タイトルに冠されているとおり、紫式部が書き記した『紫式部日記』を初心者向けに編集された入門書。平成21年(2009)4月に文庫本が刊行されている。
藤原公任が紫式部に対して、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と問いかけたということがこの日記に記されているという事をある講座で聞き、かなり以前にこの本を購入していた。その箇所と一部を読んだだけで書棚に眠っていた。瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を通読した勢いで、本書を読み通してみることにした。
本書を読見終えた後で気づいたのだが、著者は平成22年(2010)8月に同文庫から『紫式部日記(現代語訳付)』を別に刊行している。こちらは2022年1月に20版が発行されている。改めて最近購入した。いずれ同書で全文を読み通してみたい。
さて、入門書に位置づけられる本書は、『紫式部日記』の主要部分を抜粋したダイジェスト版。紫式部が日記にどのようなことを書き記したのかについて概要を知るには便利でわかりやすいと思う。
「はじめに」の冒頭で、著者は「後宮を舞台にセレブリティ達の思惑が交錯する、華麗なる政治エッセイ」でもあると記す。「素顔の紫式部が綴った宮仕え回想録」だともいう。紫式部が得意の観察眼を働かせ、見聞した人々を生き生きと描き出す。一方、紫式部は嫌々宮仕えした後宮において、中宮彰子を見守りながら、自ら女房として自覚し成長してゆく姿が書き込まれているとも言う。読んでみて、納得するところがある。
つまり、『源氏物語』を創作した紫式部という女性の素顔の側面に触れる手がかりとして、読者にとってこのダイジェスト版は手軽で便利と言える。
日記の構成全体を把握できるように大凡の主要箇所が巧みに抜粋されているという印象を持った。岩波文庫の『紫式部日記』(池田亀鑑・秋山虔校注)も購入していたので、サンプリングで抜粋箇所を対比してみて確認した。
本書では日記内容をビギナーズ向けにわかりやすく区分して解説していく。「目次」でその区分(章立て)をご紹介すると次のとおり。
一 出産まで
二 敦成親王誕生
三 豪華な祝い事
四 一条院内裏へ
五 消息体
六 年次不明の記録たち
七 寛弘七年記録部分
これで日記全体の流れが大凡おわかりいただけるだろう。
目次の末尾には、紫式部が仕えた彰子の父である藤原道長が『御堂関白日記』に記録した9月10日・11日の書き下し文と大意が掲載されている。道長が何を記録しているかが分かって興味深い。
岩波文庫版では原文がそのまま掲載されているので小見出しなどはない。脚注はあるが現代語訳はない。そういう意味で初心者には使いづらい。こちらはある程度古典について素養がある人や研究者向きかと思う。また原文の確認の為には便利だと思う。
本書のスタイルは上記の目次構成をさらにブレークダウンした形で小見出しが付けられて日記文が抜粋されていく。まず著者による翻訳文から始まる。その後に日記原文が併載される。翻訳文を読んでから、原文を読むと細部を飛ばして原文の雰囲気を感じながら一応文字面だけでも原文を読み通すことができる。その後に、抜粋箇所の内容について具体的な補足説明が加えられている。読者には紫式部が記した内容に関連する細部の事項やその背景となる状況を知ることができて便利である。分かりやすい説明文となっている。
初心者にわかりやすいように、要所要所に関連するイラストや画像が挿入されていて、イメージしやすくなっている。例えば、「一 出産まで」では、秋の岸辺の草むらの図、五大明王像図、寝殿の内部図、遣水の図が挿絵が載っている。本文内容に関連する事項等をイメージしやすい。
また、この「一 出産まで」には、日記内容への導入部として重要な背景情報がコラムで解説されている。「重圧の中の9年間」「藤原道長」「公卿(上達部)とは?」の3つ。最初のコラムは中宮彰子の立場についてのコラムである。これらの知識があるかないかは本文理解の浅深につながっていくと思う。まさにビギナーズ向けの配慮が成されている。本書全体では、コラムがあと3つ併載されている。
冒頭に記した「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」が日記のどこに記述されているか? 「三 豪華な祝い事」の中、「7 五十日の祝い」の箇所である。つまり、敦成親王誕生五十日の祝いが催された宴の場面記録の一部として記されている。
ここでも、原文は「左衛門の督」が問いかけたとだけ記されているから、この時の左衛門の督が藤原公任だという説明がなければ、初心者には誰のことかピンと来ない。私はピンこない読者の一人だ。
「光源氏に関わるような方もここにはお見えでないのに、まして私が紫の上だなんてとんでもない。そんな方はいらっしゃいませんことよ、と聞くだけは聞いたが応えないでおく」(p98)と紫式部が己のリアクションを記している。この場面記録は有名である。
余談だが、このリアクション箇所、上掲の全文現代語訳付きの方では、「光源氏に似たような方もここにはお見えでないのに、まして私が紫の上だなんてとんでもない。そんな方はいらっしゃいませんことよ、と聞くだけは聞いたが応えないでおく」(p246)とされている。参照文献利用の関係からの訳出の違いのようだ。
いずれにしても、この場面描写から、寛弘5年11月には、既に『源氏物語』の若紫登場部分が存在したことと、女性読者ばかりでなく公卿も読者になっていた事実がわかる。『紫式部日記』が最も古い日付のわかる資料として貴重な文献になる。
この日記、藤原道長の指示により、紫式部が中宮彰子の初出産の記録を残すことになったという。公式記録ではなく紫式部の観察による私的な記録の形でということのようである。日記という形で残した私的ドキュメンタリー・レポートというところか。逆に、紫式部は観察結果をのびのびと記録しているともいえる。
本書を読んで初めて知ったのは、中宮彰子の出産についての記録、第一子敦成親王と第二子淳良親王という二人についての記録文の間に、「消息体」(手紙形式)での記述と年次不明の断片的エピソードが挟みこまれた構成になっているということ。著者は不思議な構成だとして解説している。
この消息体の記述の中に、紫式部による三才女批評が記されている。その一人が『枕草子』の作者清少納言という次第。これも有名となっている批評だ。本書には和泉式部と清少納言の二人についての批評箇所が抜粋されている。
末尾に、紫式部関係図、彰子関係図、紫式部日記関係年表、『紫式部日記』の注釈書が付されている。これも初心者には便利である。
『紫式部日記』の内容を理解する上で必要な時代背景の情報を学ぶとともに、この日記の主要箇所を知り、全体の概要を理解することができた。ビギナーズにはわかりやすい入門書になっている。紫式部の実像に一歩近づける感じがして、楽しみながら読めるところがいい。
ご一読ありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『平安人の心で「源氏物語」を読む』 山本淳子 朝日選書
『枕草子のたくらみ』 山本淳子 朝日新聞出版
藤原公任が紫式部に対して、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と問いかけたということがこの日記に記されているという事をある講座で聞き、かなり以前にこの本を購入していた。その箇所と一部を読んだだけで書棚に眠っていた。瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を通読した勢いで、本書を読み通してみることにした。
本書を読見終えた後で気づいたのだが、著者は平成22年(2010)8月に同文庫から『紫式部日記(現代語訳付)』を別に刊行している。こちらは2022年1月に20版が発行されている。改めて最近購入した。いずれ同書で全文を読み通してみたい。
さて、入門書に位置づけられる本書は、『紫式部日記』の主要部分を抜粋したダイジェスト版。紫式部が日記にどのようなことを書き記したのかについて概要を知るには便利でわかりやすいと思う。
「はじめに」の冒頭で、著者は「後宮を舞台にセレブリティ達の思惑が交錯する、華麗なる政治エッセイ」でもあると記す。「素顔の紫式部が綴った宮仕え回想録」だともいう。紫式部が得意の観察眼を働かせ、見聞した人々を生き生きと描き出す。一方、紫式部は嫌々宮仕えした後宮において、中宮彰子を見守りながら、自ら女房として自覚し成長してゆく姿が書き込まれているとも言う。読んでみて、納得するところがある。
つまり、『源氏物語』を創作した紫式部という女性の素顔の側面に触れる手がかりとして、読者にとってこのダイジェスト版は手軽で便利と言える。
日記の構成全体を把握できるように大凡の主要箇所が巧みに抜粋されているという印象を持った。岩波文庫の『紫式部日記』(池田亀鑑・秋山虔校注)も購入していたので、サンプリングで抜粋箇所を対比してみて確認した。
本書では日記内容をビギナーズ向けにわかりやすく区分して解説していく。「目次」でその区分(章立て)をご紹介すると次のとおり。
一 出産まで
二 敦成親王誕生
三 豪華な祝い事
四 一条院内裏へ
五 消息体
六 年次不明の記録たち
七 寛弘七年記録部分
これで日記全体の流れが大凡おわかりいただけるだろう。
目次の末尾には、紫式部が仕えた彰子の父である藤原道長が『御堂関白日記』に記録した9月10日・11日の書き下し文と大意が掲載されている。道長が何を記録しているかが分かって興味深い。
岩波文庫版では原文がそのまま掲載されているので小見出しなどはない。脚注はあるが現代語訳はない。そういう意味で初心者には使いづらい。こちらはある程度古典について素養がある人や研究者向きかと思う。また原文の確認の為には便利だと思う。
本書のスタイルは上記の目次構成をさらにブレークダウンした形で小見出しが付けられて日記文が抜粋されていく。まず著者による翻訳文から始まる。その後に日記原文が併載される。翻訳文を読んでから、原文を読むと細部を飛ばして原文の雰囲気を感じながら一応文字面だけでも原文を読み通すことができる。その後に、抜粋箇所の内容について具体的な補足説明が加えられている。読者には紫式部が記した内容に関連する細部の事項やその背景となる状況を知ることができて便利である。分かりやすい説明文となっている。
初心者にわかりやすいように、要所要所に関連するイラストや画像が挿入されていて、イメージしやすくなっている。例えば、「一 出産まで」では、秋の岸辺の草むらの図、五大明王像図、寝殿の内部図、遣水の図が挿絵が載っている。本文内容に関連する事項等をイメージしやすい。
また、この「一 出産まで」には、日記内容への導入部として重要な背景情報がコラムで解説されている。「重圧の中の9年間」「藤原道長」「公卿(上達部)とは?」の3つ。最初のコラムは中宮彰子の立場についてのコラムである。これらの知識があるかないかは本文理解の浅深につながっていくと思う。まさにビギナーズ向けの配慮が成されている。本書全体では、コラムがあと3つ併載されている。
冒頭に記した「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」が日記のどこに記述されているか? 「三 豪華な祝い事」の中、「7 五十日の祝い」の箇所である。つまり、敦成親王誕生五十日の祝いが催された宴の場面記録の一部として記されている。
ここでも、原文は「左衛門の督」が問いかけたとだけ記されているから、この時の左衛門の督が藤原公任だという説明がなければ、初心者には誰のことかピンと来ない。私はピンこない読者の一人だ。
「光源氏に関わるような方もここにはお見えでないのに、まして私が紫の上だなんてとんでもない。そんな方はいらっしゃいませんことよ、と聞くだけは聞いたが応えないでおく」(p98)と紫式部が己のリアクションを記している。この場面記録は有名である。
余談だが、このリアクション箇所、上掲の全文現代語訳付きの方では、「光源氏に似たような方もここにはお見えでないのに、まして私が紫の上だなんてとんでもない。そんな方はいらっしゃいませんことよ、と聞くだけは聞いたが応えないでおく」(p246)とされている。参照文献利用の関係からの訳出の違いのようだ。
いずれにしても、この場面描写から、寛弘5年11月には、既に『源氏物語』の若紫登場部分が存在したことと、女性読者ばかりでなく公卿も読者になっていた事実がわかる。『紫式部日記』が最も古い日付のわかる資料として貴重な文献になる。
この日記、藤原道長の指示により、紫式部が中宮彰子の初出産の記録を残すことになったという。公式記録ではなく紫式部の観察による私的な記録の形でということのようである。日記という形で残した私的ドキュメンタリー・レポートというところか。逆に、紫式部は観察結果をのびのびと記録しているともいえる。
本書を読んで初めて知ったのは、中宮彰子の出産についての記録、第一子敦成親王と第二子淳良親王という二人についての記録文の間に、「消息体」(手紙形式)での記述と年次不明の断片的エピソードが挟みこまれた構成になっているということ。著者は不思議な構成だとして解説している。
この消息体の記述の中に、紫式部による三才女批評が記されている。その一人が『枕草子』の作者清少納言という次第。これも有名となっている批評だ。本書には和泉式部と清少納言の二人についての批評箇所が抜粋されている。
末尾に、紫式部関係図、彰子関係図、紫式部日記関係年表、『紫式部日記』の注釈書が付されている。これも初心者には便利である。
『紫式部日記』の内容を理解する上で必要な時代背景の情報を学ぶとともに、この日記の主要箇所を知り、全体の概要を理解することができた。ビギナーズにはわかりやすい入門書になっている。紫式部の実像に一歩近づける感じがして、楽しみながら読めるところがいい。
ご一読ありがとうございます。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『平安人の心で「源氏物語」を読む』 山本淳子 朝日選書
『枕草子のたくらみ』 山本淳子 朝日新聞出版