平成26年(2014年)の8月に当時開催していた大隅史談会の「8月例会」で発表した時の資料が残っていたので、これを掲載することにした。
標題は「一時間でわかる邪馬台国・投馬国・狗奴国」で、魏志倭人伝の半島の帯方郡から倭人の女王国邪馬台国までの行程記事の部分を抜き出し、そこから「南、邪馬台国に至る、水行10日、陸行一月」という所要日数表記と、「郡より女王国に至るには、万二千余里」という距離表記とは同値(同じことを言っている)であることを証明した資料である。
以下、まず魏志倭人伝の女王国に至るまでの行程記事を抜き出している。この記事の長さは全所論の3分の1ほどであり、やや長い抜粋だが、行程記事が無ければ邪馬台国の位置の決めようがないので、省略無しに抜き出してある。(※読み下しの現代文にしてある。また、引用者で下線を引いた部分があり、適宜に段落を入れた。)
【倭 人】
倭人は帯方郡の東南海の中に在り。山島に依りて国邑を為す。旧(もと)百余国(があった)。
漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所は三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を経て南し東ししながら、その北岸、狗邪韓国に到るに七千余里(1)(である)。
はじめて一海を渡ること千余里(2)、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居る所絶島にして、方は四百余里。土地は山険しく、深い林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海(産)物を食し、自活す。船に乗りて南北に市糴す。
また南へ一海を渡ること千余里(3)、名付けて瀚海(広い海の意)といい、一大(壱岐)国に至る。官また卑狗といい、副を卑奴母離という。方は三百里なるべし。竹林叢林多し。三千ばかりの家あり。やや田地あれど、田を耕すも食するに足らず、また南北に市糴す。
また一海を渡ること千余里(4)、末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜して居る。草木の茂るや盛んにして行くに前人を見ず。好んで魚・鰒を捕り、水の深浅となく皆沈没してこれを取る。
東南陸行五百里(5)にして伊都国に到る。官を爾支(にき・ぬし)といい、副を泄謨觚(せもこ・しまこ)・柄渠觚(ひここ)という。千余戸あり。世々に王あるもみな女王国に統属す。郡使の往来するに常に駐まる所なり。
東南(へ陸行して)奴国に至る百里(6)。官を兕馬觚(じまこ・しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。二万余戸あり。
東(へ陸行して)不彌国に至る百里(7)。官を多模(たも・たま)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。千余家あり。
南、投馬国に至る、水行二十日(8)。官を彌彌(みみ)といい、副を彌彌那利(みみなり)という。五万余戸あるべし。
南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行十日、陸行一月(9)。官に伊支馬(いきま)あり。次を彌馬升(みましょう・みましを)、次を彌馬獲支(みまかき・みまわき)といい、次を奴佳鯷(なかて)という。七万戸余りなるべし。
(※このあとに邪馬台国の衛星国家群21か国が列挙され、最後に今しがた出て来た奴国とは別の奴国がある。)
その南、狗奴国有り。男子を王と為す。その官に狗古智卑狗(くこちひこ=きくちひこ)がある。女王には属さず。
郡より女王国に至るには、万二千余里(ある)(10)。
(※※魏志東夷伝「倭人」の条のうち、女王国までの行程記事はここまで)
【邪馬台国が九州にあったとする理由】
以上が行程記事だが、行程を表すのに「○○里」という距離表記(1~7及び10)と「水行〇日」「陸行〇月」(8・9)という日数表記が同時に使われているので面食らうのだが、まず距離表記と所要日数表記とを仕分けしてみよう。
A、距離表記から・・・(1)+(2)+(3)+(4)=水行1万里(帯方郡から末盧国=唐津まで)
これと(10)とを比較すれば、末盧国(唐津)から邪馬台国までは2千里となる。この距離では畿内説は全く成り立たない。
また、(2)(3)(4)は朝鮮海峡の渡海部分だが、狗邪韓国ー対馬ー壱岐ー末盧国の各距離は相当な違いがあり、それを同じ「千余里」としているのは、この千里は距離表記なのだが実は所要日数なのである。それは「一日」ということで、海峡に乗り出したらその日の内に渡り切らなければならない。つまり海峡の途中で寝て二日かけるわけにはいかないのである。これを「海峡渡海千里=一日行程説」と名付ける。
したがって(2)(3)(4)に共通の「千里」とは「一日行程」ということである。
(※この水行千里=一日行程を発見したのは私が嚆矢かと思っていたら、『邪馬台国論争』という上下本を書いた原田大六という考古学者がすでに気付いていた。)
B、日数表記から・・・水行千里が一日行程と同値だと気づくと、(10)の1万2千里のうち、1万里は帯方郡から末盧国への水行行程であり、その所要日数は10日ということが分かる。そこで(9)を見ると、「南、邪馬台国、女王の都する所、水行十日、陸行一月」であった。この「水行十日」とはまさしく距離表記の1万里に該当する。
したがって、(9)の邪馬台国の位置とは、文頭に「帯方郡より南」を補うべきで、けっして直前に記された「投馬国より南」ではない。
要するに、邪馬台国は帯方郡から1万2千里の距離表記の所にあり、そこへの具体的な所要日数は「水行10日して上陸ののちは徒歩で1か月」だということである。(※ただし、水行の際には悪天候のために「日より待ち」の何日間は余分にかかるが、そのことは考慮しない。正身日数である。)
【邪馬台国・投馬国・狗奴国そして伊都国】(注:伊都国は追加である)
①以上A・Bから邪馬台国は帯方郡から末盧国まで正身10日の水行ののちに上陸したあとは、徒歩で1か月の所にあると解明できたわけで、九州島を離れた四国でも畿内でもなく、九州島内に求める他ないことが分かる。その場所とは私見では福岡県八女市である。
②また、投馬国も同様に、「南、投馬国、水行二十日」とは直前に記された不彌国から南ではなく、やはり「帯方郡より南」とするべきであり、そう考えた時、投馬国は帯方郡から末盧国までの水行10日にさらに10日かかる所であるから、九州島の南部一帯(古日向)がこれに該当する。
投馬国は「古日向」でもあり、南九州の鹿児島と宮崎を併せた大国で、当時の戸数は5万戸もあった。これは八女邪馬台国及び傘下の21か国を併せた7万戸に次ぐ大きさである。古日向全体なら十分に擁せられる戸数である。
投馬国の官(王)は彌彌(ミミ)といった。そして副官を彌彌那利(ミミナリ)といった。「那利(ナリ)」とは「妻」の古語であるから、ミミナリとは彌彌に対する妻、つまり女王のことである。
また記紀によると南九州(古日向)から「神武東征」があったのだが、神武の皇子の名は長男がタギシミミで次男はキスミミといったとある。このミミはまさに彌彌に重なっている。
倭人伝の記す南九州投馬国の王名のミミと記紀の記す南九州(古日向)のタギシミミ・キスミミ、そして「神武東征」後に大和で生まれた橿原王朝の皇子たちの名にカムヤイミミ・カムヌナカワミミと「ミミ」名が付けられたことと考え併せると、南九州(古日向)からの大和への東征(政権移動)は間違いなくあり、しかも実はその東征の主体は投馬国であったと考えてよいことになる。
③狗奴国については、倭人伝に「女王国の南にあった」と書かれている。女王国の21か国の連盟範囲の最南端は伊都国の東南にあった奴国とは同姓同名の奴国であった。この奴国は「女王の境界の尽きる所」と書かれ、現在の玉名市であると見られる。そうすると女王国の最南部は菊池川によって区切られていることになり、狗奴国は菊池川の南に展開する男王「卑彌弓呼(ヒミココ)」(これはヒコミコの誤りだろう)が支配する大国であったとしてよい。
官に「狗古智卑狗(キクチヒコ)」がいたとあり、菊池川中流部の豪族・菊池彦を抱え込んで、八女邪馬台国への北進を目論んでいたように思われる。狗奴国は八女邪馬台国の難敵であった。
④伊都国はほとんどの邪馬台国論者にとっての鬼門というべき国である。
多くの倭人伝解釈の伊都国の比定地は「イト国」と読むことで、福岡県糸島市なのであるが、そもそも糸島市ならい壱岐の島(一大国)から船で直接接岸すればよく、なにもわざわざ佐賀県唐津市の末盧国で上陸して500里もの道を歩く必要はない。しかも唐津市から糸島市へなら方角は東北である。(※要するにまさに「鬼門」なのだ。)
この抜き差しならない頑固な誤謬によって、以降の方角は南を東に変え(と言うよりか変えまくり)、ついに帯方郡から1万2千里のうち1万里は唐津港接岸で消え、残りはわずかに2千里しかないのを無理矢理畿内大和まで引っ張り、また「帯方郡から南へ水行10日、陸行1か月」のうち水行10日は唐津接岸で消え、残りは陸行(徒歩)の1か月だけだというのに、瀬戸内海を無理矢理水行させているのだ。
伊都国を「イツ国」と読み、唐津からの東南陸行500里を文字通り歩かせたら、松浦川沿いの峻険だがまごうことなき道が続いており、分水嶺近くには「厳木町」がある。現在は「きゆらぎ町」と読ませるが、これこそが「イツキ」で「伊都城」ではないか。戸数千戸というのも無理なく収まる地域である。
この「伊都城(イツキ)」を越えたら広大な佐賀平野に至り、そこには戸数2万戸の奴国を始め穏やかな有明海の恵みを受けた国々が延々と続いていた。(※著名な吉野ケ里もその一国で、私は華奴蘇奴(かなさな)国に比定している。)
伊都国を糸島市に比定したために、方角はでたらめになり、水行と陸行の距離やその比率などどうでもよくなり、結果として「倭人伝の記述はそもそもこれを書いた魏の史局の陳寿という人が、直接見聞したわけでもない物語(造作)に過ぎず、まともに扱える代物ではない」と、研究者各自各様の解釈を許すことになってしまった。
畿内大和説は行程記事の距離表記においてすでに破綻しており、伊都国を糸島市に比定したため方角まででたらめにしてしまった。九州説をとる研究者でも同じように伊都国を糸島市に比定する過ちをおかし、さらに「南、投馬国」「南、邪馬台国」の南を「帯方郡からの南」と割り出せず、これも不彌国からの解釈に四苦八苦し、研究者の数だけと言われる珍解釈がまかり通っているのが現状である。