遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『春風伝』 葉室 麟  新潮社

2013-05-30 22:16:14 | レビュー
 高杉晋作は通称で、名は高杉春風(はるかぜ)、字は暢夫(のぶお)だという。だから「春風伝」なのだ。知らなかった。
 高杉晋作の伝記小説だとは知らずに手に取り、冒頭のページでこのことを知った次第。迂闊! ところが著者は本のタイトルとしては、「しゅんぷうでん」と読ませている。

 本書は、晋作が前髪立ちの14歳であった嘉永5年(1852)2月、長門国萩城内の中庭で、時間内に100本の柴矢を作るという仕事をしているシーンから書き始められている。高杉家は長州藩において200石の家柄で、上士階級に属していたようだ。長州藩主毛利敬親に嗣子がなかったために養子となった世子・定広は同年の晋作に親近感を抱き、晋作を信頼していたようである。
 本書を読むと、晋作は幾度も脱藩を繰り返しながらその都度藩に戻り、定広の信認を失うことがない。危急の事ある毎に晋作が呼び出されるという絆の強さ、深さが描き込まれている。脱藩常習者である晋作が、なぜ、危急存亡の折に世子に頼りにされたのか。そこに著者が高杉晋作像を描きたい一つのテーマがあるのではないか。

 本書の始まりのところで、著者はさりげなく晋作と定広の会話を書き込んでいる。
 「若君、梅が今を盛りと咲き誇っております」
 「晋作は梅が好きか」
 「梅は厳しい寒気に負けず花を咲かせ、春の訪れを告げます。さように凛然とした様が好ましく感じられます」
 「そうか。そなたの諱は春風であったな。されば、そなたも梅のように春を呼ぶ風となるか」
 「さようありたいと願うております」

 尊皇攘夷論に雷同せず、日本という国を念頭に開国の道を模索し、尊皇攘夷の動きの中で、馬関における外国連合艦隊の反撃並びに四境戦争という長州藩の苦境のただ中に晋作は投げ込まれる。その厳しい状況の中で、新しい日本の国づくりを呼び込む風となる晋作の行動を象徴して、「しゅんぷうでん」と読ませたのだろう。

 晋作は、労咳、つまり肺結核が直接の原因で、4月14日未明、眠るがごとく逝ったという。享年は満27歳8ヵ月だった。少年から青年へのわずか10有余年を奔馬の如く駆け抜けて行った、とてつもない行動の人だったのだ。
 著者はその行動を詳細に活写していく。晋作の脱藩行為の繰り返しを眺めて行くと、晋作の思想の形成過程とそれを促した人との出会いが見えてくる。

 晋作は行動の人だった。自らの行動を通して、人と出会い、人から学び、己の思想を鍛え上げて行ったようである。晋作の父小忠太は、晋作にその迷妄を払わせる言を語る。「この後、そなたは迷うことがあるかも知れぬ。その時は、選んだ道を断固として進むことだ。おのれの迷いをひとに見せるのは見苦しい。選んだ道が正しいかどうかわからなくとも、意を曲げず進め。さすれば道は必ず開けるだろう。わしが言えるのはそれだけだ」(p78)と。
 晋作に影響を与えた人びととの出会いを本書の展開に即して列挙してみよう。この人びととの出会いが読ませどころの一つだと思う。

☆脱藩の罪に問われていた吉田寅次郎、号して松陰との出会い
 神道無念流の斎藤新太郎と和田の小五郎(桂小五郎)の後を久坂秀三郎(後の玄瑞)とつけていき、吉田松陰の家に行き着く。
 だが、晋作は松陰に対して「随分、軽率なひとだな」という思いを最初に抱いたと著者は描く。その印象がどう変化していくか、それが晋作を知る押さえ所にもなる。定広からこれを見てみよと手渡された「海戦策」が契機のようだ。それは、松陰の献策だった。
 晋作と玄瑞は、安政4年(1857)から松下村塾に通い始める。
 晋作が松陰から学んだキーワードを「草莽崛起」として著者は描いていく。
 一方、斎藤新太郎の後をつけたのは、桂小五郎との関わりの始まりでもあるようだ。
☆嘉永7年、ペルリの黒船再来。遠眼鏡で黒船を眺める佐久間象山との出会い
 定広の命で、松陰を探す晋作が、象山の供の中に松陰を発見して近づく。それが象山を知る機会のようだ。
 定広の命で、象山を長州に招聘し起用すべき人材かどうか、会いに行き判断する立場に置かれる。この時晋作は、象山から西洋列強のアジア侵略から国を守る方策を訊きたかったようだ。しかし、象山の開国論には失望したという。象山は晋作の思想を明確化するための反面教師の役割を果たしたのだ。
☆藩祐筆役の周布政之助との関わりの深まり
 開国の考えを基盤に藩政改革を考える中心人物。藩の観点から積極的に晋作を利用しつつ、またその行動を援護していく。こういう強力な支援者・弁護者がいたからこそ、脱藩を繰り返す晋作の存在が容認されたという側面があるように思う。一筋縄ではいかない修羅場を生き抜くこの人物に晋作は影響を受けている気がする。
☆横井小楠との出会い
 富国強兵の力を蓄えるために交易を行い開国すべきという特異な論法に晋作は引き込まれて行く。松陰の考えに通じるところを見出す。晋作は玄瑞宛てに、「横井はなかなかに英物、有一無二の士と存じ奉り候」(p94)と、書き送ったという。
☆長州藩の重臣、智弁随一と称される長井雅楽。その建議策
 「航海遠略策」に対して、晋作は感心するとともに、その弱点を惜しむ。著者は晋作の思いとして「藩の方針としてだけなら申し分ないが、公武一和のための方策としては空論だ」と記す。
☆馬関の廻船問屋小倉屋こと白石正一郎との関わり
 八雲という女を介して、晋作に近づいてくる人物。開国という一点において、晋作の後援を積極的に推進する。晋作の活動の資金源になったようだ。国学の素養深く、商人ながら尊皇攘夷の志を抱く人物。「商」を基軸にした視点は、晋作に影響を及ぼした人物でもありそうである。

 晋作の外交思想、開国論形成の糧になったのは、彼の上海渡航経験だろう。幕府が上海に幕吏を派遣するという計画に対し長州藩の世子定広が晋作を強引に一行に加えさせるという行動を取ったのだ。この上海渡航による晋作の現地情勢の探索、そして現地で出会う事件での活躍が、本書の読みどころでもある。中国、当時の太平天国の実情と西洋列強の現地での有り様が、晋作に日本という国家を具体的に考えさせる機会になったといえる。
 さらに、この上海渡航で知り合った若者達が、その後の晋作の活躍に大きく関わる人脈となっていく。これらの人びとからも晋作の学びが多かったのではないかと感じる。
 水夫の格好で千歳丸に乗り込んだ薩摩藩士の五代才助、幕吏の従者として乗船した佐賀藩の中牟田倉之助、宿館で同室となった名倉予何人との出会いである。晋作は、太平天国の実態に触れ、ふとしたことから陳汝欽と知り合い、その関連で周美玲の行動に深く関わって行くことになる。そして晋作の行動に彼ら3人も巻き込まれいくのだ。
 特に五代才助はオランダ商館が蒸気船を売りに出している話を晋作に伝えるなど、晋作との関わりが深まっていくことになる。

 本書で関心を惹かれるのは、八雲と呼ばれる巫女とその巫女に同行する少女卯月だ。この二人が、晋作の短い生涯の中で、要所要所に姿を変えて登場してくる。黒子の様な存在でもある。八雲は、馬関の商家の女番頭、卯月は馬関で芸妓となりその呼び名は此の糸、卯月という名をうのにし、姿あるいは名を変えて行き、晋作の前に登場する。晋作との関わりは深まっていく。
 彼女たちの関わり方は著者の想像力が織りなした創作なのだろうか。それとも、この二人に仮託されるた人びとが共に実在したのだろうか、興味が尽きない。ネット検索してみると、下関に愛妾おうのという女性が晋作の晩年には実在していたようだ。

 本書のもう一つのテーマは、尊皇攘夷論が沸騰する中で揺れ動く長州藩の実態と経緯の描出にあるように思う。その長州藩に晋作がどう関与して行ったのかである。
 馬関における攘夷戦としての外国軍艦への砲撃。それに対する列強諸国の報復行動。晋作は呼び出される。対抗の秘策として晋作は奇兵隊を創設する。それが藩内に波及していくという展開。その後、幕府軍と長州藩との間で、四境戦争が引き起こされ、晋作が関わって行かざるを得ない。危急存亡の折りには、晋作が人びとの意識に上り、晋作の発言と行動に注目が集まるというパターンの繰り返しだ。
 四境戦争との絡みの中で、銃器調達を介して晋作と坂本龍馬の交流が出来ていくということを初めて知った。二人の出会いは長崎のグラバーの邸だったということ、そして、晋作が購入し所持していた短銃を、坂本龍馬に晋作が贈ったのだということも。
 福岡藩の月形洗蔵を仲介として、晋作は西郷隆盛とも対面しているようだ。薩摩と長州が関わりを深めていく遠因は、このあたりにあったのかもしれない。著者は、さりげなく対面のシーンを書き込んでいる。

 ステップを踏みながら、高杉晋作という人物像が少しずつクリアーになっていく。

 小説としての読ませどころの山場は、上海における晋作の行動、及び奇兵隊の創設・運用における晋作の行動であり、奇兵隊の働きの描出にある。晋作の人生はまさに波瀾万丈で、機略に富み、柔軟で実におもしろい展開となる。

 晋作の家庭という側面も伝記小説の一つの軸としてごくわずかだが描き込まれている。安政7年(1860)1月18日に、「萩で一番の美人」と評判だった江戸藩邸留守居役・井上平右衛門の娘雅との見合いの後、祝言をあげた。しかし、晋作が物理的に雅の傍に居て過ごした期間はわずかだったようだ。梅之進という息子が生まれているが、親子の対面があったものの、一緒に生活することはほとんどなかったようだ。息子の視点から見た父親像はどうだったのか。著者は語っていない。
 「戦の場を捨てるわけにはいかない。それでは今までしてきたことがすべて無になる。」(p423)それが晋作の立場だったのだろう。
 だが、一方で著者は雅にこう言わせている。「未練と思われるかもしれませんが、わたくしは旦那様に生きて萩へ戻っていただくことを念じております。なんとおっしゃられましても、この願いは捨てられませぬ」(p422)と。
 容態の悪化する晋作を自らの手で看護することもままならぬ物理的状況に置かれていた雅。妻としての雅の思いは悲痛であっただろう。

 晋作の死を看取ったのはうのと望東尼である。望東尼と晋作の会話が実にいい。
 会話の最後に晋作が言う。「ならば戻って参りましょう。春風の吹くころに」

 晋作の妻雅は、大正11年、78歳で亡くなったという。晋作の手紙を懐かしみ、
  文見てもよまれぬ文字はおほけれどなほなつかしき君の面影
という歌を詠んだと記されている。

 晋作は最後に、梅の枝に遊ぶ鶯に賦した詩を残したそうだ。その最後の章句が、
  君が為に鞭を執って生涯を了らん
 「まさに晋作の一生を表した絶唱だった」という一文で、著者はこの伝記小説を閉じる。
 鶯には様々な意味が重ねられているように感じている。

 ご一読ありがとうございます。


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高杉晋作 :ウィキペディア
高杉晋作 :「萩市観光ポータルサイト」
幕末の革命児 高杉晋作 :「吉田松陰.com」
高杉晋作.com 

吉田松陰 :ウィキペディア
吉田松陰 :「吉田松陰.com」
御祭神(吉田松陰先生)について :「松陰神社」

久坂玄瑞 :ウィキペディア
久坂玄瑞 :「吉田松陰.com」

周布政之助 :ウィキペディア

長井雅楽 :ウィキペディア
非運の長州魂、長井雅楽 :「文芸雑技団ハルカトーク」

横井小楠 :ウィキペディア
横井小楠プロフィール :「横井小楠ホームページ」

野村 望東尼 :ウィキペディア

奇兵隊 :ウィキペディア
幕末維新諸隊一覧 :「日本の歴史学講座」


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『無双の花』 文藝春秋
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』  講談社
『花や散るらん』 文藝春秋

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版


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『ふるさとはポイズンの島』島田興生・写真、渡辺幸重・文 旬報社

2013-05-27 11:53:28 | レビュー

 本書の副題は「ビキニ被ばくとロンゲラップの人びと」である。
 日本から南東に太平洋を約4500km進んだところにマーシャル諸島がある。「ビキニ水爆実験」という言葉は歴史事実として知っていた。それは日本のマグロ漁船、第五福竜丸の乗組員が操業中にこの実験による放射性降下物を浴び、乗組員が被曝し、帰国後亡くなったという事実についての局面である。
 悲しいかな、マーシャル諸島に住む人びとが居たということが想念にはなかった。今にして初めて、その事実を本書で知った。

 この写真・文の本は、ロンゲラップ環礁にあるロンゲラップ島の人々、さんご礁の島で平和に暮らしていた人々が、ふるさとの島を”ポイズン(毒=放射能)”に汚染された結果として、自分たちの判断で脱出した事実についての本である。脱出の日、1985年5月20日以降、島田氏は人々に接し写真を撮り続けてきたのだ。2012年という日付で説明される写真まで、様々なシーンが記録されている。人々の姿、表情が撮り続けられている。写真の中には、1999年の日本の科学者による残留放射能調査の時の写真も掲載されている。

 本書の背景事実を箇条書きで抽出してみる。
*アメリカはマーシャル諸島で1946年から67回の原水爆実験を実施した。
*1954年3月1日:水爆ブラボー 広島の原爆の約1000倍の威力を持つものだった
*この日、ロンゲラップ環礁では、胎児4人を含む86人が放射性降下物で被曝した。
 → この実験について3日間、何も知らされずに放置されていた。
   その後島外に避難した。
*3年後の1957年アメリカ政府は島の安全宣言を出した。
 → 人々は帰島したが、それから28年間、数百人が放射能に被ばくし、苦しんでいる。*1985年、人々は自主的な判断で、汚染された島から全員が「脱出」した。
*移住先は無人島のメジャト島:ふるさとの島から南約200キロ(クワジェリン環礁の一部)

 人々は、ふるさとの島から家や学校を解体し、その資材を無人島に持ち込んで、一から生活の基盤を作っていったのだ。メジャト島での暮らしが写真で綴られる。そして、人々の被ばくとの闘いが。
 1990年11月には、「ロンゲラップ再評価計画」の中間報告がなされ、人々の思いはやはりふるさとの島に向かう。1998年からロンゲラップ本島での再建工事が始まっているという。その状況写真も掲載されている。

 帰島への動きはあるが、人々は過去の経験から気持ちは揺れ動いているという。
”「ポイズン(放射能)がこわいからかえりたくない」という気持ちと「安全だというのを信じて帰りたい」という気持ちの間で”(p40)
 「ようやく住み慣れたメジャト島。2010年の時は帰島に反対する意見が70%を占めていた。」(p42)


 2012年時点でロンゲラップ島には、住宅が50戸建設され、アメリカ政府との共同で、人びとが帰島し自立するための仕事作りが試みられているようです。

 「島に帰るかどうか、ロンゲラップ村の人たちの気持ちは複雑です」(p50)。

 つまり、
被ばく、そして強制避難 → 3年後の帰島、二次被ばく → 島からの脱出
 →再建工事の開始と自立環境づくりの試行 → 帰島への想い:揺れ動く気持ち

 「あとがき」の直前には、「ロンゲラップ1次被ばく者全リスト」が実名で掲載されている。

 わずか72ページの写真主体に文で補足した小冊子である。

 本書を読みながら、ポイズンの島が福島の状況と重なって行った。情報が的確に報じられないままに放置され、被ばくが進行した始まりの福島の事実との二重写しである。
 福島原発事故の事実から、被ばくについて知る為にも、はるか彼方のロンゲラップの人びとの被ばくとその後の経緯を、重ねて考えて行くことが重要だという想いだ。
 より深く考えていくうえで、貴重な一冊だと思う。

ご一読ありがとうございます。

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本書と関連する語句をいくつかネット検索した一覧をまとめておきたい。

ロンゲラップ環礁(所在地の地図)
ロンゲラップ島 ビキニ環礁 核実験 :「ただちに、どうなんですかね?」
米、ビキニ環礁の水爆実験被害者に「帰郷」求める :AFP BBNews
  2010年03月06日 14:01 発信地:マジュロ/マーシャル諸島

Rongelap Atoll :From Wikipedia, the free encyclopedia
Nuclear Rongelap Evacuation - Marshall Islands (1985) :「GREENPEACE」

RONGELAP ATOLL LOCAL GOVERNMENT
STATEMENT OF SENIOR JETON ANJAIN ON BEHALF OF THE RONGELAP ATOLL LOCAL GOVERNMENT

第五福竜丸 :ウィキペディア
都立第五福竜丸展示館 公式ホームページ
第五福竜丸 当時のニュースビデオ :YouTube

ビキニ核実験 人体実験 消えぬ疑惑 1998年1月20日(共同通信)
ビキニ水爆被災から50周年 核実験場とされたマーシャル諸島の今
   竹峰誠一郎(早稲田大学大学院博士課程・国際関係学専攻)

ビキニ環礁 :ウィキペディア

キャッスル作戦 :ウィキペディア
Operation Castle :From Wikipedia, the free encyclopedia
Nuclear Test Film - Operation Castle (1954) 
 U.S.AのDepartment of EnergyNuclear Test Film 。実験の公開実記録ビデオ。
ブラボー実験 → Castle Bravo :From Wikipedia, the free encyclopedia 

10.8講演「ビキニと福島原発被災」  :YouTube 掲載日(2011/11/10)


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上記は「核実験関連」ですが、放射能という観点では原発事故とリンクします。

今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
読んでいただけると、うれしいです。

『原発事故の理科・社会』 安斎育郎  新日本出版社
『原発と環境』 安斎育郎  かもがわ出版
『メルトダウン 放射能放出はこうして起こった』 田辺文也 岩波書店
『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』 山秋 真 岩波新書
『ヤクザと原発 福島第一潜入記』 鈴木智彦 文藝春秋
『官邸から見た原発事故の真実』 田坂広志 光文社新書

原発事故及び被曝に関連した著作の読書印象記掲載一覧 (更新1版)


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『滝平二郎 きりえ名作集 朝日新聞日曜版から 冬-春篇』 朝日新聞出版

2013-05-24 09:50:35 | レビュー
 滝平二郎という名前を私は「きりえ」を通じて知った。「きりえの滝平」と思っていた。本の表紙を見て、懐かしくて読み始めたというか、きりえを眺め始めた。
そして、「きりえ泣き笑い」という一文を読んで、もともとは木版画家だったことを知った次第だ。奥書を読むと、1968年、第6回国際版画ビエンナーレ展に招待出品。1970年には絵本『花さき山』(岩崎書店)で、講談社第1回出版文化賞を受賞されているようである。

 しかし、私にはやはり、「きりえ」に初めて接した時の印象がすごく強く、「きりえの滝平」という印象が焼き付いてしまっている。
朝日新聞日曜版に連載が始まったのが1970年(昭和45)9月から。そして1978年12月まで8年4ヵ月の連載となったという。本書は、その冬-春篇として、師走[12月]から皐月[5月」までの作品をセレクトして名作集にまとめられたものである。

 私の印象では黒紙からイメージ(図像)を切りとったその線の鋭さと繊細さ、特徴的な目の表情が印象的なのだが、本書は一部を除いて色刷りのきりえである。黒紙からイメージが切りとられ、色が配されているのだろうか・・・・制作過程のことは記されていないので、推測なのだけれど。

 本書を眺め、読んで、初めて知ったことがいくつかある。
*「きりえの滝平」以前に、「版画家の滝平」「木版画の滝平」だったということ。(上述)
*滝平二郎氏の写真を初めて本書で見たこと。こんな相貌の人だったのか・・・・
*「きりえ」という命名は、朝日新聞学芸部家庭欄の田島梅子記者だということ。 p52
 命名についてはこんな文が「きりえ泣き笑い」に記されている。引用してみよう。
 ”連載をはじめる数日前、学芸部家庭欄の田島記者から電話で「切り紙というとどことなく細工物めくし、剪紙(せんし)というと中国くさい、いっそ<きりえ>としたらどうでしょう」という相談があった。私のほうはきわめていいかげんなもので、どうでもいいみたいな返事をしたのを覚えている。”
*「きりえ」という新ジャンルは、本書の作品連載の日曜版よりも少し早く、1969年(昭和44年)正月にスタートした朝日新聞家庭欄の「週のはじめに」から始まったということ。これが1970年9月の第1週まで連載され、そして、本書の連載になっていくのだ。

 さて、本書を通読し色刷りきりえを眺めて見て、きりえからイメージとしての懐かしさ、郷愁とともにほのぼのとしたぬくもり、暖かさを改めて感じている。
 何故そう感じるのだろう・・・・通覧して感じたのは、きりえの大半がきもの姿の子供を含む登場人物のきもの姿にあり、片田舎の風景が切り取られているからなのだ。
 私自身、相対的にいえば、生まれ・育ちは都会だ。子供のころに、数えるほどしかきものを着た記憶がない。もっぱら洋服での生活だった。それだからこそ、子供のきもの姿に引かれるところがあるのかもしれない。古きよき時代へのリンクの環が子供の着物姿のイメージなのだ。また、お話あるいは写真のイメージだけで、自己の経験のない事象の数々。薪で焚く風呂、村の鍛冶屋、しば刈り・しば運び、渡し船、水車など。そして田舎の風物詩的情景。
 一方、ほんの少しだが経験・見聞のある事象。ゼンマイ式柱時計、たこ揚げ、手押しの井戸ポンプ、獅子舞、旅先での囲炉裏など。
 高度経済成長期を経て、日常生活が急速に高度化し、電化製品に満ちあふれ、交通機関が発達し、高度科学文明が波及していき、便利になった生活。都市化とともに核家族化した生活スタイル・・・・・。その陰で失われて行ったシーンを滝平のきりえ世界に発見するからだろう。

 惹かれるきりえには個人差があるだろう。
 私の惹かれるきりえはたとえば、次のようなものだ。
 #066 障子はり、 #071 雪合戦、 #019 こけし、 #016 獅子舞
 #022 石やきいも、#277 水仙、  #131 青い山脈、#025 水ぬるむ、 
 #036 ねぎぼうず、#232 花に嵐、 #087 水車
 どんなイメージのきりえなのか、本書で確かめてみてほしい。
 賛意を表してもらえるだろうか・・・・・。あなたの惹かれるきりえはどれ?

 本書を眺めていると、二度と戻っては来ない、懐かしさの心情世界にタイムシフトできる。ほっとしたひとときを味わえる。それがいい。
 夏-秋篇が出版されることが楽しみである。

ご一読ありがとうございます。

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ネット検索で、滝平二郎を検索してみた。結果を一覧にしておこう。

滝平二郎 :ウィキペディア

滝平 二郎さんの作品ピックアップ :「Ehon Navi」
滝平二郎 版画ときりえと絵本原画 :「朝日新聞」

「残るはずのない下絵」50点 切り絵作家・滝平二郎宅 :「BOOK asahi.com」

切り絵作家、滝平二郎氏の遺作展 :YouTube
きりえの魅力「滝平二郎遺作展」:「酒田市美術館」
滝平二郎 ~「きりえ」と版画の魅力を紹介 :「函館市地域交流まちづくりセンター」

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『原発事故の理科・社会』 安斎育郎  新日本出版社

2013-05-20 11:40:21 | レビュー
 本書は福島原発事故について、物理的側面から(理科)と歴史・社会経済的側面(社会科)の双方から大変わかりやすく解説した、わずか63ページの薄い本である。だが、内容はすごくエッセンスが凝縮されていると思う。

 第1章は、放射線の健康に対する影響への人々の深い関心に対し、解説している。
 1)福島原発事故は、何をもたらしたか? 2)放射線の影響と防護の基本-2種類の影響 3)どうやって放射線のリスクを減らすか? という3部構成になっている。

 この第1章を読み、私が学んだ要点を、考え方と対処法・対策としてまとめると次のようになる。このまとめに誤解がないかを含めて、詳しくは本書をお読み願いたい。どの辺りの解説かをページ範囲を付記した。
a)考え方
*確定的影響と確率的影響を分けて考えること。  p6-9
  確定的影響:「限界線量(しきい値)」の被ばく限度を超えた被曝
  確率的影響:「限界線量」以下でも、「放射線のがん当たりくじ」の可能性あり。
*放射線ホルミシスは放射線の影響を過少に印象づける使われ方に要注意  p10-11
*高レベル汚染地帯と低レベル汚染地帯は分けて考えること。 p14-15
*食品の放射能汚染をなくすこと  p18-19
*放射線と放射能を区別すること。「一秒一発一ベクレル」  p22-23
*放射線・放射能について3つの誤解がある。
  無害化できる。自然放射線は無害/人口放射線は有害、被災者から二次被ばく
  → 3つの誤解は皆ウソ!               p24
*原子力発電、その原理は核兵器産業との密接なつながりがある。  p28-29
*放射性廃棄物最終処分地は世界どの国にもない=「トイレなきマンション」状態 p28
b)対処法・対策
*外部被ばくに対する安全な環境(その場所に限定で)確保は「削る」と「洗う」。
 表面の土と深部の土の入れ替えは、対策にはならない。    p12-13
*高レベル放射性物質の汚染物は集中管理型処分:丈夫な防護壁での囲い込み p14
*内部被ばくには、リスクの把握のために継続的な「陰膳調査」が重要。 p18-21
*食品の汚染に厳しい監視の目を続けることが大切。放射線関係の専門家集団による善行レベルでの系統的な調査・研究と市民の自主的取り組み  p20-21

 第2章は、原発が導入された歴史的背景とどのような政治や経済の動きがあったのかそのエッセンスを簡潔に説明してくれる。
 本書を読むと、原発開発が猛然と推進されてきた歴史が良く理解できる。それを推進させてしまった責任の一端は、やはり主権者側の無知・無関心にあったとも言える。あるいは、そう誘導させられた情報操作が見抜けない状況にあったと言うべきか。「原発開発の歴史を見直す大切さ」を再認識するのに、わかりやすい導入の章となっている。
 日本政財界の主導者が如何にアメリカの政策に追随してきたかがよく理解できる。
 
 米ソのしれつな核軍備競争のただ中で、「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」が主唱されてきたのだ。この局面でも、米ソの競争があった。
 人類史上最初の実用規模の原子力発電は、ソ連がモスクワ郊外のオブニンスクで、1954年6月27日に運転を成功させたという。イギリスは1956年にコールダーホール型炉の開発に漕ぎ着けた。アメリカは、ウェスティング社が原子力潜水艦用に開発した加圧水型軽水炉(PWR)を原発に仕上げる。一方、GE社がq沸騰水型軽水炉(BWR)を開発する。
 つまり、そこには原発開発技術競争が優先されていたのだ。「原発は、都市に電力を送るために安全性を一歩一歩確かめながら、技術の発展段階を着実に踏まえて十分な時間をかけて開発されるという経過をたどったものではないのです。いきおい、安全性は二の次になりました」(p34)という事実である。

 一方で、原発の開発過程で、アメリカは「ブルックヘブン報告」として知られる原発大事故での影響と損害想定をしていたこと。その研究を踏まえて、「プライス・アンダーソン法」が制定され、国家と電力企業の共同を前提に原発がアメリカで推進されてきていたのだ。「日本の原発はひとりでに54基に増えてきたわけではありません。背景に、原発を推進したアメリカの対日核エネルギー戦略があり、それをスッポリと受け入れた日本政府の対米従属的なエネルギー政策がありました。」(p49)という経緯につながっていく。
このあたりのおおきな歴史的背景が、わずかのページで簡潔に説明されていく。「温故知新」として、必読だろう。
 
 慎重な学者の意見に業を煮やした中曽根氏が補正予算に原子炉築造予算「2億3500万円」の提案をし、当時の保守3党の賛成で慌ただしく成立させる。この額、「ウラン235」からとった数字だというから呆れる。正力松太郎氏が原発導入の旗振りを強力に進め、田中角栄内閣が「電源三法」の整備をしていくという筋書きになる。
 著者は、1973年9月18・19日の日本初の福島市で開催された住民参加型公聴会の中身が、「茶番劇」以外の何物でもなかった事実にも触れている。これは、東京電力福島第二原発1号炉の設置許可をめぐる公聴会である。
 そして、その結果が福島第一原発事故に帰結し、「想定外」のという言い訳が行われたのだ。そこに至るには歴史的社会的流れがあるといえる。
 深刻な原発事故の発生に至るまでに、「構造的な『国民総動員原発開発翼賛体制』とでも呼ぶにふさわしい仕組み」(p50)ができあがってきていた経緯を著者は簡潔に記している。この点を私たちは再認識し、心に銘記しておくべきだろう。そこから、今後のありようを考える必要に迫られている。

 福島第一原発事故が何ら問題解決しない最中、2013年5月4日の朝刊は「原発輸出へ協定 首脳会談 日本・トルコが確認」(朝日新聞)、「トルコと原発建設合意 三菱重工など受注確定へ 首脳会談」(日本経済新聞)と報じている。愕然となる。懲りない人々が蠢いている。「原子力ムラ」の蠢きを警戒しなければならないのではないか。

 本書から外れるが触れておきたい。、正力氏は原発導入推進の立役者の一人だった。正力氏の思想・行動を主軸にしながら、有馬哲夫氏が『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書)で詳しく分析されている。この本も原発事故の「社会」背景を再認識しておく上で欠かせない一書だろう。

 今後のための「社会」的側面について、本書の著者の主張点は明確である。
 最後に、この点を以下引用させていただく。
*日本の原子力開発にまつわる構造的な欠陥が改められないままで、個別の原発が急作りの安全基準を満たしているか否かといった矮小化された判断で「再稼働」の可否を判断すべきではない。  p52
*私たち国民が国の政治や経済のあり方に鋭い関心を振り向け、主権者といわれるにふさわしい主体的な行動をとることが不可欠です。そうでなければ、原発を推進してきた巨大な「原子力ムラ」構造を変えることはできないでしょうし、「脱原発」の将来計画も不明確なまま、場当たり的な「再稼働」の連鎖の果てに「元の黙阿弥」になる危険性を振り払うこともできないでしょう。 p54
*政策推進者たちが主張する「安全性」や「コスト」には操作の余地がある。 p56
  →自分たちに都合のいい情報のつまみ食い、不都合な情報の隠蔽・過少評価、捏造
*事実に誠実に、批判に真摯に、脅威に謙虚に  p57


ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる単語関連でネット検索した結果を一覧にまとめておきたい。

積算線量計  :「原子力防災基礎用語集」
熱ルミネッセンス線量計(TDL)  :「原子力防災基礎用語集」
個人線量計  :「原子力防災基礎用語集」
ガラスバッジ  新語時事用語辞典 :「コトバンク」
 → 個人線量計(ガラスバッジ)測定結果について :「福島市」
 → ガラスバッジ情報隠蔽操作のまとめ記事 :「痛かったニュース(ノ∀`)」  
熱蛍光線量計 :「福島県原子力センター」
ホールボディ・カウンター :ウィキペディア
 →  ホールボディーカウンターによる内部被ばく検査について :「福島市」
 → ホールボディーカウンター~調べてわかった被ばくの現状:「SYNODOS JOURNAL」
   坪倉正治×斗ヶ沢秀俊×早野龍五
   ホールボディーカウンター~調べてわかった被ばくの現状Ⅰ~ :YouTube
    ラジオ福島チャンネル rfcJOWR-TV
   ホールボディーカウンター~調べてわかった被ばくの現状Ⅱ~ :YouTube
    ラジオ福島チャンネル rfcJOWR-TV
バイオアッセイ法 → バイオアッセイ :ウィキペディア
バイオアッセイ(排泄物等分析による体内放射能評価) (09-04-03-13):「ATOMICA」

ブルックヘブン報告 世界大百科事典 :「コトバンク」
 → §3.原発の経済性・安全性 :「科学と技術の諸相」
      「安全性評価」の項で、この報告書について説明されている。

プライス・アンダーソン法 :ウィキペディア
アメリカの原子力法制と政策 井樋三枝子氏 
諸外国の原子力損害賠償制度の概要 (10-06-04-02) :「ATOMICA」

平和のための原子力 :ウィキペディア
→ 第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 :「東京新聞」2012.11.7
  (4)仕組まれた「わな」

核燃料サイクル :ウィキペディア
核燃料サイクルコスト、事故リスクコストの試算について(見解) 原子力委員会
  平成23年11月10日
核燃料サイクルって何? :「さよなら原発神戸ネットワーク」

電源三法 :ウィキペディア
電源三法交付金制度 :「電気事業連合会」
電源三法交付金 地元への懐柔策 :「よくわかる原子力」


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今までに以下の原発事故関連書籍の読後印象を掲載しています。
読んでいただけると、うれしいです。

『原発と環境』 安斎育郎  かもがわ出版
『メルトダウン 放射能放出はこうして起こった』 田辺文也 岩波書店
『原発をつくらせない人びと -祝島から未来へ』 山秋 真 岩波新書
『ヤクザと原発 福島第一潜入記』 鈴木智彦 文藝春秋
『官邸から見た原発事故の真実』 田坂広志 光文社新書

原発事故及び被曝に関連した著作の読書印象記掲載一覧 (更新1版)


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『玉村警部補の災難』 海堂 尊  宝島社

2013-05-12 10:21:17 | レビュー
 桜宮市警の玉村警部補が、東城大学医学部の不定愁訴外来、通称愚痴外来の田口医師を訪れる場面から書き出される。目的は、桜宮署管轄でここ数年に起こった事件のレポートのまとめについて、田口医師にその内容の確認をしてもらうためなのだ。というのは、なぜか、「派手な事件」には田口医師の名前が出てくる、何らかの関わりがあったからであるという。今や警察庁のデジタル・ハウンドドッグ(電子猟犬)と称される加納達也警視正に、加納警視正が桜宮署に出向していた当時に活躍した事件をレポートするためのまとめを指示されたのだ。田口医師からみたら、この仕事そのものが玉村警部補にとっての災難である。同情を禁じ得ない次第なのだ。
 そして、玉村警部補は田口医師に書類を差し出し、田口医師は対応し始める。

 本書は、桜宮署で加納警視正が関与し、玉村警部補が加納警視正に背中を押され、引っ張り回され、こき使われた事件のオムニバスである。それらの事件解決の過程で、業務上とはいえ、玉村警部補がまさに指示命令の災難を受けたお話が副次的に語られていくことになる。軽いタッチのコミカルな語り口を通じて、事件が展開し解決されていく。
 また、海堂ワールドの作品の底流にあるAi(死亡時画像診断)の必要性が頻繁に語られていく。Aiが事件解決に寄与するということになる。一方で、Aiにおいても限界があることにも触れていておもしろい。

 本書は5つの事件(短編)のオムバスになっている。それぞれの事件を簡単に紹介しておこう。

1 東京23区内外殺人事件
 高階病院長の指示を受け、田口医師が病院長の名代として厚生労働省での検討会に参加する出張中に巻き込まれた事件の顛末である。
 1)発生日時 2007年12月20日 深夜近い時間
 2)発生場所 一駅隣は神奈川県という23区ぎりぎりエリアにある小公園
         灯籠町二丁目
 3)被害者・状況 ベンチに死体。男性、年齢およそ40~50。死後硬直、上肢まで。
    体表全般に打撲痕。死因に直結しない。
 4)発見者 田口医師
 5)関係者 白鳥圭輔が東京監察医務院への搬送に立ち会う。
 実は、この事件は序であり、その翌日田口は小公園でもう一つの死体を発見するという巡り合わせになる。その死体が嘱託警察医「田上病院」に搬送され、短時間で死因診断されたことに不審の意を田口が警察官に伝えたことから、ストーリーが思わぬ方向に展開していく。
 嘱託警察医の検案の問題点が浮彫にされている。

2 青空迷宮
 一辺が50mの正方形、高さ3mの白く塗り潰された壁で仕切られ、青空の見える巨大迷路。「迷路最速王者に、お年玉百万円」というサクラテレビの特番撮影現場でのロケが事件現場になる。
 1)発生日時 2007年11月19日 午後1時頃
 2)発生場所 青空迷宮の内部
 3)被害者・状況 利根川一郎 右眼にボウガンの矢が刺さっていた。
 4)発見者 ADの真木裕太。この企画立案者でもある。
   かつて利根川一郎と組んでいた「パッカーマン・バッカス」というお笑い三人組の一人。
 5)関係者 ディレクターの小松、出演者は売れていない芸人二人連れ5組、10人。
   芸人達は青春コスプレ集団として集まる。その中に、「パッカーマン・バッカス」三人組
   当時のもう一人、コンジロウも出演者の一人に入っている。
 迷宮の入口、出口、その他でカメラがモニターしているという一種密室で起こった事件。迷宮内は一人の芸人が早く抜け出るために居るだけという状況設定である。
 加納警視正は事件現場をビデオ撮影し、デジタルデータ化し解析するデジタル・ムービー・アナリシス(DMA)という捜査法を得意とする。今回は、特番として撮影中のビデオ映像がその材料になるという次第。デジタル・ハウンドドッグの異名をいずれ付けられる加納らしく、シャープに犯人を特定する。そして、ある仕掛けをビデオ画像として作り出す。これがまた面白い。人間心理の虚を突いている。

3 4兆7000億分の1の憂鬱
 現場の遺体から検出された血痕のDNA鑑定から容疑者が容易に特定された。DNA情報という確たる物的証拠に潜む巧妙なトリックの謎解き。
 1)発生日時 2009年4月24日(実際は2008年12月中旬頃)
 2)発生場所 桜宮スキー場・山頂積雪監視小屋の扉の前。
 3)被害者・状況 白井加奈、35歳、専業主婦、ダガーナイフで心臓を一突きの刺殺。
    死因は失血死。衣服に血痕が付着していた。
 4)容疑者 DNA情報で一致 馬場利一、31歳、フリーター
 5)関係者 加奈の夫 白井隆幸、53歳、サンザシ薬品常務、同研究所副所長
    妻失踪の捜索願いを提出していた。同時に妻の不倫問題で民事訴訟を提起。
    松原喜一:桜宮スキー場専属インストラクター。加奈の不倫の相手。
 碧翠院桜宮病院跡地に建てられた「桜宮科学捜査研究所(SCL)」が稼働を始めた。世界にも3ヵ所にしか配備されている施設がないという最新鋭のDNAレーザー鑑定機を使い、この血痕が分析鑑定されたのだ。そして、SCL・DNA鑑定データベース・プロジェクト、通称DDPの適用案件第1号として容疑者が特定されたのである。このSCL開所に尽力してきたのが斑鳩広報官である。無声狂犬(サイレント・マッドドッグ)と呼ばれる人物だ。
 容疑者の馬場利一が治験バイトをしていたことで、研究実施に東城大学医学部付属病院が関係していたことがわかり、愚痴外来の田口医師が登場することになる。
 DNA鑑定とは何かの解説を含みながら、データベース化に関わる個人情報の観点や、物的証拠の扱い方の観点など、興味深い視点を盛り込みながら、ストーリーが展開する。
 この事件の過程で、SCLの開所や、田口医師が近日中に創設されるAiセンター長になることが、触れられてくる。これらの新規施設が、今後この海堂ワールドの作品でどのように活用されていくのか、新たな楽しみが出て来た。
 加納警視正のシャープな分析力が読ませどころであるが、玉村警部補がプライベートな側面で、容疑者と意外な接点があったというのがおもしろいなりゆきである。

4 エナメルの証言
 少しひねった事件がテーマである。龍宮組の鯨岡組長を筆頭に、幹部連中が次々に自殺していくという事件である。焼死遺体の検案で歯型も一致し本人と同定される。しかし、この龍宮組は景気がよすぎる新興暴力団として警察庁から目をつけられ始めていたのだ。加納警視正は、鯨岡組長は100%自殺などあり得ないと確信している。そこでこの謎の究明を始めるというもの。この短編の主人公は、第一人称での「ぼく」(栗田)だ。公園のベンチに座って、仕事の合間に、リルケの詩集を読むのが唯一の楽しみという。歯学部での治療実習に対処がうまく出来ず、教官から臨床には向いていないと宣告される。実習単位が取れず、中退が決定する。技工技術はすばらしいので、歯科技工士とかの裏方に転ずることを勧められる。その「ぼく」が師匠としたのが高岡である。だが、高岡とは治療についての考え方が違う。この点が事件のキーになっていく。
 面白いのはこの連続する自殺事件で、Aiが利用されるのだ。しかし、そこには問題点もあった。この点が結果的に今回の着目点にもなる。
 この一連の事件で、「ぼく」の生き方は変わらない。そこがおもしろい。今後、再びどこかで、この「ぼく」が登場してきてほしいという余韻が残る。

 玉村警部補のプライベートの側面が描かれていること、それが事件とも関わっていくことが興味深い。そして、加納警視正が、ちょっぴり玉村警部補のプライベート部分にも間接的、一時的に関わるというエピソードまで書き加えているのが、これまた楽しい。デジタル・ハウンドドッグの面目躍如なのだから。

 最後に、作中人物のこんな発言が印象深いので、引用しておこう。
*DNA型で容疑者を割り出すためには、背景に血液サンプルを基にした膨大なDNA型のデータベースが必要になりmすが、このデータベース構築がもっとも困難なんです。 p155
*4兆7000億人にひとりの一致率で人物同定できても真犯人とは限らない。厄介な時代になったものだ。我々は往々にして科学に頼りすぎ、一番大切なことを見失ってしまう。可能性を徹底的に考えれば、落とし穴にはまらずに済むんだが。  p222
*始まったばかりのトライアルだから実績などあるわけない、と突っぱねたら、今度は有識者による検討会を作れ、と言い出しやがった。有識者なんて連中は、自分の専門しかわからない専門バカか、役所のポチかの二通りしかいないから、今、中途半端にそんなもんを作られたら、警察庁御用達の無能連中がへばりついてきて、手枷足枷になって肝心の部分が進まなくなってしまう。だからその前に症例をできるだけ多く集めておきたいんだ。  p293

ご一読ありがとうございます。

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 本書に関連した語句をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。

不定愁訴症候群 たかはし通信 :「たかはし医院」

監察医 :ウィキペディア
東京都監察医務院 :「東京都福祉保健局」
日本法医学学会「異状死ガイドライン」についての見解 :「日本法医学会」
新法による解剖がいよいよ始まるが・・・  :「法医学者の悩み事」

死後硬直 :ウィキペディア

偏光ガラス → 偏光グラスのすすめ :「タックル研究室」

ボウガン → クロスボウ :ウィキペディア

Aiとは何か Ai情報研究推進室長 海堂 尊 :「オートプシー・イメージング学会」ホームページ
 「Aiのいま」という13回連載記事が載っている。その最初の記事
 ほかの記事はこのページから。

DNA型鑑定 :ウィキペディア
検視の仕事の重要性と歯医者さんの怒り  :「法医学者の悩み事」
身許不明調査 UG情報
 歯牙資料としてデンタルチャート、歯牙写真が掲載されている実例のページ

歯科技工士 :ウィキペディア
歯科技工とは :「公益社団法人日本歯科技工士会」


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今までに、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『ナニワ・モンスター』 新潮社   
『モルフェウスの領域』 角川書店
『極北ラプソディ』  朝日新聞出版


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『いっしん虎徹』 山本兼一  文藝春秋

2013-05-05 10:54:08 | レビュー
 著者が刀剣の分野で出版した小説は今や4作になる。
 このブログを書き始める以前にたまたま手に取った作品から関心の趣くままに読み進めてきた。この作品を現時点の出版物では一番後に読む結果になった。2007年4月の出版であり、今文庫本でも出ている(2009年10月刊)。
 序でに、単行本の出版年次で本書の後のこの分野の作品を列挙してみよう。
 狂い咲き正宗 刀剣商ちょうじ屋光三郎  2008.8刊(講談社文庫 2011.9)
 黄金の太刀  刀剣商ちょうじ屋光三郎   2011.9刊
 おれは清麿               2012.3刊

 さて本書は、越前で腕の良い甲冑鍛冶として知られていた長曽祢興里(ながそねおきさと)が、三十半ばを過ぎてから刀鍛冶となり、将軍家綱に日本一の刀鍛冶と賞賛されるまでに至る物語である。長曽祢興里が、長曽祢興里入道乕徹という銘を刻んだ太刀を残すまでの伝記小説といえる。
 乕徹とは虎徹と同じである。「乕」という字を本書で初めて知った。著者は本書の最終ステージで、寛永寺の僧・圭海にこう言わせている。「虎の俗字だ。なんの含みもない字ゆえ、衒いを嫌うならこちらの乕をつかうがよかろう。『金瓶梅』というてな、明国の艶っぽい物語でこの字をつかっておる。いや、おまえには、縁遠い世界であろうがな」(p428)と。この銘を最初に刻むのが寛文4年8月で、一代三振之内とまで刻んだという。また、「生涯に一振りだけ、茎に三葉葵の紋を刻んだ短刀を残した」(p444)という。
 長曽祢興里入道乕徹も銘が刻まれた最終年紀の太刀は延宝5年(1677)2月のものである。本書末尾を著者はこう記す。
 「虎徹は六十五歳まで生きて、作刀を続けた。
  妻ゆきの死について、古い記録はなにも語らない。」(p444)

 本書は、壮絶な試刀のシーンから始まる。それが興里の夢だったと4ページ目でわかりほっとするのだが、腕の良い甲冑鍛冶から刀鍛冶への転身を決意し、踏み出すところからストーリーが始まる。泰平の世になり鎧兜の注文はない。大飢饉で次ぎ次ぎに4人の子どもを亡くす。「おれは、江戸で刀鍛冶になる。天下の名刀を打つ。もはや、そうするしか生きていく道がない」(p7)と決意させるのだ。
 
 本書には3つの軸があると思う。
 主軸は、勿論、長曽祢興里という甲冑鍛冶が同じ鉄(鋼)とはいえ、全く異質の刀鍛冶の鉄(鋼)を一から学び始め、乕徹という銘を刻む刀鍛冶に大成するまでの苦闘と生き様が描かれていく点にある。
 それに対して、副次的な軸の一つが虎徹の鍛刀に関わっている人々の生き様である。
・病に冒されながらも刀鍛冶になり天下の名刀を打ちたいという興里に添っていき、興里の支えとなる妻女ゆきの生き方。、
・親を殺され、名刀を興里に盗られたと思い込み興里を狙うが、刀鍛冶への道を歩む興里の一番弟子となり、興里と鍛刀の道を歩む正吉の生き方。
・越前の長曽祢一族の中で、江戸で御用鍛冶として一家をなしている興里の叔父・才市の生き方。興里の支援者であり、最後は鍛冶職人としての矜持で選ぶ壮絶な死。
・興里の刀の良さを目利きし、興里の支援者の一人にもなる試刀家・山野加右衛門の生き方。
・興里の刀に惚れこみ、興里を将軍お抱え鍛冶に推挙することを手段として己の野望を密かに抱く寛永寺大僧都圭海の行き方。
 圭海は興里の願により、「一心日躰居士 入道虎徹」という法名を授けた人物でもある。なぜ、興里が法名を願ったのか? そこに至る過程が一つの読みどころにもなる。また、虎徹の鍛刀の進化(深化)に接し、圭海が己の生き方を軌道修正するというのもおもしろいところである。
 副次的なもう一つの軸がある。それは、鉄づくりから鍛刀のプロセスそのものである。著者は世に名刀として伝わる日本刀の生まれる道筋そのものを描きたかったのではないか。そう思うほどに、素材となる鉄の製造から鍛刀、そして刀の仕上げまでの詳細なプロセスを描き挙げていく。本書を読むことで、作刀行程全般の疑似体験ができ、基礎知識をまなぶことができる。この点、私には大変興味深かった。

 本書の題は『いっしん虎徹』である。ひらがなの「いっしん」には様々な意味が重ねられているのではないかと思う。
 一つは法名「一心」であろう。もう一つは、刀鍛冶として天下の名刀を打ちたいという興里の「いっしん」な心意気、生き方だろう。鍛刀の姿勢である。さらには、古刀に価値を置く、あるいは刀のブランド名を尊重する世間の風潮に対し、この四代将軍の泰平の時代において、たとえ今刀鍛冶として無名でも、鍛刀への精神と作刀技倆により、刀への価値概念を「一新」できるという意味も含まれているのではないか。

 本書は長曽祢興里、すなわち虎徹の伝記小説だと記した。
 本書のストーリー展開から、年紀風にその人生の軌跡を要約しておこう。
・慶安2年(1649)1月 越前から出雲の谷に赴く たたらによる製鉄法の修得
  大鉄師・可部屋桜井三郎左衛門直重の知遇を得、村下の辰蔵の下で学ぶ
・出雲を発ち、備中を経由し、一旦近江に向かう(妻女ゆきと合流のため)
・備中路の鞴峠付近で、老爺のたたらによる小規模製鉄を手伝う
・近江から江戸に出る。このとき、病弱な妻女ゆきと弟子正吉の三人旅となる。
・神田銀町の御用鍛冶才市(興里の叔父)を訪ねる。一時期、居候となる。
・神田紺屋町の刀鍛冶和泉守兼重の鍛冶場に住み込み刀鍛冶の修業を開始
  正吉と一緒にここで5年間、鍛刀の技法を学ぶ。何領か作刀する。
・承応3年(1654)9月 上野池之端にじぶんの鍛冶場を構える。
  ここは上野池之端は東叡山寛永寺の門前町の一角
  正吉に加え、新しく2人の弟子を雇う。大槌三挺掛けの体制ができる。
  鍛刀の試行錯誤が始まる。
・試刀家・山野加右衛門を訪ね、試刀を依頼する。
  「この刀は、怒っておる」「鍛えた鉄を殺してしもうた」と批評される。
  加右衛門が康継の刀で切りかかると、興里の刀が切れて飛ぶ。
・下谷三之輪村の永久寺にて、加右衛門により寛永寺大僧都圭海に引き合わされる。
 この時、法名を授けられることを願う。
・妻女ゆきの押さえにより、初めて銘切りをする。「長曽祢興里古鉄入道」
・太刀売町にて、自らが立ち、幡随院の長兵衛に無銘の刀を売る。
  「長曽祢興里」と銘切りした刀を無銘刀との交換に出向いた時は長兵衛の葬儀日
・南蛮鉄での鍛刀で試行錯誤をする。「以南蛮鉄長曽祢興里入道」と銘切り
・額田藩松平頼元(水戸光圀の弟)の江戸屋敷(小石川吹上)の新設鍛冶小屋にて
  屋敷内での鍛刀を行うことになる。弟子とともに住み込む。
・再び、上の池之端の鍛冶場での鍛刀に戻る。
・叔父・才市が捕縛される。訴人があったことによる。
  これには虎徹が間接的に関わっていることになる。このことが虎徹の転機にも。
・寛文4年(1664)重陽の節句 麻布の老中阿部忠秋下屋敷での御前試刀会
  将軍綱吉に日本一の刀鍛冶と賞賛される。 「乕徹入道興里」の銘切り刀
・虎徹65歳で没す

 大変興味深いのは、興里が、その時々の心境により、刀に刻む銘を変えていることである。ここには、興里の信念と精進の自己評価が現れているのだ。著者はその思いを描き込んでいく。

 単行本表紙の裏の見開きに、巻頭の側は、藤代松雄『名刀図鑑』からの引用、巻末側には、虎徹銘の変遷がまとめられている。これも資料として興味深い。

 最後に、本書から印象深い文章を引用させていただこう。

*よい鉄を選び、丹念に鍛える--。ただ、それだけのことなのだ。それだけのことに、この虎徹は命を賭けている。  p235
*髪の毛一本ちがえば、姿がちがうぞ。それを打ち出すのは、お前の手鎚しかない。p282
*ごまかさず、ごまかされず、本当のことを、見極めろ。
 じぶんにそう言い聞かせていた。看板にだまされていはいけない。見たまま、感じたままを信じて手を動かすのだ。  p316
*わたしは、名刀が見たいのではありません。あなたの毎日のすがたが見たいのです。・・・・・・刀は嘘はつきません。  p329
*刀は、人を殺める道具だ。しかし、ただ殺めるだけではない。刀を手にした男は、まず、刀を見つめ、そして考える。刀は、斬る前に、考える道具だ。 p383
*凜とした姿、閑かな鉄、大胆にして繊細な刃文。どれかがわずかに欠けてゆらいでもいかん。そのうえで、気高い品格がなくては、よい刀とはならぬ。  p384
*冴えた強い鉄こそ、おれの志だ。おれそのものだ。それ以外に、刀鍛冶が生きる意味などあるものか。(p405)
*お前の刀には、なによりも一心に鉄を鍛えんとする志が溢れておる。鍛冶として、人として、どこまでも真摯に生きんとする志が凝縮しておる。見上げた鍛冶の心よ。 p415
*ゆらいで、ふるえているんですね。鉄も、光も、池も、蓮も、風も、空も、音も匂いも、わたしの命も、みんなゆらいでふるえているんですね。 p443


ご一読ありがとうございます。

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本書に関連してネット検索した語句を一覧にしておきたい。

虎徹 :ウィキペディア
虎入道  新・日本名刀100選より

脇指 銘同作彫之長曽祢興里虎徹入道 :「文化遺産オンライン」
銘 長曽祢興里入道虎徹 最上作 大業物  財)日本美術刀剣保存協会
刀 銘 長曽祢興里入道乕徹 :「倉敷市」
脇指 長曽祢興里入道乕徹 :「つるぎの屋」
刀 銘:長曽祢興里入道乕徹 :「コレクション情報」
山野加右衛門三胴裁断の虎徹脇差 :「Mr、GL1500のログ」

孫六兼元 :ウィキペディア
備前長船兼光 :ウィキペディア
正宗   :ウィキペディア
堀川国広 :ウィキペディア
越前康継 :ウィキペディア
津田越前守助広 :ウィキペディア
刀工 水心子正秀 :「郷土の偉人」
水心子正秀:ウィキペディア

銘刀 長曽祢虎徹編  るろうに剣心より
 なかなか興味深くておもしろい記述です。シリーズ物になっています。
 
幡随院長兵衛 :ウィキペディア

業物について 山田流試し斬り  :「おさるの日本刀豆知識」

日本刀  友重 二つ胴切落 山野加右衛門永久 :「明倫産業」

たたらとは :「日立金属」
 ここの解説はわかりやすい。解説項目を列挙すると:
 たたらの由来、たたらのしくみ、たたら製鉄の方法、ケラ押し法、村下(むらげ)
 ズク押し法、たたらの生み出す鉄、玉鋼と日本刀 
 最後の項目が 日本刀
  さらに、「たたらの歴史」「ヤスキハガネとたたら」の項目も。
和鋼博物館 鉄の歴史ミュージアム のホームページ  島根県安来市

異説・たたら製鉄と日本刀 :「日本刀考」
日本刀の地鉄   :「日本刀考」
南蛮鉄・洋鉄考  :「日本刀考」

千種 たたらの里 :「たたらの里奥日野Blog」
日野郡のたたら  :「たたらの里 奥日野」

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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

雷神の筒』  集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』   朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』  中央公論社
『弾正の鷹』   祥伝社


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その点、ご寛恕ください。)

『雷神の筒』 山本兼一  集英社

2013-05-02 13:28:26 | レビュー
 織田家鉄炮頭だった橋本一巴の鉄炮狂いの生き様を描いた作品である。
「骨太だが、無骨ではない。洒落者にして無欲恬淡。九年前、初めて鉄炮を手にしたその日から、鉄炮の威力に魅了され、鉄炮のことばかり考えて生きてきた。尾張近国で、鉄炮狂いの一巴を知らぬ侍はまずいない」(p4)と、著者は冒頭に端的に記す。

 本書は、織田鉄炮衆の初陣、天文23年(1554)1月24日の村木砦攻めから始まる。
 「鉄炮の力で天下を平定すれば、それが万人のためになる」という信念で、鉄炮の威力に魅了され、鉄炮使いの名手となり、鉄炮狂いになる一巴である。だが、その一巴の信念も、鉄炮が合戦に大量に投入されていく過程で大きく揺らいでいく。その精神的内面のプロセスが底流にある。
 天下平定のため、人のために生きるという一巴は、「尊厳をもって殺し奉る」それが人を殺める礼節だと考えている人物である。「南無マリア観音」と念じながら、鉄炮の引き金をしぼり、敵兵を殺生していく。ある意味、当時の侍としては特異な精神性を保った人物像が浮彫にされていく。

 本書で信長は一巴を通じて鉄炮の威力を知り、織田軍に鉄炮を導入するメリットと戦略を広げて行く。鉄炮を介した信長と一巴の主従関係、人間関係が一巴の人生、生き様を大きく左右する。鉄炮を使い、天下平定を万民のためにめざすという考えを信長に示唆したのが一巴だとしている点が、面白い。
 信長は一巴が有用である限り、使い尽くす、無益ならば去れ、死ねという姿勢に徹している。その信長に対する一巴の対処・生き様が読ませどころである。

 本書には、他に3つの観点が興味深く、読ませどころとなっていく。
 1つ目は、鉄炮衆の初陣・木村砦の戦から、石山本願寺の戦いで本願寺法主教如が大坂石山を退去するまでの期間における信長の戦いが、鉄炮の観点から描き込まれていく。鉄炮が天下布武のプロセスでどのように使われたかである。
 だが、そのために必要な局面がある。2つ目の観点だ。鉄炮そのものを如何に入手するか。鉄炮に必要な塩硝を如何に獲得するか。鉄炮の入手ルート、鉄炮の製造、新規改良の工夫。そして、弾丸となる鉛の確保あるいはその代替品の確保。火薬・塩硝の確保と継続的入手経路の確立。これらの側面に一巴がいかに関わっていったのか。そこに一巴の生き様が出てくる。
 この鉄炮の有用性を維持するための一巴の苦辛、創意工夫、開拓精神がもう一つの読ませどころといえる。ある意味で、鉄炮の導入・普及は鉄炮史を学ぶことにつながっている。
 3つ目は、一巴の戦に必然的に絡んでくる局面なのだが、雑賀の孫市との出会いだ。堺の武具商人武野紹鷗の屋敷で塩硝一斤(600g)が銀百匁(375g)だと言われ、塩硝が入手できないため、種子島に直接出かける決意をした一巴がその船中で孫市と出会う。海路で海賊に出会うが、孫市が「てつはう 天下一」の旗を掲げ、一巴は「日本一 てつはう」の旗を掲げる。ここに将来の二人の対決が始まるというもの。協力関係、対立関係の両面が描かれていく。本書を締め括るのが、この両者の鉄炮による決闘だ。 

 第2の観点に補足をしておくと、一巴と国友藤兵衛の信頼関係が鉄炮にまつわる生き様の一局面として興味深い。
 第3の観点では、鉄炮に対する一巴と孫市の考え方の違いの描写もおもしろい。鉄炮は道具、それをどう扱うかは、人間次第なのだろう。それはまた、一巴と一巴の息子達の鉄炮の扱い・鉄炮への考え方の違いとしても、描き込まれていく。

 最後に、興味深い、あるいは印象深い箇所の文を引用しておこう。
*(種子島に伝わった鉄炮は:付記)トルコ式の嚕蜜(ルミ)銃が、陸路、あるいは海路でマラッカに伝わり、そこで製造されたとする説が有力だが、ヨーロッパ製の銃がそのまま持ち込まれたという説も否定できない。  p99  
*塩硝に道あり、鉄炮にも道あり。ポルトガル国から、はるばると、ゴア、マラッカ、シャムを通って、日の本までまいりました。生駒の油と灰が、京、堺への道をもつことく、世のすべての産品には道がありゃあす。そのことを種子島への旅でしかと学び申した。 p126
*小鳥が蟲を喰い、鷹が小鳥を貪るように、人は戦って生き、戦って死ぬ。・・・天地のあわいに露の滴のごとくに生まれ落ちた命だ。芋の葉が大きく揺らげばあちこちに転がる。精一杯もがいて、死ぬまで生きていたい。  p205
*さらにいまひとつ、眉に唾をつけねばならぬ伝説がある。
 信長は、三千挺の鉄炮衆を、三列横隊にならべ、前列の者が撃ち終わると、後列に退いて玉を込めさせ、二列目の者が前に出て玉を撃たせたといわれている。しかし、当時の記録のなにを見ても、そんなきじゅつはない。  p313
*信長はちがっている。眼前の城を手に入れてなにがしたいか。明確な欲を語っている。武者たちに、はっきりと志をしめしている。欲を語る言葉が、まわりに渦を巻き起こすのだと、一巴はあらためて感じ入った。  p321


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本書に出てくる語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

石臼&粉体工学  三輪茂雄氏のホームページ
 本書の参考文献に挙げられているもののひとつ。

火縄銃 :ウィキペディア
橋本一巴 :ウィキペディア
片原一色城 :「帝國博物学協会」
橋本道一 :ウィキペディア
浮野の戦い :ウィキペディア
長篠の戦い :ウィキペディア
稲葉山城 ← 岐阜城 :ウィキペディア

王直 :ウィキペディア
王直、六角井戸
倭寇と王直 三宅 享 氏

国友鉄砲の里資料館 ホームページ
国友 :ウィキペディア
国友藤兵衛 ← 国友一貫斎 :ウィキペディア

雑賀衆 と 雑賀孫市 :「雑賀衆武将名鑑」
鈴木孫一 :ウィキペディア

熊野水軍(九鬼水軍) :「Dekoのメモ帖」
  安宅船(鉄甲船)の図が載っています
鉄甲船  :ウィキペディア
関船   :ウィキペディア
関船 ← 軍船 :「日本の船/和船」

ギリシャ火薬 :ウィキペディア

てつはう → 鉄砲 :ウィキペディア


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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『おれは清麿』 祥伝社

『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社

『まりしてん千代姫』 PHP

『信長死すべし』 角川書店

『銀の島』   朝日新聞出版

『役小角絵巻 神変』  中央公論社

『弾正の鷹』   祥伝社


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