鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

「神武東征」の真実②

2020-06-19 17:40:51 | 古日向の謎
前回①では南九州にあった「投馬(つま)国」が神武東征の主体であったとした。今回はその投馬国の位置が南九州であったことを『魏志倭人伝』の行程記事から確認する。

  A. 投馬国の位置

 ⅰ.帯方郡から邪馬台国までの行程

魏志倭人伝は正確には中国の史書『三国志』の中の「魏書」に記載されている「烏丸・鮮卑・東夷伝」の「東夷伝倭人(条)」であるが、通例に従って「魏志倭人伝」とし、ここではもっと省略した表現である「倭人伝」を使う。

さて倭人伝によると、朝鮮半島の南部には「韓」があり、その最南部の「狗邪(くや)韓国」から朝鮮海峡と対馬海峡・玄界灘を渡った九州島に倭人の国があるとしている。

以下に朝鮮半島の魏の直轄地「帯方郡」から「邪馬台国」に至るまでの行程記事を一覧する。行程記事とは区間の方角と距離を記したものである。各国の戸数も記入しておく。

帯方郡治 方角 水行陸行 区間距離 延べ距離   戸数
狗邪韓国 南東 水行   7000里  7000里 ――
対馬国  南  水行   1000里  8000里 1000戸
一大国  南  水行   1000里  9000里 3000戸
末盧国  南  水行   1000里  10000里 4000戸
伊都国  東南 陸行   500里  10500里 1000戸
奴国   東南 陸行   100里  10600里 2万戸
不彌国  東  陸行   100里  10700里 1000戸
投馬国  南  水行   20日・・・・①   5万戸
邪馬台国 南  水行10日・陸行1月・・・②  7万戸
※女王連盟国が21か国ある。最南部に第二奴国がある。 
※郡より女王国まで12000里・・・・・・③
※狗奴国:邪馬台国連盟国最南端の第二奴国のさらに南④

行程記事はこれですべてだが、倭人伝は他に「女王国(邪馬台国)の東、渡海(水行)1000里にはまだ倭人の国々がある」と伝えている。・・・⑤
さらに、「倭人の地を訪ねてみると、海沿いに小島があったり半島があったり複雑な地形だが、船で周旋する(ぐるっと回ってみる)と、5000里ばかりである」とも記している。・・・⑥

帯方郡の海岸から「沿岸航法」により、陸地と並行しながら漕ぎ進めて行くわけだが、まずおなじ朝鮮半島内の狗邪韓国までは、はじめ南下し、その後朝鮮海峡を東へ行って到達する。その距離は7000里だという。

次に朝鮮海峡を南に渡り、1000里で対馬国へ、さらに今度は対馬海峡を南へ1000里で一大国(壱岐国)へ、そしてまた南へ玄界灘を渡り、1000里で末盧国(唐津市)に到達する。

ここまでで帯方郡から末盧国(唐津市)まで10000里であることになる。

ここで首を傾げなければいけないのが、狗邪韓国~対馬国、対馬国~壱岐国、壱岐国~末盧国、それぞれの区間距離をすべて1000里としていることである。

当時はもちろん海図はないわけだし、海の上の距離を測る技術もなかったのに、そもそも陸上の距離標記である「里」を使うこと自体おかしいが、船頭ならこれら三者間の距離の違いは経験上かなり違うことは分かるはずだ。

それを三区間すべて同じ1000里としたのはどういうことだろうか。狗邪韓国は今日の金海市であるから対馬までは80キロほど、対馬から壱岐までは60キロ、壱岐から唐津までは40キロ足らずと、これらを一律に1000里とするには違いがありすぎる。

そこで視点を変える。余りにも違い過ぎる海上の二地点間を同じ1000里という距離表記にしたのは実は「所要日数」が同じだということではないか。

それは何日か。一日であろう。なぜなら各海峡を渡るのに途中で休泊するわけにはいかないからだ。一日で渡り切らなければ特に早いので有名な朝鮮海峡や対馬海峡の海流に押し流されてしまう。

そう考えるとこの三区間に要する航海日数は3日。さかのぼって帯方郡から狗邪韓国までは同じく7000里を航海日数に換算すると7日。合計10日が帯方郡から末盧国までの所要日数ということになる。

 ⅱ.末盧国から「伊都国」まで

末盧国までの距離が10000里、そして所要日数が10日と判明したが、これと上の行程一覧の②と③から、次のことが導き出せる。

まず帯方郡から邪馬台国までの距離を示した③によると、その距離表記は12000里とある。これから末盧国(唐津市)までの10000里を引くと2000里。したがって末盧国から2000里という距離表記のところに邪馬台国があることになる。

ここまでで距離表記的には帯方郡から末盧国までの10000里に対して、末盧国から邪馬台国までの距離表記は2000里であるからその比は5:1となり、邪馬台国畿内説は完全に無理と分かる。

さらに②によると、邪馬台国までの所要日数表記では「南へ水行10日と陸行1か月」であったが、この「南へ水行10日と陸行1か月」を投馬国の次に書かれていることから「投馬国から南へ水行して10日、さらに陸行して1か月」と考える向きが多いが、これは誤りである。

先の行程一覧表の中で投馬国の記事は①のように「南へ水行20日」であったが、仮に記載の順番通り「南へ」を「不彌国の南へ」だとしても、九州島の北部にある不彌国から水行20日だと距離表記的には20000里となり、帯方郡から末盧国間10000里の2倍であるから、鹿児島の南はるか南海上奄美諸島あたりに位置してしまうことになる。

さらに邪馬台国が、その投馬国の南へ水行10日して陸行1か月の場所となると沖縄本島がそれに該当するだろうが、上陸して1か月も陸行して到達するほどの広さはない。

ではどう考えたらよいのか。それには①と②を「帯方郡から南へ」としたらよいのである。

まず投馬国であるが「不彌国から南へ」ではなく、「帯方郡から南へ」と考えれば無理なく解釈できる。それまでの区間距離を「里」という長さの単位ではなく、日数単位にしてあることからも類推は出来よう。

すなわち投馬国は帯方郡の南へ水行20日のところにあったのである。水行20日はどれほどの距離かは、帯方郡から末盧国(唐津市)までの距離表記が10000里であったことから求められる。2倍である。帯方郡から末盧国へ10000里、そしてさらにそこから南へ10000里のところが投馬国ということになる。

末盧国から東回りでも西回りでも10000里(10日)の先にあるのは南九州である。したがって投馬国は南九州にあったとしてよい。戸数が5万戸もある、当時としては超大国の部類だが、今日の鹿児島県と宮崎県を併せた領域なら5万戸も可能だろう。

さて邪馬台国だが、先に「末盧国から邪馬台国まで距離表記では2000里で、帯方郡から末盧国までの距離表記10000里(水行10日)の五分の一しかないから、畿内説は全く成り立たない」ことに加えて、末盧国からは陸行(1か月)するしかない場所にあったことが分かる。

その陸行2000里だが、まず末盧国から東南に500里で「伊都国」に到達する。

この伊都国を糸島半島部の旧前原町(現・糸島市)に比定する考え方がほとんどであるが、糸島市なら何も末盧国(唐津市)で上陸して歩かずとも、壱岐から直接船で着けるはずであるうえ、唐津市から糸島市への方角は東北であり東南ではない。

糸島が絶対に伊都国だと考える向きは、倭人伝でこの東北が東南と記してあることから、「実は倭人伝の東南は東北なんだ。だから倭人伝の南は東の誤りだ。だから南を東に読み替えなければならない」と、強引に解釈して「邪馬台国は畿内にある」としている。

それなら帯方郡から狗邪韓国まではどうなるのか。帯方郡から東南だから、その考えによると東南は東北であるが、帯方郡から東北に倭人の国があるのだろうか。また狗邪韓国から南へ対馬や壱岐唐津があるのだが、この南も東に変えるとなると邪馬台国は日本海の海中に消えるほかない。

倭人伝の記載を勝手に変えてはならないとは多くの邪馬台国論争では言われているが、この「南=東」説はその最たるものである。

そもそも伊都国が糸島市なのであろうか? 

先に述べたように伊都国が糸島市であるのなら末盧国に上陸した後500里も歩いて行かずに、壱岐から直接水行すればよい。

加えて糸島は仲哀天皇紀でも筑前風土記(逸文)でも、そこは「五十迹手(いそとて)」という豪族の本拠地で、仲哀天皇が新羅征伐のために九州北部に駐屯した際に天皇にまめまめしく仕えたというので「いそしき国」なる命名を賜ったとある。

つまり糸島市は古来「イソの国」だったのである。今日でも郷社の「高磯姫神社」が「イソ」の名を今日に伝えているではないか。

したがって末盧国(唐津市)から「東南陸行500里」にあるという「伊都国」は糸島にはないのである。「東南」を「東北」に変えなければそれは当然だろう。

では伊都国はどこにあるのか。それは唐津市を流れる松浦川沿いに東南へ500里行った所である。

私は伊都国を「イツの国」と読むのだが、候補地としては佐賀県厳木町で、読み方は「きゆらぎまち」だ。

ここは継体天皇時代に百済救援のために出陣した将軍「大伴狭手彦」と恋仲になった「松浦佐用姫」の故郷でもあるが、「厳木」は「いつき」とも読めるので「伊都(いつ)の城(き)」という解釈が施せる。

ここまでで末盧国から邪馬台国までの「陸行2000里」の4分の1となる。のこり4分の3で邪馬台国に到達する。

(「神武東征」の真実② おわり)
     




抗体率の不思議

2020-06-18 13:44:30 | 日記
一昨日、東京・大阪・宮城の住人から無作為に選んだ8000人の新型コロナウイルスに対する抗体の有無を調べたら、東京が0.1パーセント、大阪0.17パーセント、宮城が0.03パーセントしかいなかったそうである。

私は目を疑った。宮城はもともと感染者が少ないのでこんなものかと思ったが、東京の0.1パーセント、大阪の0.17パーセントには非常に驚いた。あまりに低いからだ。

特に東京などは非常事態宣言発令中でもずうっと通勤電車は動いていたし、通常に近い勤め人も多かったのに0.1パーセントということは、総人口が930万くらいだから感染して抗体ができた人は計算上は9300人ほどになる。

これまで感染して入院した人は5600人くらいなので、差し引き4700人くらいの人は感染しても症状に現れないうちに抗体ができてしまったのだろう。そう考えるほかはない。

ただ問題は症状に現れないからといってウイルスには感染しているわけだから、この人たちは気付かないうちに濃厚接触者にウイルスをうつしているはずで、うつされた人の中にはうつした本人よりも免疫力が低いために発症した場合も多かったと思われる。

無症状感染者で家族持ちの場合、家庭内で濃厚接触するであろう配偶者や子供、父母、祖父母などのうち、まず症状化するのは高齢の祖父母であろうが、子供はやはり免疫力が高いので、そのまま無症状でいるうちに抗体ができるのだろう。


ニューヨークや欧米などでは抗体率が20パーセントとか10パーセントと高いのだが、自分は東京あたりも欧米並みに10パーセントくらいは感染しているのではないかと思っていた。

それがこの超低率である。一体その差は何なのか?

東京では99.9パーセントの人がウイルスを寄せ付けなかったことになるが、そんなことは可能だろうか。

どんなに三密や人との接触を避けていても、すべての人が医療用の防護服でも着て暮らしていない限りは無理だろう。99.9パーセントがウイルスフリーだったとはそういう状況である。

日本人の感染者が少ないのは世界的に見て奇観だそうであるが、アジア地区は押しなべてそういう傾向にある。

ベトナムや台湾は17年前に流行した同じ中国発のウイルス(serz)の時の教訓を今回徹底的に生かして、感染者・死者ともに極小に押さえるのに成功した。

その点は買うにしても1月23日の武漢封鎖までに中国本土人の行き来は相当にあったはずで、それを勘案すると、やはりアジア人には何らかのウイルス感染を抑える抗体のような物が備わっていたと考えたほうが良い。

その「抗体のような物」とは、新型コロナウイルスが体に入った時に生まれる新型コロナウイルス専用の抗体とは別の何かだろうか。

その別の、以前から大抵の日本人の体に備わっている抗体(集団免疫)が、今度の新型ウイルスが体に入るや否や即やっつけてしまう(無力化する)ので、新型ウイルス専用の抗体を作らずに済んだのかもしれない。

BCG接種を常に行っている国は感染率が低いと言われている。しかしBCGは結核菌に対する抗体作りのための処置だから、新型コロナとは直接結びつけられないだろう。

いま盛んに「ファクターX」という言葉で、日本人の感染率の低さの原因を探る動きがあるが、それはそれで是非とも解明して欲しいが、それより、これだけ感染率が低く抗体を持っている人が少ないと、次の第2波がやって来た時に感染者がぐっと増えはしないかと心配である。





「神武東征」の真実①

2020-06-16 09:18:18 | 古日向の謎
  神武東征は「投馬国の東遷」

『日本書紀』が完成し朝廷に献上されたのは養老4年(720年)の5月、大隅国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)がハヤトによって殺害されたのが同年の1月か2月、そしてその「隼人の叛乱」を受けて朝廷から大伴旅人を大将軍とする「征隼人軍」が派遣されたのは3月4日であった。

ハヤトが叛乱によって「朝敵」になってから日本書紀の完成まで約2か月、その間に「朝敵」に関する記事など墨塗り教科書ではないが、抹消することができたはずなのにしなかったのはなぜか?

日向神話では弟ホホデミといさかいを起こして敗れた兄のホデリ(ホスソリ)として登場するが、この話の内容は、ハヤト研究で名高い中村明蔵・元鹿児島国際大学教授などによると、「隼人の叛乱に象徴される南九州人の中央への反発・敵愾心を和らげようとして造作した物語である」という風に解釈している。

つまり創作上ハヤトへの「リップサービス」だというのだが、神話はそれでいいとしても、その他の記事「王家の次男スミノエナカツミコの側近だった隼人」、「天皇の墓前で殉死した隼人」、「天皇の殯(もがり)の宮に伺候する隼人」、「葬送の儀に参加しかつ誄(しのびごと)を述べる隼人」など天皇家にこれでもかというくらい近侍する様子が描かれているのをどう見るのだろうか。

720年5月の書紀完成までに連続して起きた隼人の「朝敵ぶり」からすれば、このような天皇家への近侍の姿など「穢わらしいから抹消」しても書紀という年代記の事績上、何の問題もないはずである。

またそれよりも何よりも、「神武東征」という南九州の地から畿内大和への王権移動を描いた説話など、載せるのはもってのほかであったはずだ。初めから大和王朝が畿内大和で自生的に築かれたのであるのならば、抹消するのは簡単ではないか。

上述の中村教授などの古代史学者で「神武東征説話」が実際にあったと考える人はほぼ皆無であるが、しかし史実ではない神武東征がどうして堂々と描かれているのか、については口を閉ざしている。

南九州のような遅れた地域からの東征など、金輪際あり得ない。できるわけがない――というのが学者の本音であるから、結局、「架空の話だ。触らぬ神に祟りなし」あるいは「君子危うきに近寄らず」というわけでこの点については思考停止状態である。

話は簡単である。実際に南九州からの王権の移動があったとすれば筋が通るのである。史実としてあったから抹消できなかったのだ。

私は高校生の2年生の時に宮崎康平のベストセラー『まぼろしの邪馬台国』に出会ってから邪馬台国問題に興味を持ち、長年自分なりに考え続けてきた。そして35年も経ってようやく解釈を終え『邪馬台国真論』という本にまとめたのだが、倭人国の一つ「戸数五万戸」という大国「投馬(つま)国」を南九州に比定した。

その後、古事記や日本書紀に取り組んだ際に、日向(古日向)で生まれた神武天皇に「タギシミミ」(古事記では多芸志美美。書紀では手研耳)と弟の「キスミミ」(古事記のみ登場し、岐須美美)の二皇子がいたことを知った。

そしてまた、神武東征後に神武が畿内で新しく皇后に迎えたイスケヨリヒメとの間に三皇子が生まれるが、その名が「ヒコヤイミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」であることも知った。

神武天皇の諱(いみな)は「トヨミケヌまたはサノノミコト」であるが、日向での子は「タギシミミ」「キスミミ」、東征後の大和での子は「ヒコヤイミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」とまさに目を疑うような「ミミ」のオンパレードである。

この誰の目にも明らかな「ミミ」の乱発を学者は勿論気づいており、「ミミ(美美)は首長に対する古称であろう」くらいな指摘はするのだが、それ以上のことは考えていない。


しかし邪馬台国追求の過程で南九州を「投馬国」と比定し得た私にとって、「ミミ」はなじみ深いものであった。なぜなら魏志倭人伝によれば、投馬国の「官」は「彌彌」といい、「副」を「彌彌那利」といったとあるからだ。

倭人伝では「官」とあるが、これは投馬国が邪馬台国の同盟国と考えた中国側の史官がそう理解したから名付けたのであって、実質上は投馬国の首長つまり「王」に当たる名称である。

また副官のほうは「ミミ」に「ナリ」が付属しているが、これは「ミミのナリ」であろう。「ナリ」は「オナリ」(琉球古語では「ウナリ」)から来ており、「妻および姉妹」のことであるから、「ミミナリ」とは「王の妻・姉妹」という意味である。

要するに投馬国(古日向=日向・大隅・薩摩三国分割以前の南九州)の統治形態は、古琉球王国の「国王と聞得大君(きこえおおきみ)」による祭政一致体制を彷彿とさせるものであったと考えられる。


神武天皇の後継者・二代目綏靖天皇の和風諡号は「カムヌナカワミミ」で、第三子。上にヒコヤイミミとカムヤイミミがいるのだが、この「ミミ」はまさに投馬国の王の呼称「彌彌」と全く同じである。

この説話が仮に架空の創作であるにしても、大和で生まれたのだから例えば「大和彦」というような土地名を名付けるのが常識であろうに、わざわざ三人の皇子すべてに「ミミ」を付けるとはどうしたことであろうか。

このことは「ミミ」を王名とする投馬国が南九州にあり、そこから畿内大和へ「東征」したことの反映にほかなるまい。つまり南九州から実際に「ミミ」王が畿内大和へ「東征」を果たしたと考えれば即座に氷解されるのである。

私は記紀に描かれる「神武東征」を「投馬国の東遷」と呼び換えている。

次回は投馬国が本当に南九州に位置する国だったのか、倭人伝を調べてみよう。
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人種差別

2020-06-15 15:13:49 | 日記
アメリカでまた黒人が警察官に殺された。

今度のは飲酒運転で検問され、どうやら事実飲酒運転だったようで、警官が後ろ手に縛ろうとして逃げ出したのを拳銃で撃った。

警官ともみ合った際に「○○銃?」という抵抗されたときに使用する銃器を奪われ、追いかける途中でまず警官がそれで撃たれたらしい。

命を落とすような銃ではないようだが、やはり危険は危険だったのだろう、ついに警官は本物の銃を発射し、命中して容疑者は命を落とした。

「正当防衛」になるのかもしれないが、折も折だ。これが現在続いている黒人への差別反対デモの火に油を注ぐようにならなければよいが、多分そうなるだろう。

しかしまあ、このような凄惨な現場の一部始終を撮影し、ニュース(ネット?)に挙げる方も挙げる方だ。日本では考えられないやり方である。

アメリカは「銃社会」で国内では3億丁とかの銃が出回っていると聞く。基本的に年齢制限はあるものの誰が購入しようが構わない社会で、購入の名目は「護身用」だ。

護身のためだったのかどうかは判断不能だが、年間1万から2万くらいの人が銃で命を落とすそうだから、今度の事案もその one of them に過ぎないのだろう。クワバラ、クワバラな社会だ。

アメリカ社会も認めているように、こういった警官による黒人への差別的な扱いは日常茶飯事だそうで、黒人の方も警官に呼び止められたら「無駄な抵抗をしないように見せる作法」があるらしい。

新型コロナウイルス蔓延の今は誰でもマスクをしているが、平常時に黒人がマスクをしていると、ほぼ犯罪者か犯罪を犯そうとしている超怪しいヤツと思われるのだそうだ。気の毒な話である。

白人の黒人にたいする差別感情が無くなるのは到底無理だろう。何しろ男女間でさえ区別を差別と決めつけてくる「男女平等原理主義者」がどこの国でもいるのだから。

やはり黒人は思い切って米国内に「黒人の国」作るべきだ。決してそれは差別ではなく区別で、差別無き区別は必要だろう。ついでにアメリカ原住民すなわちインディアンにも国を与えるべきではないかと思うが。

ところで世界で初めて国際会議において「人種差別撤廃案件」を提示したのは日本だということは、あまり知られていない。

時は1919年の1月から始まった第一次世界大戦終結後の「パリ講和会議」。戦勝者側のイギリス・フランス・イタリア・アメリカに加えて、日本がそこにもう一つ加わり、他に中華民国はじめ30か国余りが、パリ郊外のベルサイユ宮殿などに集って開催された。

ドイツ・オーストリア・トルコなどの戦敗国の戦後処理問題を話し合ったのだが、その一つの分科会に「国際連盟」設立に関するのがあり、その会議の議長はアメリカ大統領のウッドロー・ウィルソンだった。

国際連盟設立はウィルソンの自説であり、議長を務めて当然だが、会議の最後の方で日本が「人種差別の撤廃」を国際連盟の条文に入れるよう議長に請願を出したのである。

その時の日本側の全権大使は元首相の西園寺公望、副使は外務大臣・牧野伸顕(大久保利通の次男で牧野家に養子に入った)で、牧野が流暢な英語で提案したと思われるが、議長のウイルソンは最初個人的には反対したが、誰かに慫慂され、しぶしぶ一応は参加国の議決に付した。

すると何と賛成が反対を上回ったのである。

しかしウイルソンは「全会一致でなければ条文としては認められない」と頑強に拒んだ。牧野はやむを得ず議案を取り下げたが、「それなら日本が人種差別撤廃案を提示し、賛成の方が多かったという議事録だけは残して欲しい」と訴え、ようやく残されることになったという次第。

(※議事録が残されていなかったらそういう事実はなかったことになったろうが、会議に「議事録」は大切だということが分かる。)

ウイルソンはこの後さっさと国に帰ってしまい、アメリカ議会でも上院が国際連盟への加盟を拒んだため、結局言い出しっぺのアメリカが参加しない国際連盟となった。

ウイルソンの嫌日感はこの一件でより一層強くなったらしく、日本からの移民を締め出し、その後カリフォルニア排日土地法などに見られるように対日規制を強め、ワシントン会議・ロンドン軍縮会議等で日本の軍備の増強も抑え出したのである。

(※アメリカ国内では黒人に基本的人権も与えず、人身売買こそ無くなったものの、相変わらず綿花などの低賃金農園労働に従事させていたため、人種差別撤廃などとんでもない話だったのだ。「公民権」が黒人にも適用されることになるのは、ベトナム戦争後の1970年代のことだ。)

1933年には「五族協和」を謳った満州国の調査にやって来たイギリスのリットン卿らが、満州の権益から日本が手を引くようにという報告を国際連盟に上げ、連盟総会の賛成多数の議決を受け、反発した日本の外相・松岡洋右は国際連盟脱退という挙に出てしまった。


ところで、パリ講和会議が開催された1919年の冬は例の「スペイン風邪」が猛威を振るった最初の年で、1億近い罹患者が出て数百万から1千万の死者があったと言われている。

日本でも同様に猖獗を極め、この後1921年の春まで、三波にわたって流行した。鹿児島では当時の人口140万の半数を上回る80万人が感染し、死者は1万を超えている。とんでもないインフルエンザであった。

今回の新型コロナウイルスの感染者数と死亡者数は勿論それほどではないが、今のように東京あたりで新たな感染者が出ている状況を考えると、夏までに感染ゼロという日を迎えなければ、秋口にかけてより強力に変異したウイルスの襲来が始まるかもしれない。

新々型コロナウイルスは人種差別をしないだろう。

南九州の古代人(2)ハヤト②-【二】

2020-06-12 11:31:55 | 古日向の謎
【二】C 元正天皇の時代

元正天皇は文武天皇の姉で諱は氷高皇女。第44代天皇。この時代に「隼人の叛乱」と呼ばれる大きな戦乱があった。

ⅰ.元正天皇霊亀2年(716年)5月16日
「太宰府言(もう)す。薩摩・大隅二国の貢隼人は、すでに8歳を経たり。道路をはるかに隔て、去来便ならず。或いは父母老疫し、或いは妻子ひとえに貧ならん。請う、6年を限りに相替えせしめんことを。 並びて許す。」

貢上された隼人とは、702年の薩摩国建国時と713年の大隅国建国の時の反乱で捕虜となり、連行されて来たハヤトを中心に上京させられたハヤトたちであろう。

8年の労役を課せられていたわけだが、ハヤトの中でも青壮年が中心だったろうから郷里に残された父母や妻子は働き手を失い、貧苦に陥っていたに違いない。

太宰府は薩摩・大隅両国からの訴えを都に伝えたのである。そうしたら8年を2年短縮して6年で帰れるようになった(ただし、交代要員と引き換えに)。わずかながらも困苦の緩和がなされたわけである。

ⅱ.元正3年(養老元年=717年)4月25日
「天皇、西の朝に御す。大隅・薩摩二国の隼人等、風俗歌舞す。位を授け、禄を賜うこと各々差有り。」

捕虜として連行されたハヤトのほかに6年交代で定期的に貢上されるハヤトがいた。「番上隼人」というが、彼らの中にいわゆる「隼人舞」のたぐいを演奏したり舞ったりできる者たちがいたであろうことは想像に難くない。志賀剛という人は『日本芸能史』の中で、隼人舞こそが芸能の原点だったという説を出している。首肯できる説である。

ⅲ.元正6年(養老4年=420年)2月29日
「太宰府言(もう)す。隼人反し、大隅国守・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)を殺す、と。」
ⅳ.同年          3月4日
「中納言正四位下・大伴宿祢旅人を以て征隼人持節大将軍と為す。授刀の助に従五位下・笠朝臣御室、民部少輔従五位下・巨勢朝臣真人を副将軍とす。」
ⅴ.同年          8月12日
「勅すらく、隼人を征する持節大将軍・大伴旅人は宜しく入京すべし。ただし副将軍以下は隼人いまだ平らげず、宜しく留まりて駐屯すべし。」
ⅵ.元正7年(養老5年=721年)7月7日
「征隼人副将軍・笠朝臣御室、巨勢朝臣真人等、還帰せり。斬首・獲虜あわせて1400余人なり。」

番上隼人の制度が軌道に乗り始めた矢先のことであった。養老4年(720年)2月の太宰府からの急使は驚くべきことを告げた。大隅国司である陽候史麻呂がハヤトに殺害されたというのである。

国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)の「陽候史氏」は『新選姓氏禄』には隋の煬帝の後裔とある。古典に通じ仏教にも造詣があったようで、『国分市史』などによると養老4年の正月の仏教による祭式に出かける途中、隼人の襲撃に遭い落命したらしい。

当時の政府は律令制度のほかに仏教の普及を中央集権の柱にしていた。しかし古来からの信仰を守っているハヤトにとって、仏教の浸透は魂の揺らぎに繋がったのだろう。

政府は出来たばかりの大宝律令に基づき、征隼人軍を送った。その総大将は大伴旅人(家持の父。後の太宰帥)であった。

3月4日に命令を受けて出発し、航路を南九州に取った。斉明天皇は百済支援のため九州の朝倉宮に到るのだが、その途中、難波から伊予の熟田津港まで14日を要したことから類推するとおよそ難波津から南九州までおよそ40日ほどの航海ではなかったかと思われる。

ハヤトと一戦を交えていた夏8月に、総大将の旅人は突然都に戻される。そのわけは右大臣藤原不比等の死にあった。政府高官(中納言)として葬儀に参列するためである。

翌養老5年(721年)7月7日、旅人を除く副将軍二名が政府軍を引き連れて戻って来た。ハヤトの戦死(斬首)と捕虜併せて1400人余りという戦果であった。

「隼人の叛乱」と称される戦いは政府側の勝利に終わった。律令制下の中央集権の基本である「班田収授」「租庸調の上納制度」「仏教の国教化」を押し付けてくる政府へのハヤト側の反発は空しくなったのである。

ⅶ.元正8年(養老6年=722年)4月16日
「陸奥の蝦夷、大隅・薩摩の隼人を征討せし将軍以下、及び有功の蝦夷ならびに訳語人(おさ=通訳)に勲位を授けるに各々差有り。」

蝦夷の叛乱(720年9月~721年4月)と、隼人の叛乱を征討した将士に今ごろになって勲位を授けているが、遅れたのは721年12月に太上天皇(前代の元明天皇)が崩御したからである。

面白いのは「有功な蝦夷」がいたことだ。おそらく政府軍に戦わずして帰順した蝦夷で、すすんで仲間に帰順を呼びかけたのだろう。ハヤトが揃って最後まで戦い抜いたのとはだいぶ違うようだ。

ⅷ.元正9年(養老7年=723年)4月8日
「太宰府言(もう)す。日向・大隅・薩摩三国の士卒は隼賊を征討してしきりに軍役に遭い、兼ねて年穀登らず。こもごも飢寒に迫れり。謹みて故事を案ずるに、兵役以後は時に飢疫あり。望むらくは天恩を降し、また3年を給わんことを。これを許す。」
ⅸ.同年        5月17日
「大隅・薩摩二国の隼人等624人朝貢す。」
ⅹ.同年        5月20日
「隼人に饗(みあえ)を賜。賜う各々その風俗歌舞を奏す。酋帥(ひとこのかみ)34人に位を叙し、禄を賜うこと各々差有り。」
ⅺ.同年        6月7日 
「隼人、郷に帰る。」

隼人の叛乱が終結した2年後、これも薩摩・大隅・日向の国府から太宰府に訴えられたのだろう、戦乱による損耗が激しく、租庸調の上納などできそうもないので、あと三年先送りさせて欲しいという請願が出され、許されている。

その答礼と思われるのが、624人にも上るハヤトの大使節団である。その中には34名の酋帥(ひとこのかみ)がいるが、多くは薩摩・大隅・日向の各郡のトップクラスだろう。それぞれが禄と勲位を授かっている。

そしてまたもや風俗歌舞の披露である。624名の中に女は含まれていないだろうから、これらはすべて男舞である。

ハヤトの神話的祖先であるホデリ(ホスソリ)が釣り針をめぐって争い、弟の皇室の祖であるホホデミに降参した時に舞い踊った(手を広げてゆらゆらさせた)のが起源のようだが、それならば確かに男舞でなければなるまい。

皇室にあらがったハヤトの姿は、皇室の祖のホホデミと争ったホデリ(ホスソリ)と重なり合うのである。


  D 聖武天皇の時代

ⅰ.天平元年(729年)6月21日
「薩摩隼人等、調物を貢ず。」
ⅱ.同年      同月24日
「天皇、大極殿に御す。閤門の隼人等、風俗歌舞を奏す。」
「隼人等に位を授け、禄を賜うこと各々差有り。」
ⅲ.同年      7月20日
「大隅隼人等、調物を貢ず。」
ⅳ.同年      同月22日
「大隅隼人の姶良郡少領・加志君和多利(かしのきみわたり)、佐須岐君夜麻等久久売(さすきのきみやまとくくめ)並びに外従五位下を授く。自余、位を叙し、禄を賜うこと各々差有り。」

聖武天皇の天平元年(729年)、夏の終わりから初秋にかけて、まず薩摩隼人が朝貢し、少し遅れて大隅隼人が朝貢にやって来た。

薩摩隼人については個人名は記されないのだが、大隅隼人については二人の個人名が記されている。ひとりは「加志君和多利(かしのきみわたり)」であり、もう一人は「佐須岐君夜麻等久久売(さすきのきみやまとくくめ)」である。どちらも「君姓」であるから、地元の豪族に違いはないが、前者が「姶良郡少領」という官職に就いているのに対し、ヤマトククメのほうは不明である。

ワタリは姶良郡に居住する豪族であることは間違いないが、ヤマトククメのは分からない。しかし「佐須岐(さすき)」は肝属郡南大隅町の佐多地区の中心地「伊座敷」(いざしき)に通じるので、あるいは佐多(合併前の佐多町)の女首長であったかもしれない。

西暦700年に、中央からの国覔ぎの使い(調査団)を脅迫したハヤト首長の中に、薩摩ヒメ・クメ・ハヅという女首長がいたが、これに類するものだろう。

ⅳ.天平2年(730年)3月7日
「太宰府言(もう)す。大隅・薩摩両国の百姓、建国以来いまだかって班田せず。その有する所の田は悉くこれ墾田なり。相承(うけ)て田を作ることを為し、改めて動かすことを願わず。もし班(田収)授に従わば、おそらく喧訴多からんか。ここに於いて旧(もと)に従いて動かさず、各々自ら田を作らしめん。」

薩摩国の建国は702年、大隅国の建国は713年、どちらもこの時点で班田収授の法は適用されていなかった。というのはもともと自力による墾田が多く、もしそれを無視して口分田を造成したりしたら、大変なことになるだろうから、太宰府としてはそのままの形で穏便に済まそうというのである。政府もこれを許した。

その後も班田収授は行われず、70年後の西暦800年(延暦19年)になってようやく条里制らしきものが施行されるようになった(『類聚国史』による)。


以上、南九州人がクマソ・ハヤトと呼ばれた時代の様子を『日本書紀』『続日本紀』から垣間見て来た。

大雑把にまとめると、クマソについては

・クマソはクマソの「熊」という漢字の原義から見るとこれは「火を能くする、コントロールする」で、決して「獰猛・暗愚」の意味ではない。
・クマソタケル(川上建)が、暗殺に来た小碓命に自分の称号である「タケル(建)」を授けている。
・クマソは景行天皇紀から登場し、神功皇后紀を最後に消息がなくなる。
・年代観では320年から370年位の50年ばかりの期間しか出てこない。
・この時代朝鮮半島南部では、それまでの馬韓・辰韓・弁韓の小国家群から、百済・新羅・任那の三つのまとまった国家になった。

・・・というクマソ及びその時代の属性を考えなければならないだろう。


次に、ハヤトについては、

・日向神話では皇孫二代目のホホデミの兄として描かれ、海に関した生業を持っていた。
・700年代には律令制の普及によって中央集権国家を作ろうとする王府と数々の軋轢を生み、ついに何度かの干戈を交えたが故に「隼賊」などという汚名を蒙ったが、史書に登場する430年代から600年代までは「天皇家の皇子の側近ハヤト」「天皇への殉死ハヤト」「殯(もがり)するハヤト」「誄(しのびごと)するハヤト」など、宮廷に近しいハヤトの群像があった。

・・・という点では、いわゆる蛮族ハヤトの面影はない。

となると、やはりハヤトは南九州から「東征」した神武天皇系の子孫であったから、側近として、また後には「舎人」「采女」として宮中に伺候し得たのではなかろうか。

その謎を解き明かしたのが私見の「投馬国東征(東遷)論」である。次にそのことを紹介していこう。

(南九州の古代人・クマソとハヤト 終わり)