遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『随筆集 柚子は九年で』 葉室 麟  文春文庫

2018-08-25 13:43:18 | レビュー
 この随筆集は2012年に単行本として出版され、短編小説「夏芝居」は当初から収録されていた。そこに3本の随筆が加えられ、2014年3月に文庫本化されたもである。著者にとっては初めての随筆集という。随筆集としてのタイトルは「柚子は九年で」となっている。これは単行本にするに当たって、改めてネーミングされたものである。
 本書に収録された随筆は、最初に発表された媒体や狙いの違いがあるからだろうか、三部構成となっている。「随筆 たそがれ官兵衛」として19本、「折々の随筆」として4本、「直木賞受賞後に」として5本、追加された3本の随筆はこの最後のセクションに加えられている。随筆三部構成の後に短編小説が収録されている。
 
 そこで、まず本書のタイトルの由来から入って行こう。随筆は、発表媒体や発表の時期が異なると、そのときのテーマに合わせて、同じ主旨の内容が話材として少し形を変えて繰り返し記述されることがある。このタイトルのフレーズについて、著者は「柚子の花」、「柚子の花が咲くとき」、「直木賞『候補』は四度で十分です」という3本の随筆で触れている。それらによると、著者は小説のタイトルを探しているときにこのフレーズを見つけたという。その小説が若者を主人公にした『柚子の花』で、2010年6月に出版されている。この小説には「じっくりと時間をかけて、あきらめることなく努力を重ねれば、いつかきっと花は咲くはずだという思いをこめた」(p153)と著者は己の心情を随筆に書き込んでいる。
 この「柚子は九年で」というフレーズを、ある地方では「桃栗三年柿八年、柚子は九年で花が咲く」と続けるということわざの言い回しで見つけたそうだ。「ことわざ辞典」には「桃栗三年柿八年」の後にいくつものフレーズでの言い回しがあると著者は随筆に例示している。
 一方、このことわざから著者はいくつかの思い、考えを引き出している。
 *人生にも「花を咲かせる」、あるいは「実を結ぶ」という時期があるだろう。
  ただ、それにかかる時間はひとによってさまざまだ。 p115
 *人生が「実を結ぶ」というのは六十歳を過ぎてからではないか、というのが実感だ。   p115
 *人生に花を咲かせ、実を結ぶためのスタートを切るのに遅すぎるということはない。   p115
 ここに、「遅咲き作家」の一人としてデビューした著者の思いが吐露されている。かつそれを自ら実践されてきたように感じる。

 随筆は、著者自身を映し出す鏡である。対象に対する著者の思いが比較的ストレートに書き込まれている。歴史上の人物や時代についての著者の捉え方が書き込まれている。その一方で、著者の日常生活の一端が書き込まれていく。時には自作についての創作意図や背景が書き込まれている。立て続けに著者の随筆集を読み継いできて、今思うことは、葉室麟の創作した小説の世界を、分析的に掘り下げて読み込み、読み解き、味読するヒントが随筆のなかにあるということである。著者はその時々の思いをそれほど意識せずに随筆に書き込んだだけかもしれないが、葉室麟文学論という視点では、ヒントという材料が詰まった倉庫でもある。また読者として著者との距離感を狭めるのに随筆が役に立つとも感じている。
 もう一つ、この随筆集を含めて、作家である著者が、他の国内外の作家の作品を幅広く読んできている事実を随筆の中で時折具体的に触れている。その読書遍歴に刺激を受けた。その時に、一端として印象論や作品論等について簡潔な所見を書き込んでいるのは参考になる。

 最後に、作家葉室麟の頭脳の中を垣間見るためのヒントになりそうな箇所を抽出していくつかご紹介する。著者の創作にリンクしていくバックグラウンドになっているのではないかと思う。
*ひとが思いを込めて生き抜いたことを伝えるのが、歴史なのではないかと白土作品から学んだ。 p14
*歴史はいのちの火のリレーであるとともに、いのちが虚しく奪われてきた悲しみの連鎖でもある。だからこそ、歴史を主題とする小説が書き継がれるのではないだろうか。 p111
*1960年の安保闘争を頂点とした政治の季節が終わり、高度経済成長が始まろうとする時期に『天保図録』は週刊誌の連載で書き始められた。清張が描いたのは現代政治の「悪」にも通じる。歴史、時代小説は現代を描くものである。 p121
*地方在住で歴史時代小説を書いているだけに、わたしがよく口にするのは「地方にいると歴史の断面が見える」という言葉だ。歴史はその時代の勝者が書き残すもので、中央にいれば、どうしても歴史の勝者の視点になってしまう。地方にいるからこそ敗者がいかに生き、戦ったかという、その生き様がわかる。そう思っている。  p150
*(黒田)官兵衛が目指したんは、天下よりも、むしろキリシタン勢力圏の回復だったのではないか。 p18
*薩長連合とは何なのか。盟約は6カ条ある。・・・・・今でこそ倒幕の軍事同盟と言われるが、当時は幕府の長州征討に備える密約だった。・・・・結果、盟約には竜馬が裏書きすることになった。リレーに例えれば、(月形)洗蔵が第一走者としてスタートし、中岡慎太郎がバトンを受けて走り、竜馬が最終走者としてゴールのテープを切ったと癒える。 p48-49
*(平氏一門が)都落ちの途中、(「忘れたる事有」と口にし)京に引き返す頼盛に一種の美があるのではないか。栄華の誇りを捨て、亡ぶ美しさにとらわれない生き方を選択したことに、毅然とした意志の力を感じるからだ。 p58
*蜻蛉には<自分>があった。兼家は出世の階段を上り、ついには摂政にまで昇って位人臣を極める。蜻蛉の目には兼家はどう映っていたのだろうか。それを知りたくて、わたしは『蜻蛉日記』を読んだ。 p82
*兼家が花山天皇の退位事件でめぐらした策謀が、やがて道長の繁栄につながり、ひいては王朝文学を開花させていった。 p88
*野心家は、「目的は手段を浄化すると考えることでモラルを失う。・・・・政治の場では正義のひとが「悪人」に変わる。どれほどの美名を掲げた改革であっても、ひとびとの共感が得られなければ、ただの独裁政治でしかない。 p121
*日本の歴史の中で隆家こそが最初に異民族を撃退した英雄だと言える。しかし、その活躍が脚光を浴びることはなかった。  p127
*<国難>に際して、現場は頑張るが、中央政府はうろたえるか、あるいは鈍感な対処しか見せないのは、昔からのことだ。  p129
*薩長和解に努力しながら、刑死した月形洗蔵らが顧みられず、龍馬だけが薩長同盟の功労者であるとしてドラマ化されることに、「所詮、死んだ者は損をするのか」と割り切れない思いがある。  p134
*(立花宗茂は)戦国武将として言わばサラブレッドであり、しかも朝鮮出兵の際に、・・・・「西国無双」と呼ばれるにふさわしい武功をあげた。天下人秀吉の眼鏡にかなった英雄的な武将だった。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に属してから人生は一転する。・・・・この転落したエリートが自らを信じて揺るぎなく生きたとしたら、魅力的ではなかろうか。わたしは、そんな宗茂を描いてみたいと思った。  p156-157
*虚構が事実の上に成り立つものだとしたら、百の嘘をつくためには、ひとつの真実を知っている必要がある。  p187

 随筆の最後は「ラスト一行の匂い」である。藤沢周平作『風の果て』の最後の一行を題材にして、藤沢作品は<大人の小説>だと論じる。著者は藤沢周平の作家スタンスに親近感を感じていることがにじみ出ているように思う。短い随筆だが筆者の捉え方が印象深い。
 最後に文庫本で、17ページ分の短編小説「夏芝居」が収録されている。江戸、深川木場育ちのお若が、博多に嫁入りし、三国屋治三郎の妻となる。お若は年が一回り以上違う商家の先輩、亀屋のおくらに、江戸からきた歌舞伎の夏芝居に誘われるのだが、お若は理由をつけて断る。そこには、ある事情があった。「夏芝居」がダブルミーニングになっていている。七代目市川団十郎が訳あって三国屋に訪れるという意外な展開の中で、意地と人情の機微が明らかになっていく。黒田藩の「天保の改革」という藩政の断面を背景としているところもおもしろい。落とし所がいい短編である。

 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『天翔ける』  角川書店
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』   新潮社
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26

『ブツダの伝道者たち』 釈 徹宗  角川選書

2018-08-21 11:05:36 | レビュー
 本書は二部構成になっている、第1部「仏教体系の連峰」、第2部「日本で構築されたノーマライゼーション・ブディズム」である。読後印象としては、第2部にウェイトがかかっていると思う。大雑把な言い方をすれば、第1部は仏教思想の理論の精緻化の一つの側面、系譜を語り、第2部では仏教の実践面を論じている。そのため、第1部と第2部では、本文の論調、スタイルがガラリと変わるという面白さがある。
 第1部は正直、通読して即解できる内容ではない。経典の引用箇所は読みづらい。だが、いわば必須的な内容とも言える。ゴータマ・ブッダが待機説法を使いながら、弟子達に語った内容が、後の時代の出家僧により仏教思想として理論化精緻化され、壮大な叡智の体系が形成されて行く。その体系の一つの系譜が要約説明されている。この書では、ゴータマ・ブッダその人と、ナーガルジュナ、ヴァスバンドゥの成し遂げたことが取り上げられている。
 これに対し第2部は、読みやすい。「仏教の教えを軸として、ごく普通に世俗社会を生き抜く」という道筋に焦点を当てていくからである。このような道筋の発展を著者は「ノーマライゼーション・ブディズム」と称している。出家者にとっての仏教理論・実践から、俗世間で職業を持ち、浮き世で苦しみながら日常生活を送る在家者が生き抜く支えとしての仏教の教えに転換して行く。それが日本で発展した精華として、浄土真宗の蓮如と独自の道を歩んだ鈴木三を取り上げている。蓮如は著者にとり本領発揮の対象でもある。

 さて、第1部は、ブツダとなった人、ゴータマ・ブッダから始まる。仏教を語るのだから当然のことだろう。そして、第2のブツダとも称されるナーガールジュナを取り上げ、仏教体系の連峰として、仏教の統合を行った人、ヴァスバンドゥに至る。
 仏教は、歴史上実在したゴータマ・シッダールタが「悟り」を開いて、その教えを説き始めたことから始まった。そこでまずゴータマ・シッダールタがどのような経緯をへて「悟り」を開いたか、から始められる。そして、悟りを得たゴータマ・ブッダは自分の説く道を「古道」と言ったという。自分の説くことは過去にいたブッダ、先人の知恵を踏まえたものだとする。初めて教えを説いた「初転法輪」からブッダの活動がはじまった。
 ブッダは「中道」を歩むこと、「縁起」の法という関係性の因果律を説く。執着と苦しみを縁起の法で説明する。「自分の都合」こそが「苦悩」を生み出す根源であると喝破したという。そして、「四諦」や「八正道」の思想を説く。ブツダ自身は、自分の都合が最小限となるライフスタイルとして「出家」を選択したが、一方で、社会の在り方や社会生活について、在家者には、基本は「フェア」と「シェア」を説いたと著者は言う。「共に歩み、分かちあえ」と説いたのである。ブツダは、「無明-愛-苦」の関係を「十二縁起」で説明する。さらに「常」と「一」と「主宰」というものを否定する(「常一主宰の否定」)。つまり「無常」の立場に立つ。一方、「戒-定-慧」による智慧の獲得を仏道の目標とする。ここにゴータマ・ブッダの説いたフレームワークが説明されている。

 ナーガルジュナは龍樹と漢訳されている人である。著者は日本仏教の源流に位置づけられる「龍樹菩薩」と呼ばれるこの人物をとりあげ、彼の著作『中論』からその思想の核心を説明する。『中論』冒頭に記された「八不の偈」に続いて、「世俗諦」と「勝義諦」という用語で真実の2つの形態を言語化したこと。縁起が空性であることを示すために「仮名」という表現でとらえていることを説明している。そして、ナーガルジュナが宗教体験による直観を言語化して説いた結果が「どこにも着地しない道」であるとする。ナーガルジュナは、徹底して縁起の法に基づき、「執着しない」という方向性での日常の実践を語ったという。著者は「空」の思想を完成させたのがナーガルジュナだと言う。中観学派と称される系譜が確立される。
 そして、この思想は、『維摩経』の偈頌にある「空の実践」に引き継がれていると著者は言う。

 この第2章で印象に残るのは著者の次の説明箇所である。要点を記す。
1) 創唱宗教にはいくつかの特性がある。  p60
  *「オリジナルに近いほど、真実に近い」という価値観がある。 
  *「オリジナルが頂点であり、その後それ以上のものは生まれない」
  *「繰り返し原点回帰ムーブメント」が起こる性格をもつ。 典型はイスラム教
2) 仏教の体系は「異端の上書きによる歴史」といった側面があり、これを「進化形態」として高く評価するユニークさを持つ。叡智の上書きの繰り返しが壮大な体系へと変貌してきた。それが、一方で、仏教が単純な原点回帰運動に至りにくい要因でもある。p60-61
3) 大乗仏教は高度な理念と土俗の宗教性を併せ持つ。 p61

 巨大な連峰となる3人目がヴァスバンドゥである。
 ヴァスバンドゥは、奈良・興福寺の北円堂に安置されている「天親(世親)」像で良く知られている僧である。当初部派仏教に属したヴァスバンドゥは、『倶舎論』という論書を書き上げる。そして、兄(アサンガ・ヴァスバンドゥ、無著)の誓願により大乗教理と向き合った上で、大乗仏教者へ転向する。そして、大乗仏教者として、「唯識」思想を大成したという。つまり、仏教思想の統合を手掛けた人だそうである。
 「大乗仏教は、『空』を土台として、『心の働きを中心にすえた理論と実践』へと展開していった。唯識はその精華である」(p95)と言う。唯識学派という系譜が確立される。
 心の働きを軸に世界を読み解くのである。空の思想を実践的に展開するのが唯識であり、唯心論と共通するところが多いとする。著者は「識の三層」として、阿頼耶識・末那識・六識を概説する。唯識の思想は、現代科学と合致する部分が多いという。
 唯識の理論体系は、部派仏教の「有る」と大乗仏教の「空」とを綜合する立場をクリエイトしたと著者は言う。この辺りになると、そういうものなのか・・・というレベルに留まり、理解が及ばない。唯識の解説書に踏み込まないと・・・・。香りを嗅いだにとどまる思いである。
 ヴァスバンドゥの唯識思想により「識の転変」が行われ、心の方向を転換させる実践法がヨーガなのだという。
 この第3章を読み、北円堂で拝見した「天親(世親)」像の背景が少し理解できてきた。興福寺は薬師寺とともに、法相宗のお寺であり、唯識を教学の中心にする宗派であるという。その繋がりがナルホドである。
 
 第2部の「蓮如 -日常を営む仏道」(第4章)に入ると、俄然読みやすくなる。なぜなら、蓮如を介して、第1部の仏教体系の延長線上に、その連峰の一つとして、浄土真宗の仏教思想、理論的枠組みを論じようとするのではないからだ。それをするなら、「自らの影から目をそらさない実存主義的宗教者であった親鸞」(p120)が取り上げられただろう。著者は、ナーガルジュナが『無量寿経』の立場に着目し、その教えを精緻化していて、「信による解脱」である易行道を展開していると論じる。その先に、蓮如を世俗社会を苦しみながら生き抜く人々に「信による解脱」を実践することを説いた人として、上乗せしていく。蓮如が教団人として教線の拡大に活躍することが実践を広めることでもあった。勿論、蓮如の実践のバックボーンには、親鸞の著述という仏教思想の理論が既にある。だから、蓮如の役回りは、世俗の人々を救いに導く実践を広げること。言い換えれば、信者を拡大して行くことだったと言えようか。そこで、この第4章は、蓮如がその人生を通じて、どのように実践活動をしたかを明らかにしていくことになる。その立ち位置を、「蓮如思想は、禺者が歩む仏道にほかならない」(p165)と著者は読み解く。
 教団の拡大に人生を捧げた蓮如の活動を、伝記語り風に著者は論じていく。それ故、読みやすさがあり、蓮如という人に興味が湧く。
 伝記風の概説から、いくつかキーポイントを要約してご紹介する。
*蓮如が42歳で本願寺宗主となるまでの本願寺は、天台宗青蓮院の一末寺だった。
*蓮如には、本願寺内にあった他宗派の仏像や絵などを風呂の焚き付けにする。大師像も排斥しようとするくらい、一心一向的姿勢があった。
*蓮如が本願寺教団オリジナルの宗教儀礼をクリエイトした。
  「正信偈」と「和讃」による勤行形態。「無碍光本尊」の考案など。
  行為様式の明確化が同信者の絆を強くする道筋であることを熟知していた。
  語り合いの法座を重視し、その形式を確立した。
*本願寺が破却された後、摂津や近江を転々とし、1471年に越前吉崎に拠点を移す。
*蓮如は文書による伝道教化活動に注力した。今日「御文章(御文)」と称される。
*心情の吐露、細やかな宗教的情感の発揮が、蓮如の魅力となり、求心力となる。
*蓮如による堂宇建立、拠点作りした地は、寺内町として都市化する。
*蓮如は63歳で山科に本願寺の再興を図り、74歳で本願寺宗主を譲り、81歳の時に摂津国東成郡生玉庄大坂に坊舎建立を始める。ここが後に、石山本願寺という日本屈指の軍事的経済的宗教的要地となる。
*蓮如は平座にてみなと同座して。「同じ信心をいただくものはすべて平等」というスタンスで布教を実施。教線の拡大では人々が村に念仏道場を建てることが核となる。
*蓮如は「仏法を主とし、世間を客人とせよ」と説く。
*蓮如は、人々を導こうとする柔らかさと強い意志を持ち、人間の情緒のひだに分け入る形で仏法を語り合い、目指す地平は「凡夫が仏になる」ことだとした。
 
 本書の最期に、第2部でもう一人「鈴木正三」を取り上げている。かれは「日本仏教の改革者」だと記す。これは中村元が富永仲基と並ぶ「批判的精神の持ち主」と評価し、こう位置づけたそうである。昭和40年頃までは日本の仏教学者すら鈴木正三をほとんど知らなかったそうである。私は本書で鈴木正三という存在を知った。
 この章もまた、鈴木正三の生き方を語るという伝記風の記述の中で、なぜ改革者とみなされたかという背景を説明している。
 雑賀系の「鈴木」と思われる鈴木家に生まれ、関ヶ原の戦いにも参戦した武士で、武士道と仏道の双方に足をかけながら歩み続けた人だという。曹洞の禅を学ぶことから始め、42歳で出家し、修行の旅に出る。島原の乱後には、天草にも足を運んでいるという。
 正三は仏教、神道、儒教、さらには日本文化圏にあった古来からの宗教的感性などをすべて融合した思想だという。著者は「アマルガムのような東洋宗教を仏教から解読したもの」と説明する。正三は「どんな職業も仏行である」とし、職場こそ仏道の道場と考え、自らの職を修行と思い、その中で悟りを開くことを説いたという。出家や在家の優劣、職業による上下の位置づけなどはないという仏道観である。ノーマライゼーソン・ブディズムを発展させた人物である。
 日常の営みのなかに仏道をとらえるという立場では、蓮如と同じなのだが、阿弥陀仏だけに帰依するという浄土真宗の在り方を嫌ったというから、おもしろい。
 雪山童子物語という「ジャータカ」の一種の捨身譚に幼き頃に魅了され、後に「勇猛精進」を宗とし、「仁王阿吽の気力を以て、日々気力を抜くことなく生きる」ことを指針とした生き様だったという。まさに、独自の実践道を流布し、自ら歩み抜いた人物のようである。世俗社会の中で人々が生き抜くための仏道を実践するという点では、蓮如と共通項があると言える。
 蓮如が「世法を客として、仏法を主とせよ」と語るのに対して、鈴木初三は「世法はそのまま仏法である」という地点まで展開したという。著者は、正三の方向を、仏教の「市民宗教化」と論じている。
 一方、宗教学者すら殆ど知らない人物だったと言うことは、鈴木正三の思想の立ち位置から考え、宗派化、教団化することはなかったといういうことだろう。知る人ぞ知る。信奉者の個人的実践があるだけということなのだろうか。
 ノーマライゼーション・ブディズムという実践の展開における蓮如と鈴木正三の活動は、対照的で興味深い。

 ご一読ありがとうございます。
 
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
釈迦  :「コトバンク」
龍樹  :「コトバンク」
龍樹と空(中観)  :「広済寺」
龍樹の思想  :「仏教へのいざない」
世親  :ウィキペディア
世親  :「コトバンク」
木像無著・世親像  :「興福寺」
運慶作『世親像』のモデルは文覚上人である  :「田中英道ホームページ」
蓮如さん -ご生涯と伝説-  :「本願寺文化振興財団」
蓮如  :「コトバンク」
蓮如  :ウィキペディア
浄土真宗をひろめた蓮如上人  :「ふくい歴史王 発掘!ふるさと人物伝」
鈴木正三  :ウィキペディア
鈴木正三  :「コトバンク」
鈴木正三記念館
働くとは? 鈴木正三の思想「労働即仏道」  :「WEB歴史街道」
誤解された思想家たち・日本編その9――鈴木正三(1579~1655)
      :「小浜逸郎・ことばの闘い」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


次の著書も読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『不干斎ハビアン 神と仏を棄てた宗教者』 釈 徹宗  新潮選書 

『聖地巡礼 リターンズ』 内田樹×釈撤宗  東京書籍
『現代霊性論』 内田 樹・釈 徹宗  講談社

『天翔ける』  葉室 麟  角川書店

2018-08-17 10:10:47 | レビュー
 松平春嶽は、賢候として天下に知られ、鼻が優美で顔立ちが端整であることから鋭鼻公というあだ名があったという。本名は慶永(よしなが)、11歳で元服するまでの幼名は錦之丞である。文政11年(1828)、徳川御三卿の田安家に生まれた。八代将軍徳川吉宗の息子を祖とする田安家と一橋家、九代徳川家重の子を祖とする清水家の三家の当主の官名が代々、律令制の八省の長官(卿)であることから、御三卿と呼ばれたという。
 天保9年(1838)7月福井藩主松平斉善が病没した際、将軍家慶の命により春嶽は11歳で越前松平家を継ぐ。11歳で少年藩主となったが、当時の福井藩は膨大な借財を抱えていた。常盤橋の福井藩邸で過ごし、16歳の折りに許されて越前福井に帰国する。そして、福井藩の実情をつぶさに知る。横井小楠を起用し藩財政の改革、建て直しを実現していく。一方で、御三卿の出で親藩の藩主という立場から、江戸幕府における春嶽の存在は大きくなり、幕末期における春嶽の政治上の発言・献策と彼の進退は注目されるものとなっていく。この小説は16歳で帰国する時点から、明治23年、東京、小石川関口台町邸で逝去するまでの春嶽を政治活動の側面から描く。伝記風小説の形を取るが、松平春嶽を中核人物として据えながら、幕末という時代の様相、ダイナミックな国策、政治のうねりを描き出そうとした歴史小説である。
 春嶽、享年は63歳。「なき数によしやいるとも天翔り御代を守らむ皇国のため」という辞世の和歌を残したという。本書のタイトルはこの「天翔り」に由来するのだろう。また、その少し前に、西郷隆盛の志を春嶽が「天を翔けるような志」と回想し、己もそんな志をかつて持ったと言わせている。由来はここにもリンクしている。

 アメリカのペリー提督により開国を迫られる頃から大きく時代が動き出す。この時代の枢要な人々は中国におけるアヘン戦争の状況について情報を入手していた。鎖国を続けてきた江戸幕府にアメリカをはじめ諸国が開国を要求してくる。開国か攘夷かという国策選択での紛糾に加えて、尊王攘夷運動の動きが生まれていく。江戸幕府にとっては、その存立をどうはかるかが焦点となっていく。幕府主導の立場、公武合体の動き、一方で倒幕への動きと、うねりゆく時代の様相が捕らえられ、その渦中に投げ込まれた主要人物群が点描風に、春嶽との様々な関わりあいとして描かれ織り込まれていく。

 本書を通読すると、春嶽の基本的考え方と国策として提言する政策は、激しく揺れ動く幕末の政治状況の中で一貫していたようだ。幕府の政事総裁職という立場になり、己の考えを述べつつ幕閣の状況次第で、幾度も進退を繰り返すという動きをとった。
 江戸幕府において政権を担当するという立場にありながら、倒幕・明治維新により、新政府が誕生したときに、春嶽は民部卿・大蔵卿という中枢の要職に就いた。時代の転換の中で、旧幕から新政府の中枢に加わったのは春嶽だけだったという。それは、なぜか? 著者は、春嶽の一貫した考え方にその因があったととらえているように感じた。

 春嶽は福井藩の財政改革には横井小楠を起用し、小楠には我国の今後の有り様について、献策させている。また藩医の子で、緒方洪庵の適塾で研鑽した橋本左内の見解を取り入れ、己の手足として活動させていく。この小説は、横井小楠と橋本左内の小伝という役割も果たしている。もう一人、春嶽の傍で、春嶽を支えたのは中根靭負である。中根は時には小楠の見解と対立する立場にもなる。春嶽はその対立も止揚していく動きを見せる。

 春嶽の思考の根底は「日の本の国を守る」にある。徳川幕府体制を守ることではない。大政奉還をし、徳川家を一雄藩と位置づけて諸藩と連合し、一緒になって公武合体の形で、日本という国のベクトルを合わせ、開国し、国を富ます方策を講じるという考え方を貫こうとしたようである。その実現のためには、多少の方便をも使うという行動もとる。

 春嶽が己の考えを形成する上で、関わりを持ち影響を受けた人物たちが勿論いる。また春嶽が己の考えと方策を実現しようとするが、それが時代のうねりの中で頓挫を繰り返す。その頓挫に関わった主要な人物群も勿論いる。その経緯が描き込まれていくところがおもしろい。ここには、春嶽という人物を介して、多分著者の人物観・歴史観も投影されているのだろう。
 春嶽が16歳で越前に帰国する前に、水戸斉昭に面会を申込み、教示を受ける。斉昭と面談した春嶽は、斉昭の考えと直接の面談で得た人物観を通し、斉昭の教示を是々非々で受け止める。
 18歳の時、20歳年長の島津斉彬と交際する機会を得ると、蘭癖と言われた斉彬から、開国と国を守る軍備について、大いに学び影響を受けたようだ。春嶽は斉彬の観点から考えるという思考を活かしているように感じる。著者は「策は行ってこそ、意味があります。実現いたしてこそ初めて妙策と呼べるのでございましょう」(p73)と斉彬に語らせている。もし斉彬が志半ばにして死ぬという結末でなく、そのまま生きていれば幕末史はどうなっていたかと、空想したくなる。春嶽と斉彬は強力なタッグを組んでいたのではないか。
 春嶽が大老井伊直弼と対峙する場面が描かれている。井伊直弼のふてぶてしい態度の描き込みかたがおもしろい。立場は違え、井伊もまた己の信念があったのだろう。
 文久2年に島津久光は上洛し、その続きに勅使とともに江戸に下向した。江戸の福井藩邸で春嶽は久光と面談したようだ。だがこの時、春嶽は久光という人物を見限ったようである。久光が行った西郷への措置も背景にあるようだ。この後、久光が帰国の途上で、あの生麦事件を起こしている。時間軸での繋がりの経緯をこの小説で初めて知った。
文久3年に、越前に帰国していた春嶽のところに、幕府軍艦奉行並、勝安房守の使いと称する坂本龍馬が訪れている。これが春嶽と竜馬の初対面だったようだ。その言動から「あの漢、使える」と春嶽は評価したと著者は記す。おもしろい。このとき、小楠を介して竜馬は三岡八郎と面談している。人の繋がり方もまた、おもしろい。
 海軍創設の方針を打ち出したのは春嶽であり、その結果、勝海舟が用いられるようになり、文久3年、神戸に海軍操練所が作られることになる。春嶽と勝海舟の接点ができる。
 最後の将軍となる一橋慶喜に対し、才気はあるが状況次第で変節する人物であり、徳川をつぶすと春嶽が判断しているところが興味深い。
 小御所会議の折に、西郷が「越前様には、もはや橋本左内殿のことはお忘れになりもしたか」と訊いたことを春嶽は思い出す。それは、妻の勇姫から西南戦争で西郷が死んだのち、「実家の者が新聞記者から聞いたそうでございます。西郷殿が最期まで持っていたカバンには左内の手紙が入っていたそうでございます」と述べたときである。春嶽はそこに西郷の心を知る。「西郷は死ぬまで左内のことを忘れなかったのだ。それだけではない。若いころ国を守ろうと思い立った志を最期まで抱きつづけたということでもあるのだ」と。
 
 この小説を読み、関心を惹かれた箇所が2つある。これに触れておこう。
 一つは、春嶽が大政奉還策を城中で慶喜に話すのだが、この考え方を最初に幕閣の会議で進言したのは、将軍の上洛についての幕閣の会議で、大久保忠寛だったという。「幕府にて掌握する天下の政治を朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加わり、駿遠参(駿河・遠江・三河)の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なり」。このとき大久保は苦肉の策として考えたのだが、春嶽はそれを開国を進める手段として使うことに発想を転換したのである。
 もう一つは、坂本龍馬が策したという「新政府綱領八策」。通常、「船中八策」と称されている。著者は竜馬と三岡八郎との対話の中で、この八策の大本は横井小楠が春嶽に献策した国是七条に想を得たものだろうと三岡に尋ねさせ、龍馬にそうだと言わせている。たしかに数箇条は同趣旨の内容だ。それに新たな要件を加えるところに、龍馬の発想が飛躍している。

 西洋諸外国が開国要求をしてきた幕末期に、国の存亡をかけて様々な動きが現れた。江戸幕府体制への批判、尊王思想の高まり、開国論、攘夷論、佐幕、公武合体論、尊王攘夷論などが錯綜する。世の中が大きくうねり動く中で様々なレベルで合従連衡も起こる。その渦中で、春嶽は一つの考えを志として持ち続け、活動を推進した。幕府の政権の一角を担いながら、明治政府の中枢でも当初活躍の場を得るという異色の存在となった。
 だが、時が経つと「薩長の軽格武士たちが、維新回天の功績は自分たちにあり、と大きな顔をしてのさばる明治政府」(p280)に堕していく。春嶽はそれを笑止と見つめるだけになる。これは、己の志のもとに奔走し、活躍して、死んで行った者たちが忘れ去れていき、勝者の歴史、言い分が罷り通るだけの現実への虚無感に繋がって行くように思う。
 この小説は、松平春嶽の考えと活動を中核に、幕末の時代がどのように蠢いていたのかを描こうとした歴史小説である。ここに幕末動乱期をとらえ直すための一石が投じられたと言えようか。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
松平慶永 :「コトバンク」
松平慶永(松平春嶽)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!:「BUSHIDO!JAPAN」
【 幕末の四賢侯 】英邁な越前福井藩主・松平春嶽  :「歴人マガジン」
徳川斉昭  :ウィキペディア
「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭 たしかに仕事はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し :「BUSHIDO!JAPAN」
横井小楠 :ウィキペディア
横井小楠 :「熊本歴史・人物 散歩道」
横井小楠の教育・政治思想  荒川 紘 氏  pdfファイル
松浦玲・横井小楠  :「松岡正剛の千夜千冊」
橋本左内  :「コトバンク」
橋本左内書状 :「京都大学貴重資料デジタアルアーカイブ」
由利公正 :「コトバンク」
三岡八郎(由利公正)  :「歴Naviふくい」
由利公正(三岡八郎)をめぐるエピソード集 pdfファイル
徳川慶喜  :ウィキペディア
徳川慶喜(一橋慶喜)の解説 徳川家最後の征夷代将軍 その人柄と評価は?
   :「幕末維新風雲伝」

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』   新潮社
『河のほとりで』  文春文庫
『玄鳥さりて』  新潮社
『津軽双花』  講談社
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26



『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』  柚月裕子  講談社

2018-08-12 10:12:53 | レビュー
 「○○的にあり得ない」というタイトルスタイルで、2012年から2016年に「メフィスト」に掲載された短編連作推理小説を集成したのが本書である。2017年2月に第1刷が発行された。
 ○○的に該当する言葉は、「確率的、合理的、戦術的、心情的、心理的」である。つまり5編の連作短編が収録されていて、本書のタイトルはその第2作目に由来する。
 
 タイトルに記されている上水流涼子(かみづるりょうこ)が主人公であり、彼女の助手として貴山(たかやま)伸彦が登場する。
 上水流涼子は東京都新宿区の雑居ビル内に事務所を置き、「上水流エージェンシー」を運営している。定款上は興信所の扱いである。だが、顧客は表に出せない相談事を依頼してくる。依頼内容を聞き納得すれば、殺しと傷害以外は何でも引き受けて案件を解明する。それが現在の上水流涼子の仕事だ。顧客の大半は富裕層。上水流は一流弁護士並の依頼料を受け取っている。

 父親の代からある企業の顧問弁護士となり、引きつづき涼子もその仕事を受託していたが、ある事件により上水流は弁護士資格を剥奪された。執行猶予付の判決確定後に、それが罠に嵌められた結果だったことを、自分で調べて解明する。嵌められて弁護士資格を剥奪されたことについて、その首謀者に上水流は敵愾心・復讐心を抱いている。
 上水流は身につけた法律知識を武器にして、時には法規制のグレーゾーンに一歩足を踏み入れてでも、受託案件の解明行動に出る。上水流は「上水流エージェンシー」のことをPRしない。広告により仕事を請けるという方針はない。事務所を開いて以来、案件を解明されて満足した顧客層のネットワークに関わった人、つまり過去の顧客という紹介者がいる依頼人だけを相手にしている。いわばグレーな仕事請負人的存在である。

 助手の貴山は上水流にとっては特異な人物である。なぜか? 上水流が嵌められた事件の関係者の一人だった。その貴山があっさりと上水流の助手に自ら望んで納まったのである。東大卒で自己申告ではIQは140を越えるレベル。ITリテラシーに優れ、情報収集や調査もすばやい。学生時代は役者をめざしていたらしいが、卒業後はなんでも引き受けるきわどい仕事を生業としてきたという。

 上水流と貴山が、顧客の依頼である表に出せない相談事を、どういうアプローチで、いかに手際よく、鮮やかに解決に導くか、問題解決のための発想とそのトリッキーな、あるいはクールなやり方、意外性が読ませどころとなる。

 連作短編の各編について、テーマやその面白さをネタばれにならない範囲で少しご紹介しておこう。

<確率的にあり得ない>
 藤請建設の社長で二代目経営者本藤仁志は経営コンサルタントと自称する高円寺裕也を行きつけのクラブのママに紹介される。高円寺には特別な予言力があるという。それを胡散臭いと決めつけた本藤は、高円寺を自宅に呼び、その化けの皮を剥がそうとするが、逆に彼の予言力を見せつけられて、虜になってしまう。二代目は自分で意思決定のできない人物。これまでは母親に相談していた。経営判断の必要な案件について、本藤のとるべき選択肢が何かを高円寺に幾度か相談するようになった。高円寺の助言はその都度的中した。そして本藤は高円寺総研を会社の正式な経営コンサルタント会社として契約する決意に至る。その結果、高円寺の要求に従い、2年間の契約料5000万円を小切手で先払いしようとする。
 その時、その場に、貿易を手掛ける中国企業・神華コーポレーションの社長秘書・国分美紗と名乗る女性が、社長・楊とともに現れる。たまたま近くにいて、高円寺の予知能力が高いということが耳に入ったので、頼み事があるという。本藤は高円寺の能力を吹聴し、その場に割り込んできた二人の頼み事の成り行きを受け入れる。本藤はその展開の意外性に驚き、己の弱点を指摘される羽目になる。

<合理的にあり得ない>
 還暦を迎えた神崎恭一郎は、バブルの絶頂期に地上げや不動産取引で多額の資産を得、不動産投機で膨らまし、引き際がよかったので3億近い金を儲けた。それを手堅い資産運用に回すことで、今は悠々自適の生活をしている。
 だが、家庭には問題がある。一人息子の克哉は都内の高校に合格し、入学式から1週間で学校に行かなくなり、引きこもりとなり、それが悪化してきている。一方、35歳の時に一目惚れして結婚した妻の朱美の最近の行動がどこかおかしいのだ。
 そんな折り、資産を預けている信託銀行の一つの担当者から電話が入る。妻の朱美がこの2ヵ月位の間に、口座から2000万円近くを引き出しているという。自分に内緒で引き出していることに怒りを感じた恭一郎は、朱美が帰宅すると、2000万円の使途を問い詰める。朱美の話を聞き、それは詐欺だと恭一郎は断じる。古くから使ってきた興信所に調査をさせる。その報告書には、朱美が先生と呼んでいた綾小路緋美子は、本名が上水流涼子と記されていた。
 恭一郎はホテルのロビーで、上水流涼子と対峙する。涼子が恭一郎に告げたのは、「松下昭二、という名前にお覚えはありませんか」ということだった。
 上水流涼子は、ある顧客から依頼を受けた。そして、綾小路緋美子として朱美との関係を作ったのだ。涼子は恭一郎と会うことになった時点で、改めて朱美と会い、朱美から恭一郎に渡す白い封筒を預かる結果となる。

<戦術的にあり得ない>
 上水流エージェンシーの名前や電話番号は表に出ていないのに、何故か関東幸甚一家という暴力団から電話が入る。総長が依頼したいことがあるという。
 事務所にその総長・日野昭治が数名の手下を連れて現れる。日野は山梨に本拠を置く関東幸甚一家の五代目総長で、指定暴力団である本家関口組の理事長補佐でもあるという大物。その日野の趣味は将棋であり、実力はアマチュア4段クラスだという。同じ関口組の二次団体であり、長野に本拠地を置く横山一家の三代目総長・財前満が2年前に、日野に将棋の勝負を申し込んできたという。それ以来、この夏までの1年半で十局指して五勝五敗で拮抗。だが、この夏を境に財前に三連敗。財前が見違えるほど上達したのか?どこかに不正があるからなのか?日野なりに調べてみたものの全く検討がつかないという。
 日野は次の財前との対局を最後にしたいと思っている。今までの一局の賭け金は3000万、次回は1億だという。最後の大勝負をどんな手を使っても勝たせろというのが依頼だった。対局の場所はいつも同じ。天童市にあるホテルでプロのタイトル戦が行われる場所である。今までも対戦会場の竜昇の間に入るときには、厳格なチェックが行われ、会場も厳しく管理され、対局の様子は映像に記録されているという。
 貴山は東大将棋部で主将を務めた実績があり、アマチュア5段だった。貴山は、財前が急激に腕を上げたという裏にはコンピュータ将棋を利用した不正をしているのではないかと目を付ける。過去の二人の対局の棋譜を取り寄せ、徹底分析をすることから、始めて行く。不正のやり口を解明でき、さらに日野を必勝させる妙手があるのか?

<心情的にあり得ない>
 上水流エージェンシー事務所の電話が鳴る。電話と取った貴山は二言三言相手と話し、依頼を拒絶する。再び電話が鳴ったとき、涼子の方が先に電話を取る。相手は諌間敬介だった。上水流涼子を罠に嵌め、弁護士資格剥奪という結果に追いやった首謀者である。その諌間が涼子に極秘に依頼したいことがあるという。涼子を嵌めた首謀者が、依頼を頼めるのは君しかいないと弱音を吐く。涼子は会ってみることにした。
 依頼内容は、孫娘で綾目女子大学二年生の諌間久美を捜してほしいということである。家出の原因は合コンの席で出会った男にあったようだ。長男夫婦が興信所を使い久美の身辺を調査させた結果、広瀬智哉25歳とわかる。自称、不動産ブローカー、実際はホストあがありで何人もの女に金を貢がせて暮らしているヒモだった。長男は久美との手切れ金を準備し、広瀬に渡していた。その後広瀬はぷっつりと姿を消した。が、自分の身辺を調べた両親を責めた久美は家出して行方不明となった。そのことを諌間敬介は3日前に長男から聞かされたというのだ。なぜ涼子に依頼するのか? 諌間は、涼子は信用できるということと、自分には、守らなければいけないものがあるからだという。「諌間久美を捜し出し親元に帰す」ことが依頼事項だという。
 この短編のおもしろいところは2つある。1つは、サイドストーリーとして、涼子が諌間に嵌められた経緯が明らかになり、併せて貴山がどういう関わりであったか、なぜ涼子の事務所に勤めることになったかが解明されることにある。2つめは、依頼事項を解決することが、涼子の遺恨をはらす機会にもなるというところにある。

<心理的にありえない>
 桜井由梨の父は、銀行に5000万円の負債を残して自殺した。その前日、娘の由梨に電話をかけてきて、騙されたというひと言を残していた。父が残したのは1冊の手帳と腕時計1つ。その手帳には暗号のようなメモが書き込まれていた。由梨は、ひと月ほど前に立ち寄ったカフェで手に取ったトレンド情報誌を見ていて、手帳のメモが野球賭博に関係していることに気づいたのである。手帳の最初ページに携帯番号が記されていて、横に漢字で「予土屋」とある。由梨はこの携帯電話番号に公衆電話から掛けて、予土屋と名乗る男が出たことだけは確かめた。
 由梨は来月の末に、父の3回忌を迎えるという。由梨の依頼は、父が騙されて借金し自殺した無念をはらしたいということだった。涼子は依頼を引き受ける。
 この短編、ストーリーの全体構成がおもしろい。それは読んでのお楽しみというところ。
 違法な野球賭博がどのような仕組みで行われているのかの状況がわかる点も興味深いところである。

 上水流涼子と貴山の活躍する第2作が出ることを期待したい。
 ご一読ありがとうございます。

徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 宝島社
『朽ちないサクラ』  徳間書店
『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社

『聖地巡礼 リターンズ』 内田樹×釈撤宗  東京書籍

2018-08-10 10:17:50 | レビュー
 『聖地巡礼』がシリーズ化されていて、2016年12月に第1刷が発行された本書が第3作になる。私にはこれが初めて読む本である。いずれ遡って他の2書も読んでみたいところ。さて、なぜまずこの本が目に止まったのか? それは表紙に記された副題「長崎、隠れキリシタンの里へ!」にある。
 ごく最近、6月30日に国連教育科学文化機関(UNESCO)第42回世界遺産委員会が、長崎県・熊本県の「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を世界文化遺産に登録すると決定したというニュースを目にしていたことと、遠藤周作著『沈黙』を想起したことで、副題に惹かれたことによる。合わせて、先日読んだ葉室麟のエッセイ集に収録されていた「殉教」も影響している。

 本書は3日間でキリシタン関連の聖地を取材ナビゲーターと著者及び巡礼部というグループに参加した人々が巡った記録である。ここで言う記録は取材ナビゲーター(下妻みどりさん)の現地案内を皮切りに、内田樹と釈撤宗が現地巡礼中に対話した内容を全面再構成、加筆・修正したものが一つの柱となっている。これは現地やバスでの移動中に、巡礼部のメンバーの間で二人の著者が語り合った印象や思い、考え、歴史的背景説明などの内容が整理再構成されたのだろう。それと、宿泊先で、巡礼部の人々を対象にして釈徹宗が講話を行い、釈と内田が対談した内容が収録されている。
 つまり、語りかけスタイルの文字起こしが基になっているので、読者にとっては読みやすいといえる。それ故、弱みは歴史的事実説明や印象論の背景説明が深く掘り下げられていない感が残る。ポンと結論的な所見が述べられたにとどまるところが散見される。それは逆に、現地巡礼での霊性感能や印象を重視しているということかもしれない。

 本書は最初の2日間が長崎巡礼、3日目が京都と大阪での巡礼を合わせたものとなっている。
 1日目は「長崎とキリシタン」と題して、次のルートが巡られることになる。
   春徳寺(トドース・オス・サントス教会跡)⇒サント・ドミンゴ教会跡資料館⇒長崎県庁
     ⇒二十六聖人殉教地⇒浦上天主堂⇒原爆落下中心地⇒大浦天主堂
   宿泊先での夜の「講話と対談」の対談の中で、キリシタンの島、五島について、
   そのいくつかの地にある教会の全景写真の紹介と対談が含まれる。
 2日目は「隠れキリシタンの里へ」と題し、西彼杵半島西部の外梅(そとめ)地域である。
   サン・ジワン枯松神社⇒カトリック黒崎教会⇒バスチャン屋敷跡
     ⇒カトリック出津(しつ)教会⇒旧出津救助院⇒大野教会堂
 3日目は「京都と大阪のキリシタン」と題して、次のルートが巡られる。
   [京都] 妙満寺跡(二十六聖人発祥の地)⇒一条戻橋⇒椿寺(西ノ京ダイウス町周辺)
     ⇒[茨木] 茨木市キリシタン遺物資料館⇒カトリック高槻教会

 長崎の聖地巡礼において、著者の一人・釈は「信じる」と「共苦」をテーマとして設定したという。「信じる」が人間にとってどのような事態なのかをテーマとする。「共苦」は共に同じ痛みや苦しみを感じることとだと言い、仏教における慈悲の中の「悲」(カルナー)の部分であり、英語では「コンパッション」と訳されていると言う。そして「共苦」を考えるとき、「聖地というのは悲劇を求心力へと変換させる装置」(p19)ととらえている。 さらに、キリスト教は「信仰のあり様を問う」という「内面重視型」ととらえ、ユダヤ教が「どう行為したか」という「行為重視型」の宗教であると両者を識別している。つまり、「内面重視型」である故に、「隠れキリシタン」が成り立ったという。また「内面重視型」は浄土真宗にも似た側面があるとしている。
 この巡礼は、キリシタンの聖地が「信じる」と「共苦」にどのように変換装置の役割を果たしているかを現地で感じ取ることにあるようだ。通読して、著者は現地に立ち、「信じる」と「共苦」という観点で、大いに感応した事実が記されているといえる。

 本書の特長は、長崎とキリシタンの関係する史跡(聖地)について、どこをどのように訪ねるとと有意義かというガイドブックになる点がまず挙げられる。それが行程表と史跡立地図として掲載されている。
 第2に、本書で取り上げられた聖地において、何をどのように見ることができるか、そこがなぜ聖地とされるのか、著者はどう感じたのか、ということが、対話の形で記録されていることである。感じる背景として、歴史的経緯や関連知識が提供されている。この点が、定型的な一般観光本との相違点である。
 第3に、聖地巡礼の行程で問題提起している事項がいくつかある。著者の意見にすぎないと斬り捨てることもできるだろうが、一方で、辛口意見として、読者には考える材料提供となっている。本書にひと味付け加えている点でもある。

 第2の特長について、いくつか要約あるいは引用してみる。
*現在、臨済宗春徳寺となっている場所は、もともと寺があり廃寺となった場所が1569年に長崎氏より修道士ガスパル・ヴィレラに与えられトードス・オス・サントス教会となった。寺も裏手が墓地であり、その墓地の有り様が「長崎宗」とよべるほどの特異性を表している。道教的要素も入っている形式である。更に、裏山は「唐渡山(とどさん)」と呼ばれ、そこに「龍頭厳」がある。この山は最初に領主が城を作ろうと考えた所とも。
 長崎における宗教体系がクロスしている立地を、教会にしたという炯眼。p32-46
*浦上天主堂は長崎に投下された原爆の爆心地から500mほどの位置にある。広島の原爆ドームは残されたが、長崎の浦上天主堂は残されず、現在のように再建された。なぜ、残されなかったのか。当時は長崎の旧市街と浦上との関係において、差別・偏見があった。また、キリスト教会の上に原爆が落ちたことで、キリスト教徒が爆弾を落としたことになる。この時、仲間の外国人捕虜がいる収容所まで破壊している。アメリカのキリスト教関係者がその痕跡を残さないで、再建することに尽力した。当時の長崎市長は当初天主堂を残そうとしたが、訪米し帰国後方針を転換した。   p88-90,p200-204
*「二十六聖人殉教」「聖トマス西と15殉教者」などの「殉教」、隠れキリシタンの信者達に「七代後まで信仰を守り続ければ救われる」と語った「バスチャンの予言、「信徒発見」は、どれひとつとってもみても、強烈な物語である。
 「信徒発見」とは、1864年にプチジャン神父が長崎に来たとき、一人の浦上のキリシタンの女性が、「あなたの胸の内と私たちの胸の内は同じです」と告白し、「マリア様の御像はどこ」とプチジャン神父に尋ねた。プチジャン神父が鎖国の250年を経た日本に信徒がいたことを発見した瞬間であり、世界のキリスト教徒を震撼させたという。そのときのマリア像が今も大浦天主堂にある。
*出津救助院のマリア像の下には、「信」「望」「愛」の三文字が彫られている。そこには日本で布教活動を行ったイエズス会やフランシスコ会というカトリックの戦略性の高さが表れている。
 「日本人には三位一体を前面的に出した教義は受け入れられないだろうと考え、信仰のヒーデス、希望のエスペランダ、そして愛の実践であるアリダーデ、この三本柱で教えを展開した。つまり、自分たちのロゴスを押し付けるより、相手に合わせた教えを前面に出した。」(p211)キリスト教の身体化・土着化が優先されたという。
*「宗教的迫害の対象になることは、強烈な選民意識を刺激するはずです。ネガティブではあるけれど、劇的な高揚感があるはずで。宗教的迫害にしても殉教にしても、やはりそれはひとつの『生き方』として選択されている。激しい痛みや苦しみの代償として、必ずそれに拮抗する強烈な『プラスのもの』が与えられていて、それが拮抗している。」p286*「長年にわたってキリシタンの水脈が途切れなかった最大のファクターは、やはり『殉教』ですよね。殉教者が出ると、その土地の大部分の人が負い目を課せられる。そんなことができる人は数少ないわけですから。『自分だったらとてもできない』という負い目を背負いながらも、殉教者に対する強烈な憧れがある、そんな屈折したものがあるからこそ250年もの間、地下に潜伏しても続いていた」p286

 第3の特長について、いくつか取り上げておこう。

*長崎の平和公園に設置された「被曝五十周年記念事業碑」は、彫刻としてマッチングしていない。「ちょっとねえ。美術品としていかがなものかという感じ。なぜバラの付いたスカートなんでしょうね」(p92)「善意と思いを込めてつくっても、造形がよくなるわけではありませんからね。」(p92)「こういう作り物じゃなくて、さっき見た浦上天主堂のレンガや鐘楼のほうが歴史の重さがずっと重たく伝わると思うけど」(p92)
*キリシタン聖地を訪れた結果、「やはり遠藤周作の影響が大きいですね。遠藤周作自身のキリスト教に対するアプローチがしみこんでいますね」(p199)そして、遠藤周作を相対化する必要性を提言している。風景の解釈を固定化しない工夫がいると提言する。
 「ある土地についての物語はやはり複数のレベルで、複数の語り口によって語られる方がいいんじゃなかな。もとからある物語も、他の物語が並立することでまた活力を得るわけですから。」(p200)
*「やはり浦上天主堂は破壊された姿のまま残したかったですね。」「原爆ドームと浦上天主堂では発信されるメッセージの水準が違いますから、広島の原爆ドームは産業会館という実用的な建物ですけど、天主堂はカトリックの聖堂です。『君たちは原爆でこれを破壊したのだ』と突きつけられたときの衝撃がまったく違うでしょう」 o203-204

 第3日目の「京都・大坂とキリシタン」について、私の知らなかった事実をいくつか覚書を兼ねて要約しておきたい。詳しくは本書をご覧いただきたい。
*二十六聖人発祥の場所が、旧妙満寺跡であること。
*円町駅の近くの元阿弥陀寺跡あたりはかつて西の京ダイウス町と呼ばれた。
*西大路通一条東入ルに椿寺がある。椿寺には、キリシタンの墓が残っている。
*大阪府茨木市の千提寺の山中から十字が刻まれた墓碑が発見された。「上野マリア墓碑」これにより、茨木市の隠れキリシタンの存在が証明された。
*大正9年(1920)9月に、千提寺の旧家から「あけずの櫃」として継承されてきた中から「聖フランシスコ・ザビエル像」が発見された。現在は神戸市立博物館所蔵となっている。
*カトリック高槻教会は「高山右近記念聖堂」として知られている。
*聖者はキリストの模範に忠実に従い、実行した人物に行なわれる称号で、殉教か奇跡が要件となる。列聖には、その人が仲介役を果たした奇跡がふたつ必要という。


 些末な事だが、第1刷には目立つところに校正ミスがある。目次では正しいのだが、本文の見出しが「講和と対談-宿にて」(p112、講話である)、3日目の本文は正しいのだが、ルート表示のページ(p116)が「四条戻橋」(正しくは一条戻橋)、という凡ミスである。こういう箇所の誤植は珍しい。

 ご一読ありがとうございます。

補遺
国宝 大浦天主堂 ホームページ
大浦天主堂(日本二十六聖殉教者天主堂) :「ここは長崎ん町」
浦上天主堂 :「長崎市 平和・原爆 周辺マップ」
長崎 浦上天主堂(浦上教会) :「ここは長崎ん町」
撤去された「もう1つの原爆ドーム」 長崎・旧浦上天主堂を写した幻のカラー映像
      :「BuzzFeed News」
長崎原爆投下70周年 : 教会と国家にとって歓迎されざる真実 :「マスコミに載らない海外記事」
平和公園  :「長崎市」
外海から世界遺産を 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 :「そとめぐり」
枯松神社 長崎県外海 :「Travel.jp」
枯松神社と祭礼 『人類額研究所 研究論集』第1号(2013) pdfファイル
長崎・天草「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に 隠れキリシタンとは違う?:「HUFFPOST」
ド・ロ神父の奇跡  :「旧出津救助院」
『沈黙-サイレンス-』本編映像”踏み絵”  :YouTube
『沈黙-サイレンス-』日本版特別映像  :YouTube
長崎県生月島 現在に生きる隠れキリシタンたち  :YouTube
信徒発見とキリシタンの歴史   :YouTube

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次の著書も読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『現代霊性論』 内田 樹・釈 徹宗  講談社

『街場の戦争論』 内田 樹  ミシマ社 

『不干斎ハビアン 神と仏を棄てた宗教者』 釈 徹宗  新潮選書 




『阿蘭陀西鶴』 朝井まかて  講談社文庫

2018-08-03 15:21:49 | レビュー
 西鶴とくれば、即座に井原西鶴の名が浮かぶ。この小説は西鶴とその娘おあいの人生を描いた伝記風時代小説である。井原西鶴の名と代表作の書名のいくつかは知っているが、西鶴の伝記を読んだこともなければ、その代表作を読んだ事はない。概説紹介文で知る程度である。なので、この小説の史実とフィクション部分の識別はできない。
 この小説は、娘・おあいが父西鶴を心の眼で眺めた姿とその人生の変転・生き様を描き上げるというアプローチをとっている。おあいが、父と己との関係、そして父西鶴を客観視する観点で描かれて行く。「心の眼で」と記したのは、おあいは最初はおぼろげな視覚があったのだが、それすら失い盲目となっていたからである。しかし、娘の将来を慮った母・みずゑから、料理や裁縫などを盲目の人間にできるような工夫と知識を与えられつつ、手をとるようにして幼い頃から仕込まれたのである。そのため、包丁を使い巧みに調理したその料理は美味しいと誰もが褒める。おあいが盲目だと知ると、その料理を食した客は誰もが驚き、賞賛するのだ。父西鶴はそれを自慢にして吹聴すらする。おあいはそれを毛嫌いしている。

 14歳のおあいが台所で包丁を持ち調理をしている時に、父が帰ってくるのを感じとるという場面が導入となる。おあいが台所をすることが希であり、希なことを奇妙がることについて思い知らされた事実を回想することから、ストーリーが始まる。
 5年前、延宝3年(1675)4月3日に母が息を引き取った。おあい9歳の時である。おあいが通夜振舞いの料理を作るという場面描写となっていく。普段のとおりあたりまえのように料理を準備しているおあいと近所の女房連中の世話・会話のギャップの場面を描く。そこでおあいが盲目であることが読者に判る。通夜は西鶴の狼狽ぶりが浮かび上がる場でもあった。
 母の死後、西鶴は二人の幼い男の子を商家へ養子に出す。おあいを自分の手許に留める。つまり、おあいが一番身近で父・西鶴に接していくことになる。家に居るときの西鶴の立ち居振る舞いや声に籠もる感情、あるいは西鶴が文字を読んだり書いたりするときに必ず大きな声でその内容を言うこと、これらを通じて西鶴の考えや思いを、おあいは敏感に知ることができる。おあいは、いわば西鶴ウォッチャーの立場に立つ。
 さらに河内の百姓の家に生まれで、手伝い女として勤めるお玉と、西鶴の弟子団水が身近な存在として登場する。お玉と団水についても、おあいがウォッチングしていく立場になる。

 この小説ではおあいが父・西鶴を、己との関係においてどのように見ているかという関係意識が根底に流れている。おあいの父親観が年を経るごとに変化していく様相が西鶴理解に影響を与えて行く。母が生きていたころは、お父はんという「お客はん」が母と子三人の平安な日常の家に「帰ってきはる」という感覚から始まる。そして帰宅するという「文が届いた途端に母の肌が一気に熱を帯びるのを、おあいはすぐに嗅ぎ取った」(p23)という思い出に繋がる。
 母の今際の際にいなかった西鶴が、初七日に女房の死を見取ったかのごとき発句に自ら脇句をつけ独吟千句を詠み、それを『独吟一日千句』と題して出版する。なにもかも俳諧師として振る舞うやりかたや弟二人を養子に出した父西鶴をおあいは批判的な目をむける。だが、西鶴に句を添削して欲しいと家にやってきた役者の辰彌の一言「肝心なことに心を閉ざしているやないかと言うてるだけや」が契機となり、父西鶴の捉え方に変化が生まれ始めて行く。
 西鶴の娘おあいをウォチャーとして、西鶴の人生ステージが捕らえられていく。

 西鶴は、15歳で俳諧を始め、21歳の頃は京の貞門派に属し、俳名井原鶴永として点者になっていたという。貞門派に居るといつまでも上がつかえて芽が出ないことと、句集『桜川』が編纂されたときに、自らの才能を自負する西鶴の句が1句しか入集されなかったのだ。貞門派では名をあげられない西鶴は、大坂・天満天神宮の連歌所の宗匠、西山宗因を祖とする談林派に移る。西鶴は、同様に燻っている無名の俳諧師たちとともに、寬文13年(1673)に、生國魂神社の南坊で万句俳諧を興行し『生玉万句』を出版するという奇策に打って出る。その序文で西鶴は阿蘭陀流という言葉を記し、「阿蘭陀西鶴」と自称するようになったという。西鶴自身はそれにより、「己こそ新風や、一流や」と自賛する。が、おあいは「阿蘭陀」を「異端である」という意味にとらえているだけという面白さが書き込まれている。矢数俳諧の興行は世間受けするが、やはり際物とみられ、談林派からも疎まれる形になっていく。本流の中で名声を得たい西鶴は、目立ちたがりで自己宣伝が多すぎると疎まれるのだ。本書のタイトルはここに由来する。
 俳諧師としての西鶴の様々な試みと取り巻きの動き、世間の反響などが、おあいというウォチャーを介して描き出されていく。そういう中で、江戸において松尾芭蕉が俳諧にあらたな境地を築き、句集を出し始め、蕉門が形成されるという動向が現れて来る。
 俳諧師としての生き方に葛藤する西鶴は、『色道大鏡』、『難波鉦(どら)』、『好色袖鑑』という三冊の草紙を読んだ面白さから、自らが草紙を書くということに関心を移していく。おあいは西鶴が声に出して草紙を読むこと、自ら声に出しつつ草紙のための文を綴っていくのを聞きながら日々を過ごす。おあいは西鶴の生き方の変化を感じ取っていく。ウォッチャーおあいを介して。草紙作者としての西鶴誕生の経緯が描き出されていく。 西鶴の草紙第一作が『好色一代男』である。この書が出版されるまでの経緯、世間の反響、そして当時の出版元の反応などのプロセスが書き込まれていておもしろい。その後に西鶴が様々な出版物をどのような環境下で生み出していくかが、おあいを介して描き込まれていく。西鶴の最後の草紙が『世間胸算用』であり、この出版の経緯についても触れられている。これについての西鶴と出版元との交渉-西鶴の新規作への自信と出版元の過去のヒット作の延長線上狙いの感覚とのズレが生む-がおもしろい。おあいは「ああ、これぞお父はんの真骨頂や」と無性に思ったと、作者は語らせている。
 もう一つ興味深いのは、江戸時代の出版業界の仕組みがうかがえる側面である。西鶴の草紙本はベストセラーになったものがいくつもある。本がたとえベストセラーになっても、西鶴の日常生活が金銭的にゆとりができたわけではない。その裏話も語られていておもしろい。
 さらに興味深いと思ったのは、西鶴が宇治加賀掾に頼まれて人形浄瑠璃の台本を手掛けていたことと、竹本座の浄瑠璃作者杉森信盛と面識ができていたことである。浄瑠璃の台本はそれまで作者は無名のままだったという。竹本座のために『佐々木大鑑』という作を杉森が書いた時に、その台本の作者として筆名を近松門左衛門と名乗りを上げたのが最初だったという。

 最後に、ウォッチャーとしてのおあいについて、作者はかなりの頻度でおあいが調理をする場面、料理作りの場面を描き込んでいる。それは過ぎ去り往く歳月の中でストーリーに季節感覚を加えることになるとともに、江戸時代の庶民の食生活の一端を描くことにもなっている。さらに料理こそ、盲目のおあいが父西鶴の為にも尽くせた生きがいになったのだろうと思う。
 おあいは元禄5年(1692)3月享年26歳で没し、その翌年8月西鶴も没したことを「巻之外」として作者は記し、擱筆している。
 この小説で作者が書きたかったことは、形を変えてまとめられているように受け止めた。次の一節を、作者は読み物として展開したかったのだろう。
 「手前勝手でええ格好しいで、自慢たれの阿蘭陀西鶴。都合が悪うなったら開き直って、しぶとうなる。洒落臭いことが好きで、人が好きで、そして書くことが好きだ。
 ・・・・
  お父はんのお陰で、私はすこぶる面白かった」(p344)
 
 ご一読ありがとうございます。

本書から関心の波紋を広げてネット検索してみた結果を一覧にしておきたい。
井原西鶴 :「京都大学電子図書館」
井原西鶴 :「歴史くらぶ」
井原西鶴 :ウィキペディア
談林派  :「コトバンク」
西山宗因 :ウィキペディア
井原西鶴・好色一代男 :「松岡正剛・千夜千冊」
【36】西鶴と源氏物語 :「宇治 式部郷」
日本永代蔵  :「コトバンク」
『日本永代蔵』 楠木建の「戦略読書日記」 :「PRESIDENT Online」
生國魂神社  :ウィキペディア

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『恋歌 れんか』  講談社
『眩 くらら』  新潮社