gooブログはじめました!

日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

愚者の楽園  

2025-03-12 09:41:54 | 文化

>現代ビジネス   >「尖閣諸島はアメリカが守ってくれる」と安心する日本人への”強烈な違和感”…トランプ異変のウラで、日本がこのままでは「愚者の楽園」に堕ちかねないワケ!   >岩田温によるストーリー・   >1時間・   

>米国ファーストのトランプ外交に世界が翻弄されている。   

>ウクライナを切り捨てロシアに接近するその流儀は、東アジア諸国を切り捨て中国とディール(取引)する可能性さえ想起させる。   

>米国に防衛を依存する東アジア諸国、とりわけ米国と同盟関係にある日本にとっても他人事ではない。   

>そんな中、「自国の領土を自国の力で守り抜くという気概がなければ、祖国防衛など不可能なのである」と安易な同盟国依存に警鐘を鳴らす政治学者、岩田温著『自民党が消滅する日』(産経新聞出版)が話題になっている。   

>発売後たちまちアマゾンでジャンル1位を獲得し、保守系議員の勉強会でも相次ぎテキストとして採用されているという。   

>2月の日米首脳会談では、尖閣諸島に米国の対日防衛義務を定める日米安保条約第5条が適用されることが改めて確認された。   

>しかし、トランプ氏の出方によってはただの紙切れになりかねない。   

 

ただの紙切れになった時の考察が大切ですね。   

 

>祖国防衛のあるべき姿とはどういったものなのか。   

>警世の書である同書から一部抜粋・再構成してお届けする。    

>「尖閣諸島は米国が防衛」に安堵する日本の不健全さ   

20211月、当時の岸信夫防衛相と、ロイド・オースティン米国防長官は初めての電話会談を実施し、米国の日本防衛義務を定めた日米安全保障条約第5条が、沖縄県・尖閣諸島に適用されることを確認した。   

>中国の軍事的覇権主義に対抗するために、日米同盟を一層強固なものにしていく必要があるのは当然だ。   

>米国の政権を担うのが共和党であれ、民主党であれ、同盟国として友好関係を構築していくのが日本の戦略の基本である。   

>その意味において、岸氏は重要な仕事を果たしている。   

>だが、こうした報道がなされるたびに、一抹の寂しさを覚えるというのが、私の正直な感想だ。   

>「尖閣諸島を米国が防衛してくれる!」ということを喜々として語ることは、独立国家として不健全なことではないだろうか。   

 

そうですね。それは植民地根性でしょうね。日本人は自分に有利になることは固く信じていますね。その他の考えは頑として受け付けませんね。         

 

>もちろん、同盟国の支援はありがたい。   

>だが、「自国を自分たちで守り抜く」という覚悟を持たない国家のままでよいのか、と思わずにはいられないのである。   

 

日本人は、水と安全はタダだと思い込んでいるのでしょうね。わが国の多雨と島国の防衛のしやすさが仇になっていますね。      

 

>佐藤栄作総理の「密使」が嘆いた「愚者の楽園」   

>そもそも、同盟関係とは一方的に他国に依存をするものではない。   

>自国を真剣に守ろうと努力しない国家を、同盟国が命懸けで防衛することなどあり得ない。   

 

そうですね。  [アフガン撤退] アフガニスタン軍自身が戦う意思のない戦争を米軍が戦うべきでない。米国の国益に合致せず、米国民が求めているものでもない。 (バイデン米大統領)   

 

>自国の領土を自国の力で守り抜くという気概がなければ、祖国防衛など不可能なのである。   

 

そうですね。   

 

>かつて若泉敬という国際政治学者が存在した。   

>佐藤栄作総理の密使として訪米し、沖縄返還に尽力した人物である。   

>口舌の徒ではなく、実際に行動する学者だった。   

>沖縄返還を成し遂げた後、故郷である福井県に戻り、沈黙を貫いた。   

>一切を語らずに過ごすつもりであったのだろう。     

>だが、若泉氏の憂いは年々深まっていく。   

>彼が目指していたのは、沖縄返還を契機として、徐々に「自主防衛」に向かっていく独立国・日本の姿であった。   

 

そうですね。自分の事は自分でせよですね。   

 

>だが、現実に日本国民は米国によって守られることが当然であるかのように考え、自国を自ら守るという気概を失っていった。   

 

日本人は自分に都合の良い事のみを考える。それ以外の考えを受け付けない。戦争中は日本は必ず勝つであった。今はアメリカが日本を守てくれるである。事態が裏目に出た時の事を考えたことが無い。裏目に出た時は自分は騙されたと言うことになっている。自分自身の考えというものが無い。日本人は思考を停止しているからである。           

 

>若泉氏は、こうした日本の現状を「愚者の楽園(フールズ・パラダイス)」と悲嘆した。   

 

東アジアには楽園が多すぎる。北朝鮮は地上の楽園であり、我が国は愚者の楽園である。    

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。       

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。

「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)    

 

日本人は氏名を正しく (?) 読むことができない。だから役所の書類にはフリガナ欄が設けてある。これをローマ字欄に換えるだけでも国語の改革になる。これは国の指導ですぐにでもできる国語改革である。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。能率の良い言語の習得には音読が欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)       

 

 

 

 

 


重要な視点  

2025-03-12 01:27:00 | 文化

>現代ビジネス   >「日露戦争」と「太平洋戦争」の大きな違いをご存知ですか…? 見落とされがちだけれど、じつは「重要な視点」   >講談社文庫出版部の意見・   >17時間・   

>司馬遼太郎の見識   

2020年代に入ってから、疫病に戦争と、さまざまな災厄が世界に降りかかっています。   

>少し目線を高くして、巨視的にものごとを見る必要性や、「歴史に学ぶ」必要性を感じる機会が増えたという人も多いのではないでしょうか。   

>「歴史探偵」として知られる半藤一利さんは、なぜ日本が無謀な戦争に突っ込んだのかについて生涯にわたって探究を続けた作家・編集者です。   

>半藤さんの『人間であることをやめるな』(講談社文庫)という本は、半藤さんのものの見方のエッセンス、そして、歴史のおもしろさ、有用性をおしえてくれます。   

>本書には、作家・司馬遼太郎の見識の鋭さを紹介する章があります。   

>司馬が『坂の上の雲』に記した名フレーズを、その歴史的背景をおぎないつつ解説するという趣向です。   

>たとえば、司馬の記述を参考にしながら、半藤さんは、日露戦争と太平洋戦争の違いを以下のように描いています。   

>『人間であることをやめるな』より引用します。   

>***   

>もう一つ、有賀長雄博士に関連して、司馬さんもかいていることを引用し、さらに一言弁じておきたいことがある。   

>この有賀長雄を、乃木軍司令部付の文官として外征軍に参加させたところに、この当時の日本政府の戦争遂行感覚の特徴があるであろう。   

>日本政府は明治初年以来、不平等条約の改正について苦心をはらってきたが、そのためにはなによりも国際法をまもるということについて優等生たろうとした。   

>このたびの対露戦においても、   

>──国際法にもとるようなことがいささかでもあってはならない。   

>として、軍司令官たちに大本営は入念に訓令している。   

>有賀長雄が、乃木の国際法の幕僚としてつけられたのは、そのためであった。   

> ──「水師営」より   

>明治という時代を考えるときの楽しさはここにある。   

>国際人たらんとした明治の日本人の真面目さ、真摯さ、一所懸命さがすこぶるよく出ている。   

>そのいっぽうで、それにつけても、という情けない話がつぎにくるのが残念であるが。   

>それは何か? といえば、太平洋戦争の「開戦の詔書」に、当然なければならない根本的な一行がなぜないのか、という事実なのである。   

>すなわち、「天佑ヲ保有シ、万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本(帝)国皇帝(天皇)ハ……」と書き出しはほぼ同じながら(丸カッコ内が太平洋戦争)、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦における詔書はつぎのように明確に記している。   

>苟モ国際法ニ戻ラサル限リ、各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ、必ス遺漏ナカラシムコトヲ期セヨ(日清戦争)   

>凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ、遺算ナカラムコトヲ期セヨ(日露戦争。   

>これは第一次大戦もほぼ同じで、ただ「遺算」の上に「必ス」が付せられている)   

>このように、過去の外戦のときにかならず明示されていた“国際公法の条項を守れ”の一行が、太平洋戦争開戦の詔書にはないのである。   

>正しくいえば、昭和の指導者はこの一行を削りとって、テンとして恥じることがなかった。    

 

それは残念なことですね。   

 

>「世界に冠たる国民」というようなうぬぼれた、夜郎自大の精神がそれほど人間をお粗末にしたのかと、いまはただただ歎くばかりなのである。   

 

昭和の指導者は自分のやりたいことをやったのですね。   

 

>ページの余裕がないゆえ、削りとった経緯については略さざるをえない。    

 

われわれ日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労する。    

たとえば【英対する開戦の詔勅】では

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。   

となる。  

天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。  

 

責任のある者は信頼される。そして尊敬される。

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。だから信頼がない。一旦事が起これば、責任者捜しのために騒ぎが起こる。日本残酷物語の様な騒ぎになることもある。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

 

アメリカ人には意思がある。だから戦死者の自国を護る勇気を称える。

日本人には意思がない。だから供養をする。戦死者の意思を称えることもない。これはアニマルの供養と同じである。   

戦いの意味も無い。敵も味方もない。それで深刻な反省には至らない。そして過ちを繰り返す。        

 

>そして、もちろん、有賀長雄博士のような国際法の専門家が、陸海軍について戦場にいくようなことのなかったこと、こと改めてかくまでもない。    

 

意思の無い人間には責任もない。責任とは自己の意思を使って義務を果たす事である。日本人には意思が無い。だから、責任もない。兎角この世は無責任しなっている。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

自由とは ‘意思の自由’ の事である。日本人には意思が無い。だから自由そのものにも意味がない。

だが、日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は‘自由のはき違え’となるからである。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ となる。日本人は昔の姿のままで不自由な生活を送っている。 

 

>***