鴨頭の掲示板

日本史学関係の個人的な備忘録として使用します。

【受贈】 常民文化研究会『コロス』第177号(2024年5月)

2024年07月21日 00時00分01秒 | いち研究者としての日記
西海(にしがい)賢二先生より標記の会報を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
この会報には、
西海賢二「石鎚講中参拝記念録に世相を読む(2)―安芸国忠海二窓西山講中の二百六十年に寄せて―」
が掲載されています。これは、石鎚敬神婦人会報『たかね』第56号(2024年7月)に《特別寄稿》の種別で掲載された作品の続きです。
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【受贈】 常民文化研究会『コロス』第176号(2024年2月)

2024年07月20日 00時00分01秒 | いち研究者としての日記
西海(にしがい)賢二先生より標記の会報を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
この会報には、
西海賢二《資料紹介》「続 鹿島踊りと青年会合宿日誌について」
と題する作品が掲載されています。これは、同じ会報の前の前号にあたる第175号(2023年11月)に掲載された資料紹介の続きです。
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【受贈】 石鎚敬神婦人会報『たかね』第56号(2024年7月)

2024年07月19日 00時01分01秒 | いち研究者としての日記
西海(にしがい)賢二先生より標記会報の完成誌を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
その67~77頁には、西海先生の《特別寄稿》「石鎚講中参拝記念録に世相を読む(1)―安芸国忠海二窓西山講中の二百六十年に寄せて―」が掲載されています。
寄稿文では、現広島県竹原市忠海町の安芸国西山講中をめぐる参拝記録の帳簿に着目し、この記述が、単に参拝の人員記録・経費ばかりでなく参拝当時の世相(江戸時代における徳川政権のあれこれ、天変地異・物価など)にまで及ぶとしました。そして、手始めに翻刻されたものの一端を紹介しています。
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【受贈】 西海賢二「相模民俗学会総会公開講演 民俗芸能を消滅させられた地域―奥三河と相模人形座芝居の縁から―」『民俗学論叢』第39号(2024年5月)

2024年07月18日 17時30分01秒 | いち研究者としての日記
西海(にしがい)賢二先生より標記講演録の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
愛知県豊田市の旧北設楽郡稲武町域に建つ小田木八幡神社の境内で、江戸時代の享保年間より明治初期の廃仏毀釈のころまで催された人形座をテーマに取り上げます。この人形芝居は令和4年(2022)9月、衰退後147年ぶりに復活するのですが、それまでの経緯や、それまでに西海先生自身が神奈川県旧相模国域などさまざまな地域で携わってきた人形芝居研究との関わりなどを述べています。
また、講演録本文のあとには会誌20頁分弱ものスペースを用い、小田木の人形芝居で用いられた人形や衣装の写真を多数掲載しています。
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【備忘】 交通史学会2024年度第1回編集委員会

2024年06月17日 00時05分03秒 | いち研究者としての日記
6月16日(日)14時から1時間強、標記の委員会がZoomを用いたオンラインで開催され、東広島市内の自宅より参加しました。そこでは司会を担当しています。
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【記事】 鴨頭俊宏《新刊案内》「新井浩文著『文書館のしごと―アーキビストと史料保存―』『地方史研究』第429号(2024年6月)

2024年06月09日 00時22分57秒 | いち研究者としての日記
このたび発行された地方史研究協議会『地方史研究』第429号(74巻3号、2024年6月)には、標記の新刊(吉川弘文館、四六判ソフトカバー、284頁、本体2,000円+税、2024年3月)を案内する記事も掲載されておりました。掲載は116~118頁です。


私自身は、学芸員の資格を取得しておらず、もちろんアーキビストの認証を受けておりません。しかしながらここ数年、専門的なテーマとは別途、趣味で自治体史誌編さん事業史の研究にも取り組み、それをテーマとした論文を随時発表しております。こうした立場で、地方自治体における史料保存問題の観点から、1つ案内記事を書いてみました。
標記の新刊をめぐっては、全国各地の文書館・史料館等に勤めるアーキビスト・学芸員たちに読まれ、今年後半から来年にかけて書評が学術誌に載ると予想されるので、要注目です。
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【記事】 鴨頭俊宏《新刊案内》「坂根嘉弘著『アジアのなかの日本―日本の農業集落と経済発展―』」『地方史研究』第429号(2024年6月)

2024年06月08日 23時59分20秒 | いち研究者としての日記
標記の記事を掲載する地方史研究協議会『地方史研究』第429号(74巻3号、2024年6月)が完成して、自宅へも配達されました。掲載は113~115頁です。
この記事は、坂根嘉弘先生より標記の完成書(清文堂出版、A5判、354頁、本体9,500円+税、2024年1月)を1冊、私にも贈ってくださったことに対し感謝の意を表すことも兼ねています。

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【備忘】 交通史学会の委員について

2024年05月14日 00時00分01秒 | いち研究者としての日記
運営委員を務め続けている交通史学会の委員会について、2024年度より、兼任で副編集委員長も務めることとなりました。任期は3年、2026年度までです。
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【備忘】 交通史学会2024年度第1回「運営委員会」「常任委員会」

2024年05月07日 08時20分00秒 | いち研究者としての日記
6日(月)18時~18時30分ぐらいまで、委員を務める標記学会の委員会に、東広島市の自宅からZoomを用いたオンラインで出席しました。
内容は、今週末の土日に和歌山市内で開催予定の大会と、新年度の体制とに関する話し合いが中心であり、新しい体制は大会の総会で承認を得たあと正式にスタートするとのことです。
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【受贈】 東昇「海軍・谷本馬太郎と由良神社・由良村の交流」『君尾山光明寺文化財調査報告Ⅱ 由良神社文化財調査報告―京都府立大学文化遺産叢書第27集―』(2024年3月)

2024年04月23日 12時20分55秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の抜刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
表題にある由良神社とは、現在の京都府宮津市旧由良村域に遅くとも江戸時代半ばには創建されていた神社であり、戦前には府社へ昇格していました。その昇格をめぐり推薦書で後押ししたのが軍艦由良の艦長歴を有する豊田副武(とよだそえむ、明治18〔1885〕~昭和32年〔1957〕、由良艦長:大正15年〔1926〕11月~昭和2年〔1927〕11月)です。
対してこの論文では、海軍と由良神社ないし由良村との交流の観点でいえば、広島県福山市出身で同じく由良の艦長を務めた谷本馬太郎(たにもとうまたろう、明治19年〔1886〕~昭和17年〔1942〕、由良艦長:同6年〔1931〕12月~同7年〔1932〕11月)が、さらに重要だと提起しています。その論拠となりうる史料として、谷本を含む海軍関係者と由良神社・由良村とのあいだの書簡群をリスト化し提示しました。
個人的な感想としては、導入部分にあたる1「海軍関係者の由良神社への参拝」から2「由良艦長谷本馬太郎」にかけての作文が、たくさんの情報を詰め込みすぎてパッと見でテーマへの接続がわかりにくいと感じます。導入部分を整理しなおすのが望ましいと思いました。
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【受贈】 東昇「第2章『文化期通信使対馬来聘と郡方支配の展開』」(中野等編『中近世九州・西国史研究』、吉川弘文館、2024年3月)

2024年04月22日 04時09分13秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の抜刷を1つ、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

標記の論文では、それまで将軍就任のたび江戸まで登っていた朝鮮通信使につき、経済的事情により対馬(現長崎県対馬市)までの行程に短縮・節約されたいわゆる「易地聘礼」(えきちへいれい、文化8年〔1811〕、論文では「対馬来聘」とも表記)をテーマに取りあげ、対馬藩による地域支配の、その前後における変化を説明しようとしています。
結論を簡潔にいえば対馬藩の地域社会は、いわゆる「四つの口」の1つとしてそれまで信使迎接などの御用で多量の貨幣が投入されるなどして、貨幣経済にもとづく被支配層の階層分化が進んでいました。ところが、その準備のなかで天明の飢饉(1780年代)を経験したときのような農村社会への回帰・再興が促され、その翌年、文化9年(1812)より対馬藩の郡奉行所を中心としさらにこうした政策を推し進めていくと、指摘しています。

以下の3点は、論文をひととおり読んでの個人的な感想です。
1つ、地域社会への公金投下を正しく評価するうえで肝腎な情報を補っていくこと。第1~2節で、藩領社会の構成や朝鮮通信使の迎接をめぐる支配層からの褒賞の内容を記述しているものの、門外漢の読者が当時島民1人あたりの収益(もちろん正確な実態把握は困難でしょうから、ある程度の見積もり)を理解するうえで重要な情報までは整理されていません。例えば、掲載書210頁で「夫役では、幕府役人への付人数合計二千七百九十九人、普請や運漕水夫などの徴発郷夫役は約二十七万人とあり、多くの領民が動員された」とあります。これは、のべ人数なのか、そうでないのでしょうか。対馬の人口規模を加味すればおそらく前者でしょう。ならば約27万人とはいうものの、2,700人が100回なのか、270人が1,000回なのかで、地域への貨幣の行き渡り方が異なってきます。当時の島の人口、水夫(通史的には「水主」とよぶ地域が多い)の登録者数などの情報も他史料で補いながら、実際の支給対象数を見通しやすくするのが好ましいでしょう。
2つめは、1つめに関連して、貨幣での支給額の根拠となる計算式は何かです。論文では、実際に支給された金額などを明記していますが、これはどのような計算式で算出された数値なのか。そして、計算式は時代のなかでいかに変更されるものかは、対馬の社会史を貨幣経済の視座で見通すうえで重要な論点でしょう。私が専門的に取り組む瀬戸内海伊予国域島嶼部の場合では、支給額の計算にあたり米1石あたりの貨幣換算のレートが公定されて、このレートにもとづき貨幣あるいは米現物の支給量が決められていました。しかも、ここでのレートは、私が読んだ史料の場合だと、一般的な相場より少し高めに設定されています。では、対馬藩の場合どのような仕組みなのでしょうか。朝鮮通信使など国家的な迎接の場合だと、おそらく、実際には〝どんぶり勘定〟的な計算もあったでしょうけど、当時の経済状況と正しく見比べるうえで不可欠な情報だと考えます。
そして3つめは、2つめに述べたことと関連して、現物と貨幣2つの経済のあいだにおけるバランスの歴史です。くり返しになりますが今回の論文は、有名な全国的大飢饉が生じた天明年間から易地聘礼があった文化年間までの変化を対象とし、大雑把にいえば、地域社会で現物の経済が潤うと貨幣経済が発展し、貨幣経済が社会の不都合を生むと現物重視の政索へ揺り戻そうとする藩政の本質を指摘しました。しかし、こうした流れが以前から周期性をもって連続するものなのか否かは、対馬の歴史を正しく理解するうえで重要な論点でしょう。おそらく、個人的な予想としては前者であり、現物と貨幣のあいだで重点を交互に揺り戻しながらバランスを取ってきたのが対馬の近世史ではないかと考えます。もし予想どおり周期性をもつものならば、文化年間の現物重視化は、易地聘礼を超えた動き(=変化のきっかけの1つにすぎない)である可能性も出てくるのではないでしょうか。
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【受贈】 東昇「第5章『近世孝子褒賞史料・刑罰記録にみる障害表現—乱心・不平気・気分不揃—』」(障害史研究会『障害史へのアプローチ』、2024年3月)

2024年04月21日 00時20分47秒 | いち研究者としての日記
東昇先生より標記論文の別刷を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。
まず、この論文は、2019~23年度『科研費』基盤研究A「障害の歴史性に関する学際統合研究―比較史的な日本観察―」(研究代表者:高野信治、課題番号:19H00540)の一環を公表するものです。九州大学の大学文書館内で障害史研究会が設立されており、科研費研究の成果を、その会誌『障害史研究』の別冊としてまとめた模様です。


東先生の論文は、幕府直轄地の長崎と藩領の対馬・紀伊田辺とに関する孝子褒賞史料・刑罰記録を読み込み「乱心」をはじめとする精神障害の表現の変化や地域差を見通そうとしました。結論を簡潔にいえば、精神障害の表現は幕府法により「乱心」で統一されていく流れだったのが、化政期の1820年代以降の史料でさまざまな表現が検出されるとともに、表現用語の統一化・整序を促す動きも見られるようになったとのことです。すなわち、19世紀前半なりに、多様性をもつ精神障害への理解が深まっていくとともに、精神障害の問題を国内社会の共通認識にしやすくしようとする動きが生じたと見通せられましょう。

私個人的には、次の2点が気になりました。
1つは、生まれつきでもつ精神障害と、健常者として生まれ育ったものの成長後に精神障害を患う場合との分別がいかにつけられるようになったかです。現代社会では広く認識されている発達障害・鬱・認知症・酒乱などの症状が、江戸時代の場合、時期的変化とともにどう認識され、法に反映されるようになったのでしょうか。そして、こうした変化が論文で指摘される1820年代以降の変化といかに相関するのかを、今後の課題点に挙げられましょう。
2つめは、幕府法の用語として定着した「乱心」の意味が江戸時代の約260年間、社会一般で本当に意味が変わらぬままだったのかです。現代人の感覚的に法律用語は、一度法文で定義づけさえすれば、何年経とうが意味は変わらぬものに思えましょう。しかし、それはインターネットや辞・事典など、根拠の情報をすぐ確認できる手段が手許にある時代だからこそ言えることでもあります。このような手段が無い江戸時代、全地域で変わらぬままだったのでしょうか。「乱心」は地域社会で差別用語的に広まっていきうるものだけに、法律用語と各地域社会での実際との齟齬の可能性が気になりました。
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【受贈】 三重県『三重県史研究』第39号(2024年3月)

2024年04月20日 01時05分49秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記の完成誌を1冊、私へも贈ってくださりました。ありがとうございます。

この学術誌には

藤谷彰《研究ノート》「四郷商工会の設立とその意義」

が掲載されています。表題にある四郷とは、今日の三重県四日市市域の南西部に存立していた八王子・室山・西日野・東日野4集落の総称です。日露戦争期にあたる明治39年(1906)、県・市ではなく1つの地域レベルで設立されたその商工会について、個性や歴史的意義を、日本近代における商工会史と照らし合わせもしながら見とおしています。明治末期・大正時代・昭和初期と、段階ごとの変化が読みやすいです。

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【備忘】 本ブログののべ訪問者数が15万に到達

2024年04月19日 01時14分40秒 | いち研究者としての日記

本ブログにつき、久しぶりにアクセス解析をチェックすれば、開設からののべ訪問者数が15万を超えていました。のべPV数は28万に到達です。

本ブログは、長いブランクだと2ヶ月に1本となるぐらいの不定期投稿ゆえ、一日平均のべ約29人のアクセス数なのですけど、さすがに開設から5,180日(14年と2ヶ月半)以上も経てばそれほどの数になるのですね。

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【受贈】 三重県総合博物館『研究紀要』№10(2024年3月)

2024年04月19日 01時11分54秒 | いち研究者としての日記

藤谷彰さんより標記の完成誌(A4判ソフトカバー)を1冊、私にも贈ってくださりました。ありがとうございます。この紀要には

藤谷彰《研究ノート》「神戸藩の年貢政策と徴租法―高宮村・河田村を事例として―」

が掲載されています。

タイトルにある「神戸」は、国内で「こうべ」「ごうど」などさまざまな読み方の地名が現存するものの、ここでは「かんべ」と読みます。今日の三重県鈴鹿市域に本拠を置き、17世紀に支配の交替が相次ぐものの幕末まで存続した、石高約1.5万のいわゆる小藩です。17世紀初めの江戸幕藩体制成立期の一時期、藩主を務めた一人が、のちに伊予国西条藩(現愛媛県西条市域)を治める一柳直盛です。研究ノートでは、現鈴鹿市域にあたる2つの村につき残された年貢関係史料を解析しながら、小藩ならではの年貢制度事情を見通しました。

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