この作品、やはり映画化にはぴったりのエンターテインメント性を持つ戦国時代小説だった。
秀吉が天下統一を推し進めるために関東の北条家に五か条からなる宣戦布告状をつきつけて始まった小田原合戦である。その戦いの一環として北条に加担する支城は次々に攻め立てられていく。武蔵国忍城がただ一つ、小田原城陥落後まで持ちこたえた。
忍城城主成田氏長は事前に秀吉に内通しており、忍城も当初は秀吉軍の攻めに対し、すみやかに降伏開城する手はずだった。それが頑強に抵抗し戦う方向に転じたのだ。それはなぜだったのか。本書はこの忍城の降伏から開戦への急展開とその攻防戦の顛末を描き出す。
本書が戦国エンターテインメントとして優れているのは、ストーリー展開のわかりやすさの中に含まれる様々な意外性と、登場人物達のキャラクターの明瞭さだろう。そして個性が強く、全く持ち味の違う人物たちがおもしろい組み合わせになっているところだ。芝居のキャスティングの面白さに繋がる。そして、その登場人物たちがそれぞれ明らかに違った戦い方をする。戦国の戦い方を多面的に描き出している点の面白さだ。これも映像化するのにぴったり。極めつけは忍城そのものの特異性。「浮き城」とも称され、「洪水が多いこの一帯にできた湖と、その中にできた島々を要塞化した城郭」のもつ魅力。その希少性が魅力的である。上杉謙信ですら攻め落とせなかった城だという。つまり、野原での戦とは違った映像要素、描写となる点が加わる。おもしろい描写ができそうな城だ。この3つの特徴が、映画化に適していると感じる。
忍城の第17代当主・成田氏長は北条家に対する秀吉の宣戦布告の後、秀吉に内通する腹づもりで工作を進め、北条家の要請により小田原城に手勢を従えて詰める。忍城は城代として成田泰季に預けられる。そして、戦う振りを最後までし、秀吉に降伏・開城するように指示する。成田泰季は病床に臥し、その息子・長親(のぼう様)が城代と目される。当初は降伏の手はずをやむなきこととしていた忍城に残留する家老達。だが、秀吉の使者として長束正家が現れ、交渉条件を出してきたその席で、城代の長親がそれを拒絶することから、一転開戦となる。家老達はそれに賛同する。その攻防戦は秀吉軍を指揮する総大将石田三成の思わぬ誤算となる激しいものだった。
本書は以下の構成・展開内容になっている。
序 秀吉側の当時の状況を簡潔に語る。
備中高松城の水攻めの経緯。小田原攻めの体制。石田三成に対する武州忍城攻めの下知。
1 忍城側の軍議。その経緯の中で主要人物のキャラクターが描き出されていく。この描き方がなかなか楽しい。当主氏長は最終的に、秀吉への内通、忍城の開城を決する。
2 秀吉の箱根入りの状況と2万の軍で忍城に至る三成の戦構想を描く。そして、三成側軍使・長束正家と忍城側との交渉。正家の出した条件を長親が拒絶する。和睦が一転して決裂、開戦に向かう。
3 武将の各守り口での戦闘プロセス。最後は三成の水攻め戦略の進展状況を描く。
4 水攻めに対して城代長親のとった意外な行動とその波紋。戦の結末・開城。
終 長親と三成の対面。各武将のその後について。
大凡のストーリー展開はこんなところだ。
面白いのは登場人物のキャラクターとその組み合わせだろう。
<< 忍城側 >>
*成田氏長: 忍城当主。政略戦略に一応の見識を持つが、武将としての哲学には欠ける人物。連歌を何よりも好む。十人並みの器量にしかすぎない。連歌の師を通じて、秀吉への内通の意思を伝える。兵力の半数500騎を自ら率いて小田原城に入城する立場になる。関白に内通していれば、小田原城が落ちても身は無事だという発想である。忍城では戦の用意を怠りなくし、北条家に疑いを抱かせず、秀吉軍の攻めを待って降伏・開城するよう下知して、小田原城に出むく。
*成田長親: 領民からはのぼう様と呼ばれる。農業の場にいることが大好き。百姓仕事を手伝いたがるが、不器用で作業は失敗の連続。百姓は拒めないので閉口する。結果的にお邪魔虫的存在だ。「でくのぼう」とは言えないので「のぼう様」。武士らしからぬ武士。そこが領民には親しまれている。表情が極端に乏しく、泰然としているようにみえる不可解な人物。甲斐姫だけはなぜか長親を認めている。
「北条家にも関白にもつかず、今と同じように皆暮らすことはできんかな」と余迷言を北条家から来た使者の前でも言い出す人物である。
*正木丹波守利英: 成田家一の家老。上杉謙信を畏敬し、その影響を受け武技を錬磨する。長親の父・泰季が彼に城代を務めよと言うくらいの人物。自分自身理由が解せぬままに、「あの馬鹿が」と罵りながらも、丹波は長親を無視できない。真っ先に長親を気遣う。武功一等を示す皆朱の槍を許されている。
東南の門・佐間口を70騎の騎馬武者他あわせて430人余りを従え、戦に臨む。坂東武者そのものの戦振りを発揮する。さらに、意外な戦術に出る。三成側は、長束正家の指揮下の長束勢4,600人。
*酒巻靭負(ゆきえ): 三男として生まれたが二人の兄の病死により家督を継いだ。家老になって1年足らずで、この時点で22歳。生まれたときから矮小な体躯の人物。合戦の経験はないが、古今の兵書に通暁する。自らを戦の天才と自負している。
南の門・下忍口を守る。およそ670人の兵たちは皆老人だ。軍議の席で靭負自らが望んだのだ。直臣の働き盛りの者は皆、他の守り口の与力に貸してやる。そこには靭負の戦略が秘められていたのだ。ここに対して攻めてくるのが三成自身の軍勢だった。
*柴崎和泉守 :家老柴崎家の総領息子で、家老。身体全体を骨格筋の鎧で固めた体躯を持つ巨漢。剛強無双を自負し、自らこそが皆朱の槍を使うべきだと思っている。
東の門・長野口を守る。総勢350人である。鉄砲組はいらないと丹波の方にまわしてしまう。だが、それは後悔の種になる。しかし、彼は地の利を知り尽くした戦術を駆使する。そして三成側の大谷吉継と攻防戦を繰り広げる。
<< 秀吉側 >>
*石田治部少輔三成: 秀吉は成田家からの内通の旨を知ったうえで、三成に攻撃を命じる。理財に長けるが軍略の才に乏しいと周囲から見られている佐吉(三成)に武功を立てる機会を与えようとした。三成は自らの能力を恃み、嘘と方便をもっとも嫌う男である。秀吉の戦略、備中高松城の水攻めを傍で見て、己の戦でこの水攻めの戦法を使い、采配を振るうことを密かに心に抱いている。
西洋人のような長頭形の頭、細めの顔の美麗な優男。だがとてつもなく激しい気性の持ち主である。
館林・忍の攻城軍の総大将として2万の軍勢を持って攻め寄せる。それが和戦を問うこともなく落城した館林城の降兵などを合わせて2万3,000に膨れあがる。三成は丸墓山に本陣を敷く。ここから湖島の要塞・忍城を眼下に見下ろせるのだ。そして、自ら佐間口を攻める。
長束正家を軍使に任命する。大谷吉継はその人選を誤りと諫めるが、三成には彼自身の思惑があったのだ。
三成は、自ら下忍口と南西の門・大宮口への寄せ手となる。総勢7,000余人。
*大谷刑部少輔吉継: のちに「兵を進退させること手足の如し」といわれる戦巧者。江戸期には「智勇兼備の武将也」とされた名将である。この当時にはまだほとんど戦の経験がなかった長身の人物。秀吉はその軍才を予期し、成田氏長の内通を吉継に教えた上で、三成にはそのことを洩らさず後見役を果たせと下知する。秀吉は三成に武功を立てさせてやりたいのだ。
吉継は長野口と北東の門・北谷口を担当し、総勢6,500人で攻める。鉄砲を駆使する隙の無い戦術で臨む。古い手だが着実に効く戦術を活用する。
*長束大蔵大輔正家: 理財に聡い人物。「算勘につきては天下無双」の評判をとる。戦における兵站面でその才能を発揮する。秀吉に追従し、弱き者には居丈高になる人物。
佐間口への寄せ手となる。総勢4600人。だが、算勘の才は朱槍の手練れには散々にあしらわれる羽目になる。
こういうキャラクターの組み合わせだから、展開が面白くなる。史実を踏まえ、そこからどこまで著者の想像力、構想が羽ばたいたのか定かでないが、戦に至る経緯とそれぞれの守り口での攻防戦を一気に読ませるおもしろさがある。
一方、この作品の読ませどころは、やはり「のぼう樣」の存在だ。この人物のどこに人を惹きつける力があるのか、どこからくるのか。のぼう樣・長親の一言で始まった籠城戦。そして壮大な水攻めを防ぎ通すプロセスにおけるのぼう樣の存在そのものを著者は描き出したかったのだろう。将器とは何か。著者は三成の説得にあたり、吉継にこう語らせている。
「みろ、兵どもをみろ。敵も味方もあの者に魅せられておる。明らかに将器じゃ。下手に手を出せば、窮地に立たされるのは我らの方じゃぞ」(下巻・p120)と。
また、こうも書く。「結局のところ、三成の頭脳をもってしても、成田長親という男はわからなかった。しかしながら、成田長親の持つ愚者としての一面が、強がりの家臣どもと、利かん気の強い領民どもの好みに見事に合致していることだけは確信できた。」(下巻・p192)
将器とは何か? のぼう樣という存在は、考える材料として提供されたとも言える。
三成の軍勢が忍城を包囲したのは、『成田記』によれば、天正18年6月4日という。そして、『成田系図』に従うと、天正18年7月16日に、三成に明け渡されたとのこと。小田原落城から11日後だそうだ。
忍城の攻城軍は当初、総大将三成の下に総人数2万人、それが館林城の降兵などが加わり23,000人に増大、さらに最終段階では秀吉が援軍として差し向けた軍勢1万余が加わる。これに対して、『忍城戦記』によると、士分百姓ら合わせた忍城の籠城兵の総数は、3,740人。そこには、15歳以下の童と女が1,113人含まれていたという。つまり、直接戦力となる人数は、2,627人である。
のぼう樣の統率力は結果的にすごかった!
活字本が魅了した各キャラクターのイメージ・魅力を、映画という媒体・映像がどこまで引き出せるのか、原作を越えられるか。はたまた、イメージ倒れになるか・・・・
それは、本書を読んでから映画を見て、やっと評価することができる。
それでなければ、全く独立した同名映画作品としてのみ楽しみ、その範疇で評価することに徹するか。本の発行部数に比し、どれくらいの人々が映画をみるのだろうか。
一つ、気になる点が残った。それはネット検索で得た情報からである。複数のサイトで、この籠城戦では甲斐姫が第一線の戦いに自ら出たということが書かれている。本書で甲斐姫が丹波や和泉を体術で手玉に取る場面が描かれているが、それだけだ。甲斐姫の戦働きは歴史資料に記載がある史実なのだろうか。単なる伝承あるいは創作だろうか。
著者が甲斐姫という要素を戦う場面で採りあげなかったのは、史実としての資料がなかったからか。あるいは単なるフィクションとしての構想上の選択にしかすぎないのか。興味深い点である。
ご一読、ありがとうございます。
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本書に出てくる語句を検索してみた。その一覧をまとめておきたい。
高松城(備中国) :ウィキペディア
武蔵国 忍城(おしじょう) :「城跡の写真」
武蔵・忍 :「検証・石田三成」
忍城の歴史 :「武州の城」
忍城の遺構1:「武州の城」
忍城の遺構2:「武州の城」
成田長親 :ウィキペディア
成田氏 :ウィキペディア
成田長親のお墓 :「彰義隊 関弥太郎の生涯」
石田三成 :ウィキペディア
石田三成のホームページ
忍城攻め-戦国の中間管理職・三成の悲劇 小村勇太郎氏 :「検証・石田三成」
あの人の人生を知ろう~石田三成
大谷吉継 :ウィキペディア
大谷吉継 :「敦賀の歴史」
長束正家 :ウィキペディア
長束正家 :「日本史人物列伝」
第5回「忍城攻防戦、甲斐姫の奮戦」
甲斐姫と忍城 :「日本歴史 武将人物伝」
太閤記 :国立国会図書館デジタル化資料
映画『のぼうの城』本予告編 :YouTube
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秀吉が天下統一を推し進めるために関東の北条家に五か条からなる宣戦布告状をつきつけて始まった小田原合戦である。その戦いの一環として北条に加担する支城は次々に攻め立てられていく。武蔵国忍城がただ一つ、小田原城陥落後まで持ちこたえた。
忍城城主成田氏長は事前に秀吉に内通しており、忍城も当初は秀吉軍の攻めに対し、すみやかに降伏開城する手はずだった。それが頑強に抵抗し戦う方向に転じたのだ。それはなぜだったのか。本書はこの忍城の降伏から開戦への急展開とその攻防戦の顛末を描き出す。
本書が戦国エンターテインメントとして優れているのは、ストーリー展開のわかりやすさの中に含まれる様々な意外性と、登場人物達のキャラクターの明瞭さだろう。そして個性が強く、全く持ち味の違う人物たちがおもしろい組み合わせになっているところだ。芝居のキャスティングの面白さに繋がる。そして、その登場人物たちがそれぞれ明らかに違った戦い方をする。戦国の戦い方を多面的に描き出している点の面白さだ。これも映像化するのにぴったり。極めつけは忍城そのものの特異性。「浮き城」とも称され、「洪水が多いこの一帯にできた湖と、その中にできた島々を要塞化した城郭」のもつ魅力。その希少性が魅力的である。上杉謙信ですら攻め落とせなかった城だという。つまり、野原での戦とは違った映像要素、描写となる点が加わる。おもしろい描写ができそうな城だ。この3つの特徴が、映画化に適していると感じる。
忍城の第17代当主・成田氏長は北条家に対する秀吉の宣戦布告の後、秀吉に内通する腹づもりで工作を進め、北条家の要請により小田原城に手勢を従えて詰める。忍城は城代として成田泰季に預けられる。そして、戦う振りを最後までし、秀吉に降伏・開城するように指示する。成田泰季は病床に臥し、その息子・長親(のぼう様)が城代と目される。当初は降伏の手はずをやむなきこととしていた忍城に残留する家老達。だが、秀吉の使者として長束正家が現れ、交渉条件を出してきたその席で、城代の長親がそれを拒絶することから、一転開戦となる。家老達はそれに賛同する。その攻防戦は秀吉軍を指揮する総大将石田三成の思わぬ誤算となる激しいものだった。
本書は以下の構成・展開内容になっている。
序 秀吉側の当時の状況を簡潔に語る。
備中高松城の水攻めの経緯。小田原攻めの体制。石田三成に対する武州忍城攻めの下知。
1 忍城側の軍議。その経緯の中で主要人物のキャラクターが描き出されていく。この描き方がなかなか楽しい。当主氏長は最終的に、秀吉への内通、忍城の開城を決する。
2 秀吉の箱根入りの状況と2万の軍で忍城に至る三成の戦構想を描く。そして、三成側軍使・長束正家と忍城側との交渉。正家の出した条件を長親が拒絶する。和睦が一転して決裂、開戦に向かう。
3 武将の各守り口での戦闘プロセス。最後は三成の水攻め戦略の進展状況を描く。
4 水攻めに対して城代長親のとった意外な行動とその波紋。戦の結末・開城。
終 長親と三成の対面。各武将のその後について。
大凡のストーリー展開はこんなところだ。
面白いのは登場人物のキャラクターとその組み合わせだろう。
<< 忍城側 >>
*成田氏長: 忍城当主。政略戦略に一応の見識を持つが、武将としての哲学には欠ける人物。連歌を何よりも好む。十人並みの器量にしかすぎない。連歌の師を通じて、秀吉への内通の意思を伝える。兵力の半数500騎を自ら率いて小田原城に入城する立場になる。関白に内通していれば、小田原城が落ちても身は無事だという発想である。忍城では戦の用意を怠りなくし、北条家に疑いを抱かせず、秀吉軍の攻めを待って降伏・開城するよう下知して、小田原城に出むく。
*成田長親: 領民からはのぼう様と呼ばれる。農業の場にいることが大好き。百姓仕事を手伝いたがるが、不器用で作業は失敗の連続。百姓は拒めないので閉口する。結果的にお邪魔虫的存在だ。「でくのぼう」とは言えないので「のぼう様」。武士らしからぬ武士。そこが領民には親しまれている。表情が極端に乏しく、泰然としているようにみえる不可解な人物。甲斐姫だけはなぜか長親を認めている。
「北条家にも関白にもつかず、今と同じように皆暮らすことはできんかな」と余迷言を北条家から来た使者の前でも言い出す人物である。
*正木丹波守利英: 成田家一の家老。上杉謙信を畏敬し、その影響を受け武技を錬磨する。長親の父・泰季が彼に城代を務めよと言うくらいの人物。自分自身理由が解せぬままに、「あの馬鹿が」と罵りながらも、丹波は長親を無視できない。真っ先に長親を気遣う。武功一等を示す皆朱の槍を許されている。
東南の門・佐間口を70騎の騎馬武者他あわせて430人余りを従え、戦に臨む。坂東武者そのものの戦振りを発揮する。さらに、意外な戦術に出る。三成側は、長束正家の指揮下の長束勢4,600人。
*酒巻靭負(ゆきえ): 三男として生まれたが二人の兄の病死により家督を継いだ。家老になって1年足らずで、この時点で22歳。生まれたときから矮小な体躯の人物。合戦の経験はないが、古今の兵書に通暁する。自らを戦の天才と自負している。
南の門・下忍口を守る。およそ670人の兵たちは皆老人だ。軍議の席で靭負自らが望んだのだ。直臣の働き盛りの者は皆、他の守り口の与力に貸してやる。そこには靭負の戦略が秘められていたのだ。ここに対して攻めてくるのが三成自身の軍勢だった。
*柴崎和泉守 :家老柴崎家の総領息子で、家老。身体全体を骨格筋の鎧で固めた体躯を持つ巨漢。剛強無双を自負し、自らこそが皆朱の槍を使うべきだと思っている。
東の門・長野口を守る。総勢350人である。鉄砲組はいらないと丹波の方にまわしてしまう。だが、それは後悔の種になる。しかし、彼は地の利を知り尽くした戦術を駆使する。そして三成側の大谷吉継と攻防戦を繰り広げる。
<< 秀吉側 >>
*石田治部少輔三成: 秀吉は成田家からの内通の旨を知ったうえで、三成に攻撃を命じる。理財に長けるが軍略の才に乏しいと周囲から見られている佐吉(三成)に武功を立てる機会を与えようとした。三成は自らの能力を恃み、嘘と方便をもっとも嫌う男である。秀吉の戦略、備中高松城の水攻めを傍で見て、己の戦でこの水攻めの戦法を使い、采配を振るうことを密かに心に抱いている。
西洋人のような長頭形の頭、細めの顔の美麗な優男。だがとてつもなく激しい気性の持ち主である。
館林・忍の攻城軍の総大将として2万の軍勢を持って攻め寄せる。それが和戦を問うこともなく落城した館林城の降兵などを合わせて2万3,000に膨れあがる。三成は丸墓山に本陣を敷く。ここから湖島の要塞・忍城を眼下に見下ろせるのだ。そして、自ら佐間口を攻める。
長束正家を軍使に任命する。大谷吉継はその人選を誤りと諫めるが、三成には彼自身の思惑があったのだ。
三成は、自ら下忍口と南西の門・大宮口への寄せ手となる。総勢7,000余人。
*大谷刑部少輔吉継: のちに「兵を進退させること手足の如し」といわれる戦巧者。江戸期には「智勇兼備の武将也」とされた名将である。この当時にはまだほとんど戦の経験がなかった長身の人物。秀吉はその軍才を予期し、成田氏長の内通を吉継に教えた上で、三成にはそのことを洩らさず後見役を果たせと下知する。秀吉は三成に武功を立てさせてやりたいのだ。
吉継は長野口と北東の門・北谷口を担当し、総勢6,500人で攻める。鉄砲を駆使する隙の無い戦術で臨む。古い手だが着実に効く戦術を活用する。
*長束大蔵大輔正家: 理財に聡い人物。「算勘につきては天下無双」の評判をとる。戦における兵站面でその才能を発揮する。秀吉に追従し、弱き者には居丈高になる人物。
佐間口への寄せ手となる。総勢4600人。だが、算勘の才は朱槍の手練れには散々にあしらわれる羽目になる。
こういうキャラクターの組み合わせだから、展開が面白くなる。史実を踏まえ、そこからどこまで著者の想像力、構想が羽ばたいたのか定かでないが、戦に至る経緯とそれぞれの守り口での攻防戦を一気に読ませるおもしろさがある。
一方、この作品の読ませどころは、やはり「のぼう樣」の存在だ。この人物のどこに人を惹きつける力があるのか、どこからくるのか。のぼう樣・長親の一言で始まった籠城戦。そして壮大な水攻めを防ぎ通すプロセスにおけるのぼう樣の存在そのものを著者は描き出したかったのだろう。将器とは何か。著者は三成の説得にあたり、吉継にこう語らせている。
「みろ、兵どもをみろ。敵も味方もあの者に魅せられておる。明らかに将器じゃ。下手に手を出せば、窮地に立たされるのは我らの方じゃぞ」(下巻・p120)と。
また、こうも書く。「結局のところ、三成の頭脳をもってしても、成田長親という男はわからなかった。しかしながら、成田長親の持つ愚者としての一面が、強がりの家臣どもと、利かん気の強い領民どもの好みに見事に合致していることだけは確信できた。」(下巻・p192)
将器とは何か? のぼう樣という存在は、考える材料として提供されたとも言える。
三成の軍勢が忍城を包囲したのは、『成田記』によれば、天正18年6月4日という。そして、『成田系図』に従うと、天正18年7月16日に、三成に明け渡されたとのこと。小田原落城から11日後だそうだ。
忍城の攻城軍は当初、総大将三成の下に総人数2万人、それが館林城の降兵などが加わり23,000人に増大、さらに最終段階では秀吉が援軍として差し向けた軍勢1万余が加わる。これに対して、『忍城戦記』によると、士分百姓ら合わせた忍城の籠城兵の総数は、3,740人。そこには、15歳以下の童と女が1,113人含まれていたという。つまり、直接戦力となる人数は、2,627人である。
のぼう樣の統率力は結果的にすごかった!
活字本が魅了した各キャラクターのイメージ・魅力を、映画という媒体・映像がどこまで引き出せるのか、原作を越えられるか。はたまた、イメージ倒れになるか・・・・
それは、本書を読んでから映画を見て、やっと評価することができる。
それでなければ、全く独立した同名映画作品としてのみ楽しみ、その範疇で評価することに徹するか。本の発行部数に比し、どれくらいの人々が映画をみるのだろうか。
一つ、気になる点が残った。それはネット検索で得た情報からである。複数のサイトで、この籠城戦では甲斐姫が第一線の戦いに自ら出たということが書かれている。本書で甲斐姫が丹波や和泉を体術で手玉に取る場面が描かれているが、それだけだ。甲斐姫の戦働きは歴史資料に記載がある史実なのだろうか。単なる伝承あるいは創作だろうか。
著者が甲斐姫という要素を戦う場面で採りあげなかったのは、史実としての資料がなかったからか。あるいは単なるフィクションとしての構想上の選択にしかすぎないのか。興味深い点である。
ご一読、ありがとうございます。
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高松城(備中国) :ウィキペディア
武蔵国 忍城(おしじょう) :「城跡の写真」
武蔵・忍 :「検証・石田三成」
忍城の歴史 :「武州の城」
忍城の遺構1:「武州の城」
忍城の遺構2:「武州の城」
成田長親 :ウィキペディア
成田氏 :ウィキペディア
成田長親のお墓 :「彰義隊 関弥太郎の生涯」
石田三成 :ウィキペディア
石田三成のホームページ
忍城攻め-戦国の中間管理職・三成の悲劇 小村勇太郎氏 :「検証・石田三成」
あの人の人生を知ろう~石田三成
大谷吉継 :ウィキペディア
大谷吉継 :「敦賀の歴史」
長束正家 :ウィキペディア
長束正家 :「日本史人物列伝」
第5回「忍城攻防戦、甲斐姫の奮戦」
甲斐姫と忍城 :「日本歴史 武将人物伝」
太閤記 :国立国会図書館デジタル化資料
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