鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

棗(なつめ)その1

2015年08月16日 00時00分01秒 | マニュアル

 茶道で使う茶入れで、湿気を嫌う抹茶(玉露等)は密閉されていることが大切である。棗は中国原産の落葉小高木で、黄茶色の楕円形の実は、食用や漢方薬になる。クロウメモドキ科の植物であり、実の形が似ているので、抹茶入れのことも指す。茶道の点前(てまえ)では中心的な用具となっている。形によって棗、寸切(すんぎり)、吹雪(ふぶき)中次(なかつぎ)等と名称が異なる。漆工では高度な技巧が必要であり、合い口の仕上げによっては、かなり丁寧な仕上げが行われてきた。通常印籠蓋(いんろうぶた)を使っている。

 

 素材は木材の引き物であるが、狂いの少ない素材を使い、サクラ、トチ、ケヤキが用いられてきたが、十分乾燥させた古材を使う。柾目のヒノキ材の縦引きが最良とされる。漆工においても本堅地ほどは下地付けを行わないが、素材はある程度の塗膜厚が必要なため、蓋と身の部分に塗り代(ぬりしろ)を持っていなければならない。古材を使うのは、木目と木目の間である白太が、温度や湿度によって縮むため、時間をかけて涸らす(乾燥させる)必要があるからである。

 

 涸らす期間は、下地を付けてから1年間程度または、下塗りまでには1ヶ月以上涸らす必要がある。涸らすためには人工的な加熱や除湿を行うことはしないし、自然に任すので、作業場の棚などに放置すればよい。下地付けは、素地の狂いを無くすことと、上塗りとの密着性を高める中間的な塗膜であり、下地と上塗りとの密着性を高める。併せて、素地の持つ凹凸を修正するために施す。その目的以外、厚塗りすると重量が嵩み、薄く付けるととぎによる研ぎ破れで、上塗り塗料の吸収性に斑を生じる事になる。薄く均一に下地付けを行う。

 

 塗装工程は通常の本堅地と変わらないが、布着せより和紙を使った紙着せが主に用いられる。紙着せの場合も全体を覆うのではなく、欠け易い部分に集中すればよい。下地付けにはへらを用いるが、曲面に適したへらは自らが作ればよい。1回へら付けし、乾燥後は砥石や炭で表面を削り、平坦な面を得ることが大切である。(次回へ続きます)


五輪エンブレム途中経過

2015年08月15日 00時00分01秒 | 提言

 このところの五輪問題から派生した様々な動きがあり、世論の突き上げは厳しいものがあるようだ。莫大な建設費用、エンブレムパクリ、第三者委員会の報告等話題は尽きない。どれも共通しているのは、ベールが包まれた秘密裏に行われていた行為に対するど素人集団が繰り広げたお粗末な対応である。十分な吟味が成されずに、携わってきた者が誰も当事者ではないとする責任回避論である。

 

 最も顕著に表れたのは、エンブレムパクリが裏付けられるまで行っていないが、類推できるような同じ制作者が有名企業のおまけ製品であるトートバックの図柄について、理由も無しに取り下げたとの情報である。30点の内の8点の様であるが、一躍五輪エンブレムの採用が決まり、有頂天であったがデザイン盗用問題が発覚し、事実無根との制作者自身の表明があった矢先のことであり、耳を疑わざるを得ない。

 

 事件発覚からの数週間経った後での表明は、なにやらきな臭いところがあり、記者会見での本人の態度は自信のなさを身体全体で示しており、うつろな目つきは公明正大とはかけ離れていた。多くの視聴者は信頼出来ない不安な気持ちにさせられたと思われる。声明文を読むだけでは疑いは晴れない。取って付けた様なオリジナリティを強調はしてみたものの、御白州に引き出された罪人の様であり、自信がある者が見せる正々堂々とした態度は微塵にも見られなかった。

 

 盗用であるなら早い内に取り下げても良かったのであるが、時間が経過し、記者会見まで行ってからはもはや取り下げる機会を逸し、最悪の結果を招くことになろう。若くして得た名声は失墜し、業界では再起不能、一生涯に及び笑い者と化す。ここまでのシナリオが読めないとは思えないが、自分でまいた種は自らが刈り取らなければならない。

 

 この期に及んで非を認めないならば、裁判で徹底的に戦うしか方法はない。裁判ともなれば、審査に時間を要し、その間は制作者のデザインはお蔵入りであり、結審し、勝訴か、和解で始めて使えるわけであるが、時間の経過は元に戻せない。結局、勝訴しても使用出来ない状況には変わりがない。

 

 既に結論は出ている。取り下げることで、五輪の準備に間に合うように、次の選択肢は残されているので、取り下げる道を選ぶべきであろう。火のないところに煙は立たないし、一度、けちが付けば世界中が注視する五輪祭典には相応しくないことも事実である。


伝承の考察その5

2015年08月14日 00時00分01秒 | 提言

 伝統の範疇は広く、昔から行われて来た風俗・習慣・様式・思想・傾向等についていわれている。伝統の行動を言葉にその重きを置き、口伝(くでん)、口(言葉)で伝えることが伝誦・伝説であると思われるのであるが、ひっくるめて伝承とした。自分の論理の展開は、伝統そのものが行為や様式、手法等の在り方について、根拠の曖昧さによる誤謬を指摘してきた。

 

 古き事柄が悪いのではなく、伝統に支えられて、現代まで継続してきたことに対しては敬意を払って望んでいる。しかし、時代の変遷の中で、紆余曲折することは当然であり、厳密に考えれば、決して寸分狂いはないとは断言出来ないことは、誰しも認めるところである。忠実に再現することは事実として不可能であり、異なる環境条件では異なる結果を生み、過去の風俗習慣等を根拠として判断するのには細心の注意が必要なことを申し上げたかったのである。

 

 伝統技法といわれる手法においては、流派が生まれ、分家が生まれる。挙げ句の果てに元祖が分からなくなり、それでも伝統といって憚らないのは世の常である。現代の我が国においても、流派同士の対立は解消しているのではなく、寧ろ、自然の流れで新たな流派を産んでいるのである。統一すればと思うのであるが、仲良くやって行く選択肢は共存の道を探っていく他はない。

 

  長老政治がまかり通るイスラム世界や同様な宗教派閥や政治結社が暗躍する社会においては、過去に根拠を求める逆進性・遡及性が支配しているといっても過言ではない。つまり伝統や伝承は、地域や国によって異なるのであり、国際政治の舞台では、最終的には民意による議案の採択等が行われるため、その調整は至難といって良い。中東問題の根底にあるこの逆進性・遡及性は、現代人には理解出来ない判断の一つとなっている。それでも対話による戦争行為を無くしていく努力は、異文化社会と共存するための人知であり、異文化を認め合うことが第一歩となる。

 

 今回のテーマは携わる人にとっては無視出来ない論点と思うが、思想の変化や様式の変化をも許容範囲とし、拘りを捨てることへの勇気と実行とが新たな世界へ誘うとの期待を持って結論としたい。


伝承の考察その4

2015年08月13日 00時00分01秒 | 提言

 現在の教育や教育訓練は広い意味で伝承の範疇にはいると思っている。我が国の教育はそもそも後天的教育を念頭に置き、よく言われている先天的な個人が本来持っている能力に対して、本人の個性を勘案して育むことは行ってこなかったのである。教育対象者を集団で捉えれば、出る釘は打たれるし、伸びる要素は無視され、摘み取られる。画一化された指導要領に沿った時間割通りに授業をこなす方式を続けてきた。

 

 個人の秘めたる能力は、探求される機会や試みはなく、教師陣が行ってきたのは外見上の違いを能力差と錯覚して、つまり、ベーシックな外見上に現れた幾つかの物理的な要素を内面的な性格として混同してきたことに他ならず、決して踏み込んで、内面的な要素を把握してこなかった。心理的なテストを行ったとしても、点数化し、個別的な教育の適応に利用するのではなく、単なる成績の一部として計上してきたに過ぎない。集団教育が大学卒業まで続くため、世界一従順で、集団化する特性(ドングリの背比べ)、普遍性や合理性を強調する形式陶冶といわれる部分で、その方向に沿った人間が出来上がったため、新たな挑戦や、答えのない、又は複数解がある世の中には不適応現象を生じる。ストレス社会現象が生じている状況を見過ごすわけにはいかない。

 

 伝承の負の部分が、教育にも多いに影響している。特に道徳、古文、日本史、世界史等の教科は過去の出来事を現代にも適合出来るとするとの考えであり、時代による変化(過去の事象と現代の事象が同じではなく、普遍性・再現性も殆ど無い)が十分考慮されてはいないため、過去の出来事と将来起こる可能性が異なる点については、学習者独自が判断しなければならず、ミスリードする結果を招いている。

 

 教師は一般的に世間を見る目が狭く、社会を知らない。ベースとなる形式陶冶及び実質陶冶を含め、教師という職業を産むシステムが余りにも柔軟性を欠いた世界であることは、多くの知識人が認めるところであり、教室での一人親方すなわち独断性と権威を兼ね備える環境に置かれる。決して良い教育環境を産むとはいえず、むしろ、伝承等の不確定要素が高い教科を教わった者からすれば、反面教師として卑下されていることがまかり通っているのも納得出来る。

 

 過去の事象は事象として認めることと、普遍性・再現性への誘導は全く次元が異なるのであるが、都合良い語り部は脚色を排除しても尚信じるに値しない尾ひれがついて回ることは避けられない。特に、不幸な目に遭えば、同情をかう気持ちが生じる。だからといってミスリードは厳に慎まなければならないのである。


伝承の考察その3

2015年08月12日 00時00分01秒 | 提言

 テーマの視点を変えてみると、後継者育成問題が従前と異なるステージにあることに気付く。産業構造が変わり、後継者問題についてどのようなことが異なるのか、自分なりに考えてみた。産業構造が変わるということは、従来の技術や技能の蓄積では対処出来ない領域が登場しているといわれるが、最先端分野であるバイオ、エネルギー、サービス関連である医療や介護分野が業界の中でも著しく変化している。ものづくりは既にその兆候が現れていたが、単純作業と高度専門分野の二極分化が顕著となり、何れはロボットの導入によって、単純作業からは人手を必要としなくなる。

 

 人材育成は高度専門分野に特化され、育成人員も少数精鋭に変わり、大量の人材を必要としなくなるであろう。多くの分野で、大量に失業者が発生する可能性があるが、失業者や離職者への再就職に向けた職業訓練は、現在でも短期間に就職しやすい分野への基本的な知識や技能を教えているに過ぎないし、理論的には経験した職歴に新たに発生した内容を付加するという建前ではあるが、個別対応ではなく集団対応であるため、その方向には展開していない。イージーな方法である短期の新卒扱いで、特定分野に絞った内容よりはむしろ就職しやすく、どの企業でも就職が可能な内容と成らざるを得ず、結果的に見ると単純労働者の育成となっている。

 

 企業においては様々な理由で、特に経費節減が大きいが、既に事業内訓練から手を引いているため、生産に従事することが出来ない指導者集団を抱える状況にないため、OJTは期待出来ない。可能性があるとすれば、コスト問題と連動するが、民間企業で業界等から委託を受け、専門にOJTを行う組織の誕生であろう。

 

 公的な機関が関与する可能性もあるが、指導人材の発掘は困難を来すであろう。なぜならば、県立の職業訓練施設では、指導員養成を行っていない。以前の雇用促進事業団が組織替えを行い、小平市にある職業能力開発総合大学校で4年制の指導員養成コースを持っているが、指導員として就職する枠は多いとはいえず、先行き不透明である。我が国の企業に変わって後継者育成を行える人材は数として限られるため、そこへの投入は不可能に近い。

 

 現状を見ると後継者問題に対処出来る妙案はない。産業界からの強いニーズや圧力がなければ、新たな組織を誕生させるには至らず、また、短期間でできるものではない。費用対効果論を旗印に、将来を見据えずに行政改革などと称して組織を切り捨てた前為政者の短慮は後悔先に立たずであり、こうした状況を生んだ責任は政権交代だけでは済まされない。大きな禍根として手つかずの状態であり、誰も火中の栗を拾おうとしないのである。


伝承の考察その2

2015年08月11日 00時00分01秒 | 提言

 伝承は、古くからの制度・風習、信仰、言い伝えなどを受け継ぎ伝えていくことである。それを生業とする人や集団を「語り部」といっていたが、土地の民話などを暗唱していて、様々な場を通して伝えていく、一種の伝達役であるが、ご存じの方も多いと思うが、伝言ゲームという遊びがある。10人ぐらいの集団を一列に並ばせ、先頭にある言葉や出来事とを後者に小声で伝え、伝えられた人は後に同じ内容を伝え、最後の人が先頭に伝える。結果は全く異なる言葉であったり、内容であったりする。

 

 何を言わんとするかはお察しの通りであり、如何に暗唱しても正しく伝えられないのは、一つの言葉が持つ意味が多くあり、条件によっては反対の意味として伝わることもある。日本語の複雑さだけではなく、聴く側の思い込みがあり、正確に伝えることが如何に難しいかよく分かる。現在では音声レコーダーなる録音機器があり、再生出来るため、伝言ゲームの様なことは起こりえないが、長文になればなるほど、理解する側の問題もあり、人生経験によっては素直な解釈が難しくなることもある。

 

 民話の様な物語ではさほど問題にはならないが、曖昧さが多くなり、時代の特定や、年齢、社会の有り様等、余り厳密さを必要としない場合が多いが、書物等に文章化すればある程度極端な間違いは避けることが出来るであろう。古くから所作法の世界では、文書化された伝書がある。

 

 企業や産業界においては団塊の世代が退職年齢になり、それに伴って顕著になった後継者育成問題、技術や技巧の伝承が問題になって久しい。定年退職ばかりではない。産業の空洞化も、企業城下町を衰退させ、中国や東南アジア等へ、人件費の安い労働力を確保するための海外移転は技術の伝承の場が無くなるという状態を産んだ。国内では、非正規社員の採用、年功序列制賃金体制の崩壊、産業ロボットの導入による生産加工場の無人化等の動向も技術伝承にマイナス要因となっている。

 

 産業技術の高度化や、情報機器との結びつきによって、職種間の特徴や境界が不明瞭となり、職人と呼ばれた集団を大量に持つ必要が無くなってきた産業も多い。仕事は請負契約環境が重層化し、多能工から単能工への需要が定着している。この傾向は従来の段階的且つ体系的な教育訓練機会をさほど重要視しない様相を呈してきている。


伝承の考察

2015年08月10日 00時00分01秒 | 提言

 8月に入ると毎年、広島や長崎に投下された原爆投下で被災し、原爆症でなくなった方への鎮魂とご冥福を願う式典が催される。終戦記念日や旧盆とも関係してか、祈りや死者への弔いが盛んとなる。終戦後70年が経ると多くの方が亡くなり、大戦の経験者は年々少なくなっている。このことは戦争が引き起こした数々の体験が後世に伝わらない、又は伝わりにくい状況を生んでいる。

 

 特に戦争体験者や原爆体験者が口を揃えていうことは二度と戦争を起こしてはならないということに尽きる。幸い、戦後に生まれ、戦争の記憶が全くない世代が殆どとなると、戦争の記憶や戦争が産む悲惨さは日々遠のく。言葉としては受験戦争や、現在も継続している資源争奪戦争、中東IS(イスラム国)戦争等規模の大小はあれ、新聞紙上で伝わってくる。戦争とはいわないまでも、人間同士が殺し合うことは良くないこととされていても、厳に起こっている状況はノスタルジックな話ではなく、リアリティのある実態である。

 

 今世紀に入っても殺戮兵器の開発は留まるところはなく、近隣国においても核兵器を保有し、我が国の脅威となっているのは疑いようもない。我が国は戦後生まれた憲法で、戦争の放棄を謳っている。現在、国会での集団的自衛権を恒久法とする議決案が衆議院を経過し、参議院で審議が成されている。憲法擁護への道筋を変える判断が成されているが、何れは成立することであろう。

 

 確かに、我が国から攻撃することはないにしても、国益に反する行為や、国民に被害が及ぶ様な周辺事態は、可能性として有る以上、十分な防備を行うことは自然であり、当然であろう。 

 そこで、世界で唯一原子爆弾の被害を受けた我が国が、機会あるたびに世界へ対し核兵器の拡散の防止を叫んでみても、一向に核兵器が減らない実態をどのように見ればよいのか、戦争体験の悲惨さを訴え続けること、外交を通じてトップレベルでの協議や提案、はよいとしても、賛同を得て、我が国と共に協働する国が増えているとは到底思えない。伝承の大切さは分かっていても、将来、戦争のない世界が人類にとって最も必要であると力説するだけでは、実現性は低いし、その虚しさは拭えない。

 

 衣食住が揃って礼節を知るとの中国の古い諺があるが、世界には我が国の様な衣食住が揃っている国は少ない。多くの国が、戦争の火種を抱え、困難な状況に置かれている。我が国は国連への拠出や、発言力を増す各種の施策は継続し、拡大していく必要がある。将に今、我が国が現実を見据えた行動しなければならないときであり、重要な局面に立っているとの認識を持ち、近隣国との融和は当然で、国を挙げて、国民の積極的な取り組みが答えを導くことになろう。