鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

菜園の衣替え(2022.03.15)

2022-03-15 17:59:16 | 日記
3月10日までの3日間が厳しい寒さの戻りだったが、その後は一転して春の陽気になり昨日今日は夏に近い気温となった。

特に昨日は大隅地域でも肝付町で27℃越えを記録し、一気に夏日になった。宮崎ではまだその上で28℃になったという。

今日もそこまではないが、かなり気温は上がり鹿屋では24℃である。

菜園では、残っていたブロッコリーとサニーレタスのトウ立ちしたのを引き抜き、石灰をまいて耕した。久しぶりにかなり汗ばみ、シャツを着替えるほどだった。



手前の畝には向こうに転がっているブロッコリーを栽培していた。1月上旬からつい昨日まで約2か月間は、毎日というわけではないがよく食卓を飾ってくれた。

サニーレタスも名前からすると夏野菜なのだろうが、秋まき栽培でも結構重宝する。病気や害虫とは無縁の健康植物である。

ひと畝にはこれからホウレンソウを蒔くつもりだが、厄介なのが家で寝てばかりいるモモである。

こんな風に耕しておいたところには決まって(喜んで)排便するから困る。前足でかっぽじって排便し、それを隠すためまた土を埋め戻すのだが、小山のように盛り上がってしまう。

蒔いた種がどうなろうと知らんぷりんの悪行!!・・・と言っても仕方がないので、支柱の棒などを置いてガードするほかない。

𠮟ってもどこ吹く風、まったく学ぼうとしない猫のモモ。



さっきから探していれば、窓際の発泡スチロールの箱の中だった。寒い時は室内のホットカーペットの上がお気に入りだったが、こうして暖かくなるとここが隠れ家になる。

今年でもう12歳のばあさん猫になった。畑の耕運機の残骸の中で生まれた時は、近づくと「シュー!」と興奮していたのだが、あれからもう12年も経つんだ。長生きしろよ、ほどほどにな。




女性天皇の時代(古代史逍遥‐2)

2022-03-12 21:51:01 | 古代史逍遥
現在の皇室をめぐっては、男系男子天皇が先細りになるということで、いろいろな論議がなされている。

もう女性天皇の擁立を視野に入れないと危うい――とまで言われている。

明治に制定された皇室典範の規定では、今しがた触れた「男系男子の天皇」でなければならないとされたので、後嗣の門戸が狭くなった。

現に、昭和天皇の皇子がなかなか生まれず、なかばあきらめかけた時に出生されたのが、現在の上皇(平成天皇・明仁陛下)であった(昭和8年12月23日)。

その後常陸宮もお生まれになり、男系男子危うしの危機は避けられた。

それが今、現天皇に男の子が生まれないことで、また昭和時代の危機感が再現されることになった。

それでも天皇の弟の秋篠宮が控えており、なおかつ秋篠宮悠仁さまもいらっしゃるので、当面の30年は「安泰」と見てよい。

そもそも皇室の後嗣をめぐっては、現天皇・皇后に皇子(男子)が生まれなかったことで取り沙汰されるようになったのだが、皇女の愛子さまが天皇になる可能性は無いことはないのだ。

女性天皇は歴代皇室には10代にわたって現実にあったのである。それを以下に示すと、

1.推古天皇(第33代 在位592~628年)
2.皇極天皇(第35代 在位642~645年)
3.斉明天皇(第37代 在位655~661年)
4.持統天皇(第41代 在位690~697年)
5.元明天皇(第43代 在位707~715年)
6.元正天皇(第44代 在位715~724年)
7.孝謙天皇(第46代 在位749~758年)
8.称徳天皇(第48代 在位764~770年)
9.明正天皇(第109代 在位1629~1643年)
10.後桜町天皇(第117代 在位1762~1770年)

となるが、2、3の皇極天皇と斉明天皇は同一人物であり、また7、8の孝謙天皇と称徳天皇も同一人物である(重祚)。

したがって10代と言っても現実には8人であり、現天皇まで126代を数えるうちのわずか8人に過ぎない。

1の推古天皇から8の称徳天皇までと、9と10の天皇では時代が全くかけ離れており、前者は飛鳥時代から奈良時代まで約180年間に現れた女性天皇、後者は江戸時代に入ってからの女性天皇である。

そこでまず9と10の天皇を先に見て行こう。

9の明正天皇は父が第108代の後水尾天皇(在位1643~1654年)で、男系男子の後嗣である。

10の後桜町天皇も父が第116代桃園天皇(在位1747~1762年)で、こちらも男系男子の後嗣である。

両天皇共に先代の父天皇が譲位または崩御の後、後嗣となるべき直系男子がまだ幼少だったため、代わりに(ピンチヒッター)として皇位を継いでいる。

さてでは前者のグループを見てみよう。これは次のように一覧で示す。(※Aは父、Bは母である。)

1、推古天皇 A欽明天皇(第9代 在位540~571年) B蘇我キタシヒメ(父は稲目)
2、皇極天皇 A茅渟王(父は押坂彦人大兄。祖父は敏達天皇 Bキビツヒメ(父は桜井皇子)
3、斉明天皇(重祚)・・・2と同じ
4、持統天皇 A天智天皇 B蘇我オチノイラツメ(蘇我馬子の妹)
5、元明天皇 A天智天皇 B蘇我メイノイラツメ(父は石川倉山田麻呂)
6、元正天皇 A草壁皇子 B元明天皇
7、孝謙天皇 A聖武天皇 B光明皇后(父は藤原不比等)
8、称徳天皇(重祚)・・・7と同じ

以上であるが、父方はすべて天皇または皇族である。したがって女性天皇とはいえ、男系男子からの血筋であることは満たされている。

簡単に即位の事情についてそれぞれ個別に見てみよう。

1の推古天皇擁立の背景には、前代の崇峻天皇の暗殺が影を落としている。欽明天皇の皇后キタシヒメ(蘇我氏)の父稲目の専横が、正当な後嗣の就任を妨げたのである。

2の即位前には蘇我馬子の孫の山背大兄(父は聖徳太子)と古人大兄(父は舒明天皇)の二人がいたが、山背大兄の自害という混乱の中、敏達天皇の孫の茅渟王の娘である宝皇女が後嗣となった。

3の皇極重祚だが、乙巳の変(大化の改新)で姉の皇極から皇位を継いだ孝徳天皇が難波宮で崩御し、その遺子である有間皇子が殺害されたので皇極が再び皇位に就いた。

4では夫の天武(第40代 在位672~686年)が崩御し、姉の大田皇女の所生の大津皇子が自害したので我が子草壁皇子を後嗣にしたのだが、即位前に死んだので、草壁の遺子軽皇子(文武天皇)がまだ幼少だったため、即位した。

5夫の草壁が即位前に亡くなり、後嗣となった軽皇子が文武天皇として即位したが、707年に崩御した時、その遺子である首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)がまだ幼少だったため、母である元明天皇が即位した。

6の元正天皇は母である元明天皇の後嗣となった。弟の文武天皇の遺子である首(おびと)親王がまだ幼少であったためとされる。

7の孝謙天皇は父聖武天皇から生前譲位された。

8の孝謙天皇重祚だが、後嗣として譲位した淳仁天皇の配下の藤原仲麻呂が反乱を起こしたため、淡路島に流されたことを受けて再び即位した。

以上が格別に女性天皇の即位が続いた推古女帝(在位592~622年)から7代先の称徳女帝(在位764~770年)までおよそ180年であったが、この180年の間に数えられた天皇の代数は16代で、そのうちの半分の8代が女帝であった。

またこの8代の女帝の統治期間を合算すると92年になるが、この期間も180年のほぼ半分を占める。

偶然の一致かもしれないが、興味がもたれるところである。

また時代相としては、蘇我氏の専横(稲目から蝦夷までの110年)によって蘇我氏の后妃が輩出されていたのが、元明天皇時代を境に藤原氏に取って代わられたことが大きい。

藤原不比等の娘の宮子と光明子が相次いで后妃となり、その後、藤原氏は外戚として政権の中枢を担うようになった。

満開の乙女椿

2022-03-11 14:42:16 | おおすみの風景
今朝の最低気温は6℃と、ようやく5℃を上回った。

薄曇りで風はなく、朝の散歩では家に着く前に少し汗ばむほどだった。

昼過ぎにこれを書いているが、気温はかなり上がり、外気温は20℃に近い。部屋の中ではもう23℃を指している。

このままいけば早春を通り越して、晩春か初夏の陽気になる。

昨日は「3日連続の霜」を書いたのだが、まさにその3日は「三寒四温」の「三寒」に当たろう。天気予報では明日から今日のように気温の高い日が続くそうだからこっちは「四温」にぴったりだ。

菜園を見てみると、白菜に黄色い花の付き始めたのがある。花芯が白菜の中央部にできたのだ。そこは包丁では歯が立たないくらい堅くなっており、食べるには花芯の部分を思い切って切り捨てなければならないから厄介だ。

ダイコンもすぐにでも花芯ができて、花芽が出始めそうだ。そうなったら白菜以上に厄介で、大抵はスカスカになっている。食べられたもんじゃない。

ブロッコリーも、もう花芽が矮小のものしかなく、放っておくと黄色い小花が群がり始める。それを食べる手もあるが、美味ではない。

サニーレタスもとっくに花芽のある茎を旺盛に伸ばし、茎から伸びたくしゃくしゃの葉はアントシアニンがたっぷり含まれていそうな赤ワイン色をしている。これももうすぐ花が咲くだろう。

菜園の周辺を眺めると、河津桜は盛りを過ぎてもう葉桜になりかかっている。

その一方で、満開なのが乙女椿だ。



庭の東側に三本の乙女椿があるのだが、通常のツバキより花が小さく、しかも色合いが大人しいピンク色なので、目を引く存在感に乏しい。

しかし三本ともぎっしり花を付けており、近くに行けば見ごたえ十分だ。

この乙女椿にはメジロがよく集団で来て、なにやらチッチ、チッチとせわしげに小さな花にくちばしを突っ込んでは、花から花へ飛び回るのだが、今年は今のところメジロたちを見ていない。どこにいるんだろう。

鶯の初鳴きも耳にしていない。

まさか新型コロナとか鳥インフルエンザでやられたわけではあるまい。

庭にはヒヨドリとモズの姿は見えるから、その心配はあるまいが・・・。

3日連続の霜(2022.03.10)

2022-03-10 09:59:56 | おおすみの風景
今朝で3日連続の霜降り。ウメは喜び、ぐいぐい引っ張る散歩道。

昨日はかなり厳しく車のフロントガラスが凍った。今朝はそれほどでもなかったが、3月に入って連続して三回も霜が降るのは近年では経験がない。

この時期は朝の気温が低ければ低いほど、日中は気温が上がり、時として22、3℃の、春というより初夏に近いような気温になるものだが、今年はまだ16~7℃止まりで、終わっている。春一番はまだ吹かない。

冬が寒ければ寒いほど、ソメイヨシノの開花が早まるというが、そうであれば今年は記録的な早咲きになりそうだ。

ところで、テレビで写されるウクライナというところは、今頃何℃くらいの気温なのだろう。見たところ、雪がちらほら残っているようで、日本の北海道くらいの気候なのだろうか。

画面上に気温が表示されたこともないし、向こうからのテレビ中継で特派員たちが語る際に、そのことに触れたのを見たことがない。

何にしても避難民がすでに200万人となったと言われている。4000万の国民の5パーセント、20人に一人が国外に脱出したという。あの寒空の中で気の毒な話である。霜が降ったくらいで、寒い寒いと言ってはいられまい。

日本政府もコロナの水際対策を経ずに積極的に受け入れるそうだが、人道支援から言えばそうあって欲しい。

プーチンはウクライナ全土の軍事施設すべてを破壊したと言っているが、そのようには見えない。おそらく張ったりだろう。強がりを言うのはこの人の常套文句だ。カメラの前のプーチンはほとんど表情を変えずにしゃべっている。特に目が据わっているのが不気味である。

アメリカ始め欧米諸国はこれまでに対ロ経済制裁を、段階を経ながらじわじわと強化している。国際銀行間通信協会(SWIFT)からロシアルーブルを締め出したのが最も大きな制裁だと言われているが、それでも効果がなかったのか、アメリカは独自に対ロ石油取引を停止した。

しかしロシアは自国内で石油の自給は可能だし、たいして痛くはないだろう。むかし日本が太平洋戦争に入ってアメリカからの石油が止められた時、「松根油」や「木炭」が車の燃料に代替されて四苦八苦したのとはわけが違う。

ロシアのプーチンにとって最も痛いのは、国内の世論だ。国民の誰もがウクライナへの侵攻に反対している。反戦デモを取り締まって、もう2万人とか3万人とかを拘束したと聞くが、このうねりを力づくで押さえ続けたら、プーチンの首が危ないだろう。

ウクライナ大統領ゼレンスキーはロシアの侵攻後に3度も暗殺を仕掛けられたと自ら語っているが、プーチンはどうなんだろう。アメリカに移住したロシア出身の大富豪が、プーチンの首に100万ドルを掛けたそうだが、現実になるのだろうか。フェイクだったら肩透かしだが・・・。


またまた、あのクレマチス(テッセン)がやってくれた。クソ寒いこの時期に咲くことは有り得ないのだが、前のは1月20日頃の大寒に入ろうかという時に一輪だけ咲いたが、今度のは何と二輪が同じ葉の基から咲いている。

葉はもうすべて散り去り、茎も茶色に変色しているのに咲き出でたこの姿はいじらしい。花びらの色が1月に咲いたのとは違って、黒ずんではいるが、何か高齢化した自分をなぞらえてしまうなァ。

「建」(たけ)つながりの三か国(古代史逍遥‐1)

2022-03-07 18:48:22 | 古代史逍遥
【はじめに】

「記紀点描」シリーズも最終回となった。ちょうど節目の50回である。

記紀点描㊾まではおおむね記紀の記事に従い初代神武天皇から41代持統天皇までの事績をピックアップしつつ、日本古代史の正史からは若干外れた(外された)テーマを綴って来たのだが、これからはまた違った切り口で古代史にアプローチしてみたい。これを「古代史逍遥」と名付ける。

今回は古事記の神代にさかのぼり、イザナギ・イザナミの「修理固成」の段で、日本列島の国土を次々に生む俗にいう「国生み神話」をと取り上げる。

【「建」(たけ)つながりの三か国】

古事記の国生み神話は、日本の国土をイザナミが次々に生んでいくという神話だが、今日にも伝わる旧国名や島々の名が列挙されており、興味がそそられる部分である。

天津神の教えで、男のイザナギがイザナミより先に「なんていい女なんだ!」と賞賛してから「みとのまぐわい(美斗能麻具波比=夫婦の性交)をしたところ、「淡道の穂の狭別島」(淡路島)を皮切り8つの島(大八嶋)を生んだという。・・・①

そしてその後に列島周辺の小さな島々を生んでいる。・・・②

①で生まれた8つの島は、今日にもつながる名を持った島「淡道の穂の狭別島」(淡路島)、「伊予の二名島」(四国)、隠岐の三つ子島(隠岐の島)、筑紫の島(九州)、伊伎島(壱岐)、津島(対馬)、佐渡島(佐渡)そして「大倭豊秋津島」(本州)である。

この中で面白いのが、本州や九州、四国と並んで淡路島・隠岐の島・壱岐島・対馬・佐渡島という5つのさして大きな島でもない島々が、「大八島」の仲間に入っていることである。当時のよく知られた島で、多くの海人が往来していた島々であり、また国防上の役割を担っていた島々でもある。

<建日別(たけひわけ)>

さて筑紫(九州)には4つの国があるという。「筑紫国(別名・白日別)」「豊国(別名・豊日別)」「肥国(建日向日豊久士比泥別)」そして「熊曽国(建日別)」の4つである。

「建日別」は熊曽国のことであり、南九州を指していることは明白である。

そのほかの国について、まず筑紫国であるが、この国の別名は「白日別(しらひわけ)」という。「白日」とは何だろうか?

これはずばり「新羅(しらぎ)」のことである。

新羅は2~3世紀の邪馬台国時代は「辰韓」と呼ばれていた国家群で、辰韓とその西側の国家群「弁韓」とは「雑居」しており、住民の多くは「文身(いれずみ)を施していた」と書かれている。弁韓はのちの「任那」であるから、辰韓と弁韓は倭人でも主として海人系の倭人たちが居住していたと見ることができる。

筑紫国が白日別ということは、筑紫が半島南部の辰韓(のちの新羅)と同一国家であることを意味している。具体的に言うならば海人系倭人国家である辰韓に王朝を築いた箕子朝鮮の末裔「辰王」の支配する統治領域が、九州北部にも及んでいたということである。

辰王の典型が福岡県糸島地方に根を下ろした「ミマキイリヒコイソニヱ」こと崇神天皇であった。和風諡号の「御間城入彦五十瓊殖」とは「天孫の任那の王宮に入った王で、五十(いそ)の地に王権(瓊=玉)を殖やした王」と理解され、崇神天皇は魏王朝から派遣された司馬懿(シバイ)将軍の席捲をを避けるべく九州北部の五十(糸島)地方に移住して来たのである。

(※その崇神こと「五十瓊殖(イソニヱ)」と糸島で生まれた垂仁こと「五十狭茅(イソサチ)」の親子が糸島を根拠地として次第に九州北部に勢力を伸ばし、ついに倭人連合を形成したとも考えている。それが「大倭」であった。)

そのような歴史的経緯を踏まえて筑紫国を「白日別」と名付けたものであろう。

次に、豊国の別名が「豊日別」なのは、豊日の国だからである。では「豊日」とは何か。

私はこれを邪馬台国女王ヒミコの死後に女王として立てられた「台与(トヨ)」のことだと考えている。トヨは卑弥呼亡きあと20年ほどは王座にいたが、南からの狗奴国勢力に押され、ついに併呑されるという憂き目に遭い、九州山地を越えて豊前宇佐地方に逃れたと思われる。

宇佐において言わば「亡命政権」を樹立したのではないか。したがって宇佐神宮で応神天皇および神功皇后とともに祭られている「比売之神」とはトヨのことではないかと思うのである。

次に、肥国は別名を「建日向日豊久士比泥別」とするが、これの読み方については多くが「たけひむか、ひ・とよ・クシヒのねわけ」と読んで怪しまないが、そもそも「建日向」を「たけひむか」と読む根拠が不明である。

この「建日向」は「建日に向かい」と読むべきなのだ。「建日」とは熊曽国であり、その本拠地は熊本県域だったから、八女市にあった邪馬台国とはまさに向かい合っている。

「日豊」は、これも「ひ・とよ」とは読まずに、「ひのゆたかなる」と読み、次の「久士比の泥(ね)わけ」 への形容と把握すべきである。

「久士比(くしひ)」とは「霊妙な」という意味だが、ここの場合は「統治能力のある大王」と解釈し、「泥別(ねわけ)」は「根分け」であるから、本筋の大王とは血のつながりのある王と捉えたい。

以上から「建日向日豊久士比泥別(たけひにむかい、ひのゆたかなる、くしひのねわけ)」を別名に持つ「肥国」は、おおむね今日の肥前国を指していると考える。

筑紫すなわち九州島は南九州に「熊曽国」があり、北部には「筑紫国」があり、北東部に「豊国」があり、そして今日の築後から肥前(佐賀・長崎)にかけては「肥国」があったことになる。再述するが、このうちの熊曽国が「建日別」であった。

<建日方別(たけひかたわけ)>

この国は別名「吉備児島」である。吉備の児島と言えば今は陸とつながっているが、古代は島であった。

「建日方別」というのは「建日別」の「地方」もしくは「片割れ」という意味で、言わば「建日別」の分国である。

なぜ瀬戸内海の中央部にある「吉備児島」が南九州の熊曽国の分国なのか。

これについては南九州からの「神武東征」を信じれば、容易に分かることで、古事記によれば「神武東征軍」は瀬戸内海に入ったのち、安芸の多祁理(たけり)宮で7年間、そして吉備の高島宮では8年間を過ごしている。

(※日本書紀ではこの「神武東征」の所要年数が古事記のに比べ著しく短くなっている。私はその3年余りという短期で東征を果たしたのは、南九州由来の東征ではなく、北部九州の「大倭」(北部九州倭人連合)のそれだと考える。その東征の主体こそは筑紫(白日別)王となった辰王こと崇神天皇であろう。)

後者の高島宮こそが、まだ海中にあった吉備児島に所在した。したがって吉備児島は南九州熊曽国(建日別)の分国扱いを受けたのである。

「神武東征」などまったく有り得ないとする戦後史学では考えもしない説だが、吉備は南九州との結びつきが強い地域で、古くは縄文土器に見られる「胎土」(土器用の粘土)に共通性があったり、弥生土器の「矢羽透かし彫り」に共通点があったりしている。彼我の交流は絶対に無視できない。

<建依別(たけよりわけ)>

四国(伊予の二名島)の4つの国のうち黒潮洗う土佐国を「建依別」というが、この意味は「建日が寄る国」ということで、南九州の建日別(熊曽国)の海人が海に出て、黒潮ルートに乗って紀伊半島から畿内を目指した場合、途中で寄港するに最適の港を持っていたのが土佐である。

神功皇后摂政元年紀に、皇后が新羅を討ったのちに皇子を産み、「穴門の豊浦宮」に軍勢を整え、畿内を目指そうとしたところ、畿内勢力である忍熊王の抵抗に遭い、それではと武内宿祢が生まれたばかりの赤子の皇子を抱えて、「皇子を懐き、横しまに南海より出でて、紀伊水門に泊らしめ」とあるように、武内宿祢の畿内への航路は南海航路、すなわち黒潮ルートであった。

南九州から畿内を目指す場合、黒潮ルートを採って紀伊半島に上陸し、紀ノ川を遡って五条・阿陀から葛城へ抜けるコースが最も早く、その航路を採る時は、土佐が水・食料の補給には最適な場所であった。そのことが「建依別」という国名に現れているのである。