『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀 (新潮社)
東浩紀という人は、小説家である前に評論家であり、思想家であり、社会学者(?)なので、Web上には多方面からの言及が散見される。
その中には、東浩紀の過去の言論を含めた批評や感想が多くあるのだが、自分は特に東浩紀の著作を他に読んでいない。
ベーシックインカムなどの単語がさらっと現れる政治思想の側面や、現代的な生き方に対する批評などは興味深くはあれど、正直言ってピンとこない。
35歳問題にしても、35歳という年齢から来る問題なのか、かつての“いちご世代”と同様、団塊ジュニアという世代に特有の問題なのかもよく理解できていない。
さらにこの小説は、登場人物の誰にも感情移入して読むことができなかった小説でもあるわけだが……。
で、自分はやっぱりSF読みなので、SF的な読み方、すなわち、“この世界の在り方”みたいなものに興味を向けてしまう。
この物語の設定を、(あえて)素直に信じると、全ての世界は別な世界上で計算されるシミュレーションである。そして、シミュレートされる人格は量子通信によってコミュニケート、もしくは入れ替わりが可能である。
もしも世界がすべてシミュレーションならば。ここを基点として、ある意味なんでもありの世界が構築される。無論、何でもありだからといって、この小説ではハチャメチャに陥ることなく、3つないしは4つの世界線を行き来するだけで物語は閉じる。
量子コンピュータの計算収束時に捨てられる結果はどこに行くのかという有名な命題から想起された世界であり、SFファンにとっては目新しいモノではない。しかし、“すべて”の世界がシミュレーションであるならば、「その世界はどこから始まったのか?」という疑問がどうしても生まれてしまう。
世界Aと世界Bがお互いをシミュレートしているのであれば、それらの世界はどのようにして始まったのか?
この小説上では、上記の命題は忘れ去られたのか、意図的に無視されたのか、回答は与えられない。どちらかというと、お互いをシミュレートする世界という設定が所与のものとして与えられる。それは量子うんちゃら科学の成果として披露されるわけで、主人公たちが冒険家よろしく、世界の果てで見つけた真実ではない。
それならば、“本当の”世界はどうなっているのか。世界は相互にシミュレートされている。しかし、シミュレートの基点となる世界がどこかにあるあはずだ。
そこで出てくるのが“物語外”。
……それがどうしたということもないが、まぁ、そういいうことだ。理樹ではないが、どうも騙されているという違和感、そして物語の設定を素直に受け入れることができない感覚が、読了後も付き纏ってくるのは否めない。
なんというか、残尿感のような気持ち悪さだけが残る物語だった。
ところで、実はこの小説で一番SF的なネタというのは、インターネットの中に、どこからもハイパーリンクされない別な空間があり、その中では別な世界の記述されているという発想。
たしかに、ハイパーリンクが切れているページでは、その先をクロールされることもなく、DNSにドメイン情報が登録されていながらも、誰かがフィッシングサイトよろしくアドレスの偶然な打ち間違いによってのみ到達できる不思議の世界。
こんなところにもまだ、未踏の秘境があったのか!
21世紀の不思議の国は、タンスの奥でも、押入れの向こうでもなく、ネットの中にこそある。というのは、ちょっとロマンチックな驚きだったかも。
東浩紀という人は、小説家である前に評論家であり、思想家であり、社会学者(?)なので、Web上には多方面からの言及が散見される。
その中には、東浩紀の過去の言論を含めた批評や感想が多くあるのだが、自分は特に東浩紀の著作を他に読んでいない。
ベーシックインカムなどの単語がさらっと現れる政治思想の側面や、現代的な生き方に対する批評などは興味深くはあれど、正直言ってピンとこない。
35歳問題にしても、35歳という年齢から来る問題なのか、かつての“いちご世代”と同様、団塊ジュニアという世代に特有の問題なのかもよく理解できていない。
さらにこの小説は、登場人物の誰にも感情移入して読むことができなかった小説でもあるわけだが……。
で、自分はやっぱりSF読みなので、SF的な読み方、すなわち、“この世界の在り方”みたいなものに興味を向けてしまう。
この物語の設定を、(あえて)素直に信じると、全ての世界は別な世界上で計算されるシミュレーションである。そして、シミュレートされる人格は量子通信によってコミュニケート、もしくは入れ替わりが可能である。
もしも世界がすべてシミュレーションならば。ここを基点として、ある意味なんでもありの世界が構築される。無論、何でもありだからといって、この小説ではハチャメチャに陥ることなく、3つないしは4つの世界線を行き来するだけで物語は閉じる。
量子コンピュータの計算収束時に捨てられる結果はどこに行くのかという有名な命題から想起された世界であり、SFファンにとっては目新しいモノではない。しかし、“すべて”の世界がシミュレーションであるならば、「その世界はどこから始まったのか?」という疑問がどうしても生まれてしまう。
世界Aと世界Bがお互いをシミュレートしているのであれば、それらの世界はどのようにして始まったのか?
この小説上では、上記の命題は忘れ去られたのか、意図的に無視されたのか、回答は与えられない。どちらかというと、お互いをシミュレートする世界という設定が所与のものとして与えられる。それは量子うんちゃら科学の成果として披露されるわけで、主人公たちが冒険家よろしく、世界の果てで見つけた真実ではない。
それならば、“本当の”世界はどうなっているのか。世界は相互にシミュレートされている。しかし、シミュレートの基点となる世界がどこかにあるあはずだ。
そこで出てくるのが“物語外”。
……それがどうしたということもないが、まぁ、そういいうことだ。理樹ではないが、どうも騙されているという違和感、そして物語の設定を素直に受け入れることができない感覚が、読了後も付き纏ってくるのは否めない。
なんというか、残尿感のような気持ち悪さだけが残る物語だった。
ところで、実はこの小説で一番SF的なネタというのは、インターネットの中に、どこからもハイパーリンクされない別な空間があり、その中では別な世界の記述されているという発想。
たしかに、ハイパーリンクが切れているページでは、その先をクロールされることもなく、DNSにドメイン情報が登録されていながらも、誰かがフィッシングサイトよろしくアドレスの偶然な打ち間違いによってのみ到達できる不思議の世界。
こんなところにもまだ、未踏の秘境があったのか!
21世紀の不思議の国は、タンスの奥でも、押入れの向こうでもなく、ネットの中にこそある。というのは、ちょっとロマンチックな驚きだったかも。
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