鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

南九州の古代人(2)ハヤト②-【一】

2020-06-11 10:14:49 | 古日向の謎
(2)ハヤト②の序で述べたように、次は日本書紀以上にハヤトに関する記事の多い『続日本紀』から抽出する。

ただし、『続日本紀』のうち、冒頭の文武天皇時代から、元明、元正、聖武天皇までに現れた記事であり、期間的には文武元年(697年)から聖武2年(729年)の32年間に記録されたハヤト関連であり、それ以降、奈良朝末期までは精査していないのでお断りしておく。

しかし聖武2年(729年)のハヤト関連最後の記事が「大隅・薩摩の班田はしないでおく。すでに墾田があまたあり、うかつに班田収授の法を施行すると、喧訴が多くなる」といういわゆる<ハヤト地帯の特例>であり、こののちは強権に対する「叛乱」は回避されている。

さて、文武天皇時代から聖武天皇2年まではわずか32年間であるが、ハヤト関連記事は文武時代に4回、元明時代に8回、元正時代に11回、聖武時代に3回記され、それぞれに若干の私見を加えるとかなりの分量になるので、これを【一)「文武・元明」および【二】「元正・聖武」の二回に分けて掲載することにする。


 【一】 A 文武天皇の時代 

ⅰ.文武4年(700年)6月3日
「薩摩比売・久売・波豆、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県(えのきみあがた)、助督(すけのかみ)弖自美(てじみ)、また肝衝難波(きもつきなにわ)が、肥人等を従え、兵(=武器)を所持して国覔ぎの使い・刑部真木(おさかべのまき)たちを剽却(ひょうきょう=脅迫)した。ここに於いて筑紫惣領(つくしのそうりょう=のちの太宰府)に命じて決罰させた。」

朝廷の派遣した南島及び南九州国情調査団(団長は刑部真木)に対して脅迫し、狼藉を働いた廉で筑紫惣領を通じて朝廷に一報が入ったらしく、その点に関して筑紫惣領に厳罰を下させたようである。

その厳罰の内容は不明だが、2年後の「薩摩・種子島征討」に繋がる記事である。

日本書紀の記す天武・持統時代にも「南島調査団」は派遣されており、その都度、薩摩(阿多)と
大隅からは答礼使節が派遣されているのだが、その時点では「脅迫」や「叛乱」めいたことは記事には見えなかった。しかしここへ来て何やら風雲急を告げるあわただしい展開を思わせる記事である。

この記事はそのような歴史的展開とは別に、南九州のいわゆるハヤトの個人名があまた登場することで名高い。

まず薩摩半島西北の川内川下流辺り(現・薩摩川内市)を拠点とすると思われる「薩摩比売・久売・波豆」であるが、これを三名とみるか二名とみるか二通りが考えられる。

三名とみる見方は多くの解説者の見解だが、要するに「薩摩ヒメ」「薩摩クメ」「薩摩ハヅ」の三人の女首長とするのであるが、私見では「薩摩比売」の方は「薩摩の女首長」と一般名詞に解釈し、「薩摩の女首長であるクメとハヅ」の二名と解釈するのである。

三人も二人もどちらでも構わないのだが、いずれにしても薩摩(半島主要部)は女がトップを担っていたのであり、男性優位と見られがちな南九州古代社会も、後世、薩摩隼人の異名を持つようになる封建時代の薩摩武士が支配する男性社会にも、過去にこんな一面があったのは興味深い。

女首長で何と言っても名高いのは邪馬台国の卑弥呼であり後継の台与であるが、文武天皇の前代の持統天皇が女帝であり、次の二代もまた女帝であったことを思うと感慨深い。卑弥呼が「鬼道」に仕えたように、薩摩のクメもハヅも何らかの信仰に従事していたのだろうか。

次の衣君県(あがた)は現在の南九州市頴娃町の古地名である。かっては「え」と一字だったのだが平安時代の初期に単字をやめて二文字にして頴娃となった。ところで副官の弖自美(てじみ)だが、副官の方の名の響きは女性を思わせる。

私見では魏志倭人伝上の戸数5万戸という大国「投馬(つま)国」を古日向(宮崎と鹿児島全体)に比定するのだが、この国の長官は「彌彌(ミミ)」といい、副官を「彌彌那利(ミミナリ)」と言うのだが、「ミミナリ」は「ミミ」の「ナリ」(姉妹・妻=沖縄ではウナリ)であった。

これから類推すると弖自美(てじみ)は衣君県の妻かもしれない。

さて最後の「肝衝難波(きもつきなにわ)」だが、こちらは間違いなく大隅半島側の男性首長であろう。大隅半島には今日でも「肝属郡」があり「肝付町」がある。戦国大名だった肝付氏は平安時代の末期から戦国時代の天正年間まで約400年続いた名族である。

肝付氏が肝衝難波に繋がるという中世史家の見解はないが、私は何らかの繋がりはあると考えているが、いまのところ確実な史料はない。それよりも肝衝難波の先祖を神武天皇の二皇子(タギシミミ・キスミミ)のうち東征に付いて行かず、母・阿比良比売とともに大隅半島に残った「キスミミ(岐須美美)」(岐は港の意味)の後裔かと考えている。

こういった南九州古代人が揃いも揃って武器を持ち、国覔ぎの使いを脅した理由は、中央からの干渉を嫌ったためである。具体的には大和王権が進める全国の律令制化(中央集権化)に反対したためだ。(※翌年、大宝律令が完成している。)

ⅱ.文武6年(702年)8月1日
「薩摩・多褹(たね)、化を隔て命に逆らう。ここに於いて兵を発して征討す。ついに戸を挍(はか)り、吏を置く。」
  同年      9月14日
「薩摩隼人を討てる軍士に勲を授く。各々差あり。」
  同年      10月3日
「薩摩隼人を討ちし時、大宰所部神九処に祈祷せり。実に神威を頼みて遂に荒賊を平らげたり。ここに幣帛を奉り、もってその祈祷の賽ならしめん。」「唱更国国司等、言(もう)す。国内の要害の地に柵を建て、戌(じゅつ)を置きてこれを守らんことを。許す。」

文武6年(大宝2年=702年)にはついに大規模な征討軍を差し向けたようである。同じ年である上、内容は薩摩隼人征伐関連なので、三つの記事を同時に掲げた。

征討軍派遣の結果、2年前に国覔使に歯向かった薩摩半島側の首長はことごとく敗れ、帰順したようである。派遣軍への勲功記事でそれは了解される。そしてついに「戸を挍(はか)り、吏を置いた」すなわち戸籍を計上して人民を掌握し、政府からの役人を置くようになった。令制国の誕生である。(※この年を薩摩国建国の年としてよいだろう。)

さてまた、筑紫惣領(大宰=おおみこともち)に祭ってある九つの神に祈りを捧げて首尾よく行ったので報謝の幣帛を捧げている。また、「唱更国(はやしひとのくに)」は割注に「今はこれ薩摩国なり」とあるように一時薩摩国はそう呼ばれていた。この国ではまだいつゲリラ化したハヤトに襲われるかわからないとのことで、処々に「柵」(砦)と「戌(じゅつ)」(守備隊)を設置しなければならなかった。


   B 元明天皇の時代

27歳の若さで早世した文武天皇に代わり、叔母であり妻でもあった阿閇(あべ)皇后が後を継いだ。これが元明天皇である。

ⅰ.元明2年(709年)10月26日
「薩摩隼人郡司以下188人、入朝す。諸国騎兵500人を徴(あつ)め、以て威儀を備う。」

薩摩・種子島を征討して国を置いて7年が経ち、令制国としての体裁は大いに進んだようで、ハヤト自身の郡司等が188人もやって来た。そこで大和周辺の諸国から騎兵を500人集め、ハヤトたちを威風堂々と迎えさせた。薩摩隼人にとっては威圧感があったに違いない。

ⅱ.元明3年(710年)正月1日
「天皇、大極殿に御し、朝を受く。隼人・蝦夷等また列にあり。(中略)皇城の門外、朱雀路の東西に於いて、分頭騎兵を陳列し、隼人・蝦夷を率いて進む。」

ⅲ.同年      正月16日
「天皇、重閣門に御し、宴を文武百官ならびに隼人・蝦夷に賜う。諸方の楽を奏す。(後略)」

ⅳ.同年      正月27日
「日向国は采女を貢じ、薩摩国は舎人を貢ず。」

ⅴ.同年      正月29日
「日向隼人・曽君細麻呂、荒俗を教喩して聖化に馴服せり。詔して外従五位下を授く。」

ⅱ~ⅴは元明3年内の関連記事であり、まとめて論評する。

ⅱとⅲは昨年来朝した薩摩隼人と蝦夷たちを、正月になって天皇が自ら大極殿にお出ましになり、朝貢をねぎらう場面である。

ⅳは見過ごされがちだが、極めて重要なメッセージだ。南九州のハヤト社会の内、日向からは采女という朝廷内の一種の女官を差し出すように、また薩摩側からは舎人、これも朝廷内の側近的役割の者を差し出せというのである。

舎人と言えば、太安万侶が古事記を選上するにあたり、万巻の史料(旧辞)を読み込んで記憶し、太安万侶に口述した稗田阿礼(ひえだのあれい)が有名である。

古事記の編纂が始まったのは元正天皇の和銅4年(711年)9月からであるから、710年の正月の時点でもし薩摩国から史料判読に長けた人物が呼び寄せられたとしたら、十分に間に合う。

したがって古事記編纂に無くてはならなかった稗田阿礼という舎人は、710年に薩摩国から上京した人物の中にいた可能性がある。

「化外の民に近い南九州にそんな優秀な人物が出るはずはない」と即座に色をなされるかもしれないが、私見で倭人伝時代(2~3世紀)の投馬国は南九州であり、投馬国航海者たちは朝鮮半島を往来していた。それゆえ漢文で書かれた史料を手にする機会は十分にあったのである。

史料上天皇の側近である舎人の嚆矢は、日本書紀の履中天皇紀に登場する舎人「刺領巾(さしひれ)」であるが、5世紀代に側近だったり、殉死したり、とにかく隼人はその頃から天皇の近くに伺候していたことが、いくらかは証左となるだろう。

ⅵ.元明天皇和銅6年(713年)4月3日
「日向国の肝杯・曽於・大隅・姶羅の四郡を割きて大隅国を置く。」

ⅶ.同年          7月5日
「詔して曰く、授けるに勲級を以てするは、もと功有るによる。もし、優異せざらば、何を以てか勧奨せんや。いま隼賊を討てる将軍ならびに士卒等、戦陣に功有る者1280余人に、宜しく労にしたがい勲を授くべし。」

ⅵ、ⅶは対になっている。というのは4月3日に大隅国が設置されたのだが、その前哨戦があり、その結果が「戦陣に功有る1280余人」に勲を与えたわけだからである。

ではその前哨戦とは何か。それは言わずと知れた「大隅建国をめぐる戦乱」である。

どのような戦況であったのか続日本紀は語らないが、この7年後に大隅国初代国司の陽候史麻呂(やこのふひとまろ)がハヤトに殺害されたことによって俗に「隼人の叛乱」が1年4ヶ月にわたって勃興したが、おそらくそれに近い戦乱があったものと思われる。

私見ではその時の大隅半島側の首長は、あの肝衝難波(きもつきなにわ)だったろうと考えている。肝衝難波の戦死によって大隅半島のハヤトたちは大打撃を受けたに違いない。以後、大和王権に対する大きな抵抗は起きていない。

※鹿屋市永野田町にある「国司塚」は肝衝難波の墓だと考えられる。ただし、地元では720年に国分方面で殺害されたと言われている国司・陽候史麻呂の墓所だとしている。

ⅷ.元明天皇和銅7年(714年)3月15日
「隼人、昏荒・野心にして、いまだに憲法に倣わず。因って豊前国の民200戸を移し、相勧め導かしむ。」

大隅国を置いた翌年、律令の法令に従おうとしない「暗愚で野育ちな」隼人たちに手古摺り、豊前から(習熟した)民を200戸、大隅へ移住させている。隼人を教導させようというわけである。

豊前は中国の『隋書』に見えるように、隋からの使者たちも驚くような「華夏(=中国)と同じ位、人智の進んだ所」だったようだ。

200戸を5000人とする「1戸25人説」が一般的だが、移住させられるのは一家の二男三男たちがほとんどだろうから、25人は多過ぎるだろう。せいぜい10人くらいなものではないか。そうすると2000人ということになる。それでも十分に多かったはずである。

((2)ハヤト②-【一】 終わり)



南九州の古代人(2)ハヤト②の序

2020-06-09 14:06:23 | 古日向の謎
(2)ハヤト①では、日本書紀に登場するハヤト(隼人)を抽出し、そこに描かれたハヤトの性格が、「近習隼人」(履中紀)、「殉死する隼人」(清寧紀)、「大量帰属する隼人」(欽明紀)、「殯(もがり)する隼人」(敏達紀)、「帰属する隼人」(斉明紀)、「相撲する隼人」(天武紀)、「誄(しのびごと)する隼人」(天武紀)、「相撲する隼人」(持統紀)という表現で表されていた。

遠くに住む「異族」が朝廷に朝貢すると「帰属した」となるが、東北のエミシもハヤトともに帰属しているはいるのだが、決して「近習」したり「殉死」したり「殯(もがり)」したりすることはない。

王化に浴さない「異族」が朝貢し、その異族を儀礼の場に登場させることが王権の集権化のシンボルであるのなら、ハヤトと同様にエミシにも「近習・殉死・殯(もがり)」の役割を担わせるはずなのに、登場するのはハヤトばかりである。

それだけハヤトに関しては単なる異族ではないという認識が大和王権側にはあったのだろう。その認識とはクマソの項で述べたようなある種の「畏怖」に繋がるものであろう。

実はまだ「隼人」と記載されるハヤトの語源に触れていなかったので、ここで簡単に述べることにする。

日向神話では二ニギの皇子に三人があり、「隼人の祖」あるいは「隼人阿多君の祖」とされたのが、古事記ではホデリ(火照)、書紀ではホスソリ(火闌降)という名であった。

火照にも火闌降にも共通なのは「火」であり、さらに共通なのが「照、闌」で、あとの闌は見慣れない漢字だが「たけなわ、さかり」という意味を持つ。

つまりハヤトの属性として、「火が盛んに燃え上がっていること」であることが分かる。この状況は古事記の国生み神話で筑紫島(九州島)に4つある国のうち南九州が「熊曽国」であり、その別名を「建日別(たけひわけ)」と言ったことと重なる。

熊曽国(=火に負けずに果敢に生きる曽人の国)は火山列島の中でも格別に火山活動の盛んな南九州ならではの命名であり、ハヤトの祖先の名がまた「火が盛んに燃え上がっている=火山活動」からの命名であれば、まさに「熊」と「火闌降(ホスセリ)」とは同義に他ならない。

クマソもハヤトも同じ南九州に祖先を持つので当然と言えば当然だが、クマソ(熊なる属性を持つ曽人)が定説のように「獰猛な・暗愚な」異族ではなかったのと同様、ハヤトも「熊なる属性」を持っていたわけである。

漢字の「隼人」は定説のように、古代中国で四方角のうち南を表す「朱雀」の属性である「鳥隼(チョウシュン)=すばっこい」からその「隼」が採用されたのだろう。

このようにして歴史の舞台に登場したハヤトであるが、ハヤトの前称であるクマソが南九州から「東征」した先祖を持つと考えると、書紀の記述においてハヤトが朝廷に近習できた理由が鮮明になる。

その「東征」(私見では「東遷」とし、大規模な移住と考える)が史実であったことを確かめるためには2~3世紀の倭人の状況を記した『魏志倭人伝』を見ていく必要があり、今ここで論ずるわけにはいかない。

ここは次の史料である『続日本紀』の中で、ハヤトがどう描かれているかを見るのが先決であり、まずは文武天皇から聖武天皇の時代までに記されたハヤト記事を取り上げていくことにする。

((2)ハヤト②の序 終わり)

「一国二制度」

2020-06-07 22:13:36 | 日記
中国は香港に対して「一国二制度はもう終わりだぞ」とばかり国家安全法を作ってしまった。

1997年に香港がイギリスから返還されてから「50年は香港らしい政治を保証する」と決められたが、50年を待たずに23年で打ち切られることになる。

国際関係で取り決めがあっさりと変更された例は少なくはない。その最たるものが当の中国をめぐって1950年にあった。

1950年1月6日、前年の10月1日に成立が宣言された「中華人民共和国」を何とイギリスが承認してしまったのである。

英米はカイロ宣言で「中国は非共産政権である蒋介石の国民党が支配すべきで、他国(日本を指す)の介入は許さない」と取り決められたはずなのに、中国共産党が全土を掌握し、蒋介石政権が台湾に亡命すると、早速イギリスは共産政権である中華人民共和国を承認した。

この寝返りの早さには開いた口が塞がらない。この時点で、イギリスにとって東アジアが共産化しようが何しようが「知ったことではなかった」のである。

同盟国アメリカでさえ驚いたイギリスの変節であった。

アメリカが中華人民共和国を承認したのはピンポン外交の直後の1972年であるから、イギリスの承認から20年余り後のことである(※ニクソン大統領時代。平和五原則の合意があった)。

香港は1842年のアヘン戦争後の南京条約でイギリスに「永久割譲」されたが、第二次大戦後も蒋介石政権(のちの台湾政府)に返されることはなく、1997年までイギリスの植民地であった。

1997年の7月にイギリスはようやく中国に香港を返還したが、その返還の相手は台湾の旧蒋介石政権ではなく、本土の中華人民共和国だった。そして50年間は香港の政体を変えないという合意があったのだが、今度の国家安全法制定により、香港の先行きが憂慮されている。

香港の拠って立つ「一国二制度」はかってのイギリスの変節と同様、中華人民共和国によって変えられようとしており、香港では大きなデモが連日行われている。

その一方で、アメリカでも連日デモが行われている。

黒人の男性が警察官の不当な逮捕により死に至ったことに対する怒りの声が全米で渦巻いているのだ。

黒人が同様な不当な扱いを受けて死に至った例は数多くあり、今回はその状況が現場にいた人の撮影した一部始終がSNSに投稿され、衆目にさらされたことによって黒人のみならず白人も抗議の声を挙げている。

黒人への差別は日常茶飯事で、1970年代に黒人が真の市民権を得てからも止むことはない。黒人は黒人、白人は白人なのだ。

アメリカの黒人は、イギリスの悪名高き「奴隷貿易」によってアフリカから奴隷としてアメリカに売られてきたのが発祥だが、1863年にリンカーンによって奴隷解放がなされ、アフリカ帰ってリベリアという国を作ったのだが、多くはアメリカに残った。

黒人はベトナム戦争に従軍することによって市民権を得たのだが、50年後の今日まで人種差別の止むことはない。

こうなったら黒人の国をアメリカ内部に作るしかないのではないか。ケンタッキーかミシシッピが候補に挙がるが、香港が中国の一部でありながら「一国二制度」の下、独自の発展を遂げたように、アメリカにも黒人の国を作り「一国二制度」を実現したらどうだろうか。

トランプがその代表である「金(株式)万能主義」とは違った情味あふれる国が生まれそうな気がする。


南九州の古代人(2)ハヤト①

2020-06-06 16:49:30 | 古日向の謎
(1)ではクマソについて論じたが、今度はハヤトである。

クマソ名は今日、南九州の古代人の負の側面のみをあげつらう時にだけ使われる「誤った解釈」にいまだにさらされているが、私見では「熊」という漢字の持つ意味からして全くそうではなく、「荒ぶる火山活動の中をたくましく生きている南九州人」を畏怖して命名した、むしろ尊称に近い名であったとした。

クマソが日本書紀に登場するのは、景行天皇から神功皇后までわずか50年ほどの期間しかなかった。それに比べてこれから述べて行くハヤトは神話(日向神話)を除外すると、履中天皇の弟の側近として登場する「刺領布(さしひれ)」という名のハヤトから始まって続日本紀の奈良時代初期の元明天皇時代まで、およそ300年にわたって記載がある。

このうち日本書紀に登場するハヤトについて、この「(2)ハヤト①」で抽出する。


  【①-A 履中天皇の時代】(出典:日本書紀)

仁徳天皇の皇子に住吉仲皇子(すみのえのなかのおうじ)がいたが、この皇子の側近として「刺領布(さしひれ)」というハヤトが付いていた。

長男で後継者の去来穂別皇子(いざさわけのみこ)は、サシヒレをそそのかして弟の住吉皇子を殺害させ、いざとなると主人殺しの汚名を着せて処罰してしまう。

(※歴史上に初めて登場したハヤトはすでにここで汚名を着せられることになる。奈良時代の初期に当時最大級の叛乱を起こしたために汚名を蒙った伏線のようでもある。)


  【①-B 清寧天皇の時代】(同上)

ⅰ.清寧天皇の前代・雄略天皇が崩御した際、天皇を葬った墓前で泣きつくし、物も食わずに死んだハヤトがいたという。いわゆる殉死である。

ⅱ.清寧天皇の4年に「蝦夷・隼人並びに内付する」という記事がある。「内付(ないふ)」とは帰属ということで支配下に入ることである。蝦夷(アイヌ人)は初見である。
(※この時代の年代観は、前代の雄略天皇がおおむね460年頃から23年の統治期間が定説であり、私見もそれに従うので、およそ480年の頃である。)


  【①-C 欽明天皇の時代】(同上)

欽明天皇の元年3月に「蝦夷・隼人並びに衆(ともがら)を率いて帰付する」とある。この「帰付(きふ)」も「内付」と同じく帰属するという意味である。


  【①-D 敏達天皇の時代】(同上)

敏達天皇の14年(585年)8月の記事に「三輪君逆(みわのきみさかし)、隼人をして殯(もがり)の庭に相距(とぶら)わしむ」とある。

「相距(とぶら)う」の意味だが、「距」は「蹲踞(そんきょ)」のことで、相撲の横綱土俵入りで太刀持ちが蹲踞するあのような姿勢をとり、隼人数名がおそらく寝ずの番で棺の前に伺候したのだろう。


  【①-E 斉明天皇の時代】(同上)

斉明天皇の元年(655年)に何月かは不明だが、「是歳、高麗・百済・新羅、皆使いを遣わし、調(みつき)を進む。蝦夷・隼人、衆(ともがら)を率いて内属し、朝貢する」とあり、蝦夷・隼人だけではなく朝鮮半島からも使者が来ていた。


  【①-F 天武天皇の時代】(同上)

ⅰ.天武11年(683年)7月3日の記事に「隼人多く来たり、方物を貢ぐ。是の日、大隅隼人、阿多隼人とが朝廷に相撲する。大隅隼人が勝つ」とある。

大隅隼人・阿多隼人ともに初見である。ただし「阿多」については、古事記の日向神話において、二ニギの息子3人が産屋の火の中で生まれた時に、最初に生まれたホデリノミコトを「此れ、隼人阿多君の祖」という紹介がある。

ⅱ.天武15年(686年)9月29日の記事に、「次に、大隅・阿多隼人、及び倭(やまと)・河内の馬飼部造(うまかいべのみやっこ)、各々誄(しのびごと)す。」とある。

敏達天皇の死に際しては棺の前に蹲踞する役目を担った隼人が、今度は天武天皇の死に臨んで棺前に出て「誄(しのびごと=弔辞)」を述べるという大役になっている。


  【①-G 持統天皇の時代】

持統天皇の9年(695年)5月13日の記事に「隼人大隅に饗(みあえ)し給う。」とあり、8日後の21日には「隼人の相撲を西の槻(つき)の下に観給う。」とある。

天武天皇の11年(683年)と同様、やって来た隼人に相撲を取らせて見物をする場面である。この時は大隅隼人と阿多隼人との対戦はなく、どうやら阿多隼人は来ていなかったようである。

初めの方の「隼人大隅に饗し給う」の「隼人大隅」は「大隅隼人」の誤記だろうと思われる。この2か月近く前に朝廷では大隅半島南方に浮かぶ種子島への調査団(団長は文忌寸博勢)を送っており、大隅半島から種子島の航行に現地の大隅隼人との交流があり、それへの答礼だと思われる。


以上、日本書紀に記載されたハヤトを抽出したが、ハヤトはクマソが「朝貢しない蛮族」というように書かれるのと同様、やはり大和王権にとっては「遅れた異族」的な書かれ方をしている。

しかし皇孫の由来を述べた日向神話において、皇室の直接の祖となる弟ホホデミへ服属するのだが、とにもかくにも皇孫の兄、つまり天皇家とは血筋だという。

これを著名な古代史学者で「隼人の叛乱に手を焼いた大和王権がハヤトの祖先と王権の祖先とはかっては同じだった」と、言わばリップサービスをすることによってハヤトを手なづける必要があったからだ――とする見解があるが、私見のように南九州からの東征(東遷)は史実だったとする見方からすれば、皇孫ホホデミの兄が南九州人だったのは当然である。

そのことを裏付けるのは、天皇の「側近」になったハヤトの多いことと、極めて重要な天皇の葬礼に参加していることである。蝦夷と並んで記される異族でありながら、蝦夷とは違って何ゆえに天皇に近侍できたのだろうか。このことを考えると、ハヤトは単なる異族ではないことに思い至るではないか。

(※次の②では、養老4年から5年(720年~721年)にかけて起こった壮絶な「ハヤトの叛乱」に至る歴史を垣間見せる『続日本紀』のハヤト関連記事を抽出してみたい。)

 ((2)ハヤト① 終わり)

「東京アラート」発令

2020-06-04 16:03:38 | 日本の時事風景
小池東京都知事はついに「東京アラート」を出した。直近一週間の感染者数、陽性率など数項目の基準を勘案してそう宣言したらしい。

「東京アラート」は映画のタイトルにしてもおかしくない表現だ。

しかし新型コロナウイルスによる死者数は2月頭初から3か月で900人(東京に限ると300名余)というは、他の欧米諸国などと比べて圧倒的に少ない。

また去年の秋からこれまで、全国でインフルエンザに罹患したのが約700万で、死者数が1万人をはるかに超えたのだが、こちらの方はそう脅威を感じていない(メディアもほとんど取り上げない)。

同じウイルス性の疾患だが、その辺はどうも首をかしげる。余りにも新型コロナ感染にたいして恐怖心が強すぎるのではないかと思ってしまう。

確かに感染後に軽症から重症化への道のりが長すぎるので、インフルエンザのようにすぐに隔離というわけにはいかないきらいがあって、気が付いた時には手遅れだったりするのがこの新型コロナの特徴だ。

そのため、ちょっとやそっとでは医者にかからない(薬で治そうとする)アメリカではそれが裏目に出てしまった。

今さら「東京アラート」を出すくらいなら最初の緊急事態宣言の時にロックダウンしてしまえばよかったと思う。

ただ、東京は政府の中枢機関が集まっている関係で出しづらかった点は大いにあるのだが、問題はロックダウンには強制力が伴うから企業の活動停止に直結し、そのため「休業補償」が膨大になるから出せなかった面もあるだろう。

世界でロックダウンした都市は多くあるが、向こうでは「休業補償」はどうなっているのだろうか。

各国政府が政府の資金から出すのだろうが、回りまわって最終的には中国政府に請求書が送られるのだろうか。それはまずあり得ないが、中国もWHOへの拠出金が0.2パーセントなどという人を馬鹿にしたレベルからもっと出すようにならざるを得まい。

それはそうと、「東京アラート」は直下型地震でも出されるようになるかもしれない。最近関東周辺などで震度4クラスの地震が頻発しているのが気になるのだ。

この頃は梅雨入り後の豪雨が各地で起きるようになった。普通は梅雨が終わりそうな頃に大雨が降って明けるのだが、最近は梅雨の最中でも所かまわず豪雨が頻発している。新型コロナを抱えての避難所の仕様が云々されている。

「ウィズ コロナ」(コロナとともに)だそうだ。