鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

非武装中立

2022-03-05 09:36:24 | 専守防衛力を有する永世中立国
ロシアによるウクライナ侵攻が2月24日に始まって以来、今日が10日目。

プーチンの思惑では4日程度でウクライナを制圧するはずだったと言われており、長引いているのは想定外にウクライナ側の反撃が大きかったからだとも言われている。

しかしそうであるにしても、ロシアは徐々に北から東から南から軍事進出を加え、ウクライナの主要都市にダメージを与え続けている。プーチンは「計画通りに進んでいる」とSNS上で述べている。

南部にある世界でも最大級の原子力発電所もロシア軍の制圧下に入ったと言い、原発そのものへの攻撃が心配されたが、その点は国際原子力機関が「原子炉周辺の放射線量に変化はない」との声明を発表しているから、いくら狂気のシナリオでもそこまではないだろう。

そうではなくて、ここで生まれる電力を遮断、つまり全部の原子炉の炉心に制御棒を突っ込んで電気の発生そのものを止めてしまうことによって、ウクライナ国内の電力供給を大幅にダウンさせることが狙いだろう。言うならば「兵糧攻め」だ。

これまですでに2回の当事者同士の首脳会談が行われたが、1回目にも2回目にもロシア側はプーチンの求める「ウクライナの非武装及び中立化」が主題となったのだが、ウクライナ側はもちろん大反対だ。

非武装は論外だが、プーチンの言う「中立」とは、「ウクライナが自発的に中立路線を採る」ということではなく、「ウクライナはNATO(北太平洋条約機構)へ加盟をするな」ということである。

このことを受けてウクライナ大統領はゼレンスキーは、急遽、EUに向けて加盟申請をしたようだが、EU側は「そう今日明日にというわけにはいかない」と難色を示している。どうなることか。

聞くところによればアメリカは非公式にゼレンスキー大統領に国外退避(亡命)を打診したらしいが、ゼレンスキーはそれを断ったそうだ。見上げたものである。


ところで「非武装中立」と言えば、日本でもおなじみの時代があった。革新の社会党の勢力が極めて大きかった時代である。大雑把に言えば1960年代から1980年代前半までだったろうか、憲法第9条を盾に、自衛隊の存在すら認めようとしなかったのだ。

憲法9条は中心条文である第一項は「国際紛争解決の手段としての戦争は放棄する」であり、それを受けての第2項の「戦力は持たない」なのであり、国際関係において紛糾があっても、それを解決するための戦争はしないが、国内で例えば内乱・クーデターなどを解決するための戦力は持てないとは書いてないのである。

「国際紛争での武力解決はしない(第1項)が、国内紛争においては武力解決も否定されず、そのための武力(戦力)は否定されていない(第2項)」ということである。現実問題として戦後これまで内乱やクーデターはなく、したがって公的な武力(自衛隊)が鎮圧に向かったことはなかったが、憲法9条とは国内向けの戦力を否定するものではないのだ。

この国内向け戦力は「国民多数の安寧を保持する」ための戦力であるから、必然的に「国外からの我が国及び国民の安寧を危機に陥れる侵攻」が発生したら、それを排除すべく出動する(要するに戦う)ことが要請されるのである。これがいわゆる「専守防衛」であり、そのための戦力保持は第9条においては許されていると見るべきだろう。

ただ、9条には「自衛隊」が明記されていないので、第2項にそれを書き加えるべきで、その際は「自衛隊」とするか「専守防衛軍」とするか、「隊」か「軍」かの差だが、現在の自衛隊はすでに「災害復旧隊」的な国内の安寧と平和を維持する大きな役割を担っているので、そのままの名称の方が国民にとっては「安心・安全」感があって親しみやすいだろう。

憲法はその国の国民向けの条文であるから、その中で自衛隊と明記はするが、対外的には「専守防衛軍」として通用するかなりの戦力は保持しつつそうアピールすべきだろう。「口先外交」と言われようが、ちゃんと口に出すことが国際関係では重要だ。

以上の考えから、私は第9条改正を目的とする憲法改正では、その第2項に「自衛隊を保有する」と書き加えるいわゆる「加憲派」ということになる。

「非武装中立」の後半の「中立」だが、当時の革新勢力はアメリカとの同盟「日米安全保障条約」を廃棄して中立化する方向性は持っていたのだが、廃棄してしまうと丸腰になってしまい「自衛隊を持て! 家の戸締りをしない気か!」というような保守側の強い反論を受けたものだ。

またメディアも、米軍があれば日本の再軍備は最小で済むというような消極的な自衛隊反対論に染まっていたから、突っ込んだ論議は避けられていた。

革新勢力の非武装中立という考えは、「非武装も中立も」ということで、具体的には「自衛隊を廃止」かつ「日米同盟の廃止」である。しかしまず、国際通念上「自国を守る軍隊さえない」国は有り得ない。

だが、日米安保はどうか。実はこの二国間同盟は国連憲章上は認められていない。国連加盟国による「多国間同盟」(先に触れたNATOがそうである)によらなければならぬと前文からは読み取れる。

しかし日本は53条国、つまり旧敵国なので、占領期間が設けられて数々の罰則的な規制下の置かれ(憲法まで作られ)、その後サンフランシスコ平和条約(1951年9月締結)によって晴れて自由の身になり、さあこれからは「多国間同盟」の一員になろうという矢先に、アメリカのごり押しで日米安保という2国間同盟を押し付けられたのである。

あれから70年余。途中、1960年の安保改定では例の安倍元総理の言う「私の祖父の岸信介は、まるで占領軍そのままだった(横暴な)米軍を、ゆるいものに変えた」ことはあったものの、逆に日米地位協定などで締め付けられて今日を迎えている。

いまどき日米安保廃止と言えば、「中国の脅威が迫っているのにお前はなんという世間知らずなのか」と言われるのがオチだが、ウクライナのベレンスキー大統領がもし「我が国は永世中立国になる」と訴えたら、もろ手を挙げて賛成する。私の望むところだ。もちろん「武装した永世中立国」でなければならない。


『男はつらいよ』第20作

2022-03-03 23:03:54 | 日記
毎週土曜日に再放送され、ビデオに撮り溜めていた『男はつらいよ』(山田洋次監督)の第20作目を鑑賞した。

1977年(昭和52年)12月上映のこの作品は、サブタイトル「寅次郎頑張れ!」という。

オープニングに寅次郎の夢が再現される作品が多くなったが、今回のは柴又の界隈が再開発か何かにあい、「地上げ」でもあったのか、とら屋も店の裏の朝日印刷も事業を打ち切り、手にした金で富豪のような身成りをしているというシーンだった。

さくらもひろしもおじちゃんおばちゃんも、そしてタコ社長も、見違えるような恰好をしており、これはこれで見ものであった。とくにおばちゃんの変身は、そう言われてよく見なければ誰だか見当がつかないくらいだったのは、別仕立ての映画のシーンのようで面白かった。

寅次郎は夢の中で柴又にそんなことがあってたまるかと目を覚まし、相変わらず旅先での居眠りだったことに気付くのだが、とら屋の夢を見るということはまもなく柴又に帰るという伏線でもある。

案の定、寅次郎がとら屋に帰ると、店先にいた見知らぬ青年に押し売りと間違われ、110番されてしまうが、その青年は長崎の平戸出身で東京に出てアルバイトをしていて、たまたまとら屋の2階を間借りしていたのだった。

青年の配役は若き日の中村雅俊で、当時はまだよく見かけたヒッピー的な役どころで長髪である。青年はぶっきらぼうに寅さんと入れ替わり、すぐにとら屋を引き払う。

ところが寅も虫の居所が悪く、パチンコ屋へしけこむと、そこに青年がいた。そのまま打ち解けて飲みに行き、酩酊した寅は青年を再びとら屋に連れて帰る。

この青年は近所の食堂「ふるさと」の看板娘にぞっこんで、それを察した寅さんは、早速、キューピッドに変身する。食堂の娘の配役は大竹しのぶで、まだ高校生くらいな初々しさである。

青年と娘は初デートをし、次第に打ち解けてゆくのだが、娘が母親の手術か何かで秋田の実家に戻ったのを、振られたと勘違いした青年はとら屋の間借りした2階の部屋でガス自殺を図る。ガスを出しながら最後のタバコを吸おうと火を付けたら大爆発し、2階から転げ落ちる。

しかし命は助かって、傷心の青年は郷里の長崎県平戸島に帰る。(※爆発で青年の命に別条なかったのはいいとして、部屋はかなりめちゃくちゃになっていたのに、その後改修した様子は写されていないのは首をかしげるが・・・。)

寅さんは気の毒な青年の後を追うように平戸へ行く。と、そこで青年に出戻りの姉のいることがわかる。配役の女優は藤村志保だ。

さあ、マドンナの登場である。姉はレンタ・サイクルと土産物屋を営んでおり、寅さんはしばらく店を手伝うことになった。

例によってご機嫌よく仕事にはまるのだが、寅さんから、食堂の娘が秋田に帰ってしまったのは母親の看病のためだと知らされた青年は、振られたのではないことを知り、東京に会いに行くことになった。ところが姉も弟の恋人を見たいということで一緒に行ってしまう。

姉と弟が揃ってとら屋に厄介になり、生年と娘の結婚が本決まりになったところへ寅が長崎から帰って来る。とら屋の茶の間で二人の門出を祝ったあと、青年が姉ととら屋の2階に上って話をすると、今度は姉が寅さんを慕っていることに気付き、相変わらずぶっきらぼうな調子で「姉さんは寅さんを利用したいのか」などと詰問する。

寅さんはこのシーンを垣間見ており、そうなると寅さんの捨て台詞「それを言っちゃあ、おしまいよ!」が出てもおかしくないところだが、それは寅の胸の内で収まり、寅はまた旅に出ることになる。(※青年と姉はとら屋の2階で話し合うのだが、青年があの自殺未遂でガス爆発した時の部屋の惨状が全く見られないのは、ちとどうかと思う。)

旅先の場所はどこかわからないが、田舎の一本道を何やら音楽を鳴らしながら大衆演劇の一座の小型トラックが寅の後ろから現れ、行き過ぎようとしたところで、トラックの荷台にいた時代劇姿の女座員に「車先生じゃありませんか」と声を掛けられ、寅は「おう!」と破顔一笑、そのまま荷台に乗せてもらい、走り去っていく姿で幕となった。

1968年に始まった『男はつらいよ』シリーズは最初は年に2回ずつ封切られていたので、10年目でちょうど20作となり、これはある意味記念すべき作品だったろう。(※相変わらず寅さんのいつもの旅先の風景には心が和む。この映画のひとつの眼目であり、ファンを惹きつけてやまない点である。)

「寅次郎頑張れ!」というサブタイトルからして、もしかしたら青年の姉と結ばれてハッピーエンド的な大団円を迎えそうな気がしたのだが、結果はキューピッド役になった若い二人だけが結ばれただけで、またもや寅次郎は振出しに戻ってしまう。

しかしこのことは渥美清の生前の48作(1995年12月封切り)まで、我々寅さん愛好家はこの20作までの2倍以上の期間楽めたわけで、寅さんのマドンナとの悲喜劇が引き続き見られてよかったと言えるだろう。

この20作の場合、青年たちと寅とマドンナの2つのカップルが同時並行的に進行しかかったのだが、その一方で寅さんがキューピッド役に徹した青年のカップルでは、ジュリー(沢田研二)と田中裕子、長淵剛と志穂美悦子のカップルが記憶に残る。

とくに後者の長渕と志穂美のカップルは現実に結婚したのだった。寅さんがキューピッドだったのか、山田洋次監督がキューピッドだったのか、多分どっちもだろうが、とにかく話題をさらったものであった。




持統女帝の「甥殺し」(記紀点描㊾)

2022-03-02 10:19:43 | 記紀点描
【はじめに】

「甥殺し」とはおどろおどろしいタイトルだが、天武天皇(第40代・在位673~686年)と皇后の持統天皇(第41代・在位687~697年)は揃って「甥」を亡き者にしている。

天武は壬申の乱(672年6月~7月)を起こし、その結果、兄天智天皇(第38代・在位662~671年)の皇子大友の近江王朝軍を破り、大友皇子は自害している。(※大友皇子は弘文天皇として天皇系譜の第39代になっている。)

また持統は夫の天武崩御(686年9月9日)後、まだひと月も経たない10月3日に甥の大津皇子(母は持統の同父母の姉・太田皇女)を自害に追い込んだ(享年24歳)。

大友皇子が自害した時、持統は天武側の吉野軍の戦陣にいたから、持統は大友皇子および大津皇子二人が自害して果てた渦中に身を置いていたことになり、女性天皇のイメージからすれば驚くほかない。

ここでは詳しくは取り上げないが、同じように「甥」を殺害に追い込んだ女帝がいる。それは天智天皇の母・斉明天皇(第37代・在位655~661年)である。

斉明天皇は弟の孝徳天皇(第36代・在位645~654年)の子の甥・有間皇子が、斉明の統治上の問題点(特に「狂心の渠」=無駄な水路工事)を指摘したことを重臣の蘇我赤兄から聞き及び、ついに丹比国襲を遣わして殺害させている(斉明紀4=658年11月条)。

(※この暗殺の前の同年5月に最愛の孫の建皇子が8歳で亡くなっており、あるいはこのショックが余計に女帝の心情を混乱させ、ヒステリックになっていた可能性がある。)

【大津皇子の自死の経緯】

大津皇子は持統とは同父母の大田皇女の子である。父は天智、母は遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)であった。(※上に上記の8歳で亡くなった兄・建皇子がいる。)

この甥の大津皇子が「謀反の心あり」として追及され自死に至った経緯は次のようである。

<朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇が崩御し、その直後に大津皇子の謀反心が発覚した。>と持統天皇の「即位前紀」は記す。さらに10月2日になって

<大津皇子はじめ32人が一味として捕らえられた。そして翌日には大津に死を賜った。行年24歳。この時、妃の山辺皇女は半狂乱になり、ともに死んだ。>

<大津の人となりは、才気があり、文筆に長けていた。「詩賦(漢詩・文)は大津より始まる」と言われたほどであった。>

<10月29日になって持統は詔勅を出し、大津以外は大津の側近だった帳内(舎人)一人を伊豆に流し、また同じく一味とされた新羅僧の行心については「皇子の謀反に関与したが、罪するには忍びないので飛騨の寺に移す」とした。>

クーデターの一味32人を捕縛し、そのうち首謀者とされた大津皇子は即刻自死へ追いやり、残りのうち2名だけに罪状を嫁したが、拍子抜けするくらい甘い裁定であった。

側近の舎人は遠流だから口封じだろう。また行心という新羅出身の僧は『懐風藻』という詩賦によれば、どうやら大津皇子に謀反をそそのかせた張本人のようなのだ。

要するに「内通者」(スパイ)という奴である。斉明天皇への謀反を企てようとした有間皇子が重臣の蘇我赤兄によってそそのかされ、内通されてしまったのとほぼ同じ手口といっていいだろう。(※旧ソ連のKGBもどきのやり方である。それも女帝が使っているのだから、なかなか開いた口が塞がらない。)

では、なぜ、今日では血縁関係でよく言われる「かわいい甥っ子」のはずの大津皇子を殺してしまったのか。

それは今日にも有りがちな「わが子可愛さ」だろう。

持統には同じ天武の血を引く皇子の草壁がいた。年齢は大津皇子より一つ上だったが、大津の非凡さに全く歯が立たなかったようなのだ。

上で触れたように姉の子の大津皇子は才気煥発であり、かつ容姿も格別に優れていたらしい。

我が子は愚か者でもかわいいのだろうが、しかし周囲が可愛いといってくれなければ役に立たない。父の天智は同じ孫でもことのほか大津の方を寵愛したようで、そのことも持統の嫉妬を買うに十分だったのだろう。

とにかく天武後の後継レースでは衆目の一致するのが大津皇子であった。持統はそれをでっち上げの「謀反劇」に仕立てたてて阻止したわけである。げに女の執念の恐ろしさ・・・か。

【草壁皇子の死】

天武天皇の崩御(686年)後、草壁皇子に即位させれば何のことはなかったのに、持統はそうせず、異常に長い殯(もがり)を継続し、687年10月には天武の御陵である「大内陵」を築き、翌688年(持統称制2年)の11月にようやく天皇を大内陵に葬っている。

そしてやれやれ翌年には草壁皇子が即位して天皇になるはずであったが、あに図らんや、肝心の草壁は689年の4月13日に死んでしまうのである。大津皇子が不慮の死を遂げてから2年半後のことであった。ここに大津の執念ならぬ怨念を感じるのは私だけか。

結果論だが、持統はいったい何のために大津を排除したのか。その意味は全く薄れてしまったのである。大津皇子の死は全くの無駄死にであったことになろう。

この草壁皇子の死後1か月して新羅から天武天皇への弔問使いが来日しているが、その時に興味あるトラブルが発生した。その内容をかいつまんで書くと次のようである。

<天武崩御への弔問使いの金道那が、新羅の官位で「級飡(キュウサン)」という17階ある官位の上から数えて9番目だったということで、持統は「孝徳天皇の時は翳飡(エイサン)という2番目で、天智天皇の時は一吉飡(イチキッサン)という7番目、今度は9番目の低い位の者がやって来たが、これはどういうわけか!」と怒り、結局、金道那を追い返してしまった。>

約30年前の孝徳天皇の時の官位2番目というのに比べ、天智は7番目、天武は9番目なのはどう考えたらよいだろうか。新羅が孝徳天皇の時に翳飡(エイサン)という2番目の位の使いを送ったことは当然承知のはずである。

とすると新羅はそれを分かっていながら天智に7番目を、天武に9番目を充てたことになる。それは結局新羅の天智なり天武なりへの評価なのではないか。

まず天智は中大兄皇子時代に新羅・唐連合軍と白村江で戦った倭軍の最高指導者であり、唐・新羅にすれば敗軍(旧敵)の将であった。したがって孝徳天皇より著しく落ちる7番目と値踏みしたに違いない。これはこれで理解できる。

しかし天武の9番目というのはどうだろうか? 天武は白村江戦役に直接タッチはしていないのである。それがなぜ天智よりも低い位の者が派遣されてきたのだろうか。

そのことは実は私見の「天武天皇=定恵」説を採用すると、容易に説明ができる。というのは天武は皇族ではなく、重臣の家系「中臣氏」(のちの藤原氏)の出身者だったからだろう。(※天武の幼名「大海人皇子」の名が母の斉明紀にも兄の天智紀にも、家系上の説明以外ではほぼ登場しないことから推定される。)

このことは内密にされてはいたのだろうが、先の大津皇子謀反事件をリークしたと思われる新羅僧の行心などは知っていたかもしれない。

【持統天皇の時代】

次期天皇になるべき我が子・草壁皇子が若死にした翌年の690年1月1日に持統天皇が即位した。

即位の際に神祇伯の中臣大嶋が「天神寿詞(あまつかみのよごと)」を読み上げているが、これは新規の儀式である。また忌部宿祢色夫知が「神璽」「剣」「鏡」を皇后に捧げて即位が完了しており、この伝統は今に繋がるものとして注目に値する。

この年には藤原宮を造営する土地を下見しており、4年後の694年(持統8年)12月に竣工し、大規模な都城「藤原京」が開かれた。

天武時代に引き続き、中央集権化つまり律令制への整備はたゆまずに進められており、その体現する場所としての藤原京であった。

また南九州関連として、6年(692年)には法師が派遣され、大隅・阿多に仏教を伝えたという。695年には種子島へ覓国使の文忌寸博勢が遣わされたとあり、南九州から離島にかけても集権化を進めていた様子がうかがえる。(※同じ695年に大隅から隼人が上京している。)

696年(持統10年)の10月に藤原不比等など高級官僚たちに資人(使用人)を与えたという記事が見える。

中でも藤原不比等は、この後も王権の枢要を任され、11年後の慶雲4年(707年)4月15日には文武天皇の「宣命」により、「食封(へびと)」実に5千戸が与えられるという大出世を果たしている。(※さらに13年後の720年8月に不比等は62歳で逝去するが、時あたかも王府軍が南九州の「隼人の叛乱」を鎮圧すべく戦っている時であった。征隼人持節大将軍だった大伴旅人は弔問のため都に返されている。)

持統天皇の吉野宮への行幸は32回にも及んでおり、よほど天武挙兵の揺籃の地を好んだようである。

また年2回、4月の夏の初めには竜田の水の神を祭り、7月の秋の初めには広瀬の物忌みの神(風鎮め)を祭ることを欠かしたことはなかった。

かくて治世11年目の697年8月、まだ元気なうちに、次代の天皇として草壁皇子の子の軽皇子に禅譲(生前退位)したのは賢明であった。持統天皇は引退後の文武天皇の大宝2年(702年)に58歳で崩御している。

(※軽皇子こと文武天皇(第42代・在位697~707年)は、持統にとって子の草壁の子であるから孫に当たるのだが、実は母(草壁の妻)は持統の腹違いの妹の阿閉皇女であったから、そっちから見れば持統の甥に当たる。)

春一番か!(2022.03.01)

2022-03-01 13:55:27 | おおすみの風景
遅い昼飯を食べ終わった午後1時過ぎ、それまでぽつぽつと降っていた雨が急に南の風と共に本降りになった。

居間の南向きのガラス戸を打つ雨は結構強く、叩きつけられてはガラス面を伝って下へ行くのだが、その流れがすう―っと一本になっては流れない。強い風にあおられてジグザグの波模様を描く。

それほど吹く風は強い。ひょっとしたら瞬間的には15mを超えているかもしれない。玄関先に出て見たが、玄関前の屋根よりかなり中まで雨が吹き込んでおり、デジカメに雨のしずくがかかるほどだ。

あわてて二枚の写真を撮り、さっさと玄関内に避難した。



こんなに玄関のすぐ手前まで強い南風とともに雨が吹き込んだのは、この冬になって初めてのことだ。(※冬になって初めてという表現より春の訪れというべきか。)

気温も午後2時現在17.5度まで上がっている。風の向きといい、強さといい、気温といい、すべてが「春一番」を表明しているようだ。

一昨日まで天気は3日ほど晴れ間が続いたが、風は弱く、気温も低かった。昨日は朝霜が降り、日中は気温もかなり高くなったのだが、一向に風は吹かなかった。

そして今日。もう春一番が吹いたと言って良いのではないか? 気象庁の見解を待とう。

この雨は春野菜や秋の終わりから冬の寒さに耐えて咲き続けるパンジーや葉ボタンにとっては恵みの雨だ。

またこれだけ強い雨だと12月に庭に敷いた芝生(ヒメコウライシバ)にとっても、底の根の部分までたっぷりと水が染み込むので具合がいい。ずうっと乾燥気味だったのである。

今朝は雨の降らないうちにとイチゴの苗を30本ばかり植え付けたが、この苗たちにとってもタイムリーな雨だった。

一雨ごとに春の訪れが近くなる。

寒さで足踏みしていた河津桜もどうやら満開を迎えた。

山桜が四周の山の中腹にカスミのように群がって咲き出すと、本格的な春だ。

花粉症よさらば、ソメイヨシノよこんにちは――が待ち遠しい。