遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『広重ぶるう』  梶よう子   新潮社

2022-08-31 12:30:54 | レビュー
 歌川広重(1797~1858)。手許の国語辞典には、次のように説明している。
「江戸後期の浮世絵師。江戸の人。本姓、安藤。号は一立斎など。歌川豊広に入門。浮世絵風景版画を大成し、フランス印象派にも影響を与えた。作品『東海道五十三次』『名所江戸百景』など。」(『日本語大辞典』角川書店)
 本書は歌川広重についての伝記風小説である。史実を踏まえたフィクション。「東都の藍」という題で「小説新潮」(2019年4月~2020年8月号)に連載された後、『広重ぶるう』に改題されて、2022年5月に単行本が刊行された。

 「ぶるう」は日本には存在しなかった藍色をさす。舶来物、異国の新しい色。「ぷるしあんぶるう」という伯林(ベルリン)で作られたものが輸入された。「伯林の藍」なので「ベロ藍」と呼ばれたようだ。葛飾北斎はいち早くこのベロ藍に目をつけていた。
 広重を本書では一貫して重右衛門で表記している。重右衛門は、このベロ藍が渓斎英泉の絵による団扇に使われていることを見つけ、後付けで、葛飾北斎がこのベロ藍を使い富士を描くのを知ったという。
 重右衛門はこのベロ藍を使って、江戸の風景、江戸の空を描きたいという夢を抱く。この小説は重右衛門がその目標を達成するまでの紆余曲折を町絵師としての喜怒哀楽を織り込みながら、巧みに描きあげていく。

 広重こと、安藤重右衛門が主人公である。馬場先門外、八代洲(やよす)河岸の定火消御役屋敷内の同心長屋で、父安藤源右衛門の子として生まれ、13歳で元服した。役目を退いた父の代わりに、安藤家当主として火消同心の役を継ぐ。重右衛門が13になって間もなくの頃に母が死に、隠居した父は10ヶ月のちに急逝した。重右衛門にとり、絵を描くのは当初は本職ではなかった。10歳の頃、両親に絵を褒められたことが絵の道への契機だったという。

 ストーリーは、重右衛門が歌川豊広から広重の名をもらって以来19年の歳月が経た時点から始まる。重右衛門の家を訪れた栄林堂岩戸屋喜三郎に説教されるという場面である。売れていない重右衛門に、喜三郎は小言を言い発破をかけに来たのだ。町絵師・浮世絵師として名を成し得るかどうかの瀬戸際にいる時期だった。そういう意味で、広重は晩熟型である。役者絵を描くのも、美人画を描くのも下手、喜三郎に絵師で食って行きたいならワ印(枕絵)を描けばよいと言われても、己は武士だという矜持からこれを拒絶する。当時は役者絵と美人画が浮世絵の主流だったのだ。長年重右衛門はそのジャンルでの名声に固執していたが、力量は伴わないという側面を持っていたようだ。
 また「東都名所拾景」を西村屋与八のところから出してはいたが売れ行きは冴えなかったという。

 ストーリーは一転し、過去に遡り、重右衛門がどのようにして絵の筆法を習得して行ったのかという背景から始まって行く。この小説、一人称の回想で始まるというスタイルではないが、一貫して重右衛門の視点でストーリーが展開していると私は受けとめた。
 広重は町絵師として己のめざすべきジャンルは名所絵、風景を主体にした絵であると決意する。彼は風景を描いている時に心も晴れるのだ。そして、団扇の色を見た瞬間に、己の本領を発揮するにはベロ藍が必須だと思い定める。
 「東海道五十三次」(文政12年/1829年)という風景を主体として宿場町を描くシリーズがどのような経緯を経て生み出され、人気を博するようになったのか。ここにまず焦点があたる。そこに至る過程が、このストーリーでの一つの山場となる。読者にとっては、有名で見慣れた「東海道五十三次」の背景、裏話を読むというおもしろさがある。
 この五十三次のシリーズで、重右衛門は摺り政という摺り場にいる寬治と一緒に、ベロ藍の使い方の工夫を確立していく。ここに、浮世絵が生み出されるまでの製作プロセスがどのようなものかを、読者は副産物として学ぶ機会になる。浮世絵版画が生まれるプロセスは、様々な職人たちの巧みなコラボレーションなくして成り立たないのだ。

 一方、この五十三次で人気を確立するまでの重右衛門を支えたのは女房加代である。加代は同じ火消同心の娘だった。重右衛門は、不遇であまり売れない絵師でありながら、朝湯に出かけることを日課にしていた。加代の内助の功がなければ、重右衛門の生活スタイルは成り立たなかっただろう。加代の苦労を彼女が天保10年(1839)10月に亡くなるまで重右衛門は知らなかった。加代が後の広重の名声を生み出す重要な一因と言えるだろう。広重は良い妻に恵まれていたのだ。
 加代には、重右衛門の子を宿すことが出来ないという武家の妻としての負い目が一因にあったように思う。重右衛門は子をなすのは自然の摂理によると言い、加代を変わることなく大事にしていた。加代の哀しみと献身はそこに起因するように感じた。

 いくつかのエピソードがおもしろく織り込まれて行く。まず、東海道物で評判を取った重右衛門と北斎を湯屋で対峙させるエピソード。その次に、保栄堂が栄久堂との合版で、近江と京の名所絵の揃い物を重右衛門に描かせる、それも現地に行かずに名所絵を描かせたというエピソード。そして、版元が渓斎英泉に依頼した「木曾海道六拾九次」が版行途中で頓挫し、それを重右衛門が引き継いで仕上げたというエピソード。
 史実を踏まえて、著者が想像力を駆使したフィクションであろうが、読者にとって楽しめるサブ・ストーリーである。

 東海道物で名声を確立した重右衛門には、時代の運も巡ってくる。天保9年に幕府の出した政策である。「老中のお声掛りで、好色本と絵本類の店頭での売り出しが禁止されたが、重右衛門の名所絵には、なんら影響がなかった。」(p192)それは老中水野忠邦による改革の時期である。
 名声が確立し始めると、重右衛門の弟子になりたいという者が集まってくる。重右衛門と弟子との関係が始まる。特にこのストーリーでは、一番最初に弟子になりたいと申し出てきた昌吉、二番弟子の鎮平との関わりが中心に織り込まれて行く。
 第1~3章が広重の名声確立期までのストーリーであり、第4・5章は広重の願望達成への道程、町絵師としての後半人生物語ということになる。つまり、重右衛門の願望『江戸名所百景』と題された錦絵が生み出されるまでの経緯が語られる。
 『百景』の仕事をやり遂げた後、日課の朝湯に出かけようとした重右衛門に突然、死が襲ってくるというエンディング・・・・・。小説としては、重右衛門らしい終わり方だなと思う。
 実際の広重の末期はどうだったのだろうか。
 
 加代を亡くし、男やもめになった重右衛門は弟子をもつようになっていた。そこに天寿堂の仲立ちだと言い、奉公人になるつもりでお安という出戻り女がやって来る。長屋も引き払って、住み込みで働くつもりで来たのだ。重右衛門はびっくり仰天。だが、重右衛門の後半人生は、このお安が重右衛門の伴侶におさまっていく。加代とはがらりとキャラクターが異なるところがおもしいろい。
 後半にも一つのエピソードがストーリーを盛り上げる。それは重右衛門の妹さだに絡んでいた。さだは寺の坊主了信に嫁いでいた。この了信が破戒坊主。おさだは自分から離縁し、商家の後妻におさまろうとする。了信との間にできた子お辰を重右衛門に託すという虫のいい話。だが、諸般の事情から重右衛門・お安はお辰を養女にする。そこから、了信にまつわる借金話が飛び出してきて、重右衛門はワ印に一度限りの手を染めることになる・・・・・。このエピソードが一つの読ませどころになっている。
 広重にこれに相当する事実があったのだろうか。広重が『春の世和』というワ印本を残しているのは事実であるようだ。

 書棚から久しぶりに眠っていた図録『UKIYOE』を引っ張り出してみた。京都国立博物館で平成3年(1991)に開催された特別展の図録である。東京国立博物館/松方コレクションの「うきよ絵名品展」図録。開けて見ると、「温雅な抒情-広重-」という見出しで、「東海道五十三次」以外の名品が載っていた。作品の図柄の記憶があるが、その数枚は「名所江戸百景」のうちのものだった。あの頃はこの名称を意識していなかった。そこにベロ藍がどのような濃淡で使われているかを見ることができた。重右衛門と摺り師寬治とのコラボシーンが重なり、絵に親しみが一層出て来た。
図録に載るのは「名所江戸百景」からベロ藍を使った作品では「両国花火」と「高輪うしまち」、さらに「王子装束榎大晦日の狐火」。藍色は使われていないが「亀戸梅屋敷」は記憶に残る作品の一つだった。

 歌川広重の絵を楽しむ上で、フィクションとはいえ、本書はこの浮世絵師の背景を楽しみながら拡げてくれること間違いなしである。お楽しみいただきたい。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関連事項をネット検索してみた。一覧にしていきたい。
安藤広重はいつから歌川広重になったのかという話。 :「太田記念美術館」
歌川広重  :「コトバンク」
歌川広重  :ウィキペディア
「歌川広重伝」 :「浮世絵文献資料舘」
東海道五十三次 (浮世絵)  :ウィキペディア
『歌川広重・東海道五十三次』= 江崎屋版・行書版・行書東海道 =:「ちょっと便利帳」
『歌川広重・東海道五十三次』= 丸清版・隷書版・隷書東海道 =:「ちょっと便利帳」
木曽海道六十九次   :ウィキペディア
歌川広重と三代豊国(歌川国貞)の合作『双筆五十三次』  :「ちょっと便利帳」
広重東都名所  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
名所江戸百景  :ウィキペディア
両国花火  錦絵でたのしむ江戸の名所 :「国立国会図書館」
高輪うしまち 錦絵でたのしむ江戸の名所 :「国立国会図書館」

【王子】名所江戸百景 王子装束ゑの木大晦日の狐火 :「北区飛鳥山博物館」
名所江戸百景・亀戸梅屋舗 :「文化遺産オンライン」
歌川広重の『冨士三十六景』 全36枚 :「ネット美術館会『アートまとめん』」
歌川国貞  :ウィキペディア
歌川国広  :「文化デジタルライブラリー」
歌川国広  :「Lyon Collection」
歌川 国貞(豊国三代)  :「浮世絵文献資料舘」
岡島林斎  :ウィキペディア
歌川広重「春の世和 二冊」  :「よろずやマルシェ」
春画とは?北斎など有名な浮世絵作品をご紹介 :「Thi isMedia}

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ロジャー・シェルドンって誰? (bookook)
2022-09-01 09:10:49
おはようございます。
初めましてですね。
こちらから失礼します。

『Xの悲劇』
ロジャー・シェルドンが誰か分かってスッキリしました。
ありがとうございます!
いつもは分かるまで(納得するまで)探すのですが、山本周五郎に興味が移行してしまい、備忘録として記しておいた次第です。

今後ともよろしくお願いします。
返信する
(Re)ロジャー・シェルドンって誰? (茲愉有人)
2022-09-01 10:17:24
bookook さん

お役にたって幸いです。

こちらこそ、楽しみにフォローさせていただいております。
今後ともよろしくお願いします。
返信する

コメントを投稿