友人のブログ記事で本書を知った。タイトルに関心を抱いたのが手に取って読みたいと思ったきっかけだ。古代以来この日本列島で言葉が話されてきている。日本語を作ったとはどういう意味? 一人の男が作れる訳でもないし・・・・。その時代って何時?
「はじめに」で、著者は記す。「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。」(p3)と。
元号が「令和」に代わった2019年現在、我々が使っている日本語は、明治の後半期に作られたという1900年頃の日本語とは、さらにまた大きく変化が見られる。しかし、「言文一致体のコトバ」を使っていることを言われると、なるほどそういう意味なのかと理解できる。言文一致が空気のようなものになっていて、我々は普段意識していない。本書はその転換がどれほど大変なことだったかを克明に跡づけていく。その紆余曲折を辿るところが読ませどころと言えよう。
言文一致体の日本語を作った男が「上田万年」だと著者は言う。勿論、一人の人間が言文一致体のコトバ使いによる日本語を創造し、人々がその男の言に納得して使い始めたという訳ではない。言文一致体の日本語を国語として定着させる仕掛人となったのが「上田万年」だったという意味である。上田万年に賛同し一緒にその道を切り開いて行った人々、逆にその動きに対立した人々の存在、そして社会の置かれた状況と動きがある。だから、本書はその時代を実に仔細に眺めていく。(以下、「上田万年」を「万年」と略す。)
かつて学生時代、授業で習い記憶していることだが、明治時代に二葉亭四迷が『浮雲』という小説を書いた時(明治20年/1887年出版)に言文一致を試み「だ調」の文体を作り出したということがある。写実主義の近代小説の中で、言文一致という概念が歩み出している。本書で知ったことは、その前年(1886年)、物集高見が『言文一致』という本を出版しているというである。
万年は、研究・教育・政治という与えられた三つの術を使って、言文一致の国語を日本に確立するという道筋を明確にし、その旗を振る先頭に立った人物だという。明治18年(1885)に東京大学和漢文学科に入学し、バジル・ホール・チェンバレンに師事する。明治19年に帝国大学令施行により、東京大学は東京帝国大学と改称された。万年はチェンバレンから博言学(=言語学)を学び、その専門家となる。ドイツ、フランスの留学を終えて最先端の学識を得て明治27年(1894)6月に帰国し、翌月、帝国大学教授に就任。博言学講座を担当。国語に関する諸論文を次々に発表して行く。明治30年(1897)9月には、東京帝国大学文科大学に国語研究室を創設し、主任となる。翌31年(1898)7月には、「国字改良会」を設立。明治33年(1900)2月、万年らは『言語学雑誌』を創刊。同年4月に文部省により国語調査委員会が発足し、万年は国語調査委員に任命される。この頃から、万年は、言文一致運動の仕掛人、旗振りの先頭に立つ立場になっていく。
本書はその序章から本文の末尾まで、なんと511ページに及ぶ。その後に、「上田万年年譜」が25ページにまとめらている。それは「本書俯瞰のための国政および国語問題、文学関係年表・附」であることにもよる。そして、参考文献の一覧表が1ページ付いている。
なぜ、こんなに大部な本になったのか。それは「その時代」をリアルに描き出すためであろう。言文一致の国語がなぜ必要とされたのか。それに反対した一群の人々、万年の考えと同じ立場を取った人々との間で、どのような対立構造が生み出されたのか。一方でどのような人間関係が存在したのか・・・・。言文一致の国語が生み出されるまでの経緯を克明に描くというアプローチが取られている故に、これだけのボリュームが必要とされたと言える。万年は己の考えを論文として発表し、講演をし、言文一致の国語を生み出す拠点を創設した。さらに国語調査委員に任命されて、中軸の旗振り役の立場に立つ。しかし、それで事が進む訳ではない。言文一致の国語を確立する為には、様々な課題・問題を克服していかねばならない。様々な局面に直接携わったのは万年の指導を受けた弟子筋の学者たちである。また、万年の考えに賛同して特定の領域で協力したり、課題に取り組んで行った人々の存在である。そういう行動の集積が、言文一致体の日本語を生み出していくことになる。
読み進めて興味深かったことは、万年が提唱した言文一致のための国字表記法が実際に一時期試みられたが、後に変更されたという事実も描き込まれている点である。つまり、言文一致の国語を確立するという究極目標の旗を振った万年の立場が重要なポイントとなっている。万年が推進役であり、中核となったことを本書では日本語を作るということの幹に据えている由縁だろう。「日本語を作る」という木は、様々な大小の枝を同時に描かないと語れないテーマなのだ。また、万年自身の論文等を含めた事実記録だけでは描けないという側面もあると思う。様々な資料、事実記録、状況証拠を集積し、万年の事績・行動と関連付けて、「日本語」が作られた経緯を明らかにしていくことに、本書の眼目があると思う。上田万年はその頂点に位置するシンボルだと推測する。
お陰で、次々に頻出してくる明治期の多くの人々の名前と事実・事績を初めて本書で知ることができた。明治を生きた学者、文学者、政治家、官僚その他、言文一致の国語を確立するプロセスにダイナミックに関与した人物群像の姿が描き込まれている。ああ、この人物が、こういう形で日本語を作るという経緯に関与していたのか・・・・と興味深く感じる箇所が多々あった。
本書は多分評論という位置づけになるのだろう。
序章は、明治41年(1908)6月の「臨時仮名遣調査委員会」第4回委員会の場面から始まる。会議の司会は上田万年である。森鷗外がこの席で万年らの考えに反対する意見を滔々と演説する場面から書き出される。この序章は、第15章「万年万歳 万年消沈」の末尾「万年、憤然として辞表を提出」という小見出しで、第4回委員会の経緯が具体的に記される箇所(p485-493)になって、やっと繋がっていく。
第一部は「江戸から明治~混迷する日本語」というタイトル。
明治初期、我国で使われていた日本語の実態が描かれる。それは万年が後に活躍するバックグラウンドの描出でもある。第一部で描かれる内容をキーフレーズ的に列挙してみよう。
*井上ひさしの戯曲『國語元年』の紹介:日本語が通じない状況
*地域的方言と社会的方言の氾濫
*漢字廃止論。日本語のローマ字化論(ローマ字派)。日本語のひらがな書き運動(かな派)。
*万年とチェンバレンの師弟関係。博言学とは? チェンバレンの事績
*明治の大ジャーナリスト、徳富蘇峰の果たした役割と事績
*万年の西欧留学と万年が学んだ最新言語学の状況
*列強諸国の言語使用状況
*言文一致の落語と日本における速記の発明
つまり、明治の近代国家建設途上にあって、日本語が混迷している状況とその打開をどうすれば良いのかという重大な課題が横たわっている姿(社会的背景)が描き出される。第一部が220ページである。
第二部は「万年の国語愛」というタイトル。
明治27年(1894)6月に、3年9ヶ月ぶりに留学先から日本に帰国した時点から、明治38年の言文一致の新仮名遣い改定の動きが、明治41年に頓挫するまでが、まず描かれる。
言文一致の国語を確立するためのプロセスが克明に描かれて行く。万年が旗振り役の立場で行動したプロセスは、万年に協力した様々な人々の行動・事績を明らかにし、万年に対するそれら人々の証言を累積していくことを通して描かれる。そして要所に万年自身の考えと発言・行動が織り込まれていく。その一方で、万年らの活動に反対する立場の人々の考えと行動もまた描き込まれていく。明治後期に、言文一致の運動にどういう対立があったのかが読者には見えて来る。
第一部と比較すると、第二部の展開は読みやすくなる。言文一致をめざす万年の活動が軸となっているからである。
近代文学史で、森鷗外と夏目漱石の名を知らぬ人は居ないだろう。しかし、現在どちらの本がよりポピュラーかといえば、夏目漱石だろう。なぜか? 夏目漱石は言文一致を是として小説を書いた。つまり、万年派である。だから、現代の我々んは読みやすい。一方、森鷗外は万年の主唱する言文一致に反対の立場を表明した。本書の第二部第10章には、「鷗外の文章の力は雅俗折衷体である」という小見出しの項がある。
本書では鷗外のことがかなり掘り下げられて描き込まれている。それは言文一致運動に反対の立場を取った鷗外の文学観・価値観を明らかにするためであろう。その背景に潜む鷗外の性格性癖をも俎上にのせていて興味深い。森鷗外についての知らなかった側面を知る機会にもなった。例えば、「鷗外が仕掛けた八つの論争」が一例である。これは本書第10章内の小見出しでもある。
一方、夏目漱石は、その作品の一部が、明治39年(1906)以降国語の教科書に再録されて全国に流布していくことになる。その嚆矢が1906年発行『(再訂)女子国語読本(巻五)』に「鼠を窺う」という題で再録された『吾輩ハ猫デアル』の一部だという。その後、夏目漱石の小説の一部は、陸続と教科書に再録されていく。漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えて行くことにもなる。
第二部を読み、明治期に日本が西洋の列強に肩を並べ、帝国主義国家としての体制を築く上で、言文一致の全国共通の国語が必須であった理由が理解できた。
その一は、西洋先進諸国の科学技術等を吸収し国内に広げる上で、翻訳という行為を介して伝達できる日本語としての言葉が必要であったこと。
もう一つを著者は次のように記している。
「日清、日露と続く戦争に、最も必要なのは兵力である。兵力を増強するためには徴兵が必要であった。そして徴兵、訓練、実戦においては、武器弾薬と同じように、『言葉』が必要だった」と。つまり、軍隊の全員が共通に理解でき、コミュニケーションできる「言葉」である。つまり、誰にでもわかり使える「全国統一話言葉」つまり国語が不可欠だったのである。それを井上ひさしは、上掲の戯曲で、薩摩の隊長が突撃!と薩摩言葉で号令したらお前はわかるかいと清之輔が太吉(津軽出の男を兵隊に見立てて)に問いかける台詞にしている。太吉の返事はわからないである。
第二部の最後に2つの章がある。
一つは「第16章 唱歌の誕生」である。ここでは、明治初期にルーサー・ホワイティング・メーソンが西洋の音楽を日本に移植するために、お雇い外国人の一人として来日したこと。彼が賛美歌を日本に伝え、その曲に徳育の視点から日本流の歌詞が付けられたこと。そして『小学唱歌集 初編』が明治14年(1881)11月に発行されたことが記されている。このことを初めて知った。その後、言文一致唱歌運動へと発展していくという。明治43年に言文一致の「文部省唱歌」が創られ、日本全国に伝えられていくことになったと著者は記す。ここにも日本語を作る動きが展開されていた訳である。
もう一つが最終章の「第17章 万年のその後」である。わずか7ページのこの最終章には、万年とチェンバレンの関係、万年の弟子たちのことに触れられている。そして、昭和21年、「当用漢字ならびに新仮名遣い」の告示がなされたことが記される。上田万年は昭和12年10月26日に没している。万年が旗を振り、育てた日本語が結実したのである。
明治38年(1905)10月に、万年には次女富美が誕生した。この次女富美は作家となる。円地文子の名で作品を次々に発表。1960年以降に入り評価されてきた作家であると著者は記す。円地文子の名は知っていたが、その父親が上田万年だったということを、本書を読んで初めて知った。
日本語を作った男、上田万年を介して、日本語の近世・近代からの変遷を知るとともに、明治時代がどのような時代だったのかを日本語という視点から学ぶことができた書でもあった。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、関心事項をネット検索した、一覧にしておきたい。
上田万年 :「コトバンク」
上田萬年 :ウィキペディア
円地文子 :ウィキペディア
羅馬字会 :「コトバンク」
言文一致 :「コトバンク」
物集高見 :「コトバンク」
森有礼 :「コトバンク」
外山正一 :ウィキペディア
大槻文彦 :ウィキペディア
バジル・ホール・チェンバレン :ウィキペディア
伊沢修二 :「コトバンク」
徳富蘇峰記念館 ホームページ
漱石山房記念館 ホームページ
森鷗外記念館 ホームページ
三宅雪嶺記念資料館 :「流通経済大学」
斎藤緑雨 :ウィキペディア
高山樗牛 :ウィキペディア
岡田良平 :「近代日本人の肖像」
新村出記念財団 重山文庫 ホームページ
田鎖綱紀 :「コトバンク」
芳賀矢一 :「コトバンク」
保科孝一 :「コトバンク」
橋本進吉 :ウィキペディア
ルーサー・ホワイティング・メーソン :ウィキペディア
野村秋足 :ウィキペディア
稲垣千穎 :ウィキペディア
言文一致唱歌 :「コトバンク」
田村虎蔵 :「コトバンク」
石原和三郎 :「コトバンク」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
「はじめに」で、著者は記す。「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。」(p3)と。
元号が「令和」に代わった2019年現在、我々が使っている日本語は、明治の後半期に作られたという1900年頃の日本語とは、さらにまた大きく変化が見られる。しかし、「言文一致体のコトバ」を使っていることを言われると、なるほどそういう意味なのかと理解できる。言文一致が空気のようなものになっていて、我々は普段意識していない。本書はその転換がどれほど大変なことだったかを克明に跡づけていく。その紆余曲折を辿るところが読ませどころと言えよう。
言文一致体の日本語を作った男が「上田万年」だと著者は言う。勿論、一人の人間が言文一致体のコトバ使いによる日本語を創造し、人々がその男の言に納得して使い始めたという訳ではない。言文一致体の日本語を国語として定着させる仕掛人となったのが「上田万年」だったという意味である。上田万年に賛同し一緒にその道を切り開いて行った人々、逆にその動きに対立した人々の存在、そして社会の置かれた状況と動きがある。だから、本書はその時代を実に仔細に眺めていく。(以下、「上田万年」を「万年」と略す。)
かつて学生時代、授業で習い記憶していることだが、明治時代に二葉亭四迷が『浮雲』という小説を書いた時(明治20年/1887年出版)に言文一致を試み「だ調」の文体を作り出したということがある。写実主義の近代小説の中で、言文一致という概念が歩み出している。本書で知ったことは、その前年(1886年)、物集高見が『言文一致』という本を出版しているというである。
万年は、研究・教育・政治という与えられた三つの術を使って、言文一致の国語を日本に確立するという道筋を明確にし、その旗を振る先頭に立った人物だという。明治18年(1885)に東京大学和漢文学科に入学し、バジル・ホール・チェンバレンに師事する。明治19年に帝国大学令施行により、東京大学は東京帝国大学と改称された。万年はチェンバレンから博言学(=言語学)を学び、その専門家となる。ドイツ、フランスの留学を終えて最先端の学識を得て明治27年(1894)6月に帰国し、翌月、帝国大学教授に就任。博言学講座を担当。国語に関する諸論文を次々に発表して行く。明治30年(1897)9月には、東京帝国大学文科大学に国語研究室を創設し、主任となる。翌31年(1898)7月には、「国字改良会」を設立。明治33年(1900)2月、万年らは『言語学雑誌』を創刊。同年4月に文部省により国語調査委員会が発足し、万年は国語調査委員に任命される。この頃から、万年は、言文一致運動の仕掛人、旗振りの先頭に立つ立場になっていく。
本書はその序章から本文の末尾まで、なんと511ページに及ぶ。その後に、「上田万年年譜」が25ページにまとめらている。それは「本書俯瞰のための国政および国語問題、文学関係年表・附」であることにもよる。そして、参考文献の一覧表が1ページ付いている。
なぜ、こんなに大部な本になったのか。それは「その時代」をリアルに描き出すためであろう。言文一致の国語がなぜ必要とされたのか。それに反対した一群の人々、万年の考えと同じ立場を取った人々との間で、どのような対立構造が生み出されたのか。一方でどのような人間関係が存在したのか・・・・。言文一致の国語が生み出されるまでの経緯を克明に描くというアプローチが取られている故に、これだけのボリュームが必要とされたと言える。万年は己の考えを論文として発表し、講演をし、言文一致の国語を生み出す拠点を創設した。さらに国語調査委員に任命されて、中軸の旗振り役の立場に立つ。しかし、それで事が進む訳ではない。言文一致の国語を確立する為には、様々な課題・問題を克服していかねばならない。様々な局面に直接携わったのは万年の指導を受けた弟子筋の学者たちである。また、万年の考えに賛同して特定の領域で協力したり、課題に取り組んで行った人々の存在である。そういう行動の集積が、言文一致体の日本語を生み出していくことになる。
読み進めて興味深かったことは、万年が提唱した言文一致のための国字表記法が実際に一時期試みられたが、後に変更されたという事実も描き込まれている点である。つまり、言文一致の国語を確立するという究極目標の旗を振った万年の立場が重要なポイントとなっている。万年が推進役であり、中核となったことを本書では日本語を作るということの幹に据えている由縁だろう。「日本語を作る」という木は、様々な大小の枝を同時に描かないと語れないテーマなのだ。また、万年自身の論文等を含めた事実記録だけでは描けないという側面もあると思う。様々な資料、事実記録、状況証拠を集積し、万年の事績・行動と関連付けて、「日本語」が作られた経緯を明らかにしていくことに、本書の眼目があると思う。上田万年はその頂点に位置するシンボルだと推測する。
お陰で、次々に頻出してくる明治期の多くの人々の名前と事実・事績を初めて本書で知ることができた。明治を生きた学者、文学者、政治家、官僚その他、言文一致の国語を確立するプロセスにダイナミックに関与した人物群像の姿が描き込まれている。ああ、この人物が、こういう形で日本語を作るという経緯に関与していたのか・・・・と興味深く感じる箇所が多々あった。
本書は多分評論という位置づけになるのだろう。
序章は、明治41年(1908)6月の「臨時仮名遣調査委員会」第4回委員会の場面から始まる。会議の司会は上田万年である。森鷗外がこの席で万年らの考えに反対する意見を滔々と演説する場面から書き出される。この序章は、第15章「万年万歳 万年消沈」の末尾「万年、憤然として辞表を提出」という小見出しで、第4回委員会の経緯が具体的に記される箇所(p485-493)になって、やっと繋がっていく。
第一部は「江戸から明治~混迷する日本語」というタイトル。
明治初期、我国で使われていた日本語の実態が描かれる。それは万年が後に活躍するバックグラウンドの描出でもある。第一部で描かれる内容をキーフレーズ的に列挙してみよう。
*井上ひさしの戯曲『國語元年』の紹介:日本語が通じない状況
*地域的方言と社会的方言の氾濫
*漢字廃止論。日本語のローマ字化論(ローマ字派)。日本語のひらがな書き運動(かな派)。
*万年とチェンバレンの師弟関係。博言学とは? チェンバレンの事績
*明治の大ジャーナリスト、徳富蘇峰の果たした役割と事績
*万年の西欧留学と万年が学んだ最新言語学の状況
*列強諸国の言語使用状況
*言文一致の落語と日本における速記の発明
つまり、明治の近代国家建設途上にあって、日本語が混迷している状況とその打開をどうすれば良いのかという重大な課題が横たわっている姿(社会的背景)が描き出される。第一部が220ページである。
第二部は「万年の国語愛」というタイトル。
明治27年(1894)6月に、3年9ヶ月ぶりに留学先から日本に帰国した時点から、明治38年の言文一致の新仮名遣い改定の動きが、明治41年に頓挫するまでが、まず描かれる。
言文一致の国語を確立するためのプロセスが克明に描かれて行く。万年が旗振り役の立場で行動したプロセスは、万年に協力した様々な人々の行動・事績を明らかにし、万年に対するそれら人々の証言を累積していくことを通して描かれる。そして要所に万年自身の考えと発言・行動が織り込まれていく。その一方で、万年らの活動に反対する立場の人々の考えと行動もまた描き込まれていく。明治後期に、言文一致の運動にどういう対立があったのかが読者には見えて来る。
第一部と比較すると、第二部の展開は読みやすくなる。言文一致をめざす万年の活動が軸となっているからである。
近代文学史で、森鷗外と夏目漱石の名を知らぬ人は居ないだろう。しかし、現在どちらの本がよりポピュラーかといえば、夏目漱石だろう。なぜか? 夏目漱石は言文一致を是として小説を書いた。つまり、万年派である。だから、現代の我々んは読みやすい。一方、森鷗外は万年の主唱する言文一致に反対の立場を表明した。本書の第二部第10章には、「鷗外の文章の力は雅俗折衷体である」という小見出しの項がある。
本書では鷗外のことがかなり掘り下げられて描き込まれている。それは言文一致運動に反対の立場を取った鷗外の文学観・価値観を明らかにするためであろう。その背景に潜む鷗外の性格性癖をも俎上にのせていて興味深い。森鷗外についての知らなかった側面を知る機会にもなった。例えば、「鷗外が仕掛けた八つの論争」が一例である。これは本書第10章内の小見出しでもある。
一方、夏目漱石は、その作品の一部が、明治39年(1906)以降国語の教科書に再録されて全国に流布していくことになる。その嚆矢が1906年発行『(再訂)女子国語読本(巻五)』に「鼠を窺う」という題で再録された『吾輩ハ猫デアル』の一部だという。その後、夏目漱石の小説の一部は、陸続と教科書に再録されていく。漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えて行くことにもなる。
第二部を読み、明治期に日本が西洋の列強に肩を並べ、帝国主義国家としての体制を築く上で、言文一致の全国共通の国語が必須であった理由が理解できた。
その一は、西洋先進諸国の科学技術等を吸収し国内に広げる上で、翻訳という行為を介して伝達できる日本語としての言葉が必要であったこと。
もう一つを著者は次のように記している。
「日清、日露と続く戦争に、最も必要なのは兵力である。兵力を増強するためには徴兵が必要であった。そして徴兵、訓練、実戦においては、武器弾薬と同じように、『言葉』が必要だった」と。つまり、軍隊の全員が共通に理解でき、コミュニケーションできる「言葉」である。つまり、誰にでもわかり使える「全国統一話言葉」つまり国語が不可欠だったのである。それを井上ひさしは、上掲の戯曲で、薩摩の隊長が突撃!と薩摩言葉で号令したらお前はわかるかいと清之輔が太吉(津軽出の男を兵隊に見立てて)に問いかける台詞にしている。太吉の返事はわからないである。
第二部の最後に2つの章がある。
一つは「第16章 唱歌の誕生」である。ここでは、明治初期にルーサー・ホワイティング・メーソンが西洋の音楽を日本に移植するために、お雇い外国人の一人として来日したこと。彼が賛美歌を日本に伝え、その曲に徳育の視点から日本流の歌詞が付けられたこと。そして『小学唱歌集 初編』が明治14年(1881)11月に発行されたことが記されている。このことを初めて知った。その後、言文一致唱歌運動へと発展していくという。明治43年に言文一致の「文部省唱歌」が創られ、日本全国に伝えられていくことになったと著者は記す。ここにも日本語を作る動きが展開されていた訳である。
もう一つが最終章の「第17章 万年のその後」である。わずか7ページのこの最終章には、万年とチェンバレンの関係、万年の弟子たちのことに触れられている。そして、昭和21年、「当用漢字ならびに新仮名遣い」の告示がなされたことが記される。上田万年は昭和12年10月26日に没している。万年が旗を振り、育てた日本語が結実したのである。
明治38年(1905)10月に、万年には次女富美が誕生した。この次女富美は作家となる。円地文子の名で作品を次々に発表。1960年以降に入り評価されてきた作家であると著者は記す。円地文子の名は知っていたが、その父親が上田万年だったということを、本書を読んで初めて知った。
日本語を作った男、上田万年を介して、日本語の近世・近代からの変遷を知るとともに、明治時代がどのような時代だったのかを日本語という視点から学ぶことができた書でもあった。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、関心事項をネット検索した、一覧にしておきたい。
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言文一致唱歌 :「コトバンク」
田村虎蔵 :「コトバンク」
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インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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その点、ご寛恕ください。)