遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭』  堀口茉純  PHP新書

2018-05-27 14:21:45 | レビュー
 『嘉永・慶応 新・江戸切絵図』(人文社)に載る嘉永6年に尾張屋が出版した「今戸箕輪 浅草絵図」を見ると、金龍山浅草寺の広大な境内の北東側は殆どが田地である。その中に「おはぐろどぶ」に囲まれた矩形の場所がある。幕府公認の遊郭・新吉原がある。その新吉原に行くのは、ほぼ南北方向に流れる川沿いの日本堤1本だけである。新吉原から南西方向の浅草寺境内地の境界道路までの直線距離を、新吉原からほぼ西方向の田地の先へと延ばせばそこには仕置場(小塚原刑場)があった。かつての新吉原は特異な地理的環境の中に存在した。

 「おわりに」で、著者は「江戸時代とそれ以降、正確には明治五年の娼妓解放令以降の吉原は全く別のものといってよく、自分が大きな誤解をしていたことに気がつきました」と自己の吉原観経験を述べている。そこに、この「江戸時代の吉原に特化した本」を著した動機があるそうだ。
 本書は江戸時代に存在した幕府公認の遊郭「吉原」について、江戸時代の目線でまずこの吉原をとらえようとする。勿論、江戸時代の遊郭・遊女にまとわりつくブラックな側面を無視している訳ではなく、その点にも言及している。しかし、まず江戸時代目線で「吉原」が果たしたポジティヴな側面に目を向けてみようというのがテーマである。

 著者の論点はサブタイトルに凝縮されていると言える。吉原が江戸文化の一面を育む場所になった側面を重視している。江戸文化の一つとして、浮世絵がブームとなり様々な絵師がその絵筆を競っていた。そして、草子・読本・洒落本・人情本などが生み出されていく。それらので吉原が題材となり大いに取り上げられたという事実をビジュアルに示す。江戸の人々が魅惑を感じ、行って見たいと思い、もてはやしたからこそ、浮世絵や絵入り本等が量産されたといえる。吉原は人々を魅了し、江戸文化のインキュベーターとなっていたのである。
 著者のわかりやすい語り口とともに、新書を開けば見開きページの中に必ず浮世絵や諸本の挿絵などがカラーあるいはモノクロで載っている。かなりビジュアルな編集になっていて、それらについてのキャプションもあり、本文とのコラボレーションになっている。 吉原が江戸文化を育んだ証拠がそこにビジュアルに例示されているともいえる。つまり、浮世絵文化の精華を楽しめる本でもある。

 本書は三部構成である。遊郭吉原に因んで、第○夜という表示で記している。
「第一夜 苦界は”公界”! お江戸の特殊空間・遊郭への誘い」
 江戸幕府により公認された吉原が内部統制がとれ、人工的な孤立環境として創造された遊郭である点を明確にしている。歌川広重(二代)『東都新吉原一覧』の吉原全体図や、切絵図『東都浅草絵図』、『吉原細見五葉枩』、『吉原細見(弘化4年版)』などをビジュアルに使って、吉原の地理や遊郭内の町の構造などを説明する。そしてこの吉原で遊ぶしくみと手続きを説明する。妓楼には格付けがあり、遊女にもランクづけが明確になっていたことや、その格付けに応じていわば公明な料金設定がなされていたこと、遊ぶ費用がどれくらいかかったものかを説明している。「花魁道中(おいらんどうちゅう)」という言葉が良く知られ、その場面が映画のシーンになったりもしている。花魁レベルとの遊びには、客の方が気を遣うという状況だったことや、初会・裏・馴染という遊びのプロセスが確立していたこと。初会ならば、「一晩待っても本懐を遂げることができずフラれることだってあるが、それでも料金はきっちり請求される」(p57)というような独自のルールがあったことなども記されていて、興味深い。

「第二夜 スターとスキャンダルと 共に振り返る☆吉原の歩み」
 遊女屋を経営する庄司甚右衛門が中心となり同業者とともに幕府に陳情して、ウィンウィンの関係で遊郭が公認された理由や背景が明かされている。そして、湿地を埋め立ててできた遊郭は、当初「葭原(あしはら)」と呼ばれていたが、その音が悪しに繋がる故に、縁起を担いで良し原=吉原に改称された。その吉原が、幕府の命令で移転したのが浅草田圃の中、浅草寺の北東である。移転という経緯があるため、新吉原と通称される。
 ここでは、公認の吉原に対し、江戸には街中の風呂屋の発展が私娼の湯女を輩出していった点に触れている。吉原には実質的な商売敵がその存立を危うくする局面があったという。吉原の存立史がわかりやすく説明されている。
 吉原を公認する幕府にとって、吉原以外での売春は禁止である。度々取締の法令を出している事実が残るが、徹底されず事実上の黙認状態だたようだ。発展拡大する江戸の男女比率の極端なアンバランスが、幕府が黙認せざるを得ない状況を生み出したのだろう。
 公認遊郭の花魁、太夫と称されたレベルになれば、当初は文芸素養を修得した華やかな遊女であり、著者は「太夫は現代でいえば憧れの女優兼トップモデル兼人気歌手兼一流文化人的存在の、お江戸のスーパーウーマンなのだ」(p91)と説明している。わかりやすいたとえである。有名太夫が浮世絵の主題になり、スターのプロマイドのように扱われ世間に流布していった。またそこに描かれた衣裳などが一種のファッションリーダーの役割すら果たしていく。髪型もしかりである。
 本書にはスターとして羨望された花魁達の浮世絵を列挙し、それぞれにミニ解説を付して紹介している。それぞれの特徴がとらえられていておもしろい。名前を列挙しておこう。丹前勝山、万治高尾、三浦屋小柴、中万字屋玉菊、扇屋花扇、富本豊雛、佐野槌屋黛、稲本屋小稲である。
 

「第三夜 夢の国のリアル」
 その華やかに演出された吉原に、一歩踏み込み舞台裏から眺めた実態もここで説明している。冒頭に、葛飾北斎『吉原妓楼の図』を載せている。昼見世と夜見世の間のアイドルタイムの妓楼1階という舞台裏の様子である。式亭三馬『昔唄花街始(むかしうたくるわのはじまり』の挿絵や、歌川国貞『吉原遊郭娼家之図』などを提示し、裏方として遊郭で働いていた一群の人々、花魁を取り巻く脇役に話題を転じていく。上客を惹きつけるための花魁たちの手練手管を語る一方、吉原の遊女がどこまで自己負担をしなければならなかったかの裏話も述べている。遊女の大凡の一日を描いて行く。
 この第三夜では、「吉原の遊女たちは果てしなく過酷でブラックな労働条件で働いていた」という事実側面もちゃんと押さえている。江戸文化を育んだ華やかさとその陰の部分を述べることで、江戸時代の新吉原のスゴさをわかりやすく解説している。

 上記以外でおもしろいと思った事項をご紹介しておこう。揚代の価格表(p54)、『吉原遊郭遊び双六』という盤上遊戯・双六の絵(p64-65)、恋川春町『吉原大通会』の挿絵(p67)、岡本楼内重岡を描いた浮世絵(p73)はその衣裳姿がスゴイ。コラムとして記載の「お金の話」(p74-75)「演出の話」(p76-77)、「時間の話」(p164-165)は江戸目線で吉原を知る背景知識として役に立つ。
 
 江戸吉原への導入ガイドとしてはビジュアルで読みやすい概説書と言える。
 
 余談として2点ふれておきたい。
 第一夜で、苦界は公界と記述されている。様々な理由から身を売られ遊郭という場所、苦界で働く遊女達が本書の主人公である。ここで著者は公界という言葉を定義して使ってはいないと記憶する。末尾の参考文献には、網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリーが挙げられている。手許にあるこの本の関係箇所を読むと、「七-公界所と公界者」のところで、弁才天で有名な相模の江嶋が戦国時代「公界所」であったと記録する文書を史料にして説明している。そこで、「公界所」が世俗と縁の切れた場であったことを論証し、「公界」という語が、戦国時痔、「無縁」と同じ意味で用いられる場合が多かったことは間違いないと説明する。吉原を無縁の人々が形成していたと考えると、公界所と言える。
 もう一つは、本書の参考文献一覧には載っていない本のことである。三谷一馬著『江戸吉原図聚』(中公文庫)である。

手許の本の奥書を見ると、1992年2月に出版され、翌3月に再版されている。1978年8月に立風書房から出版された同名本の文庫化である。これは吉原に関わる浮世絵や本の挿絵など絵を集め、テーマ毎に分類して、絵画の人物や場面等を主体にしそれにテーマの流れで参照文献からの抽出引用と説明を加えていくというスタイルにまとめられている。本書が著者の解説を主としてビジュアルな絵や史料を紹介していくのとは逆である。目次の大見出しを列挙する。「はじめに、吉原概説、登楼、廓内、妓楼、遊女の生活、年中行事、遊女の風俗、吉原風俗」という構成である。
 本書『吉原はスゴイ』を概説書として読んでから、絵に語らせるこの『江戸吉原図聚』を読むと、読みやすさが加わりかつ相乗効果が産まれるように思う。
 
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吉原大鑑 2巻  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
吉原大全    :「国立国会図書館デジタルコレクション」
江戸名所花暦  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
吉原略年表
新吉原図鑑 花魁
葛飾北斎 吉原楼中図  :「Google Arts & Culture」
吉原遊郭の図  創作ノート  :「酔雲庵」
お江戸の桜の名所だった!? 遊郭の吉原に桜が咲いた理由  :「suumo ジャーナル」
幕末~明治、在りし日の吉原遊郭の古写真を街並みにスポットを当てまとめました!
    :「Japaaaan」

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『風神雷神』 風の章・雷の章   柳 広司   講談社

2018-05-23 16:46:53 | レビュー
 本書のタイトルを見た時に、俵屋宗達に関連している小説か・・・・と想像した。その通りだった。俵屋宗達の伝記風ストーリーと著者自身の宗達作品と時代観に対する解説・評論という現代視点とをクロスオーバーさせた小説という読後印象を抱いた。そのスタイルは司馬遼太郎の系譜に繋がると感じた。もう一つ連想したのは、ストーリーの展開にスライドショー的な構成の印象を抱いた点にある。
 奥書を読むと、この作品は「小説現代」の2016年11月号~2017年6月号の連載に加筆修正し、2017年8月に2分冊(風の章・雷の章)の単行本として出版されている。本のカバーには、勿論宗達の風神と雷神がそれぞれカバーを飾っている。

 読むときはブックカバーをして読んでいたので、全く意識していなかったのだが、読み終えて2冊並べてみて右から「風の章」「雷の章」と最初置いてみてはたときづいた。あれ、おかしいな・・・・・。そう、「風の章」には雷神像(屏風左隻)、「雷の章」には風神像(屏風右隻)と逆にカバーの装画として利用されている。一方で、カバーの本書タイトル「風神雷神」は横書きになっているので、2分冊の横書きに章名を付けるなら、左に「風の章」、右に「雷の章」となり、順当といえるのかもしれない。これ自体が結果的におもしろい気づきだった。

 さて、「風の章」は「1 醍醐の花見」というセクション見出しから始まり、「13 鷹峯」までの13コマ、「雷の章」は「14 扇は都たわら屋」から「25 風神雷神」までの12コマで構成されている。初出が連載小説という媒体手段の性格もあるのかもしれないが、各セクションがそれだけで読み切り短編小説としてもまとまりのある形式になっている。1セクションが1つの画像のコマのようなイメージで1コマの映像がスライドを見るように切り替わっていくという印象が強い。次はどんな映像場面になるか・・・・そんな感じである。

 この小説の冒頭が「醍醐の花見」の場面である。俵屋の商品・扇を提供する機会を養父の仁三郎が確保したのに対して、番頭喜助とともに扇提供の仕事に伊年(後の宗達)が携わるという場面。この場面で伊年が俵屋の養子となった経緯、伊年の風貌・人柄を、一陣の突風に散る桜と扇の映像とともに、まず読者に印象づけていく。修行時代に居る二十代半ばの伊年の描写から始まる。
 秀吉による「醍醐の花見」は知っていたが、その裏話・背景知識はほとんどなかった。この1コマから、結構おもしろい裏話解説を読み、そういう副産物にのっけから私は惹きつけられた。ああ、そんな背景があったのか・・・・と。知るという事は事実理解の奥行きを広げてくれて楽しい。有力武将による即席の茶屋が8カ所設けられたということは、醍醐山を登ったことがあり説明書で知っていた。著者はこの茶屋に言及するときに、「即席の茶屋(こんにち言うところのパリオン)」などと、括弧書きで現代的解説をポンと付け加えている。こういう読者向け解説が各所に出て来くる。一般読者には連想のしやすさ、読みやすさに繋がって行く。付加された解説の面白さを楽しむということにもなる。もちろん、それを煩わしいと感じる読者もいることだろう。

 著者はこの伝記風小説の構成においていくつかの軸を設定し絡ませていく。
 その1つは俵屋の養子となった天才絵師伊年が一世を風靡した俵屋宗達という存在になるプロセスを描き出す。宗達に大きな影響を与え、宗達の力量を引き上げる役割を果たした人物たちとの関わりの進展というストーリーの軸である。
 それが、「風の章」では本阿弥光悦であり、そのトリガーとなったのは、「嵯峨本」創造の経緯である。「風の章」は本阿弥光悦が一族とともに鷹峯に移転することになり、紙屋宗二(後の宗仁)は光悦に従い鷹峯移転組に加わり、伊年はこの時点で光悦とは一線を画し、洛中に留まる選択をする。
 「雷の章」では、光悦からのバトンタッチを受けたかのように、思いも寄らぬことから、公家・烏丸光広が現れ、伊年に仕事を依頼するところから、伊年にとって新たな画業へのチャレンジが始まるというストーリーが描かれて行く。そして「風神雷神図屏風」はこのストーリーの最後の一コマに忽然と登場することになる。その登場のしかたが興味深いし、最後の読ませどころとなる。

 2つめは、伊年(宗達)と関わった女性たち。伊年(宗達)と女性たちとの三者三様の関わり方が、ストーリー展開の中で織り込まれていく。
 最初の一人は、出雲の阿国である。修行時代の伊年の画力を見抜いた阿国が伊年に会ってみて、扇絵を依頼するという所から、断続的に伊年との関わりがつづく。画業を工夫し広げ、画境を切り開きつづける伊年にとって、阿国は心中に居座りつづける存在となる。伊年と阿国の関わりは史実を含むのか、著者の加えたフィクションなのか・・・・不詳。著者は出雲の阿国が日本人町が形成されていた東南アジアまで、興行に遠征していたという描き込みをしている。
 二人目は、本阿弥光悦と角倉与一(後の素庵)・紙屋宗二・俵屋伊年たちが、「嵯峨本」制作という企画で結びつきができる時に登場する。本阿弥光悦の娘・さえである。彼女はなぜか宗達に恐れを感じる。光悦を介して娘さえが登場し、宗達の人生で生涯人間関係の糸が繋がっていく存在、伊年からすれば不可思議な女性としてストーリーに織り込まれていく。
 三人目が、伊年の妻となったみつである。一種独特な伊年という存在を、その画才の天分が発揮された作品を介して理解し、受け止める妻という視点から、みつの思いと行動が織り織り込まれていく。工房と扇商の運営という俵屋の家業を支えていくみつと、みつから見た伊年(宗達)観が描かれる。
 この3人が一緒に、醍醐寺の一座敷で「風神雷神図屏風」を眺めるという最終の場面がおもしろい。三者三様の宗達像が描き出される。

 3つめは、宗達の人間関係を宗達の側から点描的に描き込んで行く軸である。
 これはそれぞれの人物に対する伝記風叙述と言う側面を持つ。角倉与一(後の素庵)とその父・了以。紙屋宗二(のちの宗仁)。本阿弥光悦。烏丸光広。出雲阿国。三宝院門跡の義演と覚定。印象深い人たちである。

 そして、これら3つの軸に交わり響き合う形で、著者が現代的視点からの作品解説・時代観や評論を各所に織り込んで行く。文字で語られるストーリーに、解説による宗達作品の映像化、読者に対する宗達作品鑑賞への手引きが加えられる。また宗達並びに宗達と関わりを深めた人々が生きて活躍した時代の背景や位置づけを分析的に解説したり補足説明したりしていく。この補足により、読者には宗達の画業領域の変遷が理解しやすくなる。人々の欲求の変化や意図も同様に納得度を高めて理解できる。このあたりの織り込み方から、この小説が司馬遼太郎の小説スタイルの系譜に連なるもと私には思える。俵屋という工房を備えた扇商のビジネス展開に対する評論的視点も興味深い。
つまり伝記風時代小説が現代的視点の書き加えとクロスオーバーし、相乗効果を生み出している。このストーリーを読み、その延長線上で宗達作品や関係場所を実見したくなる。
 一つは作品鑑賞の手引き的な解説がかなり詳細に組み込まれている。「9 豊国大明神臨時大祭」中の六曲一双の屏風絵の説明、「11 鶴下絵三十六歌仙和歌絵巻」での伊年の思いを介しての下絵と光悦文字とのコラボの秘密についての説明、「18 蔦の細道図屏風」中での屏風絵の解説、「21 関屋澪標図屏風」中でこの構図の発想について具体的に述べられていく。裏屏風という騙し絵の手法が取り入れられているという説明まで加えられている。勿論、宗達と烏丸光広が説明するという筋立てになっている部分もあるが。

 もう一つは宗達等が生きた時代の社会構造や価値観、時代潮流などに解説を加えていることが挙げられる。それは時代を知る手引きともなる。たとえば「風の章」を改めて通覧してみると、「2 御用絵師と絵職人」での両者の違いを解説、「4 若者たち」には秀吉の晩年の行動が書き加えられている。「7 本阿弥光悦」の中では本阿弥家の家業説明、「8 紙師宗二」では、紙と料紙の違い、料紙の加工についての説明、「10 嵯峨本」での嵯峨本自体の解説、という風にこれらのセクションにこの視点が色濃く織り込まれている。「雷の章」から例を挙げると、「16 養源院」では養源院の創建とその存続に絡まる複雑な因縁話の解説が興味深い。この話が宗達筆による養源院の板戸絵の背景となり、宗達画を一層引き立てることになっていく。宗達筆「白象図」等と「血天井」を養源院に行き現地で拝見したくなるだろう。「19 紫衣事件」「20 法橋宗達」においては紫衣事件の顛末とその後の徳川政権の政策に対する補足説明があり、この時代を知る上で役立つ。

 俵屋の扇商ビジネスが宗達の下でどのようなビジネスに拡大し多角化していったか。そして時代の変化にどう対応し、どういう新基軸を組み込んで行った。この側面での補足説明が分かりやすい。そして、俵屋のビジネスが後に衰退する予測も織り込んでいる。

 俵屋宗達が、本阿弥光悦、烏丸光広の要求課題にチャレンジして、絵の新しい世界を次々に切り開いていく形でストーリーが展開する。
 「宗達が描いたから『風神雷神図』は屏風絵になった。」
 この二曲一双の絵が描かれたことで、一つの新しい世界が開かれた。著者はこの画境で宗達の人生を締めくくる。それを醍醐寺の座敷で目にした阿国・さえ・みつの3人の女性が、それぞれ三者三様に宗達を受け止めなおすところで終わる。

 次々とスライドの映像を眺めて行くように、場面がスピード感のある転換をつづけ、読者を惹きつけていく。一気に読み進めた。
 本阿弥光悦、烏丸光広との出会い、コラボレーションの仕事がなければ、宗達の「風神雷神図」が創造されることはなかったのではないか・・・・・。そういう気にさせられた。

 この作品で。また一人、私は新たな作家と出会う機会を得た。

 ご一読ありがとうございます。


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この作品からの波紋で検索してみた結果を一覧にしておきたい。
風神雷神図屏風  俵屋宗達  :「京都国立博物館」
風神雷神図屏風  尾形光琳  :ウィキペディア
風神雷神図屏風 酒井抱一 :「Salvastyle.com」
風神雷神図  :ウィキペディア
鶴図下絵和歌巻  :「京都国立博物館」
重要文化財《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》 本阿弥光悦筆・俵屋宗達画 京都国立博物館 琳派 京(みやこ)を彩る  YouTube
白象図 (養源院)
連続講座「宗達を検証する」第九回資料 2014.2.22 林進氏 pdfファイル
宗達筆扇面流図屏風写真集. 第1集  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
「Gold - 金色の織りなす異空間 - 」 大倉集古館 9/16
  宗達派の「扇面流図」(17世紀)の画像が載っています。:「はろるど」
国宝 俵屋宗達筆 源氏物語関屋澪標図屏風  :「静嘉堂文庫美術館」
俵屋宗達「蔦の細道図屏風」  :「足立区綾瀬美術館ANNEX」
俵屋絵師からみた宗達-「蔦の細道図屏風」と「伊勢物語図色紙」 林進氏 pdfファイル
伊勢物語(嵯峨本) 将軍のアーカイヴズ :「国立公文書館」
伊勢物語 :「関西大学図書館 電子展示室」
花下遊楽図屏風  :「東京国立博物館」
幻の屏風を復元!きらびやかな「醍醐の花見」を体感してほしい :「Readyfor」
紙本金地著色南蛮人渡来図〈狩野内膳筆/六曲屏風〉 :「文化遺産オンライン」
洛中洛外図屏風(上杉本)  :「Canon 綴TSUZURI」
四季花木図屏風
豊国祭礼図屏風  :「京都で遊ぼうART」

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『北斎漫画 日本マンガの原点』  清水 勲  平凡社新書

2018-05-19 11:27:15 | レビュー
 本書を読み、漫画という言葉のルーツと変遷を初めて知った。漫画に関する領域で初めて知ることが多くて、面白く読めた。著者の説明によれば、以下のことがわかる。
 1.文化11年(1814)に『伝神開手 北斎漫画 全』が名古屋で出版されたという。つまり、「漫画」という言葉自体は江戸時代、北斎の時代に遡る。
 2.今泉一瓢(1685-1901)がイタリア語の「カリカチュア」の訳語として『時事新報』紙上で使い出した。明治34年(1901)に『一瓢雑話』(誠之堂)を出版し、その中で「漫画」とは「カリカチュア」のことであると、説明しているという。明治23年に『時事新報』に、漫画・寓意漫画という言葉が使われている。
  今泉一瓢という名前を私は初めて知った。福澤諭吉の妻の姉・今泉たうの息子だそうである。
 3.現在我々が使っている「漫画」という言葉は、昭和初年に使われ出したと著者は言う。
 
 江戸時代に『北斎漫画』という形で、漫画という言葉が使われていた故に、その内容を知っていた今泉一瓢はこの言葉を訳語として利用したのだろうか。著者はその点については何も語っていない。漫画という言葉の出現を語り、訳語に遣われた事実を述べるだけである。
 北斎自身は、鳥羽絵、狂画、略筆という言葉を使っているという。そして、”『北斎漫画』の「漫画」は、日常語ではなく、書物のタイトル、作品のタイトルなどに使われる「思いつくままに、とりとめもなく書き記す絵」「スケッチ」といった意味だったと思われる”(p70)と分析している。何気なく親しみ使ってきた「漫画」という言葉の変遷を本書で知った。
 また、「漫画語」と鍵括弧つきで、江戸時代にこのジャンルで使われていた言葉を列挙して解説しているところも興味深い。
 さらに、『伝神開手 北斎漫画 全』というタイトルにある「伝神開手」という言葉を著者は「画の真髄を学ぶ者の手本」という意味か、と述べている。つまり、絵手本の位置づけで出版された色彩が強いのに対し、欧米人の一般的見方は戯画本だとする。

 本書の特徴は、上記のように見方が分かれることや、「漫画語」に様々な言葉が使われてきたことを踏まえて、『北斎漫画』15編の各編の特徴を分析し整理・要約し、全体の構成を解説している点にある。
 そして、その分析に関連し、各編からの代表的な絵をふんだんに掲載している。
 つまり、『北斎漫画』のエッセンスを手軽に楽しめるところが特徴といえる。著者の説明抜きに、ここの掲載された絵を一通り眺めて行くだけでも、『北斎漫画』の全体像が大凡理解できるしくみになっている。様々なスタイルで北斎が描く絵を眺めるという楽しさが手軽に味わえる。
 併せて、『北斎漫画』ができる前史部分を分析し、北斎の漫画が突然に現れたものではなく、北斎の創作に影響を与えた先人たちの戯画本を土台にしている点を整理している。このあたりは、私には殆ど初見といってよい作品名と著者名が並んでいた。せいぜい鳥山石燕と山東京伝の名前ぐらいが知っている程度だった。つまり、先人たちの作品群の影響を踏まえて、北斎が創作を進展させたことがわかる。
 江戸中期に戯画を木版画化し大衆向けに商品化するという出版事業が成り立ち、戯画が商品として扱われたところに、現代の漫画文化の淵源があるのだ。日本のマンガもはや300年の歴史があるんだということが理解できた。

 北斎が既に『北斎漫画』の中で、絵手本としての絵と併せて、風俗画や諷刺画を描き込み、またコマ枠表現の絵を様々に試みているのがわかる。コマ表現漫画のルーツがちゃんとここにある。「西洋銃にて海魔を打つ」という3コマ漫画が紹介されている(p232)。 また、ビジュアル百科的な側面も兼ね備えていたことが興味深い。11編に所載の「隻穴之短砲(そうけつのたんづつ)」の絵が紹介されている(p199)。北斎が製図のような正確な描線の絵を描いているのを初めて本書で見た。
 北斎と同時代の浮世絵が吹き出し手法を利用しているが人物の胸や口、全身から吹き出しが表現されるのに対し、北斎の描く吹き出しは、頭から吹き出しが発するという描き方である。その絵が2例載っている(p220,221)。北斎の合理的な考えが読み取れる。
 俵屋宗達筆の「風神雷神図」は有名だが、北斎も「雷と風」と題する絵を3編に載せている(p172,173)。同種の絵だが、表現方法がかなり異なりおもしろい。

 最後に、北斎が先人の影響を受けて、それを土台に己の漫画を創作していった一方で、その北斎漫画の影響を受けた江戸・明治の浮世絵師たちが居たという事例を紹介している点もおもしろい。絵師達はやはり互いに相互影響し合いながら、抜きんでるために切磋琢磨していたことがうかがえておもしろい。

 北斎の描いた絵、漫画自身に語らせるところがおもしろい。北斎漫画が主、著者の分析・説明は従という構成スタイルである。手軽に北斎漫画自体を楽しみながら読めるところがいい。

 ご一読ありがとうございます。


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本書と関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
北斎漫画 :ウィキペディア
北斎漫画 :「近代デジタルライブラリー」
  検索結果の所蔵58件のリストのページ。北斎漫画各編ほかにアクセスできます。
北斎漫画 YouTube
Hokusa Hokusai Manga 北斎漫画  YouTube
北斎漫画  YouTube
葛飾北斎 肉筆画集  YouTube

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『安土唐獅子画狂伝 狩野永徳』 谷津矢車  徳間書店

2018-05-16 22:48:08 | レビュー
 『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』は2013年にデビュー作として出版されている。この前書を楽しく読むことができたので、この永徳第2作を読んだ。第1作は、現在、国宝指定の『上杉本 洛中洛外図屏風』として有名な屏風絵を如何にして描きあげたかというそのプロセスに焦点を当てた絵師永徳誕生ストーリーだった。狩野派の伝統的な粉本ベースの絵画制作主義からの超脱に、御曹司永徳が闘いを挑むという経緯が実に興味深かった。 
 この第2作は、そのタイトルに「安土」と冠することから、今は焼尽して跡形もない安土城に、永徳が絵筆を振るったプロセスが描かれるということが構想の中心になっているのだろうな、と想像させる。当然、それは織田信長という天下布武のビジョンを抱く男と絵の世界では己が覇者と自負する永徳という男とが、このストーリーでどのような心理合戦を展開するだろうか、という興味をまず抱いた。

 この小説を読み、著者のパースペクティヴはもっと広がりを持っていたので、期待を裏切られなかった。全体の構想と展開の時間軸が思っていたよりも長く、全体のストーリー構造を入り組ませていて、おもしろ味を倍加している。つまり、このストーリーの全展開の中で、信長の要求に応えて信長を唸らせる障壁画を描き安土城内部を飾る、そのための構想と作品化に永徳が苦しみもがき、仕上げていくというプロセスは、勿論最初の大きなピークに位置づけられている。つまりそれだけを描くストーリーではなかった。
 その後にくる安土城炎上により、永徳の画業の結晶が焼尽してしまう。そう、本能寺の変、秀吉の中国大返しによる明智光秀の敗退とその敗退プロセスの波紋の一つとして発生する安土城炎上。狩野家の惣領永徳といえども、如何ともしがたい状況の展開となる。一絵師永徳がその状況の中でどう対応したか。著者は永徳の心理面と行動面をフィクションを交えながら描き挙げていく。これがそれに続く山場となる。それは絵師永徳の心理的存亡、実存に関わって行く時代の変転である。

 著者は本書の最終コーナーで、安土城炎上後の永徳がまず何をしたかの場面を描き加えて行く。父松栄の許にもたらされた絵の依頼。大徳寺塔頭・聚光院の方丈建立に伴う襖絵を描くという仕事である。それは永徳の心境転換のトリガーとなり、新たな挑戦への始まりなのだ。狩野永徳が狩野派惣領としての世俗での道と、他絵師の追随を許さぬユニークな絵師として画技・画境の高みへと邁進する孤高の道を如何に両立させるかへの挑戦でもある。自らを画狂と思い定めた永徳の再スタートとも言える。
 わずか23ページで描き出される場面であるが、このストーリーの構想の中では、実に重みを持つ場面とも言える。そこに、その後の永徳と対決する人物達がちゃんと組み込まれている。

 そして、「終」の章では、秀吉の依頼を受けた信長の追善絵を、新たな天下人となった秀吉自身に届けて見せる場面を加える。その対面の場で、安土城本丸に描いた障壁画を描き直したものという、唐獅子の障壁画を永徳は秀吉に贈る。
 「これを、お納めくだされ」
 「よいのか? 斯様なものを」
 「天下人の下でこそ輝く絵でございましょう」
その後に、次のやり取りがこの対話のエンディングになる。
 「天下一の絵師、狩野永徳よ、今後も傍近くにあり、絵を描け」
 「はっ」

 この永徳と秀吉の対話場面の後に、この小説の最後のしめくくり9行の記述がある。
 いくつかの山場とそのストーリー展開を構成したいくつかの人間関係軸の渦中に居た永徳の思いが凝集されている。『安土唐獅子画狂伝』は、この9行を氷山の見える先端として示すために、描き込まれた背景と言えるかもしれない。
 さらに、聚光院の障壁画制作場面とこの「終」の場面は、画狂伝狩野永徳の第三作への伏線になっている。そんな気がする。

 さて、このストーリーの構想・展開での奥行きを深め、読者を惹きつけるとともに、この時代を考える側面としての素材にもなる永徳に絡めた人間関係構図をご紹介しておきたい。これらの視点・次元を異にする人間関係の組み込み方、絡ませ方がこのストーリーを楽しませ、味わわせる仕掛けでもあると思う。箇条書き的に列挙してみる。

*永徳とその妻廉の関わり方。二人の間に、四郎二郎・宰相と名づけられた息子たち居る。この家族と永徳の人間関係が底流に流れている。絵のことしか心にない永徳を廉がどのように眺めているか、対応しているかが描き込まれる。絵を介した息子たちと永徳の関係も興味深い。画狂と称される由縁の一端がここにある。
*織田信長と狩野永徳の絵画次元での心理合戦の繰り広げという人間関係。お互いに相手を折るというスタンスの生き様が彩なす展開がワクワク感を抱かせる。
*狩野派という絵画集団における人間関係。絵師としての世俗での柵が背景となり、戦国時代の絵師の有り様や伝統と才能、生活の基盤などがリアル感を加える。父・松栄と永徳の弟・宗秀描かれる。
*狩野永徳と長谷川信春とのライバル予感としての人間関係。永徳の前に「信」と記された絵馬の小さな龍の絵図から始まり、長谷川が狩野派に入門し、ある理由で永徳が破門するという関係。永徳が長谷川の絵に、絵師としての闘争心をかきたてられる。要所要所で長谷川が登場して来るから興味深い。
*狩野永徳と海北友松の人間関係。年長の友松が狩野派の画業では永徳の弟子となる。このねじれた人間関係がストーリーの背景に隠れながら、重要な場面で友松が黒子的に登場する。永徳が心にかける弟子、絵を続け大成を期待する弟子でもあり、ある意味で相談相手として登場するところがおもしろい。友松の人生の一端を垣間見せる取り上げ方になっている。
*秀吉が永徳に木村彦一を絵師の卵として紹介し、弟子という形で託すところから始まる人間関係。木村彦一、後の狩野山楽の登場である。当初その姿にこの世のすべてを恨むというスタンスに危うさを永徳は感じる。だがその彦一が、この安土城での障壁画制作の始まりから、無くてはならない貴重な弟子となっていく姿が描き込まれる。二人の人間関係がこの第2作のテーマでは重要なものとなっていく。
*永徳と千利休の人間関係。絵師永徳の生き様にとり重要なポイントとなるところで、千利休が登場する。絵師永徳は、利休が関わる「茶」それを茶道にせんとする姿を認めない。異なる次元で天下一を目指すというズレの妙味の中での人間関係が点描される。利休は長谷川信春を世に押しだそうという立場で、永徳との確執関係を演じる。利休の展望は茶道の下に、あらゆる芸術を従える、人間をも茶道の下に置くというスタンス。永徳との対決を背景描写の一つに組み込む点がおもしろい。千利休の信念、意志力としたたかさが垣間見える。
*永徳と武将との人間関係。信長は別格として、最初に本書のテーマ絡みで取り上げた。それ以外では、まず永徳と秀吉との関わりである。ささやかな事から始まり、天下人秀吉との面談場面にまで、点描風な関わりの場面描写でステップアップしていくおもしろさがある。
 永徳と松永弾正との人間関係。信長以前の京都での関わりから、安土城での障壁画制作への弾正による橋渡しなど、要所要所での弾正描写は、永徳に信長を感じさせる間接話法的な描写になっていて興味深い。弾正についての永徳視点での評価描写も同様に考える材料になる。
 永徳と明智左馬助の人間関係。左馬助の登場も要所要所のスポットだけだが、永徳との関わりがおもしろく描かれている。その登場場面はこの時代の風潮と気風をうまく漂わせることに役立ってもいる。

 他にも色々な人物が登場するがこれだけの人間関係でも、永徳を取り巻く人間関係構図が絵師永徳を支え、阻み、引き上げ、引き落とし・・・・と作用していく。ひたすら絵だけを描きたいという画狂永徳を放っておかないのである。逆に、この人間関係構図があったからこそ、永徳の独自性のある絵が創造される土台になり、肥やしになったとも言える。そんな感想を抱いた。

 ご一読ありがとうございます。


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本書からの関心の波紋として少し調べてみた結果を一覧にしておきたい。
唐獅子図屏風 右隻:狩野永徳  :「宮内庁」
唐獅子図屏風  :「Salvastyle.com」
源氏物語屏風 伝狩野永徳  :「宮内庁」
狩野永徳の代表作品・経歴・解説  :「Epitome of Artists 有名画家・代表作紹介、解説」
永徳の信長像や探幽の障壁画 京都・大徳寺、16日から特別展 2017.9.15 :「京都新聞」
狩野永徳筆、織田信長像に関する解釈の余白に  :「無題」
織田信長像  :「MUSEY」
洛中洛外図屏風(上杉本) 狩野永徳 :「Canon 綴TSUZURI」
狩野永徳と長谷川等伯の二大国宝!この驚くべき付合はいったいなんだ!
   :「INTOJAPAN」
龍虎図屏風 長谷川等伯  :「Canon 綴TSUZURI」
春季特別展「光悦・等伯ゆかりの寺 本法寺の名宝」:「茶道総合資料館」
  平成26年の特別展  波龍図屏風 長谷川等伯筆 この画像の掲載あり
狩野永徳  :「コトバンク」
狩野山楽  :「コトバンク」
長谷川等伯 :「コトバンク」

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『三人孫市』 中央公論新社
『洛中洛外画狂伝 狩野永徳』 Gakken 

『京都ぎらい』 井上章一 朝日新書

2018-05-09 22:47:23 | レビュー
 『関西人の正体』を先日読んだとき、その中に京都に関連してかなり思い切った考えが記されていて面白く思った。この本を読んでいたとき、『京都ぎらい』という本の出版を新聞広告で見ていたことを思い出した。前著がトリガーとなり、早速読んでみた。2015年9月に出版され、2016年6月には第17刷発行となっているので、結構注目を浴びた本なのだろう。
 本書を読む限り、著書は「京都ぎらい」の「京都」を洛中に代々住む人々という限定で、それらの人々の胸中に持つ他地域への差別意識に対して「きらう」という嫌悪感を表明している。そういう意味での「京都ぎらい」である。「京都市ぎらい」ではない。行政区域としては京都市右京区の嵯峨で生育し、現在は宇治市に住むという人生を過ごしてきた「洛外」の人間としての「洛中」人の物の見方・考え方に対する嫌悪感のストレートな表現である。
 著者は「洛中」「洛外」という言葉を使っているが、その定義は記していない。逆にいえば一般的に豊臣秀吉が京の都に御土居を築いて、洛中の境界を視覚的にも明確にした範囲位をイメージすれば良いのだろう。それ以外の外側は「洛外」である。勿論、洛中洛外は、狩野永徳筆「上杉本洛中洛外図屏風」で使われる言葉として、御土居築造以前から使われていた。応仁の乱を考えるなら、上京・下京中心に「京」が存在した頃から、まあこの地域を「洛中」としたと思うので、秀吉の御土居区域よりもっと絞り込んで「洛中」が使われているのかもしれない。
 著者の話しぶりでいうなら、「洛南」の地に生育し、現在宇治に住む私も同様に「洛外」人である。しかし、著者の体験したような言動を「洛中」の人からストレートに甘受した経験がない。そういうレベルの人間関係の場に投げ込まれたことがないので、体験的なレベルでの共感はない。しかし、言われてみればそれに近い感覚はわかる気がする。

 一方で、若い頃に、「京都はチュウカシソウが強くて嫌いだ」と関東出身の人に言われた経験がある。最初、「チュウカシソウ」が何を言っているかわからず、話の途中で「中華思想」の意味だとわかった。その時のその人のイメージでは、いわば漠然と京都市域全体を含む位の感覚だったように思う。
 この体験を底流にして読み進めていくと、著者のいう「京都ぎらい」は地域間相対差による優越感覚、裏返しての差別感覚というものに連鎖していくもののような感じがした。本書では「洛中」に対して「京都ぎらい」を論じている著者もまた、他地域の人からみれば、洛中・洛外も含めた意味での「京都ぎらい」の対象者の中に投げ込まれていることになるのかもしれない。

 「京都ぎらい」宣言をすることで、ちょっと極端化した表現を交え、心情的な嫌悪感部分を著者はストレートに書いている。だが、いわゆる「洛中」の話ばかりを論じて居るわけではない。「京都ぎらい」を中心に論じているのは5章構成の内の「一 洛外を生きる」が主である。
 それ以外の章は、「京都ぎらい」意識が基盤にあっても、論じていくことは京都地域全体の地理、経済構造、歴史に及ぶ。広域の地元人間による生活体験を踏まえ、一歩踏み込んでズケズケと論じていく京都論だと言える。

 「二 お坊さんと舞子さん」は、主に祇園の花街を例に体験談を踏まえて論じている。祇園は鴨川の東、東山区だから頭から「洛外」の話題。この章のおもしろいのは、祇園で遊ぶいわば生臭坊主について論じていることだろう。まあ、祇園で遊べるお坊さんなんて、京都及び近隣地域の僧侶の一握りにしかすぎないだろう。誰の金で遊んでいる生臭坊主なのかは知らないが・・・・・・。会社で言えばいわば社用族と同じ類いのお坊様クラスだろうか。ここで切り込んでいる視点とその説明の論法がおもしろい。芸者の変遷、芸者と芸子の違いを歴史的視点で説明しているのも興味深い。
 「僧服の僧侶たちが、京都のクラブでは、それだけ自然にうけいれられている。そのいでたちで、おどろかされることはない」(p77)という記述はそうだろうなと思う。都をどりの客席に、舞子さんと一緒に一見で僧服と思える姿で談笑しながら入ってきた人をかつて見た記憶があるくらいだから。

 「三 仏教のある側面」
 ここも「洛中」を論じる枠を離れている。京都で一時期大問題となった寺社への課税問題の顛末が論じられている。当時、その成り行きを部分的に新聞報道で読んでいたので、その経緯の全体像が理解できた点がおもしろかった。当時は曖昧な形で報道がされなくなったような印象が残っていただけだったので。銀閣寺の門前の拝観停止看板の写真が出ている。当時はお寺もやるもんやなあ・・・と興味津々だった記憶が残る。
 信長をはじめ、戦国武将が京の寺院を宿泊先にした事実を、ホテル的な利用側面の視点から論じている点が発想としておもしろい。寺の精進料理が洗練されたのも、庭園が整備されていったのも、武将たちの利用に併せ慰安施設という視点で必然的な運営策だったという読み解き方はうなずける。悟りを開くのが仏道修行の核心とするならば、それが寺の目的ならば、料理も庭も洗練する必然性はないだろうから。
 京都の寺の運営と存在について著者はここでは専門研究分野でない立場での所見・持論を述べている点が興味ふかい。
 また、植物園の敷地がかつて戦後の京都を管理した占領軍の居住区になっていたと言う歴史的事実を本書で初めて知った。北山通あたりの雰囲気が少し違う背景にそんな戦後史が関係していたというのを知るとナルホドと思う。

 「四 歴史のなかから、見えること」
 ここではいくつかの論点を提示している。一つは『関西人の正体』で触れられていたと記憶するが、みのりのない京都=首都論の再論である。ああでもない、こうでもないとひねくり回しているところがおもしろい。他に記されている論点を要約してみる。その説明のしかたがこのエッセイの読ませどころなので、本文を手にとり楽しんでみてほしい。
*京都から見れば明治維新は決して無血革命ではない。江戸の無血開城に惑わされるな。
*京都の大寺院は江戸幕府こそが支え、仕組みを調えた。明治新政府は強権発動で大寺院の経済的基盤を狂わせた。拝観料収入増が寺の運営を楽にした側面はある。寺を支えるのが江戸幕府から拝観客つまり大衆に変わったことになる。
*「大文字焼き」と「五山の送り火」。「大文字焼き」としか言えない歴史事例がある。
*銀座は東京からじゃなく、伏見の銀座がさきがけ。これは前著でも論じていた話。

 「五 平安京の副都心」
 嵯峨が平安京の副都心であり、南朝の拠点となっていた時期が存在したことを、現存する大寺院との関連で改めて考える機会となった。少し視点を変えて、南朝と北朝の関係や天龍寺の存在意義、怨霊思想との関係を考えると、おもしろいものである。
 怨霊思想を明治政府は断ち切った。そして靖国神社を創設した。著者が日本の長い歴史の中での怨霊思想との対比で靖国神社を論じるという、常套をゆさぶる論法がおもしろい。

 「あとがき」で著者は「七は『ひち』である」と体験的断定のエッセイを書いている。著者の分類で言うなら、洛南の地で社会人になるまで育った私自身は、「しち」と「ひち」を言葉(単語)によって自然に身に着けたやりかたで使い分けてきているな・・・・・両方使っていると改めて感じた次第である。

 著者の皮肉たっぷりの論法、言い回しは読んでいて実に楽しい。ひっぱたいて、あとでそっとさすっているような論調の展開がおもしろくもあり、ちょっと嫌味でもある。それ故、常套を揺さぶる著者のエッセイを読んでみたくなるのかもしれない。

 ご一読ありがとうございます。


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本書からの波紋で、いくつかの事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
洛中洛外図屏風(上杉本) :「Canon 綴TSUZURI」
洛中洛外図屏風(舟木本) :「東京国立博物館」
洛中洛外図  :「京都国立博物館」
所蔵地図データベース :「日文研」
  京師地圖:全:中昔 、京大地図 を閲覧できます。 
御土居跡 マップ  :「京都市」
洛中 :ウィキペディア
京都とはどこか ~真正京都人が考える「京都の範囲」 :「カザーナ」
建仁寺 ホームページ
浄土宗西山深草派 総本山誓願寺 ホームページ
旧嵯峨御所 大本山大覚寺 ホームページ
天龍寺 ホームページ
臨済宗相国寺派 (相国寺・金閣寺・銀閣寺) ホームページ
花見小路通 :「京都観光Navi」
五花街の紹介 :「京都をつなぐ無形文化遺産」
五花街紹介  :「おおきに財団」
はなやぎの京の五花街-京都デジタルミュージアム  :「京都府」
  作品(動画)の視聴が日本語、英語でできます。
京都五山送り火  :「京都市観光協会」
五山送り火の起源の謎に挑む :「西陣に住んでます」
後醍醐天皇  :ウィキペディア
南北朝正閨論  :「コトバンク」
南北朝正閏論纂(1)  :「足利尊氏」
瀧川政次郎「南北朝正閏」論,現代の天皇・天皇制は明治以来の創作:「社会科学者の随想」

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こちらの読後印象記も読んでいただけるとうれしいいです。
『関西人の正体』  朝日文庫



『卑弥呼の葬祭 天照暗殺』  高田崇史  新潮社

2018-05-04 14:51:38 | レビュー
 大分県宇佐市と宮崎県高千穂町を舞台として、行方不明になった鳴上漣を探索救出するというストーリーに、この小説のタイトルとなっている「卑弥呼の葬祭」かつ「天照暗殺」という推理・謎解きプロセスが絡んでいく。しかし、後者の推理・謎解きがメインストーリーであり、鳴上漣の行方不明はサブ・ストーリーというのが読後印象である。いわば、古代史謎解きシリーズという感の小説である。

 主な登場人物は、最終段階までは要所要所でチラリと登場するだけで、行方不明となっている鳴上漣。漣の母親で、叔母にあたる鳴上睦子から緊急連絡を受けて、漣の探索に九州の現地を急遽経巡ることになる萬願寺響子。東京ではコンタクトが取れず、宮崎県の高千穂で結果的に出会うことになる桑原崇である。そして、大分県警と宮崎県警の刑事たち及び被害者と犯人が加わる。
 登場人物についてまずそのプロフィールを補足しておこう。
萬願寺響子 大阪生まれ、岡山を経て京都で育つ。市立大学の理学部卒。
  母・卯子の「四柱推命」の結果を信じ、そのスケジュールで動いている。
  現在は、東京の世田谷区等々力渓谷辺のマンションに住み、千代田区・市ヶ谷にある
  医薬品関連出版社「ファーマ・メディカ」に勤める。編集部に在籍。入社3年目。
  響子自身も八面体のサイコロを所持し、「四柱推命」を多少かじっている。
鳴上 漣  大学生で23歳。出入口以外は書物で埋め尽くされた部屋に住む。
  自室で「ヨリトモ」と名づけたオオヤドカリを小学生の時からずっと飼育している。
  古代史を含め日本歴史に詳しい。「将門塚保存会」会員にもなっている。
  大学の春休みを利用し九州に一人旅。目的は卑弥呼、邪馬台国を調べることという。
桑原 崇  東京・目黒区にある漢方薬局「萬治漢方」に勤める薬剤師。独身。
  古代史を含め日本の歴史に詳しい。その分野で漣とは親しい関係にある。
  事件解決に協力し、警視庁や県警などに親しい刑事たちが幾人も居る。
  

 このストーリーは、宮崎県の高千穂で始まった高千穂夜神楽の最中に起こった殺人事件の場面から幕があいていく。26番「戸取り」の手力雄神の舞が終わり、舞手の杉橋が退出する。その舞手はしばらくの休憩後すぐさま面を取り替えて、27番「舞開き」に登場するはずだった。だが舞手が出てくるのが遅いので休憩部屋に声をかけてのぞくと、舞手が殺されていたのである。しかもその首が切り取られて無くなっていたのだ。
 一方、大分県にある宇佐神宮では、境内の御霊水をたたえる3つの井戸から、女性の生首、手首から切断された左右の手が発見された。第一発見者は神宮の近くに住み、御霊水を汲みにやってきた氏子の森山秋子だった。また、凶首塚古墳傍の雑木林の木の枝で首を吊っている男の死体が発見される。さらには、第一発見者の森山秋子もまた殺害されてしまう。そんな事件が発生していた。

 上記した通り、響子は叔母から緊急連絡を受けて、漣が邪馬台国・卑弥呼のことを調べに九州に一人旅で出かけ、行方不明になっていることを知る。まず、響子は漣の部屋で彼の旅行目的と行き先の情報がわかるか調べてみる。パソコンの保存ファイルから、大雑把な旅行の予定に関連するページを見つけたのである。ランダムに記されていた名称と地名がいくつかあり、それぞれに細かいメモ書きが撃ち込まれていた。そこには、宇佐神宮・高千穂神社・天岩戸神社などの名称と、福岡、糸島、安心院(あじむ)等の地名。具体的旅程については立った一行。「3月17日(土)羽田出発。大分空港。803キロ。1時間35分」そして、「宇佐神宮、百体神社、化粧井戸、凶首塚古墳」という名称である。
 響子は桑原のことを思い出し、連絡を取ってみるが、桑原が休みを取っているということでコンタクトができずに終わる。邪馬台国・卑弥呼については殆ど何も知識を持ち合わせていない響子は、漣がパソコンに残していた旅程に関する情報と、急遽入手した邪馬台国関連資料を取りそろえる。そして、大分の宇佐神宮を皮切りに、現地で漣らしき学生に付いての聞き込みをしながら漣の旅程を追跡し、漣の行方を探索する旅に出る。

このストーリーの構想は、響子が漣の立ち寄り先を追跡し、それぞれの史跡スポットを訪ねながら響子自身の第一印象と無知の事項について諸資料の情報を重ね合わせていくプロセスを積み上げて行く。響子は様々な疑問をもちつつも、邪馬台国と卑弥呼、この探訪先にまつわる古代史の状況を分析し整理していき、漣の関心とどのようにつながっているのかを探っていく。響子の疑問が重なって行くプロセスは、読者が邪馬台国や卑弥呼、古代史に関わる情報を蓄積していくプロセスでもある。その経緯こそが古代史の謎の深さに対する興味・関心へと読者を導くことになる。漣がなぜ行方不明、とらわれの身に陥ってしまったか、それに交わる点が徐々に明らかになっていく。

 大分の宇佐神宮から始まった響子の漣探索の旅は、高千穂の天岩戸神社にまで至るが、そこで危難に遭遇する。それを救出するのが、桑原崇である。響子は漣を介して桑原の名前は知っていたが、面識はなかった。桑原は自分自身の関心事の探求で休みをとり、高千穂まで来ていたのだ。「天安河原入口」近くの一軒の店で、互いを知らずに偶然に出会う。
 女性店員と響子のやり取りを聞いていた桑原が、響子の危機を救うことになる。それは行方不明の漣の居場所を特定する手がかりを桑原が県警の刑事に示唆することに繋がっていく。そして語り部の役割を担ってきた響子による一連の情報と響子自身の疑問に対して、桑原の謎解きが展開されていく。卑弥呼と天照大神が結びついていく。本書タイトルの副題にある天照暗殺という事態が背景に食い込まれていたのである。
 
 このストーリーは、邪馬台国九州説を前提にして古代史の謎が解明されていく。それは宇佐神宮とその周辺および宮崎の高千穂への案内ガイドの旅でもある。これらの地へ読者は誘われていく。私にとっては未訪地である。この作品から関心と興味を一層誘発されることになった。

 ご一読ありがとうございます。


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本書に登場する史跡地関連情報その他を少し調べてみた。一覧にしておきたい。
八幡総本社 宇佐神宮 ホームページ
宇佐神宮 大分屈指のパワースポットを満喫するなら? :「たびらい」
百体神社  :「宇佐市観光協会」
化粧井戸  :「宇佐市観光協会」
凶首塚(きょうしゅづか)古墳  :「宇佐市観光協会」
安心院  :「コトバンク」
安心院町 鏝絵通り :「トリップアドバイザー」
史跡・文化財  :「糸島市」
高千穂 夜神楽三十三番  :「高千穂町」
高千穂の神社一覧     :「高千穂町」
高千穂神社  :「高千穂町観光協会」
天岩戸神社  :「高千穂町観光協会」
天岩戸神社 ホームページ  
  境内のご案内 
天安原河原  :「みやざき温故知新ものがたり」
高千穂の神話 :「高千穂町観光協会」
高千穂町と日本神話  :「高千穂町コミュニティセンター」
邪馬台国九州説 :ウィキペディア
邪馬台国は「99・9%」九州にあった  :「iRONNA毎日テーマを議論する」
邪馬台国はどこか?  :「続倭人伝」

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徒然に読んできた作品のうち、このブログを書き始めた以降に印象記をまとめたものです。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。(シリーズ作品の特定の巻だけの印象記も含みます。)
『神の時空 京の天命』  講談社NOVELS
『鬼門の将軍』   新潮社
『軍神の血脈 楠木正成秘伝』  講談社
『神の時空-かみのとき- 五色不動の猛火』  講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 伏見稻荷の轟雷』  講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 嚴島の烈風』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 三輪の山祇』 講談社NOVELS
『神の時空 -かみのとき- 貴船の沢鬼』 講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 倭の水霊』  講談社NOVELS
『神の時空-かみのとき- 鎌倉の地龍』 講談社NOVELS
『七夕の雨闇 -毒草師-』  新潮社
『毒草師 パンドラの鳥籠』 朝日新聞出版
『鬼神伝 [龍の巻] 』 講談社NOVELS
『鬼神伝』 講談社NOVELS
『鬼神伝 鬼の巻』 講談社
『カンナ 出雲の顕在』 講談社NOVELS
『QED 伊勢の曙光』 講談社NOVELS

『玄鳥さりて』 葉室 麟  新潮社

2018-05-02 09:41:49 | レビュー
 著者は、ひとつの和歌を基軸に据えて物語を紡ぎ出していくというスタイルの小説を幾つも創作している。この作品もその系統に入るように思う。
   吾が背子と二人し居れば山高み
   里には月は照らずともよし
 『万葉集』に収録されているこの歌(巻六-1039)がこの小説の基軸となり、ストーリーの底流を形作る。

 この小説を読み初めて知った言葉であるが、タイトルに使われている「玄鳥」とは燕のことである。改めて辞典を引くと「燕の異名」(『広辞苑』)と出ている。
 この小説は九州、蓮乗寺藩内における藩主の有り様と藩内での派閥争いに巻き込まれていく三浦圭吾と樋口六郎兵衛が中心的な登場人物となる。そして「燕」に仮託されていくのが樋口六郎兵衛である。
 ストーリーは、書院番となっている三浦圭吾が、島流しとなっていた樋口六郎兵衛が帰国するということを聞き、回想する場面から始まって行く。なず回想を通じ二人の関係が明らかになる。
 圭吾は少年の頃、城下の林崎夢想流正木道場に通っていた。六郎兵衛は道場では8歳年上の先輩。圭吾の家は150石、20歳を越していた六郎兵衛は30石の軽格故に、本来なら親しくなる関係はない。しかし、道場では精妙随一と言われる六郎兵衛が13歳だった圭吾に声を掛け、圭吾を稽古相手にすることを好んだのである。六郎兵衛が圭吾を好んで稽古相手にすることから、「六郎兵衛の稚児殿じゃ」という噂が立つ。圭吾14歳の夏、城下の道場の年少の門人たちのいがみあいから、大野川で集団決闘することになる。このとき、多田道場の若者が真剣を抜く。そこに六郎兵衛が仲裁に入り、己が工夫した<鬼砕き>という技で、稽古用の長剣で若者たちの剣を折り跳ばしてその場をおさめてしまう。それを契機に、圭吾は六郎兵衛を信奉するようになる。圭吾は道場での稽古に励み、正木道場では六郎兵衛に続き、「正木道場の隼」と称される程の使い手に育っていく。
 大野川河原での決闘沙汰から5年後、圭吾は正木道場の門人たちと月の名所である葛ケ原での月見に出かける。そこにふらりと六郎兵衛が現れる。この機会に圭吾は六郎兵衛がなぜ圭吾を親切に扱ってくれるのかと質問する。それに対して、「わたしは三浦殿を、友だと思っているということです」と六郎兵衛は恥ずかしげに答えたのである。そして、冒頭にご紹介した和歌を不意に詠じ、「聖武朝の官人、高丘河内の和歌でござる。友との宴で詠んだものでしょう。至極、親しいあなたと二人でいるので、高い山が遮って月がこの里を照らさないとしても、かまいはしないという意でしょうか。親しい友と酒を酌み交わして長い夜を語り合う時は月の光も恋しくはない、と詠ったのです」と圭吾に語った。そして、六郎兵衛は、秋に妻を娶ることを圭吾に告げる。
 この月見が思わぬ事件に二人を巻き込んでいく。城下の津島屋に押し込み強盗が入り、銀子を奪い、ひとり娘をかどわかして大野川沿いに逃げたのを役人達が追っていたのである。正木道場の門人たちは探索の力添えをすることになる。そして、六郎兵衛が強盗達に追いつき、ひとり娘を助けるのだが、遅れてその場に加わった圭吾に娘を救ったのは圭吾だということにしてほしいと頼まれる。5年前の事件以降、普請方に務める六郎兵衛は除け者にされているので、富商の娘を助けたとなると、妬み、嫉みの種になることを恐れるからという。だが、これが思わぬ機縁となり、圭吾はこの津島屋の娘を娶ることになる。
 蓮乗寺藩の藩士として、圭吾と六郎兵衛の歩む道は大きく隔たって行くが、幾度かの交わりが重なって行く。その交わりを支えるのは和歌に託された「友」としての思いである。
 圭吾は津島屋のひとり娘・美津を娶り、家老の今村帯刀の派閥に引き入れられ、勘定方に取り立てられる。武士として陽のあたる道を歩み始める。圭吾と美津は琴瑟相和し子供にも恵まれていく。一方、六郎兵衛は同じ普請方の桑島の娘千佳を娶るが、藩士としては陰でひっそり生きる立場となる。武術好きの藩主永野利景の要望で諸国武者修行者との他流試合に引き出され、その相手をする羽目になる。試合に勝つことで不意に注目を浴びるが、逆に六郎兵衛のそのときの発言が藩士の反感を買うことになる。六郎兵衛はさらに千佳が病を患い、その治療の為の金の工面に苦労する。津島屋に借金を断られて、次席家老沼田に頼ったためにその派閥に属さざるを得なくなる。
 圭吾と六右衛門は、両者が剣技に優れることから派閥間の抗争に巻き込まれ、対立する立場で交点ができていく。六郎兵衛は家老今村暗殺への刺客として使われる立場になり、それが後に島流しの刑をうける因となっていく。島から戻った六郎兵衛は労咳を患っていた。圭吾は、一時期、六郎兵衛を自宅に匿う立場にもなる。
 家老の今村が隠退し次席家老だった沼田が主席家老になると、同時に圭吾は勘定奉行という異例の抜擢を受ける。抜擢されたことが逆に、圭吾を危うい立場に立たせることになる。今村の派閥を圭吾が引き継ぐという立場に立たされるのだ。それがまず確執を生み出す因になる。また、勘定奉行として役目をきっちりと果たそうとする圭吾は、知らぬ間に触れては成らぬ問題領域に自ら踏み込んでしまう。それは藩主が絡む問題だった。
 圭吾と六右衛門は再び、剣技で交わらざるを得ない巡り合わせに追い込まれて行く。
 六郎兵衛、病みたりといえども剣技は圭吾を上回る。圭吾自身が六郎兵衛と真剣で立ち合えば勝てるとは思っていない。六郎兵衛は圭吾を常に友として扱う。友を守り抜くという姿勢を崩すことはない。二人がどういう状況に陥っていくのか、このプロセスが、このストーリーの読ませどころといえる。

 六郎兵衛が圭吾を友として扱い、和歌を詠じた。その和歌に絡まる密かな記憶、六郎兵衛が12歳だったときから始まった体験が秘められていたのである。事の発端はここにあった。友を守り抜くという思いが深く貫かれていくストーリーである。
 これは、葉室麟の描き出す心情世界を味わう一冊である。

 奥書を見ると、2016年7月号から2017年3月号の「小説新潮」に連載されたと記されている。2018年1月20日に単行本として発行された。つまり、葉室麟没後の翌月の発刊である。

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