遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『フィデル誕生 ポーラースター3』  海堂 尊  文春文庫

2020-11-21 14:54:13 | レビュー
 『フィデル出陣』を手に取って読んでから、この『フィデル誕生』が文庫書き下ろしとして出版されていることを知った。『フィデル出陣』が2020年7月の出版に対し、『フィデル誕生』がポーラースター・シリーズ第3弾として2019年4月に出版されていた。
 『フィデル出陣』は、フィデル・カストロがハバナ大学の入学式の為に颯爽と登場する時点からストーリーが始まる。そこから始まっても、フィデル・カストロの生き様を知るのに支障はない。だが、その生き様を方向づけた根っ子は大学に入学する前の少年時代に培われていた。それがわかると、『フィデル出陣』におけるフィデルの姿にさらに奥行が出てくることになる。それはこの第3弾を併せ読むことでたぶん実感できるだろう。ここには、フィデル・カストロが19歳になる前、大学への進学校であるハバナのベレン学院での生活と行動までのストーリーが描き込まれていく。

 フィデル・カストロの人生は、フィデルの生誕時点から描いてもその実情は十分にはわからない。というのは、ビランで大農園経営者として成功し、ドン・アンヘルと呼ばれるようになったフィデルの父の生き様とその存在、フィデルとの関係が大きく関わっていることによる。
 本書は二部構成になっている。「1部 あるガリシア人の物語」「2部 ゆりかごの中の獅子」である。
 フィデル・カストロを直接扱って行くのは第2部。フィデルの父についての背景が第1部で描かれていく。「あるガリシア人」というのは、フィデルの父、アンヘル・カストロ=アルヒスのことである。アンヘルはスペイン北西部のガリシア地方の小村の小作人の子として生まれた。12歳の誕生日を迎えた後、兵役の義務化のもとで、スペインの陸軍に入隊する。そこで、バスク出身で16歳になったばかりのフィデル・ピノ=サントスと知り合う。それが二人の間での終生の友情のはじまりとなっていく。フィデル・カストロの名前は、ピノ=サントスの名前に由来するという。

 第1部は、アンヘルとピノ=サントスが、スペイン帝国軍の兵員として、1895年5月に
スペイン艦隊の旗艦に乗船させられキューバに送り込まれることから始まって行く。この出発がなければ、フィデル・カストロは存在しない。
 この第1部は少年兵アンヘルを扱うのだが、ストーリーの流れでは、ピノ=サントスの活動が主になっていく。アンヘルはピノ=サントスを信頼し行動を共にしていくという従の立場なのだ。だが、ピノ=サントスは一面でアンヘルを頼りにしているという関係にある。
 この二人、キューバに着くと、ある時点で軍隊から脱走してしまう。そこから二人のキューバでの波乱万丈の人生が始まっていく。面白いのは、キューバへの船旅の途中で英国の観戦武官でウィンと自称する将校と知り合うことにある。本を見ながら甲板のモップかけをしていたアンヘルがハンモックに入っていた軍服姿の青年にぶつかったことが切っ掛けだった。アンヘルは英語がわからないが、ピノ=サントスは英語が使えたことで会話が始まり、関係が生まれる。結果的に、観戦武官ウィンがキューバ上陸後に、スペイン軍隊の状況を見極め、この二人に兵隊でいることに見切りをつけ、無駄死にしないよう助言をする。ウィンは勝ち馬を見極めろと告げて帰国して行く。
 面白いのは、このウィンが、英国のウィンストン・チャーチルだったことである。ウィンの助言は、脱走後におけるピノ=サントスの生き方の原則となっていく。アンヘルはそのピノ=サントスを信頼して付き従っていくという二人三脚が始まる。

 この第1部は、1895年5月から1920年までの時代を描き出す。キューバを基軸にしながらスペインと米国の関係、キューバ国内の政治経済情勢が浮き彫りにされていく。キューバの独立戦争に米国が介入して米西戦争が引き起こされ、米国が戦勝する。そして戦後米国がキューバに居座る形になる。脱走した二人のスペイン人がどのようにして、その渦中で生き残り、キューバのサンチャゴで生き残り、名を知られ財を築いていくかが描かれる。その過程で押さえておくべきことは、1897年に二人がセリオ・バイオスの紹介で、老いた母親と娘の二人暮らしの家に下宿したことである。娘は小学校の教師になったばかりでマリア・アルゴタという。アンヘルはマリアから読み書きの指導を得る機会となり、マリアはアンヘルの人生に大きく関わって行く。つまりアンヘルの正妻になっていく。彼女がフィデル・カストロに大きく影響を及ぼしていくことになる。それはすっと後の物語なのだが。
 ピノ=サントスは弁護士となり、米国のある弁護士事務所と連携して、キューバでの基盤を築き、政治家の道を目指す。アンヘルは米国資本であるユナイテッド・フルーツ社の農園委託責任者に任じられ、己の農地を所有して農業経営の道を目指す。

 この第1部では、1)キューバの政治経済史の概要及びキューバと米国の関係がわかること。2)アンヘルとピノ=サントスの各々人生の前半における波乱万丈の経緯がわかること。3)主にピノ=サントスが何を切っ掛けにしてどういう人間関係を形成して行くかがわかること。4)キューバと米国との関係に繋がることだが、当時のアメリカ諸大統領のプロフィールと彼らのスタンスと行動がわかって興味深い。特に、セオドア・ルーズベルトが大きく関わっていたことが理解できるし、この作品を介してセオドア・ルーズベルトという人物を一歩踏み込んで知る機会となった。
 これがフィデル誕生へのバックグラウンドになる。この背景が前提にあるからこそ、フィデル・カストロという傑物生の位置づけが理解できてくる。

 そこで、第2部である。この文庫本の表紙絵は、フィデルにとって、最初の重要な人生の転機となる場面なのだ。第2部のストーリーを読み初めて、この表紙絵の持つ意味と重要性がわかった。
 第2部は、1930年代、マチャド政権の時代から始まる。アンヘルは大農園経営を軌道に乗せていく。正妻のマリアは娘と息子の教育という名目のもとに、ビランの農村からサンチャゴに転居して住みたいと要求する。そのためにピノ=サントスにドン・アンヘルは仲介の労を頼むことになる。一方、アンヘルは大農園の小作人の娘・リナと関係を結び次々と子を成していた。アンヘルはカトリック教徒であるため、リナの産んだ子供たちは私生児扱いされ、洗礼を受けることすらできなかった。マリアはリナを泥棒ネコと罵り、その子供らを野良ネコと蔑んでいた。アンヘルは女にだらしなくビランの小学校の女教師エウフラシアにも手を出していた。
 フィデルはアンヘルとリナの間で、次男として産まれた。正妻マリアが二人の子供とサンチャゴに居を移す時点で、フィデルは6歳。勿論洗礼を受けてはいない。フィデルの弟が三男ラウルである。『フィデル出陣』では、このラウルがフィデルを敬愛する弟として登場する。
 リナは自分の子供をサンチャゴの学校に行かせたいと言い出す。長女と長男は学校嫌いでビランに居て農園の仕事をする方を希望する。フィデルはある事件を契機にして父アンヘルから疎まれていた。そしてサンチャゴの学校に行くという形で、結果的に遠ざけられることになる。
 
 第1部と対比して、第2部は俄然おもしろくなる。なぜなら、フィデル・カストロ少年の思考と行動に焦点があてられる。そこに時代背景が織り交ぜられていく形になり、キューバの政治経済史的背景描写は少なく抑えめになるからである。
 第2部で描かれるフィデルの少年期というストーリーに現れるキーフレーッズを時系列的にご紹介しておこう。これがどのような状況を意味し、そのように展開していくかが、このストーリーの後半のお楽しみである。読者が引きこまれて行く導入フレーズになることだろう。
 リナの次男として誕生。リナの母親の家に同居。父アンヘルの書斎でフィデルが引き起こす事件。事件を契機にフィデルは口を閉ざす子になる。サンチャゴ市内のハイチ領事宅に預けられる(領事の妻はかつてのビランの小学校教師)。表紙絵の境遇に。<ロコ>団との出会い。エル・カルナバルで代役として雄叫び大会に出場。野良ネコが獅子に覚醒。ギテラス青年との出会い。幼き誘拐魔事件。サンチャゴのラサール小学校入学と寄宿舎生活。遅すぎた受洗。<フロリスト>タケウチ・ケンジとの出会い。図書室での一冊の本(詩人ホセ・マルティの詩)との出会い、フィデル主導による全国統一試験への準備とその結果のエピソード。一斉ハンスト事件を主導。ドロレス中学進学と寄宿舎生活。フランクリン・ルーズベルト大統領に手紙を書く。<シェラ>最高峰トルキノ山登山。バチスタが雇用した軍人教員との対決事件。バネスの姫君ミルタとの出会い。バチスタ将軍への質問。マリアの離婚承諾とアンヘル/リナ一家の記念家族写真。フィデルの洗礼名変更。ハバナのベレン学院進学と寄宿舎生活。アルマンド・ジョレンテ修道士との出会い。アベジャネーダ文学協会への入部試験。バラデロ・ビーチでの大男との出会い。西部高校演説大会にアベジャネーダ雄弁会の代表としてデビュー(⇒フィデル誕生)

 この第2部は、フィデル・カストロの幼少年時代を描くが、その節目節目でフィデルとピノ=サントスが関わりを深めていくプロセスでもある。ピノ=サントスはフィデルに政治家の資質を見出していく。一方で、弁護士・上院議員の立場から、フィデルに助言をしていく。フィデルが視野と思考を広めるプロセスに関わっていくことになる。

 最後に、この小説に記された章句で印象深いものをいくつかご紹介しておこう。
*<リベルタ・オ・ムエルテ> (自由か死か) p344
   ⇒詩人ホセ・マルティの一冊の本との出会い。
    かつて<ロコ>団の首領だったギテラスが口にした言葉
*あなたは正しい。でも世の中、正しいことは嫌われる。それでもあなたは正義を貫いてほしい。だってあなたはそれができる力が与えられた、希有な人なのだから。 p362
   ⇒ラサール小学校を去る教師デボラの言葉
*一瞥で本の頁を写真のように覚えるフィデルにとって、試験でいい点を取るのは簡単なことだった。だから大して努力せず成績は凡庸だった。図書室の蔵書はラサール小の二倍あったが、ほとんどを眺めて覚えたフィデルは、その後は足を運ばなくなった。 p469
   ⇒ハバナ・ベレン学院 教育の殿堂での記述より
    フィデル・カストロは超人的な記憶・検索能力を有していたようである。
*1945年8月13日、ハバナ大学入学の半月前に、フィデルは19歳になった。
 2日後の8月15日、日本が無条件降伏して第二次世界大戦は終結した。その4ヵ月前、連合国を勝利に導いた稀代のカリスマ、フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)は63歳で逝去し、凡人の副大統領トルーマンが大統領に昇格した。 
 やがて世界は冷戦時代を迎え、その渦の中でキューバは、そっしてフィデルの運命は、激動の時代を迎えることになるのであった。  p505
   ⇒この小説の末尾である。『フィデル出陣』にリンクしていく。

 ご一読ありがとうございます。

「遊心逍遙記」として読後印象を掲載し始めた以降に読んだ印象記のリストです。
出版年次の新旧は前後しています。
『ゲバラ漂流 ポーラー・スター』   文藝春秋
『フィデル出陣 ポーラースター』   文藝春秋
『氷獄』  角川書店
『ポーラースター ゲバラ覚醒』  文藝春秋
『スカラムーシュ・ムーン』  新潮社
『アクアマリンの神殿』  角川書店
『ガンコロリン』    新潮社
『カレイドスコープの箱庭』  宝島社
『スリジェセンター 1991』  講談社
『輝天炎上』 角川書店
『螺鈿迷宮』 角川書店
『ケルベロスの肖像』   宝島社
『玉村警部補の災難』   宝島社
『ナニワ・モンスター』 新潮社  
『モルフェウスの領域』 角川書店
『極北ラプソディ』  朝日新聞出版

『椿井文書 -日本最大級の偽文書』 馬部隆弘  中公新書

2020-11-16 12:54:23 | レビュー
 新聞の広告を見たとき、副題の「日本最大級の偽文書」という方がまず目に止まった。そして、タイトルを見ると「椿井文書」となっている。何? コレ?と言うのが第一印象。こんな文書名称は見聞したことがなかった。京都府木津川市にある椿井大塚山古墳を史跡探訪の一環で訪れたことがあり、椿井という地名は記憶にあった。そこで、このタイトルに一層興味を惹かれた次第。

 「はじめに」で、著者は次のように定義づけている。「椿井文書とは、山城国相楽郡椿井村(京都府木津川市)出身の椿井政隆(権之助。1770~1837)が、依頼者の求めに応じて偽作した文書を総称したものである。」と。
 椿井政隆が活動した時代は、天明・寛政の時代から文化・文政期そして天保期初期ということになる。近世人の政隆が作成し、署名してもいる文書類は、「中世の年号が記された文書を近世に写したという体裁をとることが多いため、見た目には新しいが、内容は中世のものだと信じ込まれてしまうようである」と言う。
 本書は、その偽文書の作成手口と仕組みを分析し、実際に椿井文書が中世の歴史本や郷土史の中で史資料として利用されている現実を具体的に指摘している。椿井政隆が、さまざまな既存文書と政隆自身の作成した絵図や文書との間で如何にシステマティックに整合性を図りながら偽文書を捏造しているかについて、著者は実例を提示しつつ論じていく。
 椿井政隆は中世史の一部を塗り替えてしまっている部分があるようだ。近畿の詳細な中世史のレベルにどれほどの悪影響を及ぼしているかは、素人にはわからない。だが、椿井文書を事実の記録として歴史を解釈していけば、さまざまな方面に悪影響を及ぼしうることは想像できる。素人目には実にスリリングである。実証主義で歴史を解釈し論理構成をして日本の中世を理解するという視点に立てば、椿井文書が偽文書であることによって影響を受けている側面はやはり真摯に見直される必要があるだろう。
 そういう意味で本書は、日本中世史という分野(池)に一石を投じた(その内容が歴史一般教養書レベルで公開されて世に警鐘を鳴らした)ことにより、その波紋が今後今まで以上に広がるのではないだろうか。本書に取り上げられた事例がたちまち再論議の課題として浮上することだろう。
 著者は言う。椿井文書は「近畿一円に数百点もの数が分布しているというだけでなく、現代に至っても活用されているという点で他に類をみない存在といえる。」(pⅱ)

 本書の構成と論点、読後印象をご紹介しよう。手に取り読んでみようという動機づけになれば幸いである。

第1章 椿井文書とは何か
 著者は椿井文書の存在に気づいた発端と椿井文書自体を研究対象に加えていくという道を選択した経緯をまず語る。ある意味で歴史学界からは異端児とみられているのかも知れないとふと思う。一読者としては、本書に惹かれるトリガー要因の一つにもなる。
 文献史学における偽文書研究の必要性をわかりやすく説明している。私のような一般読者には、なるほどと思う。実証主義の歴史研究では必須基盤となることだろう。では、なぜ偽文書と気づかずに、文献として椿井文書が利用されてきた側面が現実にあるのか。そのカラクリが後の章で説明されていくことにもなる。
 ここでは椿井文書の概要が実例を挙げて説明されていく。

第2章 どのように作成されたか。
 大阪府枚方市東部の津田山周辺地域とその山頂の津田山城とに絡んで発生していた周辺の村の間での山論(利権論争)を最初の事例に取り上げている。具体的な事例で、椿井政隆がどこに着眼し、どのように関わり、どのように偽文書をシステマティクに作成しているかが例証されていく。わかりやすい。
 椿井文書は「同時代の出来事と重ね合わせながら由緒の筋書を作成する一方で、その筋書が17世紀初頭以降を下ることがない」(p39)という特徴を持つという。史料が限られる中世に照準を合わせているそうだ。偽文書に対する反証がしづらいところを狙っているのだ。史料が多いと矛盾点も出やすくなるのは素人でもわかるので、なぜ中世かが理解できる。
 さらに、椿井文書は神社や史蹟という目に見える形で実在する対象と巧妙に関連づけて文書を創作していて、絵図・系図・文書を体系的に結び合わせそれらを全体として作成している事例が多いようだ。それが具体例で説明されていく。追跡調査的なアプローチの説明がおもしろい。
 周到で緻密な頭脳プレイを実行できた人物というプロフィールが浮かび上がってくる。椿井政隆は絵図を描くのにも十分な技能を持っていた人のようである。多才な人だ。
 「国境を跨いで異なる地域の歴史を融合させることによって、反証しにくい歴史が創作されている」(p68)という荒技も駆使している。具体的事例での説明があり納得度が高まる。著者は「興福寺官務牒疏」が椿井文書とみて間違いないと論じている。これは、「嘉吉元年(1441)段階における興福寺の末寺を列挙したものとされる」(p68)文書だという。

第3章 どのように流布したか
 著者は「椿井家が興福寺の官務家という有力配下の末裔を自負していた」(p71-72)ことと、椿井政隆が「興福寺官務牒疏」という文書を中世文書として集大成したことを指摘する。政隆「自身が着目した地域に興福寺の末寺を配置」(p71)という操作を加えることで地域の歴史の相互関係を築くという視点を取り入れていたという。
 そこから、逆に政隆の偽文書作成範囲も興福寺の勢力圏という大枠で決まってくる。近江国の湖北から大和は勿論、河内国に及んでいる。
 政隆が写しという手法で偽作した絵図がいくつも事例としてあげられ、わかりやすい。 30代の政隆は、近江国膳所藩領での活動が目立つと著者は言う。逆に言えば、膳所藩領での詳細な中世史研究レベルでは影響が及ぶ可能性が高いということになるのだろうか。一方、椿井政隆の初期の仕事(偽文書作成)は湖北に集中していて、政隆は「自身の『分家』という象徴的なポイントを近江北端に定め」たと著者は記す。
 椿井政隆は、写しを作成してそれを売る形をとった。だからそれの元として利用した文書を手許に集積していた。明治時代にその椿井文書一式が質入れされ、第三者によりその文書が販売されたことから、椿井政隆による偽文書創作の実態の膨大さが見えてきたようである。まだまだ解明されていないことが多いそうで一層興味深い。

第4章 受け入れられた思想的背景
 著者は横井政隆の情報源が何かを分析し、政隆の問題関心を明らかにしていくとともに、政隆自身がどういう調査をしその成果を得ているかを分析し論理を展開して行く。
 しかし、椿井政隆が、どこでだれに何を学んだのかは全く不明だという。南朝を正当とする水戸学の成果を利用しているように思われるそうだ。機内近国の地誌情報など膨大な情報を集め、それらと内容が一致し整合する形で偽文書を作成する周到さや知力を持つ人物だったようだ。なぜ、それだけの能力を真っ当な形で活かすという方向を取らなかったのか不思議な気もする。
 著者は「一般に受け入れやすい筋書を創る一方で、見る人が見ればわかる虚偽も含ませるという矛盾した二面性を有するのも椿井文書の特徴といえる」(p129)と言う。そして彼の偽文書創作は趣味と実益を兼ねたものであったが、趣味の方に重きをおいていたのではないかと分析している。
 この章の最後に著者は「三浦蘭阪の『五畿内志』批判」を論じ、「真っ当な批判に対して社会はあまり聞く耳を持たない構図が浮かび上がってくる」(p154)という結論を導き出す。この点、実に興味深い。三浦蘭阪の懸念と葛藤について、本書をお読みいただきたい。

第5章 椿井文書がもたらした影響
 ここも抽象論ではなく具体的な事例で問題点を論じている。「式内咋岡神社をめぐる争い」「南山郷士の士族編入運動」「井手寺の顕彰」「津田城と氷室」「王仁墓の史跡指定」「少菩提寺の絵図」「世継の七夕伝説」が取り上げられている。椿井文書が具体的にどのように関わっているかがわかりやすい。偽文書の影響力を具体的に知る好材料と言える。

第6章 椿井文書に対する研究者の視線
 椿井文書に対する研究者のスタンスが窺えて実に興味深い。椿井文書を偽文書とみない研究者の論点もきっちりと押さえて論じられている。偽文書であるか、ないかを含めて、歴史研究に関わる難しさの一端が感じられる。また、学者・研究者の研究成果を鵜呑みにすることの危うさもあることがよくわかってくる。
 この章の末尾で「偽文書から伝承を抽出することは困難を極めると考えるべきであろう」と著者は結論づけている。

終章 偽史との向き合いかた
 椿井文書がなぜ広く受容されてきたのかについて、上記各章を踏まえて著者の考えの総括をしている。ここの論点を読むために、第1章から第6章の積み上げがあると言える。著者の回答は本書を読む楽しみにしていただこう。

 最後に、著者が古文書の見方として指摘していることで基本的なことを2点ご紹介しておこう。私は博物館などで展示された古文書を見ていても意識すらしなかったことである。それは偽文書判別の基本でもあるようだ。
 「古文書の場合、差出人の署名は日下(にっか:日付の真下)に記すのが常である」(p49)と著者は記す。椿井文書では日下から少しずれたところに政隆の署名がある事例がしばしばみられるという特徴があると言う。そして、「訴えられた際に、戯れで作ったと言い逃れできるように、あえてそのようにしているのであろう」と著者が分析していておもしろい。実益より趣味に重点が置かれていたという上記の説明とも呼応する。
 もう一つは、戦国武将を発給者とする書状が例示されている。その書状には「永正四年十月廿三日 筒井順興 判」とあり、宛名が連名になっているものである。これに対し、著者は「原則として書状の日付は月日のみで、『永正四年』と年代が記されることはないので、偽文書とみてよかろう」(p62)と言う。この点もそうなのかと思った次第。尚、この書状について、著者は宛名の連名にみられる創作・作為性もきっちりと論じているので付記しておく。
 他にも基本的な指摘事項がある。それらについては本書を開いて気づいていただくとよい。
 
 歴史研究において古文書の持つ意味の重要性とその扱い方を学べ、古文書学・文献史学の意義について、椿井政隆創作による偽文書を介して教えてくれる新書である。日本史好きの人には、ある意味で必読書と言えるのではないだろうか。

 ご一読ありがとうございます。

本書からの関心の波紋でネット検索してみて入手した事項を一覧にしておきたい。
『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー :「web 中公新書」
社説・コラム 偽文書が広げた波紋 :「西日本新聞」
椿井文書  :「がらくた置場」
五畿内志 :ウィキペディア
五畿内志 上巻 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
五畿内志 下巻 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
偽書 :ウィキペディア
王仁墓 :「OSAKAINFO 大坂観光局公式サイト」
王仁博士の墓(1) :「大坂再発見!」
大阪府史跡 伝王仁墓 :「邪馬台国大研究」
菩提寺歴史文化資料室 :「しが 県博協」
米原市『歴史ロマン』漂う七夕伝説ルーツの郷(世継・朝妻筑摩) :「近江 母の郷」
京都府綴喜郡井手郷舊地全圖  古地図手書絵図色彩  :「新日本古地図学会」
「井堤郷旧地全図(乙本)」 :「YAHOO!ニュース」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
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その点、ご寛恕ください。)


『ゲバラ漂流 ポーラー・スター』  海堂 尊  文藝春秋

2020-11-05 16:51:02 | レビュー
 2016年10月に『ポーラースター ゲバラ覚醒』を読んだ。その時の読後印象記を拙ブログに載せている。そのときの印象記に、
"医師資格を取得し、ブエノス大の医学部を卒業したエルネストは、ペロン政権が医師の軍役義務化を図ろうとする矢先に、アルゼンチンを離れる決断をする。1952年3月末。
 小説の末尾は「ああ、革命の匂いがする。」つまり、本書タイトルにある「ゲバラ覚醒」という起点でこの小説は終結する。たぶん、ゲバラのその後というストーリーの構想が著者にあるのではないだろうか。"
と書いていた。
 本書は『ゲバラ覚醒』の続きになる。前作で著者は、「ピョートルと一緒だったあの時の旅立ちとは何と違うことだろう。間もなくアルゼンチンは女神を永遠に失ってしまう。そんな祖国に未練はない。小さな背嚢を背負って、革命の足音が鳴り響くボリビア行きの列車に乗り込んだ。」という行動描写で小説の結末を導き出した。そして、この『ゲバラ漂流』は、1952年4月、ゲバラがボリビアの首都ラパスに入り、一週間経った時点から始まる。

 奥書を読むと、この『ゲバラ漂流』は、「オール讀物」2016年9月号~2017年7月号と「別冊文藝春秋」327・328号に連載された後に、加筆・修正されて2017年10月に単行本として刊行されていた。『ゲバラ覚醒』を読み終えた時点で、既に『ゲバラ漂流』の連載が始まっていたということを今になって知った次第。

 それはさておき、なぜこの第二作が『ゲバラ漂流』になるのか?
 革命の匂いに覚醒したゲバラが、己の身をボリビアに置き、ボリビア革命の光と影を見聞し実体験を重ねていくところから始まる。南米と中米の各国内に己の身を投じ、つぶさにその国の主要な人物たちと面談する機会を得る。己の意見を述べ、その国の改革運動に邁進する人々との関わりを深める。その国の政治経済状況をつぶさに体感することを通じて、革命に対する己の考えを深耕していくプロセスが描き込まれていく。つまり、このストーリーは、ボリビア⇒ペルー⇒エクアドル⇒(豪華客船:太平洋上)⇒パナマ⇒コスタリカ⇒ニカラグァ⇒グァテマラへとゲバラが渡り歩いていくプロセスである。革命の匂いを追い求め、かつ革命に対するゲバラの考えについて実体験を介在させて進展・深耕させていくための「漂流」というゲバラの体験学習プロセスなのだ。
 1952年4月を起点とし、1554年8月にゲバラがグァテマラシティを去り、メキシコに向かう時を終点としている。南米と中米の諸国を漂流し、政治思想・革命思想を錬磨形成していく自叙伝風小説になっている。ゲバラの足跡という史実を踏まえながら、著者の想像を織り交ぜてダイナミックにかつ濃密に描いているのだろう。「この作品はフィクションです」と奥書にある。

 ここで描かれる波乱多き2年余のストーリーにゲバラの周辺で濃密な関わりを持つ人々をまずご紹介しておこう。
 一人は国際弁護士と称するロホ。彼はゲバラにつきまとうように現れて、ゲバラの漂流の旅にほぼ同行する。ロホはゲバラを「英雄坊や」と呼ぶ。ゲバラにとっては、南米・中米の各国の政治経済史についての蘊蓄をその国に滞留する前もしくは滞留中に概説してくれる有益な情報提供者となる。胡散臭い面を持つロホを疎んじながらも、学ぶところの多い存在としてゲバラは対応していく。ロホはゲバラにとっても読者にとっても、ある意味で芝居の黒子的役割を果たす。このストーリーの時代背景を理解しやすくするために、1940年代及びそれ以前の中南米の歴史情報を提供してくれる教師役になるのだから。さらに、このゲバラ漂流の旅が終わる直前、つまりグァテマラでロホの正体が大凡明らかになる。
 もう一人は、エクアドルのグァヤキルから乗船した豪華客船<フロータ・ブランカ>(白い貴婦人)の船旅が終わる少し前、大晦日・年越しの仮面舞踏会でゲバラが知り合う<リエブレ>(莵)の仮面をつける女性である。このときゲバラは<アルコン>(鷹)のマスクを選んでいる。リエブレは別れる時、グアテマラに住んでいることと主人がユナイテッド・フルーツ社の総支配人だと名乗る。そのリエブレがグァテマラでは、ゲバラに姉のイルダを引き合わせることになる。イルダはグァテマラの労働党の副党首でアマゾネスともいえる活動家である。ゲバラがリエブレと呼びなれた女性の正体も最後に明らかになる。

 ゲバラのこの2年余の漂流は、中南米の現状を実体験により把握し、その実情に見切りをつけて、真の革命の有り様を求めてさらに旅立つプロセスといえる。今まで私は中南米の古代文化の側面は多少知識をえていたが、中南米の政治経済史の実態には無知だった。中南米の1940~50年代の中南米の実態をイメージしやすくなった。

 最後にこのストーリーの構成と読ませどころを簡略にご紹介しておこう。
 各セクションの最初の見開きには、左ページにそのセクションで核になる人物のイラスト画、国旗や国鳥、一方右ページにはストーリーに関係する地図が掲載されている。

<1 ボリビア革命・光>  1952年4月
 ポトシの鉱山医に応募するという行動からカサス参謀と出会い、ボリビア革命の若きカリスマ、レチン委員長と対面するようになる。ボリビア革命のただ中で、ゲバラはカサス参謀に協力していく。そしてボリビア革命の実態に触れる。

<2 ボリビア革命・影>  1952年10月
 ゲバラはCOB視察団の一員としてボリビアの鉱山の実態を見聞する。錫鉱山国有化の調印式に出席する。式典では政権内部の不協和音を実感する。そしてゲバラは感じる。去るべき時だと。
 ゲバラはボリビアと地続きのペルーに、ヒッチハイクでチチカカ湖からラパス入りを計画する。この時点でロホが再び同行すると近づいてくる。ロホはゲバラの行くべき先はグァテマラだと示唆する。ゲバラとロホの奇妙な二人三脚の旅が始まる。
 
<3 ペルー有情>     1952年11月
 トラックに便乗の旅は、ペルーの国土を見聞する過程であり、ロホによるペルーの政治史語りの場にもなる。そして、戒厳令下の独裁政権国家において、コロンビア大使館に亡命し、そのまま幽閉状態にあるアプラ党のビクトル・ラウル・アヤ=デラトーレ党首に会いに行く。その前にロホはアヤの略歴をゲバラにレクチャーする。これは読者にとっても当時の南米とペルーの状況を知る有益な情報になる。

<4 エル・コンドル・パッサ(コンドルはとんでいく)>  1945年8月
 ゲバラとロホはアヤ・デラトーレと面談する。アヤの政治思想と行動を直に聞く機会となる。その結果、「アヤ=デラトーレは貴族だ。彼は革命を身を以て具現化した。だが彼は革命家ではない。それが、ぼくがアヤ=デラトーレに惹かれなかった理由だった」(p173)とゲバラは判断した。その後、ゲバラはアンデス越えで一人、旧友とボランティア活動をしたサンパブロ療養所に向かう。だが、途中で気が変わることに。

<5 白い貴婦人>  1953年1月
 エクアドルのグァヤキルで1ヵ月近く足踏みした後、豪華客船<フロータ・ビアンカ>(白い貴婦人)に乗船しパナマに行くことに。ロホがグァヤキルのゲバラの下宿先に再び現れ、ゲバラがユナイテッド・フルーツ社の豪華客船のオープンチケットを2枚持っていることを思い出させたのだ。この船旅は、ロホによるパナマ地域史の事前レクチャー期間になるとともに、この後リエブレと仮称する女性との出会いが始まる。ゲバラとの間に一種のロマンスが生まれ、その後の重要な関係を築く契機となる。
 パナマの入国管理室で、ゲバラが豪華客船のチケットの入手先を告げた途端に、彼の行き先が決まる。軍用ジープの迎えがあり、米国学校に直行させられる羽目に。

<6 パナマ米国学校>   1953年3月
 ゲバラはパナマにある米国学校に投げ込まれる羽目になる。米国流の強烈な軍事訓練とともにパナマ史や地政学などの講義を受講することに。その期間は全寮制で給料支給だった。ゲバラにとってはアメリカ視点での考え方、反共教育を体験する機会となる。この学校の目的は一種のCIA工作員養成所である。だが、ここで独自の考えと信念を持つトリホス教官との出会いがある。この学校の描写が興味深い。
 ロホはうまく言い逃れて初日に学校とは縁を切り、何処かへ去る。なぜ、逃げ出せたのか?

<7 永世中立国・コスタリカ>  1953年5月
 パナマ西端からチリキ鉄道で、ゲバラはコスタリカに入国する。生まれて初めて中米に足を踏み入れたのだ。そして、そこにロホが再び現れる。ロホは早速、中米の鉄道王、マイナー・クーパー=ケイスについてゲバラに講義する。さらに、ロホは、ゲバラを大統領夫人になる予定のドーニャ・カレンに引き合わせる仲介者となる。
 ドーニャ・カレンを仲介として、ゲバラは<レヒオン・デ・カリベ>(カリブ軍団)の頭脳、<カリブ賢人会>の一員である二人の重要な人物と面識を得る。一人は、ベネズエラの民主行動党(AD)のロムロ・ペタンクール、もう一人はドミニカ共和国のファン・ボッシュ。この二人はアヤ党首がゲバラに会うべき人物として推薦された人々でもあった。

<8 ドーニャ・サロン>   1953年8月
 ゲバラはコスタリカ元首夫人ドーニャ・カレンのサロンに出入りするようになり、そこからコスタリカの政治経済状況や永世中立国になった経緯を学ぶ。このサロンで、ゲバラはペタンクールやボッシュの考えをより深く知るようになる。また、そこはさまざまな人々との交流の機会だった。コスタリカ共産党の創始者マヌエル・モラ=バルベルデ党首にも紹介される。そこからゲバラは中米と米国の関係をより深く知ることができた。
 さらに、ゲバラは自分が武装革命を起こした暁には、軍隊を廃止したコスタリカから、コスタリカ軍の武器を提供してもらうという約束をドーニャ・カレンに取り付けたのだ。この経緯もおもしろい。

<9 ニカラグァの悪鬼>   1953年9月
 コスタリカを後にして、ゲバラはニカラグァ、ホンジュラス、エルサルバドルという独裁者の国を、見聞しながら駆け抜ける。ニカラグァでゲバラは悪徳警官にサファリ時計に目を付けられそれを取り上げられるという顛末譚が語られ、一方それが詩人になる抱負を抱くリゴルト・ロペス=ペレスとの出会いとなり、ニカラグァの実情を知る機会になる。続いてホンジュラスとエルサルバドルの状況の観察が簡略に描写されていく。

<10 グァテマラの春>   1953年11月
 ゲバラは将来の希望をいくつも持っていたそうだ。吟遊詩人、武装革命家、ハンセン病の治療医など。それに加えて、考古学志望者でもあったと著者は描く。グァテマラは古代マヤ文明の地でもあった。ゲバラは楽しみにしてグァテマラに入る。
 ゲバラが入国した時点では、グァテマラの春と呼ばれる民主主義の治世が行われ平和な状況だった。ゲバラは市民病院のパルデス副院長と知り合い、夜間当直医という立場を得る。無給だが住む場所と食事の確保を約束される。ゲバラは昼間は観光地での観光記念写真業に励む。そのゲバラの前に、豪華客船が出会いの場となったリエブレが現れる。
 リエブレは、ゲバラに姉を紹介する。リエブレの姉は、グァテマラ・アブラの副党首であるイルダ・ガデア=アコスタだった。イルダを介して、労働党のファン・パブロ=チャン、通称チノとも知り合う。それはゲバラが労働党とアブラ党の活動を手伝うという切っ掛けになる。

<11 ハリケーン前夜>  1954年2月
 イルダたちの活動を手伝うことで、ゲバラは前大統領ファン・アレバロ=ペルメホと出会う機会を得る。それはアレバロの政治思想を知る機会となり、現アルベンス大統領の体制及びその問題点を知る契機にもなっていく。また、ロホはアレバロの考えを引き出す役回りも果たす。そこから今まで民主的に築かれてきたグァテマラの政治経済の体制が脅かされる前夜の予兆が見え始める。アルベンス大統領の反米意識の表明は米国の反撃・介入という脅威に繋がって行く。ロホはグァテマラに見切りとつけ米国に逃げると言う。
 サンホセ・ピヌラという小村にオロスコ神父が創設した「子どもの要塞」と称され、道を踏み外した子どもたちのための更正施設がある。そんな状況下であるが、ゲバラはイベラと共に週末になると「子どもの要塞」に訪問する行動を始めて行く。
 
<12 グアテマラ1954>  1954年6月
 アルベンス大統領の体制が崩壊していくプロセスが描かれて行く。そこに米国がどのように関わっているかが描き込まれていく。
 ゲバラがイルダやチノに協力した努力が霧消する。民主主義が破壊された現場を目撃することになる。一方、ロホやリエブレの正体を知ることに。
 
 ゲバラにとって、南米および中米での漂流は、現実をまざまざと知り、挫折に終わる体験の場となった。だが、それは次のステージへの踏み石になったのだろう。読者にとっては、このストーリーを通じて、南米及び中米の歴史、及び米国との関係史を学ぶという副産物を得ることができる。南米・中南米との距離感が少し縮まるのではないだろうか。

 ご一読ありがとうございます。

「遊心逍遙記」として読後印象を掲載し始めた以降に読んだ印象記のリストです。
出版年次の新旧は前後しています。
『フィデル出陣 ポーラースター』   文藝春秋
『氷獄』  角川書店
『ポーラースター ゲバラ覚醒』  文藝春秋
『スカラムーシュ・ムーン』  新潮社
『アクアマリンの神殿』  角川書店
『ガンコロリン』    新潮社
『カレイドスコープの箱庭』  宝島社
『スリジェセンター 1991』  講談社
『輝天炎上』 角川書店
『螺鈿迷宮』 角川書店
『ケルベロスの肖像』   宝島社
『玉村警部補の災難』   宝島社
『ナニワ・モンスター』 新潮社  
『モルフェウスの領域』 角川書店
『極北ラプソディ』  朝日新聞出版