけが生き残り脱出・逃亡したことが判明する。ホッサルは、疫病への治療薬を開発する上でも、ヴァンを生きたまま捕らえてほしいと要望する。
 この物語では、黒狼熱という疫病の病素の解明と治療薬の開発というホッサルを中心とした活動が一つの軸となる。それは疫病の解明プロセスである。死ぬ者と生き残る者との違いはどこに生まれるのかの究明である。人間の身体の中に於ける病素との共生と葛藤が描かれる。人間の身体そのものがミクロ・コスモスなのだ。

 このファンタジー世界で興味深いのは、現代の一般的な医学用語が使われていないことである。使われているのは、創薬、疫病という言葉くらいか。
 病素、弱毒薬(病素を弱めるか、殺すかして作る)、抗病素薬(病素を抑えたり殺したりする薬効がある素材)、抗病素体、血漿体薬という造語(?)が括弧内に記した説明が付されて使われている。現代の医学関連用語でいえば、病因、予防接種、抗生物質、免疫促進剤、免疫、免疫血清などという用語に関係するのだろう。
 おもしろいことに、少し調べてみると、インド大陸の伝統的医学である「アーユルヴェーダ」に出てくる原語の一つは「病素」という訳語が使われているようである。
 ファンタジー世界に現在の医学用語はマッチしないということなのだろう。

 一方、東乎瑠帝国という人間社会を構成する様々な氏族・人々の間での共生の難しさ、葛藤のプロセスが描き込まれていく。この側面の主人公になるのがヴァンである。この側面が主軸となり、ホッサルを中心とした黒狼熱の病素の解明と創薬の側面は、主軸に絡んでいく副軸となっていく。
 ヴァンは不明の病気を原因として愛する妻と息子を喪失した。その結果、ガンサ氏族が作った<独角>に身を投じ、東乎瑠軍との壮絶な戦いに身を委ね、氏族のために死すことを願うが生き残った。山犬に噛まれても生き残った。そしてユナと名づけた幼子との絆が深まっていく。
 ヴァンの心の原点にあるのは、なぜ妻と息子が死なねばならなかったのかである。そこから己の生きている意味を問いかける。また、ヴァンの脳裏に思い浮かぶのは戦いを共にした飛鹿である。
 東乎瑠の追跡から逃走するプロセスで、ヴァンと人々の関わりは様々に連鎖していく。ヴァンという主人公の観点で見ると、この物語はヴァンとの関わりというフィルターを通して見た東乎瑠帝国内の人々の共生・共存と葛藤・対立の有り様を描くプロセスとなる。ヴァンは様々な氏族と触れあい、人々の生活と思考を知る機会が増えるにつれて、人間の生きる姿について、彼の思念を深めて行くように思う。逃亡者という立場がヴァンをコスモポリタンな立場に転換させていく。そしてそこに、ヴァンの能力の異変が加わる。

 逃走の途中で、足を挫いたオキ氏族のトマを助ける。彼はツピと呼ぶ飛鹿に引かせた荷車で毛皮をカザンに売りに行く途中だった。トマを助けたことが縁で、トマの両親等一族の客人となる。その生活の中で、トマたちの一族に飛鹿の飼育を教え、関わりが深まっていく。トマたちと生活するところに、<濡れ羽>を持つ使者が現れ、ヴァンは<ヨミダの森>に住む<谺主(コダマヌシ)>の許に導かれることになる。
 谺主は、ヴァンの<魂の自分>と<身体の自分>がくるっと裏返り、黒狼と山犬の半仔(ロチャイ)と一緒に駈けていたのを見たと、ヴァンに告げる。岩塩鉱で山犬に噛まれたヴァンの身に異変が加わっていたのだ。ヴァンは谺主から裏返しの状態の意味を教えられる。
 ヨミダの森に着いた時、谺主は出かけていて不在だった。その間、ナツカという男がヴァンとユナの手助けをしてくれた。だが、ヴァンたちの居る岩屋に半仔が突然現れる。ナツカはその隙にユナを連れ去っていく。そのナツカを追跡するヴァンは<火馬の民>の族長、オーファンに巡り会うように仕組まれていた。オーファンは東乎瑠に敵愾心を抱き続けていて、東乎瑠をいかなる手段ででも打倒しようと狙っているのだった。
 ヴァンは東乎瑠と<火馬の民>の葛藤の渦中に巻き込まれていく。

 アカファの王には、<アカファ王の網>として代々、追跡を職務とするモルファという氏族がいる。その狩人頭はモルジである。アカファ王の命を受けて、マルジは長女のサエにヴァンを追跡させる。彼女は後追いの技には最優秀な技量の持ち主なのだ。岩塩鉱のヴァンが囚われいた鎖の場所から始め、ヴァンの後を追跡し始める。当初はホッサルの指示でマコウカンが同行するが、途中山犬に襲われて離ればなれになる。サエは崖道から落ち、水流に飲まれて行ったのだ。マコウカンはホッサルの許に戻らざるを得なくなる。
 サエの追跡は紆余曲折を経るが、サエはヴァンとの間で数奇な関わりを持つようになっていく。これがこの物語の一つの底流にある読みどころでもある。生き方の選択。
 
 ホッサルは、岩塩鉱で死体を検分した後、助手のミラルと一緒に黒狼熱を治療する新薬の開発に専念して、一つの成果を得始める。
 そんな折り、アカファ王が東乎瑠の王幡侯を招いて行う<御前鷹ノ儀>が催され、御前狩りが行われる。その場に、一群の黒い犬が襲来する。その犬たちは黒狼熱の病素を持っていたのだ。アカファ王の姪で与多瑠の妻・スルミナの産んだ息子とスルミナ自身が黒い犬に噛まれる。一方で王幡侯の長男・迂多瑠も噛まれてたのだ。噛まれた迂多瑠はそのことを隠す。しかし、噛まれたことが原因で死亡する。
 与多瑠はホッサルに頼み、黒狼熱の治療薬として開発した新薬を息子とスルミナに注射せよという。その結果、命は助かる。黒い犬に噛まれても、東乎瑠人以外は助かるという事実から、アカファの呪いという噂すら立つ。ホッサルは勿論、虚妄を否定し、さらに有効な新薬の開発を継続する。
 東乎瑠人は死に、アカファ人や遊牧民、ヴァンなどが生き残る理由は何か? いわゆる免疫力がどこからくるのかを追究する。そして<沼地の民>の地に導かれる。
 
 王幡侯からアカファ王は疑いの目で見られる。黒い犬の襲来はアカファ王が陰にいるのかと。アカファ王は黒い犬を追跡し、疑いを晴らさねばならなくなる。

 この物語の興味深さは、勢力争いをする人間社会における共生・葛藤の実情が徐々に広がりと深みを持ち、明らかになっていく。その一方で、黒狼熱という病素を体内に持つ山犬、半仔、黒い犬の出現のしかた、噛まれた後の人々の結果が解明されることから、ホッサルの仮説が明瞭になっていく。そして、無関係に見えた両者に接点が見えて来ることにある。
 黒狼熱の病素を持つ山犬の存在という現実が、ヴァンに行動を起こさせる決断に導いていく。愛する妻と息子の死に直面したヴァンが心に問いかけていたことが重層していき、決断に結びついていく。ヴァンの決断は「鹿の王」の役割を担うことである。それが下巻のサブタイトル「還って行く者」に繋がって行く。

 「鹿の王」という言葉には重要な寓意が込められているように感じる。
 そして、この物語は共生・共存と葛藤・対立についての意味を考えるための新しいスタイルの寓話でもあると思う。何を感じ取るかは、読み手に委ねられている。

 読み進めていていくつか特に印象深い箇所があった。その中からさらに一部を最後に引用して、ご紹介したい。この文が記されている文脈には重要な意味が含まれていると感じるから・・・・。

*あの毒の牙をもった半仔たちを、彼らは、神の御手だと思いこんでいる。キンマの神が、東乎瑠から西の地を解放するために遣わしてきださった御使なのだ、と。
 だが、病んだ獣に女も子どもも赤子も関係なく噛ませて、その生死を神の御意志と見る、その異常さに、彼らは誰一人として気づいていない。
 (東乎瑠人も、人だ)
 日々の暮らしを、ただ営んでいる、ふつうの人だ。
 ・・・・・・・・(略)・・・・・・・
 そういうすべてを考えず、彼らをただ、神に許されぬ者と思う、その心の底に何があるのか、彼らは見ようとしない。
 (神というのは、便利な理屈だ)      (下巻、p56-57)

*祖父が、新薬がアカファ人に与える影響を知りたいがために、敢えて危険を冒したのだと知りながら、自分もまた、その言葉に従った。
 死なせずにすむ方法があるから大丈夫だ、打って死ぬ危険と、打たないことで死ぬ危険、両方あるのなら、後の新薬改良のためにもやるべきだ、と自分に言い訳をしながら。
 (・・・・そう)
 言い訳は、いくらでも見つかる。理屈は、いくらでもつけられる。医術のため、後に人を救うためである、とおもうことができれば。
 だが、そのとき、自分たちは、自分の、とてつもない傲慢さから目を背けているのではないだろうか。                (下巻、p500)

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この作品からの波紋として関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
上橋菜穂子  :ウィキペディア
上橋菜穂子 「守り人」公式サイト
微生物ってなに?どんな生物? :「びせいぶつってなに?」(日本微生物生態学会)
微生物写真集   
細菌  :「コトバンク」
病原体:ウィルスと細菌と真菌(カビ)の違い 健康情報局 :「大幸薬品」
顕微鏡 :ウィキペディア

アーユルヴェーダ  :ウィキペディア
アーユルヴェーダの体質論  :「アーユルヴェーダライフ」
遊牧民  :ウィキペディア
遊牧世界のくらしと歴史を知る  神奈川世界史教材研究会
遊牧民から見た世界史 杉山正明  :「松岡正剛の千夜千冊」

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『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下  堂場瞬一  中公文庫

2016-05-01 11:02:00 | レビュー
 刑事・鳴沢了シリーズは本作品で一応完結している。尚、『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』という関連作品が書かれている。こちらは後日、印象記をまとめたい。
 新潟県警を振り出しに始まったこのシリーズ、警視庁の西八王子署刑事課に所属する刑事のままで幕を閉じることになる。
 最後の場面は鳴沢が病院に入院しているところで終わる。その病室に元新聞記者の長瀬が鳴沢を見舞いに来て、こんなやりとりをする。
 「取材なら、パスだ」
 「別に新聞や雑誌に売りこもうっていうわけじゃないんです。あなたをモデルに小説を書こうと思っている。タイトルはもう決まってるんですよ。『雪虫』っていうんですけどね」
 鳴沢は「何だい、それ」と問いかけて、長瀬の返事を聞くなり即座に「断る」と反応するというシーンである。
 この挿入は著者の遊び心なのだろう・・・・。これで『久遠』が第1作『雪虫』に連環していくことになる。『雪虫』は元新聞記者・長瀬が書いた小説という形に・・・・。ちょっと楽しい感じ。

 そして、このシリーズ最後の最後は次の2文で終わる。
 「だが今初めて、自分の人生そのものを正面から見詰めなければならないのだと意識する。それが今の私に課せられた唯一の責任なのだ。」
 この最後の段落は4つの文でまとめられているのだが、前2文を書くと一種ネタばれにつながるので書くのを控える。最後の2文は、鳴沢が己の生き様を変えるという選択を決意したということなのだ。

 このシリーズは10作で、5作目の『帰郷』とこの『久遠』だけが、私の知る範囲では多分語彙として辞書に載っている言葉だろう。シリーズを振り返ると、鳴沢が帰郷したときの事件は、記憶では親子三代の刑事一課という彼の人生の始まりと関係があった。鳴沢了の節目だった。この最終作もそうである。一つの総決算ともいえる。
 「久遠」という語彙を辞書で引くと、「(仏教語)時間的にきわまりのないこと。遠い過去。遠い未来。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されている。つまり、鳴沢了の人生も時間的にはこれからも続く。だが、祖父から始まる親子三代の刑事人生という柵における鳴沢の過去は、鳴沢の生き様として、鳴沢の選択と決意により、この巻末において「遠い過去」として区切られる。そして、鳴沢は命の続く限りの「遠い未来」への一歩をこのシリーズが終わった時点から始めるのだ。
 鳴沢了は、多分刑事・鳴沢了であり続けるのだろうが、刑事としての生き様は変わるのだろう。いつか、鳴沢了の新シリーズが出るのだろうか・・・・。

 さて、このシリーズ最終作の読後印象を少しまとめて、ご紹介したい。
 文庫本で上・下巻という長編である。2冊本として出るのは、このシリーズではこの小説だけだ。まず全体の構成から触れると、4部構成となっている。
 「第1部 容疑」「第2部 加速」「第3部 逆襲」「第4部 命」である。

 早朝5時に電話の呼び出し音で眠気を吹き飛ばされた鳴沢了は、その直後にインタフォンを鳴らされる。玄関に出た了の前に現れたのは青山署の刑事2人だった。了に強引に任意同行を求めたのである。青山署2階の取調室で、了は質問攻めにあう。了は殺人事件の容疑者として同行を求められたことを知る。三井刑事が了に言った被害者の名前は岩隈哲郎だった。数時間前まで、了は岩隈に会っていた。了を陥れようとしている匿名の情報提供者がいる? 了に新たな疑問が襲う。こんな局面からストーリーが展開し始める。
 罠に嵌められたことを了が己自身で証明しなければならない。何から、どのように始めなければならないのか? だれか協力者が得られるのか? 了の独自の行動が始まる。そして、それはどんどん意外な展開に発展するところが、読ませどころである。さまざまな局面がぐるぐると螺旋状に現出して、追究すればすべてが核心に連鎖していくというイメージである。

 日曜日に傷害事件の発生で呼び出された了は、西八王子署で帰り支度を始めていた午後6時過ぎに岩隈から電話を受けた。了は青山で岩隈に会う。岩隈は今度のネタはでかいと言い、一番簡単な模式図として、A・B・Cを太い線で結ぶ三角形を示した。それはBとCを結ぶ底辺は太い二重の線で結んだ形となっていた。
 鳴沢は、己にかけられた容疑をはらし、岩隈を殺害した人間を見つけるために行動を取り始める。鳴沢の相棒である藤田刑事は、なぜか本庁の指示でCF(キャットフィシュ/なまず)事件の応援にかり出されてしまっていた。つまり、鳴沢が信頼できる藤田を頼れない状況が生まれていた。了が信頼している相棒が、なぜか切り離されたのだ。これは偶然なのか? 警察内部に何か関係があるのか・・・・。了が孤立して行動を取らざるを得なくなる。
 了は西八王子署生活安全課の山口美鈴の父であり、岩隈のことを了に教えた公安部の山口刑事にコンタクトを取る。山口は「息を潜めて隠れていなくちゃいけない時もあるよ。そういうタイミングを見誤っちゃいけない」と了に助言する。山口は了に彼が関わる案件の絡みで時間が取れないので、夕方6時ぐらいに再度連絡してくれという。だが、その山口刑事とは遂に会うことができない事態に展開していく。

 警視庁とは関係がなくて、しかも手がかりを得られる情報を入手できる方法はないか?その可能性がある一人を幸運にも了は見出した。新潟県警時代の後輩で、東京で研修を受けている大西海だった。大西が有力な協力者となっていく。
 大西と会った夜、了は多摩都市モノレールで終点の一つ手前、松が谷駅で下車して帰宅するが、その途中で車により襲われる羽目になる。たまたま団地の奧にある「村山モータース」の息子が車で来合わせたことにより、難を逃れることができる。村山の息子は車の特徴を視認していた。 
 更に、了が会う予定だった山口刑事が殺害される。山口刑事に電話連絡していた了に、再び嫌疑が掛けられていく。了の知りようのない局面で罠が仕掛けられていくという展開だ。しかし、山口もまた了がかつて関わりを持った人物である。

 見えない敵により了はますます危険な立場に陥っていく。
 そんな最中に、勇樹が「ファミリーアフェア」のプロモーションのために、スタッフと来日していて、日本の主要地を回るというハードなスケジュールをこなしていた。勇樹は了に直接会い、直に話をしたいことがあるという。了は身軽に動けない状況にどんどん追い込まれていく。アメリカで発生した事件のこともあり、勇樹の周辺で異常な事態が起こらないかということも、了は気にかけねばならない。しかし、勇樹のために動けないというジレンマ。電話連絡だけのつながり。勇樹が直接了に伝えたいこととは? 最後の局面まで、このことが気がかりになるというところが、じれったい。巧みな設定になっている。

 了は殺された岩隈が東京に借りていたウィークリー・マンションの管理会社での聞き込みから始め、岩隈の実家のある静岡市へと聞き込みの範囲を広げていく。岩隈の幼馴染みの一人、市役所に勤める浜岡から、飛行機嫌いの岩隈がアメリカに出かけるつもりでいたことを知る。そこまでしようと思っていたということは、岩隈がよほど大きなネタを掴んでいたことなのかもしれないということだ。
 静岡からの帰路、東名で了は後をつけている車に気づく。了の車にはいつか不明だが発信機が何者かにより取り付けられていた。つまり見えざる敵は用意周到な連中なのだ。

 帰路、了は三島の万年寺に、刑事を辞めて実家の寺の坊主となった今を訪ねる。今との対話の中で、己の置かれた状況を整理分析する。今との対話の中で、鳴沢了に罠を張り陥れようとするやり方が中途半端なものに見える故に、逆にある仮説が導き出されてくる。それはかつて鳴沢が今とともに関わった警察機構内部に存在する疎ましいインフォーマルな勢力の確執問題だった。鳴沢はそのトップにいた人間を洗い出し、決着をつけたはずだった。今はある推測を鳴沢に告げる。そしてあるアイデアを提案する。
 このあたりから、少しずつ構図の一端が見え始める。

 了の推理はどんどん「加速」していくが、一方で了を罠に嵌めようとする見えない敵の動きも「加速」していく。何者かが山口美鈴を拉致したと言い、鳴沢を呼び出す。その結果鳴沢は発砲されるまでに至る。了の想定外の状況が生み出されたのだ。了の陥れられている事態は一層錯綜したものだった。
 了が孤立し、危険が迫ることにより、一方で相手の正体が徐々に見えて来る。了は専守防衛に転じていく。第3部は鳴沢の「逆襲」である。鳴沢の警察官としての過去の人生で関わってきた人々が交錯しつつ、あらためて様々な関わりを持っていく形になる。
 このあたり、鳴沢了シリーズの総決算として包括的に鳴沢了に関わった人間の全体像、思わぬ人のつながりが組み込まれていくという広がりに興味深さを感じる。

 第3部での主な登場人物を列挙しておこう。捜査1課長を務めていて3月から西新宿署長に転出している水城。東京地検の野崎検事。野崎検事の紹介という形で鳴沢に接触してきた横浜地検の城戸検事。警察大学校に研修に来ている新潟県警の大西海。捜査1課の橋田良晴係長。警察官OBで山口刑事が新米の交番勤務時代から知っていてつきあいがあったという原。原の紹介で会うことになる公安部の片岡刑事。ニューヨーク市警の日系二世内藤七海。捜査1課の横山刑事。大西海が信用できる人として鳴沢に紹介する捜査共助課の若林。などである。勿論これらの登場人物が第4部へと繋がっていく。

 第4部は、鳴沢に協力を頼まれそれを断った小野寺冴が鳴沢の問題に巻き込まれるところから始まって行く。そして、意外なところから、岩隈が己の保険としてしかけておいたブツが発見される。それが重要な手がかりとなり、謎が解け始め急展開し始める。
 岩隈の死、山口刑事の死、横浜地検の城戸検事の登場などがすべて複雑な絡まりの中で一つの問題に関わりを持っていく。
 
 この小説のおもしろいところは、重大な隠蔽工作のために、鳴沢の刑事としてのプライドを踏みにじりたいという欲求で鳴沢を罠にかけようとした筋書きが破綻していくところにある。了が過去の事件で暴き出し潰した筈の警察機構内のインフォーマルな勢力が地中のマグマの如く隠然と巣くい、力を蓄えて鳴沢打倒のために噴出し襲いかかる。だがそれだけではないところに、この小説の構想の巧みさ、しかけがある。そこに鳴沢の過去の人間関係がすべて大なり小なり複雑に関わり合っているという構図がある。そして、勇樹の来日は、ストーリー展開では最後まで深く潜行しながら、鳴沢了の生き様を大きく変えるトリガーとなるのだ。
 鳴沢が罠にはめられる一方で、危地に身を置く状況に投げ込まれた原因は日本だけにとどまらず、アメリカとの関わりにも連結していた。鳴沢了を容疑者に想定する殺人事件はブツと罠の複雑に交錯する二重奏ストーリーだった。最後の局面で、「ブツ」の意味合いが明らかになり、それが原因となり、思惑の連鎖反応が巧妙に導かれていたというおもしろさがわかる。文庫本上下巻の長編となった構想がうなずける。
 
 ご一読ありがとうございます。

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徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』   中公文庫
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『熱欲 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『破弾 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『雪虫 刑事・鳴沢了』  中公文庫