2017年12月23日に著者は逝去した。「11月の初旬に病状が悪化し原稿を書くことができなくなるまで、何十冊もの資料を病室に持ち込み執筆を続けていました」(p265)と言う。先日未完に終わった『星と龍』についての読後印象をご紹介した。一方、本書は、月刊文庫『文蔵』(PHP刊)2017年7月号~12月号に連載された小説である。惜しくもこの小説もまた未完のままとなった。
『星と龍』の読後印象記をご紹介した続きに、『曙光を旅する』という紀行文を中核にした書の読後印象記もご紹介している。『曙光を旅する』のご紹介の中で、
”著者は執筆活動を通じて、「日本の近代化とは何だったか」という問いに突き当たるという。そこに歴史小説作家としての問題意識があったようだ。また、「来年(付記:2018)は明治維新から150年。『日本の近代化とは何だったのか』と総括する時期に来ている。」(p205)とも記している。もし、葉室麟が健在だったなら、この『曙光を旅する』で著者が紀行文に記した人々を介して描き出される歴史小説を次々と発表し続けているのではないかと思う。”
という文を書いていた。この『暁天の星』は、まさに著者が「日本の近代化とは何だったのか」という問題意識の一端を取り扱う魁けとなる一冊だった。それが未完に終わったことになる。
『暁天の星』の主人公は陸奥宗光である。陸奥宗光は1892年8月に成立した第2次伊藤博文内閣になって外相に起用され、条約改正を本格的に軌道に乗せていく。この陸奥宗光に焦点をあてながら、幕末に徳川幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を、平等な条約に改めようと奮闘する一群の人々が存在したことを描いて行く。日本を世界に向かって欧米諸国と対等の近代国家であることを認知させていくためには条約改正が必須の課題だった。 この小説は、「明治18年(1885)夏--陸奥宗光はオーストリアのウィーンで法学者、トーレンツ・フォン・シュタインの個人教授を受けていた。陸奥は42歳の男盛り、シュタインはsudeni69歳の高齢だった。・・・・・」という書き出される。このとき伊藤博文の勧めでシュタインの授業を受けたという。陸奥がシュタインとの会話の中で、通訳を介して己の略歴を語るという場面から始まるので、読者にとっては陸奥宗光のプロフィールがまず大凡理解できて、人物像の基盤ができることになる。
歴史の教科書で、陸奥宗光が外相として活躍したことは知ってはいたが、その名前と業績の一端くらいしか知識がなかった。この小説を読み始めて初めて陸奥宗光という人物が少しイメージできるようになった。紀州藩士伊達宗広の第六子として生まれた。名は小次郎だったとか。脱藩志士の仲間入りをし尊攘志士となった。坂本龍馬に誘われて、神戸村で勝海舟が開いた海軍塾に入ったのち、坂本龍馬の海援隊に所属した。明治になって新政府に出仕するが、明治6年(1873)に征韓論で政府が分裂し西郷が下野すると、翌年陸奥は「日本人」という論文を草し、辞任した。「今や薩長の人に非(あ)らざれば、殆ど人間に非らざる者の如し。豈(あに)嘆息すべきの事に非ずや」(p79)というフレースが陸奥のこの意見書「日本人」に由来することを知った次第。明治10年(1877)に西南戦争が起こる。この時土佐立志社の大江卓らの政府転覆計画に連座したとされ陸奥は国事犯として5年の禁獄に処せられたという。私にとっては知らなかった事柄ばかりである。
このストーリーの第一ステージでは、陸奥宗光がどういうバックグラウンドを持つ人物かというプロセスが具体的に描かれて行く。伊達小次郎が陸奥宗光と名乗るようになったエピソードも描き込まれていて興味深い。
陸奥は1年9カ月に及ぶヨーロッパ遊学を終え、明治19年(1886)2月に帰国する。伊藤に勧められて再び官途につき、外務省に入る。不平等条約の改正という戦いの場に身を投げ入れるという選択をする。
明治16年(1883)11月28日に鹿鳴館の開会式が行われている。伊藤が井上馨とともに、鹿鳴館外交を始めていたのだ。それは外国人に日本が対等な条約を結ぶにふさわしい国だと印象づける手段だったと著者は語る。条約改正への一手段だと。外務省入りした陸奥は、鹿鳴館での交際の中に、妻の亮子とともに足を踏み入れていく。亮子はその美貌から一躍「鹿鳴館の華」と称されるようになり、陸奥を手助けする。陸奥にとっては鹿鳴館もまた形を変えた条約改正への戦いの場という認識だった。
第二ステージはこの鹿鳴館時代である。当時の鹿鳴館で何が行われていたのかが具体的に描写されていく。閣僚の夫人たちの行動が描き出されていておもしろい。陸奥の妻亮子も夫の手助けとして花形の一人になっていく。そこに、首相官邸での仮面舞踏会での椿事が描き加えられる。表面的には醜聞に見える話には、実は裏があったという展開も嘘か真か・・・・。政治の世界の思惑が描き込まれている。
明治21年(1888)6月、陸奥は特命全権公使としてアメリカ、ワシントンに赴任していく。アメリカとの間の不平等条約の改正交渉を成し遂げることが目的である。このアメリカ赴任が第三ステージとなる。この時期に、著者は陸奥がアメリカ在住の馬場辰猪に面談を求められて対話した内容にハイライトを当てて行く。それは条約改正への基盤づくりの方向性に対して、陸奥の考えに大きく影響を及ぼしていくものとして描き込まれている。馬場辰猪は実在した人である。二人の対話がすべて事実ベースなのか、そこにフィクションが加えられているか・・・定かではないが、重要な決断に結びつく部分である。War of Independence がキーワードとなっている。
メキシコ公使のマティアス・ロメロに陸奥が引き合わされるという場面も、日本・メキシコ間の条約締結前の裏話として織り込まれていく。
著者はこの時期の陸奥の決断として重要な思いを書き込んで行く。「国際社会で平等の地位を得ようとすれば、非常の手段もやむをえないのではないか。龍馬が抱いた夢は夢として、自分は地に足がついた生き方をしなければならないだろう。それは、血にまみれ、泥にまみれた生き方になるかもしれない。」(p152)この決断を引き出すに至るプロセスが、一つの読ませどころと言えるのかもしれない。
第4ステージがこの後に続く。明治26年(1893)以降にイギリスとの条約改正交渉に踏み込む。後に陸奥外交と称される交渉の始まりである。この交渉は日本にとって日清戦争と表裏一体の関係を持つものとなっていく。明治26年12月に、青木周蔵駐英公使がイギリスのロンドンに着任し、本格的な交渉が始まる。一方、明治27年(1894)春、朝鮮南部の全羅道で東学党の乱が起こり、朝鮮政府は清国に援軍を要請したことを契機に、日本は6月朝鮮への出兵を決定。7月25日朝鮮豊島沖での日清の砲撃戦が始まる。日清戦争の経緯が描かれていく。7月17日の明け方に、イギリスとの条約改正の調印が終わったという電信が陸奥に届く。この戦争ではイギリスが講和斡旋に動く。そして、明治28年3月下旬から、下関での講和会議が始まる。この講和交渉に陸奥が臨む。交渉と言う場での陸奥の新たな戦いが始まりとなる。この小説はここで未完となった。
陸奥の生涯は事実情報を入手することはできるが、著者はこの後陸奥宗光をどのように描こうとしたのか。想像するしかない。
著者は未完の最後のところに、印象深い文章を記している。引用する。
”「わしらはこれから国民の大きな欲望を抱えて奔ることになるぞ」と嘯いた。
陸奥は伊藤の言葉を聞いて眉をひそめた。あるいは、この国の政治家は常に何かに迎合しようとするかもしれない。”という思いを抱く。そして、
「自分は暁に輝く明けの明星として、国家の行く末を照らさねばならない」(p200)
暁天の星という本書のタイトルはこの思いと照応している。
連載の第6回で擱筆された未完の小説ではある。だが、己の生き様を条約改正を始め外交という場での戦いに方向づけた陸奥宗光の生涯における最初の一区切りまでは描きだされたとみることができる。近代化に取り組んだ明治時代前半の姿がここに描き込まれている。もし書き続け、この小説を完結させていたとするなら、どこまでどのように著者は描いたのだろうか・・・・。
本書には『暁天の星』の後に、特別収録として「乙女がゆく」と題した短編小説、並びに文芸評論家・細谷正充氏による解説「葉室麟が陸奥宗光を通して伝えたかったこと」、最後に著者の娘・葉室涼子さんの「刊行に寄せて」の一文が併載されている。
「乙女がゆく」は慶応2年1月に京都の薩摩藩家老屋敷にて、西郷と桂に龍馬も立ち合い、薩長同盟が結ばれる最後のプロセスを描く。桂小五郎が京都の薩摩藩邸に入った後、西郷吉之助との交渉の詰めが停滞する中に、坂本龍馬の姉・乙女が龍馬に頼まれて薩摩藩邸に赴くというおもしろい構想の短編である。フィクションだからこそ描ける場面ということだろうか・・・・・。いくつかの裏話も盛り込み短編に仕立てた著者の視点が興味深い。
細谷氏の解説は、葉室麟の13年間の創作期間における作品群を振り返り、葉室麟の作品の広がりを簡潔に概括している。その中の一部として本書つまり陸奥宗光を通して葉室麟が伝えようとした点について書き加える形になっている。
最後に、印象深い文をいくつか引用しておきたい。
*世間に対する日本人の戦いはまず受け入れるところから始めるしかない、日本の良いところを世界に示すのはその後ではあるまいか。 p84
*参謀本部の作戦の中核となるモルトケの戦略はクラウゼヴィッツやナポレオンに学び、戦争指導をひとりの天才によるのではなく、徹底した組織の戦いにすることだった。p164
*お前さんはひとつの道しかないと思い込み過ぎるようだ。龍馬なら目指すいただきはひとつでも登る道はいくつもあるぜよ、と言うだろうぜ。p180
*国家というものは、国民を不幸にするものであってはならない。最大多数の最大幸福を目指すのだ。それが国家だ。p191
*それにしても、戦争とは人の影と光の部分を浮かび上がらせるものだ、と陸奥は思った。 p198
ご一読ありがとうございます。
本書に関係する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
陸奥宗光 :ウィキペディア
陸奥宗光 :「コトバンク」
陸奥亮子 :ウィキペディア
陸奥宗光関係文書 :「リサーチ・ナビ」
伊藤博文 :ウィキペディア
征韓論 :ウィキペディア
西郷隆盛が唱えた「征韓論」真の目的は何だったか :「iRONNA」
鹿鳴館 :ウィキペディア
[4年で終了] 明治維新の象徴となるはずだった鹿鳴館の末路」:「歴史マガジン」
馬場辰猪 :ウィキペディア
馬場辰猪 :「近代日本の肖像」
[福沢諭吉をめぐる人々] 馬場辰猪 :「三田評論」
青木周蔵 :ウィキペディア
日清戦争(1894~1895年)
日清戦争 :ウィキペディア
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記をリストにまとめています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
葉室麟作品 読後印象記リスト(著作の出版年次順)
2020.2.17 現在 67冊 + 5
『星と龍』の読後印象記をご紹介した続きに、『曙光を旅する』という紀行文を中核にした書の読後印象記もご紹介している。『曙光を旅する』のご紹介の中で、
”著者は執筆活動を通じて、「日本の近代化とは何だったか」という問いに突き当たるという。そこに歴史小説作家としての問題意識があったようだ。また、「来年(付記:2018)は明治維新から150年。『日本の近代化とは何だったのか』と総括する時期に来ている。」(p205)とも記している。もし、葉室麟が健在だったなら、この『曙光を旅する』で著者が紀行文に記した人々を介して描き出される歴史小説を次々と発表し続けているのではないかと思う。”
という文を書いていた。この『暁天の星』は、まさに著者が「日本の近代化とは何だったのか」という問題意識の一端を取り扱う魁けとなる一冊だった。それが未完に終わったことになる。
『暁天の星』の主人公は陸奥宗光である。陸奥宗光は1892年8月に成立した第2次伊藤博文内閣になって外相に起用され、条約改正を本格的に軌道に乗せていく。この陸奥宗光に焦点をあてながら、幕末に徳川幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を、平等な条約に改めようと奮闘する一群の人々が存在したことを描いて行く。日本を世界に向かって欧米諸国と対等の近代国家であることを認知させていくためには条約改正が必須の課題だった。 この小説は、「明治18年(1885)夏--陸奥宗光はオーストリアのウィーンで法学者、トーレンツ・フォン・シュタインの個人教授を受けていた。陸奥は42歳の男盛り、シュタインはsudeni69歳の高齢だった。・・・・・」という書き出される。このとき伊藤博文の勧めでシュタインの授業を受けたという。陸奥がシュタインとの会話の中で、通訳を介して己の略歴を語るという場面から始まるので、読者にとっては陸奥宗光のプロフィールがまず大凡理解できて、人物像の基盤ができることになる。
歴史の教科書で、陸奥宗光が外相として活躍したことは知ってはいたが、その名前と業績の一端くらいしか知識がなかった。この小説を読み始めて初めて陸奥宗光という人物が少しイメージできるようになった。紀州藩士伊達宗広の第六子として生まれた。名は小次郎だったとか。脱藩志士の仲間入りをし尊攘志士となった。坂本龍馬に誘われて、神戸村で勝海舟が開いた海軍塾に入ったのち、坂本龍馬の海援隊に所属した。明治になって新政府に出仕するが、明治6年(1873)に征韓論で政府が分裂し西郷が下野すると、翌年陸奥は「日本人」という論文を草し、辞任した。「今や薩長の人に非(あ)らざれば、殆ど人間に非らざる者の如し。豈(あに)嘆息すべきの事に非ずや」(p79)というフレースが陸奥のこの意見書「日本人」に由来することを知った次第。明治10年(1877)に西南戦争が起こる。この時土佐立志社の大江卓らの政府転覆計画に連座したとされ陸奥は国事犯として5年の禁獄に処せられたという。私にとっては知らなかった事柄ばかりである。
このストーリーの第一ステージでは、陸奥宗光がどういうバックグラウンドを持つ人物かというプロセスが具体的に描かれて行く。伊達小次郎が陸奥宗光と名乗るようになったエピソードも描き込まれていて興味深い。
陸奥は1年9カ月に及ぶヨーロッパ遊学を終え、明治19年(1886)2月に帰国する。伊藤に勧められて再び官途につき、外務省に入る。不平等条約の改正という戦いの場に身を投げ入れるという選択をする。
明治16年(1883)11月28日に鹿鳴館の開会式が行われている。伊藤が井上馨とともに、鹿鳴館外交を始めていたのだ。それは外国人に日本が対等な条約を結ぶにふさわしい国だと印象づける手段だったと著者は語る。条約改正への一手段だと。外務省入りした陸奥は、鹿鳴館での交際の中に、妻の亮子とともに足を踏み入れていく。亮子はその美貌から一躍「鹿鳴館の華」と称されるようになり、陸奥を手助けする。陸奥にとっては鹿鳴館もまた形を変えた条約改正への戦いの場という認識だった。
第二ステージはこの鹿鳴館時代である。当時の鹿鳴館で何が行われていたのかが具体的に描写されていく。閣僚の夫人たちの行動が描き出されていておもしろい。陸奥の妻亮子も夫の手助けとして花形の一人になっていく。そこに、首相官邸での仮面舞踏会での椿事が描き加えられる。表面的には醜聞に見える話には、実は裏があったという展開も嘘か真か・・・・。政治の世界の思惑が描き込まれている。
明治21年(1888)6月、陸奥は特命全権公使としてアメリカ、ワシントンに赴任していく。アメリカとの間の不平等条約の改正交渉を成し遂げることが目的である。このアメリカ赴任が第三ステージとなる。この時期に、著者は陸奥がアメリカ在住の馬場辰猪に面談を求められて対話した内容にハイライトを当てて行く。それは条約改正への基盤づくりの方向性に対して、陸奥の考えに大きく影響を及ぼしていくものとして描き込まれている。馬場辰猪は実在した人である。二人の対話がすべて事実ベースなのか、そこにフィクションが加えられているか・・・定かではないが、重要な決断に結びつく部分である。War of Independence がキーワードとなっている。
メキシコ公使のマティアス・ロメロに陸奥が引き合わされるという場面も、日本・メキシコ間の条約締結前の裏話として織り込まれていく。
著者はこの時期の陸奥の決断として重要な思いを書き込んで行く。「国際社会で平等の地位を得ようとすれば、非常の手段もやむをえないのではないか。龍馬が抱いた夢は夢として、自分は地に足がついた生き方をしなければならないだろう。それは、血にまみれ、泥にまみれた生き方になるかもしれない。」(p152)この決断を引き出すに至るプロセスが、一つの読ませどころと言えるのかもしれない。
第4ステージがこの後に続く。明治26年(1893)以降にイギリスとの条約改正交渉に踏み込む。後に陸奥外交と称される交渉の始まりである。この交渉は日本にとって日清戦争と表裏一体の関係を持つものとなっていく。明治26年12月に、青木周蔵駐英公使がイギリスのロンドンに着任し、本格的な交渉が始まる。一方、明治27年(1894)春、朝鮮南部の全羅道で東学党の乱が起こり、朝鮮政府は清国に援軍を要請したことを契機に、日本は6月朝鮮への出兵を決定。7月25日朝鮮豊島沖での日清の砲撃戦が始まる。日清戦争の経緯が描かれていく。7月17日の明け方に、イギリスとの条約改正の調印が終わったという電信が陸奥に届く。この戦争ではイギリスが講和斡旋に動く。そして、明治28年3月下旬から、下関での講和会議が始まる。この講和交渉に陸奥が臨む。交渉と言う場での陸奥の新たな戦いが始まりとなる。この小説はここで未完となった。
陸奥の生涯は事実情報を入手することはできるが、著者はこの後陸奥宗光をどのように描こうとしたのか。想像するしかない。
著者は未完の最後のところに、印象深い文章を記している。引用する。
”「わしらはこれから国民の大きな欲望を抱えて奔ることになるぞ」と嘯いた。
陸奥は伊藤の言葉を聞いて眉をひそめた。あるいは、この国の政治家は常に何かに迎合しようとするかもしれない。”という思いを抱く。そして、
「自分は暁に輝く明けの明星として、国家の行く末を照らさねばならない」(p200)
暁天の星という本書のタイトルはこの思いと照応している。
連載の第6回で擱筆された未完の小説ではある。だが、己の生き様を条約改正を始め外交という場での戦いに方向づけた陸奥宗光の生涯における最初の一区切りまでは描きだされたとみることができる。近代化に取り組んだ明治時代前半の姿がここに描き込まれている。もし書き続け、この小説を完結させていたとするなら、どこまでどのように著者は描いたのだろうか・・・・。
本書には『暁天の星』の後に、特別収録として「乙女がゆく」と題した短編小説、並びに文芸評論家・細谷正充氏による解説「葉室麟が陸奥宗光を通して伝えたかったこと」、最後に著者の娘・葉室涼子さんの「刊行に寄せて」の一文が併載されている。
「乙女がゆく」は慶応2年1月に京都の薩摩藩家老屋敷にて、西郷と桂に龍馬も立ち合い、薩長同盟が結ばれる最後のプロセスを描く。桂小五郎が京都の薩摩藩邸に入った後、西郷吉之助との交渉の詰めが停滞する中に、坂本龍馬の姉・乙女が龍馬に頼まれて薩摩藩邸に赴くというおもしろい構想の短編である。フィクションだからこそ描ける場面ということだろうか・・・・・。いくつかの裏話も盛り込み短編に仕立てた著者の視点が興味深い。
細谷氏の解説は、葉室麟の13年間の創作期間における作品群を振り返り、葉室麟の作品の広がりを簡潔に概括している。その中の一部として本書つまり陸奥宗光を通して葉室麟が伝えようとした点について書き加える形になっている。
最後に、印象深い文をいくつか引用しておきたい。
*世間に対する日本人の戦いはまず受け入れるところから始めるしかない、日本の良いところを世界に示すのはその後ではあるまいか。 p84
*参謀本部の作戦の中核となるモルトケの戦略はクラウゼヴィッツやナポレオンに学び、戦争指導をひとりの天才によるのではなく、徹底した組織の戦いにすることだった。p164
*お前さんはひとつの道しかないと思い込み過ぎるようだ。龍馬なら目指すいただきはひとつでも登る道はいくつもあるぜよ、と言うだろうぜ。p180
*国家というものは、国民を不幸にするものであってはならない。最大多数の最大幸福を目指すのだ。それが国家だ。p191
*それにしても、戦争とは人の影と光の部分を浮かび上がらせるものだ、と陸奥は思った。 p198
ご一読ありがとうございます。
本書に関係する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
陸奥宗光 :ウィキペディア
陸奥宗光 :「コトバンク」
陸奥亮子 :ウィキペディア
陸奥宗光関係文書 :「リサーチ・ナビ」
伊藤博文 :ウィキペディア
征韓論 :ウィキペディア
西郷隆盛が唱えた「征韓論」真の目的は何だったか :「iRONNA」
鹿鳴館 :ウィキペディア
[4年で終了] 明治維新の象徴となるはずだった鹿鳴館の末路」:「歴史マガジン」
馬場辰猪 :ウィキペディア
馬場辰猪 :「近代日本の肖像」
[福沢諭吉をめぐる人々] 馬場辰猪 :「三田評論」
青木周蔵 :ウィキペディア
日清戦争(1894~1895年)
日清戦争 :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記をリストにまとめています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
葉室麟作品 読後印象記リスト(著作の出版年次順)
2020.2.17 現在 67冊 + 5