>現代ビジネス >「昭和」では「小さいもの」が愛された…そこから見えてくる「日本人の心」 >松岡正剛 (仏教学者) の意見・ >23時間・
>「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」そして「漫画・アニメ」。
>日本が誇る文化について、日本人はどれほど深く理解しているでしょうか?
>昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、最期に日本人にどうしても伝えたかった「日本文化の核心」とは。
>2025年を迎えたいま、日本人必読の「日本文化論」をお届けします。
>※本記事は松岡正剛『日本文化の核心』(講談社現代新書、2020年)から抜粋・編集したものです。
>昭和の小さきもの
>そのほか、「小さきもの」はいろいろあります。
>江戸時代、根付のような細工物が大流行しました。
>根付は印籠や煙草入れなどを持ち歩く際、紐を着物の帯に吊るしておくための小さな留め具ですが、その小さな道具にきわめて精緻な彫刻や蒔絵が施されていることから、今日では日本以上に海外で評価されています。
>1点につき数百万円、数千万円で取り引きされている例だってザラです。
>根付は男の持ち物ですが、そのような特殊なものではなくとも、たとえば塗箸や襖の把手などにも、小さいながらもけっこう細かい装飾や細工を施した。
>たんに小さいからいいというだけではなく、その小ささにとびきりの意匠を凝らしたのです。
>小さくても立派にさせることに意を尽くしたのです。
そうですね。日本人にはそれしかないですね。
>草履や下駄の花緒や小物入れもごくごく小さいものですが、華麗な意匠を凝らした。
>雛人形など、その典型です。
>ぐい呑みやそば猪口にオシャレを感じる人も少なくないと思います。
>昔のものばかりではありません。
>「小さなもの」「小さいところ」は昭和の日本でもがんばっていた。
>私が小学生のころ、男の子の遊びはメンコやビー玉で、女の子が好きなのはおはじきやリリー(リリアン)編みでした。
>みんな手の中で遊んだり、指先をつかって遊んだりした。
>遊び場としての小学校の砂場や近所の空き地もとても小さいものでした。
>たまに連れていってもらう遊園地やデパートの屋上だって狭く、そこにいっぱいの遊具が重ならないようにひしめいていたのです。
>日本人は「小型」を選んだ
>子供たちだけではない。
>大人たちもけっこう小さいところで暮らしたり、遊んだりしていた。
>オヅヤス(小津安二郎)の映画ではないですが、だいたい昭和の家や店は小さかったのです。
>昭和の平均的な家はサザエさんの家、天才バカボンやおそ松くんの家、「3丁目の夕日」の家々、ちびまる子ちゃんの家なのです。
>茶の間もとても小さいし、丸いちゃぶ台も今日のリビングルームの様子からくらべると、信じられないくらい小ちゃかった。
>冬はそういう茶の間に炬燵が登場して、4人家族でも七人家族でもみんな足をつっこんでいた。
>そういう小さな家々が並ぶ町は、通りも狭く、そこを走る車も自転車やスクーターやダットサンが主流です。
>小型車は日本が世界中に広めたものです。
>アパートや団地の間取りもごくごく質素なもので、それは手塚治虫や石ノ森章太郎がいた「トキワ荘」から1980年代の高橋留美子の『めぞん一刻』(小学館)の一刻館まで、似たようなものです。
>大人たちが外で遊ぶ1杯呑み屋も麻雀屋も街の喫茶店も小さかった。
>貧しかったからということもありますが、広すぎるのは落ち着かないのです。
そうですね。日本人には世界観がない。だから ‘来るべき世界’ を語る者はいない。未来を先取りしなければならない政治に後れを取っています。一帯一路の構想は手に負えない。
>かつて「日本人はウサギ小屋に住んでいる」と馬鹿にされたことがあったものですが、とんでもない、われわれはあえて小型を好んだのです。
そうですね。広い場所はどうしたら使えるのか日本人には見当がつきませんね。だから盆栽・箱庭・一坪庭園を考えることに余念がないのです。
手先・目先の事柄には神経が集中しますが、極微の世界・ナノの世界には注意が及ばない。だから半導体の開発が遅れます。
日本人は子供が精神的に大人になることがない。子供も大人も同じ世界に住んでいる。現実 (事実) があって、非現実 (考え・哲学) がない。だから日本人の大人は大型の子供である。
(略)
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)