遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『日本語を作った男 上田万年とその時代』 山口謡司 集英社インターナショナル

2019-06-29 16:09:29 | レビュー
 友人のブログ記事で本書を知った。タイトルに関心を抱いたのが手に取って読みたいと思ったきっかけだ。古代以来この日本列島で言葉が話されてきている。日本語を作ったとはどういう意味? 一人の男が作れる訳でもないし・・・・。その時代って何時?

 「はじめに」で、著者は記す。「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。」(p3)と。
 元号が「令和」に代わった2019年現在、我々が使っている日本語は、明治の後半期に作られたという1900年頃の日本語とは、さらにまた大きく変化が見られる。しかし、「言文一致体のコトバ」を使っていることを言われると、なるほどそういう意味なのかと理解できる。言文一致が空気のようなものになっていて、我々は普段意識していない。本書はその転換がどれほど大変なことだったかを克明に跡づけていく。その紆余曲折を辿るところが読ませどころと言えよう。

 言文一致体の日本語を作った男が「上田万年」だと著者は言う。勿論、一人の人間が言文一致体のコトバ使いによる日本語を創造し、人々がその男の言に納得して使い始めたという訳ではない。言文一致体の日本語を国語として定着させる仕掛人となったのが「上田万年」だったという意味である。上田万年に賛同し一緒にその道を切り開いて行った人々、逆にその動きに対立した人々の存在、そして社会の置かれた状況と動きがある。だから、本書はその時代を実に仔細に眺めていく。(以下、「上田万年」を「万年」と略す。)
 かつて学生時代、授業で習い記憶していることだが、明治時代に二葉亭四迷が『浮雲』という小説を書いた時(明治20年/1887年出版)に言文一致を試み「だ調」の文体を作り出したということがある。写実主義の近代小説の中で、言文一致という概念が歩み出している。本書で知ったことは、その前年(1886年)、物集高見が『言文一致』という本を出版しているというである。
 万年は、研究・教育・政治という与えられた三つの術を使って、言文一致の国語を日本に確立するという道筋を明確にし、その旗を振る先頭に立った人物だという。明治18年(1885)に東京大学和漢文学科に入学し、バジル・ホール・チェンバレンに師事する。明治19年に帝国大学令施行により、東京大学は東京帝国大学と改称された。万年はチェンバレンから博言学(=言語学)を学び、その専門家となる。ドイツ、フランスの留学を終えて最先端の学識を得て明治27年(1894)6月に帰国し、翌月、帝国大学教授に就任。博言学講座を担当。国語に関する諸論文を次々に発表して行く。明治30年(1897)9月には、東京帝国大学文科大学に国語研究室を創設し、主任となる。翌31年(1898)7月には、「国字改良会」を設立。明治33年(1900)2月、万年らは『言語学雑誌』を創刊。同年4月に文部省により国語調査委員会が発足し、万年は国語調査委員に任命される。この頃から、万年は、言文一致運動の仕掛人、旗振りの先頭に立つ立場になっていく。

 本書はその序章から本文の末尾まで、なんと511ページに及ぶ。その後に、「上田万年年譜」が25ページにまとめらている。それは「本書俯瞰のための国政および国語問題、文学関係年表・附」であることにもよる。そして、参考文献の一覧表が1ページ付いている。
 なぜ、こんなに大部な本になったのか。それは「その時代」をリアルに描き出すためであろう。言文一致の国語がなぜ必要とされたのか。それに反対した一群の人々、万年の考えと同じ立場を取った人々との間で、どのような対立構造が生み出されたのか。一方でどのような人間関係が存在したのか・・・・。言文一致の国語が生み出されるまでの経緯を克明に描くというアプローチが取られている故に、これだけのボリュームが必要とされたと言える。万年は己の考えを論文として発表し、講演をし、言文一致の国語を生み出す拠点を創設した。さらに国語調査委員に任命されて、中軸の旗振り役の立場に立つ。しかし、それで事が進む訳ではない。言文一致の国語を確立する為には、様々な課題・問題を克服していかねばならない。様々な局面に直接携わったのは万年の指導を受けた弟子筋の学者たちである。また、万年の考えに賛同して特定の領域で協力したり、課題に取り組んで行った人々の存在である。そういう行動の集積が、言文一致体の日本語を生み出していくことになる。

 読み進めて興味深かったことは、万年が提唱した言文一致のための国字表記法が実際に一時期試みられたが、後に変更されたという事実も描き込まれている点である。つまり、言文一致の国語を確立するという究極目標の旗を振った万年の立場が重要なポイントとなっている。万年が推進役であり、中核となったことを本書では日本語を作るということの幹に据えている由縁だろう。「日本語を作る」という木は、様々な大小の枝を同時に描かないと語れないテーマなのだ。また、万年自身の論文等を含めた事実記録だけでは描けないという側面もあると思う。様々な資料、事実記録、状況証拠を集積し、万年の事績・行動と関連付けて、「日本語」が作られた経緯を明らかにしていくことに、本書の眼目があると思う。上田万年はその頂点に位置するシンボルだと推測する。
 お陰で、次々に頻出してくる明治期の多くの人々の名前と事実・事績を初めて本書で知ることができた。明治を生きた学者、文学者、政治家、官僚その他、言文一致の国語を確立するプロセスにダイナミックに関与した人物群像の姿が描き込まれている。ああ、この人物が、こういう形で日本語を作るという経緯に関与していたのか・・・・と興味深く感じる箇所が多々あった。
 本書は多分評論という位置づけになるのだろう。
 
 序章は、明治41年(1908)6月の「臨時仮名遣調査委員会」第4回委員会の場面から始まる。会議の司会は上田万年である。森鷗外がこの席で万年らの考えに反対する意見を滔々と演説する場面から書き出される。この序章は、第15章「万年万歳 万年消沈」の末尾「万年、憤然として辞表を提出」という小見出しで、第4回委員会の経緯が具体的に記される箇所(p485-493)になって、やっと繋がっていく。

 第一部は「江戸から明治~混迷する日本語」というタイトル。
 明治初期、我国で使われていた日本語の実態が描かれる。それは万年が後に活躍するバックグラウンドの描出でもある。第一部で描かれる内容をキーフレーズ的に列挙してみよう。
*井上ひさしの戯曲『國語元年』の紹介:日本語が通じない状況
*地域的方言と社会的方言の氾濫
*漢字廃止論。日本語のローマ字化論(ローマ字派)。日本語のひらがな書き運動(かな派)。
*万年とチェンバレンの師弟関係。博言学とは? チェンバレンの事績
*明治の大ジャーナリスト、徳富蘇峰の果たした役割と事績
*万年の西欧留学と万年が学んだ最新言語学の状況
*列強諸国の言語使用状況
*言文一致の落語と日本における速記の発明
つまり、明治の近代国家建設途上にあって、日本語が混迷している状況とその打開をどうすれば良いのかという重大な課題が横たわっている姿(社会的背景)が描き出される。第一部が220ページである。

 第二部は「万年の国語愛」というタイトル。
 明治27年(1894)6月に、3年9ヶ月ぶりに留学先から日本に帰国した時点から、明治38年の言文一致の新仮名遣い改定の動きが、明治41年に頓挫するまでが、まず描かれる。
 言文一致の国語を確立するためのプロセスが克明に描かれて行く。万年が旗振り役の立場で行動したプロセスは、万年に協力した様々な人々の行動・事績を明らかにし、万年に対するそれら人々の証言を累積していくことを通して描かれる。そして要所に万年自身の考えと発言・行動が織り込まれていく。その一方で、万年らの活動に反対する立場の人々の考えと行動もまた描き込まれていく。明治後期に、言文一致の運動にどういう対立があったのかが読者には見えて来る。
 第一部と比較すると、第二部の展開は読みやすくなる。言文一致をめざす万年の活動が軸となっているからである。

 近代文学史で、森鷗外と夏目漱石の名を知らぬ人は居ないだろう。しかし、現在どちらの本がよりポピュラーかといえば、夏目漱石だろう。なぜか? 夏目漱石は言文一致を是として小説を書いた。つまり、万年派である。だから、現代の我々んは読みやすい。一方、森鷗外は万年の主唱する言文一致に反対の立場を表明した。本書の第二部第10章には、「鷗外の文章の力は雅俗折衷体である」という小見出しの項がある。
 本書では鷗外のことがかなり掘り下げられて描き込まれている。それは言文一致運動に反対の立場を取った鷗外の文学観・価値観を明らかにするためであろう。その背景に潜む鷗外の性格性癖をも俎上にのせていて興味深い。森鷗外についての知らなかった側面を知る機会にもなった。例えば、「鷗外が仕掛けた八つの論争」が一例である。これは本書第10章内の小見出しでもある。
 一方、夏目漱石は、その作品の一部が、明治39年(1906)以降国語の教科書に再録されて全国に流布していくことになる。その嚆矢が1906年発行『(再訂)女子国語読本(巻五)』に「鼠を窺う」という題で再録された『吾輩ハ猫デアル』の一部だという。その後、夏目漱石の小説の一部は、陸続と教科書に再録されていく。漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えて行くことにもなる。
 
 第二部を読み、明治期に日本が西洋の列強に肩を並べ、帝国主義国家としての体制を築く上で、言文一致の全国共通の国語が必須であった理由が理解できた。
 その一は、西洋先進諸国の科学技術等を吸収し国内に広げる上で、翻訳という行為を介して伝達できる日本語としての言葉が必要であったこと。
 もう一つを著者は次のように記している。
 「日清、日露と続く戦争に、最も必要なのは兵力である。兵力を増強するためには徴兵が必要であった。そして徴兵、訓練、実戦においては、武器弾薬と同じように、『言葉』が必要だった」と。つまり、軍隊の全員が共通に理解でき、コミュニケーションできる「言葉」である。つまり、誰にでもわかり使える「全国統一話言葉」つまり国語が不可欠だったのである。それを井上ひさしは、上掲の戯曲で、薩摩の隊長が突撃!と薩摩言葉で号令したらお前はわかるかいと清之輔が太吉(津軽出の男を兵隊に見立てて)に問いかける台詞にしている。太吉の返事はわからないである。

 第二部の最後に2つの章がある。
 一つは「第16章 唱歌の誕生」である。ここでは、明治初期にルーサー・ホワイティング・メーソンが西洋の音楽を日本に移植するために、お雇い外国人の一人として来日したこと。彼が賛美歌を日本に伝え、その曲に徳育の視点から日本流の歌詞が付けられたこと。そして『小学唱歌集 初編』が明治14年(1881)11月に発行されたことが記されている。このことを初めて知った。その後、言文一致唱歌運動へと発展していくという。明治43年に言文一致の「文部省唱歌」が創られ、日本全国に伝えられていくことになったと著者は記す。ここにも日本語を作る動きが展開されていた訳である。

 もう一つが最終章の「第17章 万年のその後」である。わずか7ページのこの最終章には、万年とチェンバレンの関係、万年の弟子たちのことに触れられている。そして、昭和21年、「当用漢字ならびに新仮名遣い」の告示がなされたことが記される。上田万年は昭和12年10月26日に没している。万年が旗を振り、育てた日本語が結実したのである。
 明治38年(1905)10月に、万年には次女富美が誕生した。この次女富美は作家となる。円地文子の名で作品を次々に発表。1960年以降に入り評価されてきた作家であると著者は記す。円地文子の名は知っていたが、その父親が上田万年だったということを、本書を読んで初めて知った。

 日本語を作った男、上田万年を介して、日本語の近世・近代からの変遷を知るとともに、明治時代がどのような時代だったのかを日本語という視点から学ぶことができた書でもあった。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索した、一覧にしておきたい。
上田万年  :「コトバンク」
上田萬年  :ウィキペディア
円地文子  :ウィキペディア
羅馬字会  :「コトバンク」
言文一致  :「コトバンク」
物集高見  :「コトバンク」
森有礼   :「コトバンク」
外山正一  :ウィキペディア
大槻文彦  :ウィキペディア
バジル・ホール・チェンバレン  :ウィキペディア
伊沢修二  :「コトバンク」
徳富蘇峰記念館 ホームページ
漱石山房記念館 ホームページ
森鷗外記念館  ホームページ
三宅雪嶺記念資料館 :「流通経済大学」
斎藤緑雨  :ウィキペディア
高山樗牛  :ウィキペディア
岡田良平  :「近代日本人の肖像」
新村出記念財団 重山文庫 ホームページ
田鎖綱紀   :「コトバンク」
芳賀矢一   :「コトバンク」
保科孝一   :「コトバンク」
橋本進吉   :ウィキペディア
ルーサー・ホワイティング・メーソン  :ウィキペディア
野村秋足  :ウィキペディア
稲垣千穎  :ウィキペディア
言文一致唱歌  :「コトバンク」
田村虎蔵    :「コトバンク」
石原和三郎   :「コトバンク」

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『ニュースがわかる 図解 東アジアの歴史』 三城俊一 SBビジュアル新書

2019-06-22 10:46:16 | レビュー
 長くなるので標題では省略したが、本書には、著者名の後に、かみゆ歴史編集部編と並記されている。このことを最初に触れておきたい。
本書は「図解」、「ビジュアル新書」とあることおり、肖像画(/写真)や歴史的写真の他に、イラスト図解によりビジュアルに歴史的時間軸での事象の動きや地域関係性を視覚的に把握しやすくする工夫が盛り込まれている。

 「温故知新」という『論語』に淵源を発する古くて新しい成句がある。
 日本は今まさに様々な課題を同時存在事項として抱えている。日本の領土関連についてだけでも、通年でニュース報道に必ず挙がってくる課題・事象のキーワードが幾つか存在する。北方領土(四島)、竹島、尖閣諸島、沖縄の米軍基地、排他的経済水域などである。また、従軍慰安婦問題、北朝鮮への拉致などもある。一方で、周辺諸国自体が抱える紛争問題で、日本にも影響がおよぶ問題もニュースで報道される。
 同時存在するこれら諸問題の経緯が通年でニュースに取り上げられている。だがこれらのニュースを理解するためには、全世界と日本の関わり方まで視野を広げる前に、この東アジアの歴史の中でまず位置づけてみる作業をしなければならない。東アジアにおける歴史的経緯を「温故」するという土台の上に、国際外交関係、貿易戦争、地下資源、科学技術の進展などの視座を重ねて行き、新たに問題事象を捉え直すという作業が不可欠になのだ。つまり「知新」という作業を加えなければ、ニュース報道されている問題事象を真に理解ることは難しい。そうでなければ、上滑りしてしまう。まず「温故知新」する必要がある。本書はそんな観点から東アジアの歴史をまず最初の3章で通覧していく。

 東アジアという地域に枠を広げ、歴史的な経緯を知ろうとすると、その時間軸の長さと地域の広がりに億劫な気分になるかもしれない。本書は、そこに一石を投じている。微に入り、細に入る歴史事実の展開ではなく、東アジア地域における日本と他国の関係をかなりマクロ視点で大きく捕らえて、過去から現在に繋がる歴史の道筋を捕らえようとする。かつ、できるだけ図解しビジュアルに把握しようと試みている。少し、荒っぽいかもしれないが、歴史を踏まえた東アジア地域における日本のポジショニングを試みようとしているものと受け止めた。

 著者・編者が歴史的経緯の大枠を捕らえようとする意図は、本書の章立てに現れていると思う。以下、章毎に概括してご紹介する。

 第1章 中華秩序と東アジアの歴史 有史~18世紀
 この章の冒頭に、見開き2ページで、ざっくりと「有史~18世紀」という長期間のマクロな歴史事象が、「東アジア史年表」として、中国・朝鮮半島・日本・世界という4区分で抽出列挙されている。かなり荒っぽいが、逆に日本と諸国の関係および歴史の大きなうねりは把握しやすい。この方式は、第2章・第3章でも継承されていく。
 18世紀までを大きくとらえれば、中国を軸とした中華思想、中華秩序というフレームワークの中で、日本は東アジアでの外交をしてきたことになる。日本と朝鮮半島との関わりの背後に、中国諸王朝が変遷を繰り返しながら、中華秩序で大きな影響を及ぼしてきた事実が動きが明らかにされている。
 この章の末尾には、コラム「『皇帝』『天皇』『王』の称号はどう違うのか」という解説がある。「天皇」の号は、「中国の皇帝の臣下ではない独自の立場を主張するため、必要な措置でした」と解釈し、中華秩序から一線を画するための策と位置づけている。日本のスタンスはそこに現れているということだろう。
 そして、この章の本文とは別に、この時代の東アジアを知るためのキーワードがいくつか、見開きページでまとめられていく。諸子百家・中華思想・東アジアの文字・任那日本府・謎の国家「渤海」・チベット仏教・アイヌの歴史・日中貿易・琉球王国・朱子学というキーワードのもとに、押さえておくべきことが語られている。

 第2章 列強の進出と戦争の時代 1800~1945年
 西洋列強が東アジアに進出し、利権をむざぼる帝国主義の時代に、中国がその中心対象とされ、東アジア諸国がどのような影響を受け、変革を迫られたかについて、歴史がマクロにとらえられていく。中国が西洋列強に蚕食される状況を見つめつつ、日本はいち早く近代国家に脱皮し、脱亜入欧という思想により、帝国主語国家化を進めた。この章では、日本が降伏し、ポツダム宣言を受諾するまで、日中戦争・太平洋戦争が終結するまでの東アジアの歴史および日本の外交史の事実が語られていく。この150年弱の期間に現在の領土問題の大半の淵源があることが明らかにされる。
 この章の最後は、コラム「『支那』の名称はなぜ差別語になったのか」である。著者は近代以降、日本と中国の力関係が逆転し、中国を蔑視する考えが生まれ、日本人が支那という用語に差別的な意味合いを含ませるようになったからだと言う。本来、支那という用語は、歴史的な「中国」の領域を表す用語として使用され、それは大凡歴史的な中華王朝、漢人が居住する地域を意味していたという。その意味で、著者は支那という領域概念と現在の「中国」という領域概念を混同しないように、注意を喚起している。
 「大東亜共栄圏の実態」について、著者が述べる次の要約は、押さえておく必要があるだろう。「日本の統治は拙劣で、列強が作った統治機構をそのまま活用したため、実質的に支配者が白人から日本人に代わっただけでした。日本の東南アジア占領の目的は、結局豊富な資源の収奪に過ぎなかったのです。」(p97)

 第3章 冷戦に翻弄された戦後東アジア  1945~1990年
 1945年に朝鮮半島が政治的に南北に分割占領され、アメリカとソ連の冷戦時代が始まる。
 中国は1946年に国共内戦が再燃することから始まり、文化大革命を経て1989年の第2次天安門事件まで、つまり国内問題を主体に蠢めき、強国化をめざす時代に入る。朝鮮戦争への対応は、中国本土と台湾との関係を分断し固定化する時代にもなる。また毛沢東路線を終え、鄧小平による文革路線の否定、「先富論」・「社会主義市場経済論」を打ち出していく時代に進む。
 一方、日本と韓国の間では外交関係がクローズアップされる時期でもある。ここでは日本と韓国の国交正常化になぜ戦後から20年もかかったかが読み解かれている。
 時代の区切りとして、1990年には韓国・ソ連間の国交回復が行われ、一方この年には東西ドイツ統一なされることで一つの節目にもなった。
 この章末尾のコラムは「オリンピックは日中韓に何をもたらしたのか」である。著者はこの時期に東アジアでオリンピック関連の大会が次々に開催されてきた状況と経済的社会的背景を記述する。この状況が後世にどう評価されるか、とその評価は先送りにしている。

 第4章 領土問題や国際紛争に見る東アジアの現在  1990年~現在
 冒頭は、東アジア史年表に代えて、「東アジア諸国が抱える主な紛争地MAP」を掲載している。このMAPには、上記した日本が直接抱えている諸問題と、東アジア諸国が抱える諸問題がマッピングされている。具体的には、北朝鮮に関わる核開発問題、台湾問題、香港問題、南シナ問題(南沙諸島、西沙諸島、中沙諸島)、チベット問題、ウィグル問題および中国が目指す一帯一路と米中貿易摩擦である。これらが全てニュースに登場しているのはご承知の通りだ。
 この最後の章では、前章までを踏まえて、これらの紛争問題のそれぞれについて、その歴史的背景やその後に新たに発生してきた要因を併せて記述している。
 ここでは、日本の領土に直接関連している問題事象についてその見出しと要点と理解した内容を取り上げておこう。
 *韓国と日本の外交問題・竹島問題
  日韓は歴史・領土問題でなぜ歩み寄れないのか。
    日韓の歴史的背景を踏まえ、従軍慰安婦問題の提起も併せ、その背景に韓国の
    政治構造が一因であり、中韓関係の緊密性も要因になることに触れている。
 *尖閣諸島問題
  中国が尖閣諸島を狙っているのはなぜか。
    中国が再び東アジアに覇を唱えようとする方向にある。地政学的にも海洋進出
    を積極化している点と「一路」方針を見据える。地下資源の存在も示唆する。
 *北方領土問題
  ロシアが北方領土返還に応じないのはなぜなのか。
    日本が北方四島を獲得し、その同盟国アメリカがオホーツク海に侵入できるよ
    うになる事態を、ロシアが許すことはないという観点を著者は指摘する。
 *沖縄の基地問題
  米軍基地を抱える沖縄の行く末とは
    アメリカによる1950年のアチソン・ラインの提唱を踏まえ、アメリカの防衛に
    とっての沖縄の軍事的意義は不変という視点に触れる。一方米軍基地が沖縄の
    経済発展の足かせになりつつある現実という視点と沖縄の近現代史を理解する
    必要が不可欠であると強調する。

 本書の末尾を以下の文で締めくくっていることをご紹介しておきたい。
 「現代を生きる私たちに求められるのは、正しい歴史を知り、客観的な事実から未来を見据えることではないでしょうか」

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
北方領土問題とは  :「内閣府」
北方領土 日本の領土をめぐる情勢 :「外務省」
北方領土問題とは、そもそも何? わかりやすく解説 【今さら聞けない】:「HUFFPOST」
北方領土問題
池上彰が説く「北方領土問題」の歴史、超基本  :「東洋経済ONLINE」 
【徹底討論】「沖縄問題」としての基地問題の来歴と現状 :「iRONNA」
普天間基地移設問題 :ウィキペディア
基地問題 :「沖縄タイムス」
シンポジウム「沖縄とヤマトの狭間で―新崎盛暉の半生から考える―」2017.4.15:「IWJ」
竹島 日本の領土をめぐる情勢 :「外務省」
竹島問題は「一歩前進、二歩後退…もう辞めたい」 研究者の悲痛なる警鐘 :「FNNPRIME」
竹島問題  :「コトバンク」
竹島は島根の宝わが領土 Web竹島問題研究所  :「島根県」
尖閣諸島 日本の領土をめぐる情勢 :「外務省」
尖閣諸島の歴史  :YouTube
尖閣諸島問題
一帯一路  :「コトバンク」
一帯一路  :ウィキペディア
コラム :5分で分かる「南シナ海問題」 :「REUTERS」

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『鳥居大図鑑』 藤本頼生 編著  グラフィック社

2019-06-16 13:33:38 | レビュー
 日本の神々について書かれた本は、文庫や新書から始まり専門書まで、書店に行くと様々なものを目にすることができる。手許にも幾冊かある。しかし、神社と直接関係が深い鳥居については、私はあまり書店で見かけたことがなかった。
 長年愛用している『図説 歴史散歩事典』(監修・井上光貞、山川出版社、2版)に記載されている建築編中の「鳥居」の項、4ページの説明が身近で手軽に役立つ参照資料だった。その冒頭に「一般に鳥居は神社の門であるといわれるが、起源については、日本始原説とインド・中国・朝鮮渡来説とがあって定説がない。鳥居の語源も『鶏が止り居る横木』、『人が通り入る門』説があり、定かでない」とその語源・起源について述べるにとどまる。それに続き「鳥居の部分名抄」と「鳥居の形式分類」をイラスト図入りで、簡明に概説している。必要最小限の説明がここに凝縮されている。
 本書のタイトルを見て、「大図鑑」というネーミングにまず関心を引かれた。上記の4ページの概説以上に枠を広げた「鳥居」の解説本があれば便利だろうなと思っていたからである。

 上掲書の4ページのコンパクトな概説を超えて、いくつかの観点で鳥居の世界に数歩深く踏み込んだ本との出会いとなった。本書は鳥居の実物写真を多く取り上げて、個々の鳥居の特徴、見どころを説明している。つまり、鳥居のバリエーションを比較しながら楽しめる本である。

 まず冒頭に、鳥居のルーツについて、見開きでまとめてある。本書でも「定説はない」が結論である。しかし、以下とおり、諸説を列挙している。
 日本起源説: 長鳴鳥説、文献記録説、鴨居説、語感・語呂転化説、
        注連柱(標柱)説、羨門説、原初説
 外国起源説: 古代インド説、華表(花表)説、紅箭門説、高門(ソム・プラト)説
私にとっては、上記4ページの冒頭の説明から、一歩踏み込み具体的に諸説の要点と考察の広がりを知る資料となった。

 次に、「鳥居の型式と系統」について、鳥居の各部分の名称をイラスト図で説明した後、鳥居を「神明系鳥居」(6図)、「明神系鳥居」(6図)、「明神系から発展」(6図)に系統化する。鳥居のイラストを18図、1ページにまとめて、その差異を簡潔にまとめている。
 上掲書で言えば、「神明鳥居、明神鳥居、変形鳥居」という3系統区分で、計11図のイラストが併用されている。本書「鳥居の型式と系統」の見開き2ページが上掲書の概説に相当し、その後「図鑑」としての解説が展開されていくことになる。

 本書は、北は北海道から南は沖縄まで、プラス1としてアメリカ・ハワイ州を加え、総計56社の神社について、代表的あるいは特徴的な鳥居の実例写真を図鑑として掲載している。具体的かつ対比的にそれぞれの鳥居の特徴を説明していくという列挙方式が採られている。勿論、一つの神社には、複数の鳥居が建立されている。一の鳥居、二の鳥居・・・・というように。本書では各神社の実態に合わせて、複数存在すればその相互の違いも説明されている。
 鳥居の実例写真をまず掲載した後、別途鳥居の写真の中に番号を追記し、そのディテイル(Detail)について、部分写真あるいはイラスト図を併用して解説を加える方法がとられている。各ページでは写真やイラスト図がウエイトを占め、そこに特徴や必須事項を書き加えるという構成のしかたである。まざに図鑑的なまとめ方と言える。
 そのため、鳥居の見方・着目点が捉えやすくなり、どういう風に鳥居を観察すれば良いかがわかりやすい。
 勿論、鳥居は神社そのものの入口である。本書では、神社所在地、創祀、主祭神についての説明と由緒にも最小限で言及している。1神社を2ページあるいは4ページのボリュームで説明した図鑑になっている。どこからでも手軽に読めるというのが利点だろう。結果的に、抽象化すると「鳥居の型式と系統」イラスト図集の1ページに集約されていくことになる。

 鳥居の実例写真による説明を読んでいくと、神社の鳥居により、笠木の形状に円形・五角形・かまぼこ形など各種あることや、鳥居の素材も様々なものが使われていることなどという細部情報がわかるようになりおもしろい。また、神社の歴史が古いと被災という一原因も含めて、けっこう鳥居の再建が行われていること、その機会に鳥居の素材も変化していることなども良くわかって興味深い。巨木や巨石という素材の入手難があるためか、金属製や鉄筋コンクリート製への移行が見られる傾向もうかがえる。

 冒頭に引用した本書の表紙は、佐賀県藤津郡太良町所在の「大魚神社」の鳥居である。海中鳥居であり、海岸から遠い方の海中鳥居2基を干潮時に撮った景色が撮られている。この神社自体とこの興味深い形の鳥居を本書で初めて知った。本書で初見の神社がけっこう多かった。そういう点からも図鑑の意義が十分ある。

 写真による図鑑形式の良さは、鳥居の写真や神社の景色、その特徴をビジュアルに眺めることで、現地で実際に見てみたいという動機に繋がることだろう。また、同じ系統の鳥居がどれだけバラエティに富んだものを含んでいるかを具体的に確認できるところに、その集約の利点がある。

 本書には、コラムが3項目、各見開き2ページで設けられている。「鳥居ランキング」、「謎の鳥居、不思議な鳥居」、「鳥居だけが佇む風景」である。
 たとえば、「鳥居ランキング」は鳥居の大きさとして、高さで上位神社ベスト11をランキングしている。6位が2社、9位が2社あるためである。
 ベスト3をご紹介しておこう。1位:熊野本宮大社(和歌山県、鉄鋼製)、2位:大神神社(奈良県、鉄鋼製)、3位:彌彦神社(新潟県、鉄筋コンクリート製)となるそうだ。 このことご存知でしたか。私は知りませんでした。

 楽しみながら、鳥居についての基礎知識を深めていき、神社という領域の広がりを知ることができる本である。

 ところで、少し辛口になるが気になった点にも触れておこう。
 神社により、表記に相違があるのを反映しているのかも知れないが、一の鳥居、一ノ鳥居、一之鳥居という表記が混在している。それが神社による表記差によるものとするなら実態の反映としてよしとしよう。しかし、特定の神社のページで、一の鳥居と一之鳥居が混在する記述はいただけない(p127)。一の鳥居、二の鳥居、三ノ鳥居という記述の混在もある(p135)。
 「随神門」(随身門)について、北口本宮冨士浅間神社(p55)では、隋神門と随神門と表記されていたり、二ノ宮荒田神社では随心門(p120)と随身門(p121)が混在する。 また、上記鳥居ランキング表(p23)の1位では「鉄鋼製(耐候性鋼板)」と備考に明記されているのに、熊野本宮大社の冒頭説明(p128)の中で、「2000(平成12)年造営の鉄筋コンクリート製で、・・・・」という記述になっている。p130に記載の説明では、「鳥居の素材は耐候性鋼板で竣工は2000(平成12)年5月11日」と記述している。
 「2 柱が地中不覚に埋められている」(p141)なんてのも。こちらは「深くに」の誤植というのは勿論すぐに気づくレベルではあるのだが・・・・。
 他にもまだ幾つか・・・。余分な字が残ると判断できる箇所。脱字と思える箇所。現存神社の主祭神の説明ならば、その神社が開示する表記法をまず尊重したらどうかと思う事例(p150,151)。
 編集あるいは校正プロセスに改善点があるのではないだろうか。図鑑と銘打つからには、このあたりもう少し、注意深く対処してほしい気がする。本書が改版される際には、パーフェクトな修正を期待したい。(問題箇所探しは、結構注意深く読むトレーニングにもなる。探してみてほしい。)

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
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虎ノ門金比羅宮 ホームページ
随神門 :「彌彦神社」
随身門 ;「コトバンク」
境内案内図  :「神田明神」
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吉備神社南随神門 :「文化遺産オンライン」
大山祇神社 ホームページ
【大山祇神社】国宝の山!しまなみ海道に鎮座する神秘のパワースポット:「海賊つうしん」
播磨国二之宮荒田神社  :「Omairi」
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筥崎宮鳥居  :「福岡市の文化財」
太宰府天満宮[福岡]  :「人文研究見聞録」
八幡総本宮 宇佐神宮 ホームページ
有田焼陶祖神 陶山神社 ホームページ
鵜戸神宮 ホームページ
鳥居について  :「神社本庁」
鳥居  :ウィキペディア
鳥居とは  :「コトバンク」
鳥居について  :「出雲大社紫野教会」
真っ赤なトンネルに願いを!千本鳥居が美しい西日本の神社7選 
    :「どこいく? トリップアドバイザー」

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