>プレジデントオンライン >大人になっても役に立たないのに勉強する意味はあるのか…「勉強嫌いの子」のやる気を引き出す ”親の声掛け“ >西岡壱誠の意見・ >3日・
>子供に「なんで勉強しなきゃならないの?」と聞かれたら、どう答えればいいのか。
>東大生作家の西岡壱誠さんは「親が誤魔化したりきちんと答えられなかったりすると、勉強しない子になる。
>例えば『古文』なら、“会話が理解できない人になるよ”などと意義を伝えることが大切だ」という――。
>※本稿は、西岡壱誠『読んだら勉強したくなる東大生の学び方』(笠間書院)の一部を再編集したものです。
>「受験」「学歴」を理由にしてはならない
>「なんで勉強しなきゃならないの?」
>お子さんからこんな風に聞かれた経験のある親御さんは多いのではないでしょうか?
>子供がある程度大人になってきて、宿題がつらくなってきたり、勉強の内容が難しくなってきたりする過程で、必ず湧き出てくる想いが、「なんで勉強なんてしなきゃなんないんだ?」というものです。
そうですね。
理屈には子供と大人の区別がありませんから、気付いたことを質問すると良いですね。
>「数学の計算がなんの役に立つんだ?」「なんで古文なんて昔の言葉を勉強しなきゃならないんだ!」と考えるようになって、「勉強なんてやらなくていいんじゃないか?」と感じるようになってしまうのです。
そうですね。必要は発明の母ですね。
>この質問に対する親の回答は、重要であり重大です。
>ここできちんと答えられなかったり、「つべこべ言わずに勉強しなさい」と誤魔化したりしてしまうと、子供は一気に勉強から心が離れてしまいます。
そうですね。頭ごなしに𠮟りつけるのは良くないですね。
>さて、最近この質問に対して、多くの親御さんが「受験のために勉強しなさい」「学歴のために勉強しなさい」と答えています。
>「社会に出たら学歴が大事だから、勉強しなさい」「中学受験で頑張れば好きな中学に入れる。
>だから勉強を頑張れ」というような回答なわけですが、これは少し危険な回答です。
>まだ社会に出たことがない子供たちは、学歴がどれくらい社会に出てから重要になってくるか、想像することしかできません。
そうですね。我が国は序列社会の国で、学歴は人間序列の指標となっていますからね。学歴万能とは序列万能の事ですね。
日本人には序列があって個性がない。序列の競争は没個性の戦いです。独創性がないところが欠点です。個性を持ち出すと異次元の戦いとなり比較が困難で不公平な戦いになると考えられているからです。
>それに、確かに短期的には勉強のやる気が出るかもしれませんが、裏を返せば「中学に合格した後は勉強しなくてもいい」と解釈されてしまうこともあります。
人間序列を作る為に日本人には勝負のための勉強が必要である。だが、誰もそうとは思っていないようですね。だからわが国の教育改革は遅々として進まないのでしょう。
日本語の文法には階称 (hierarchy=言葉遣い) というものがあり、’上と見るか、下と見るか’ の判断がなくては話ができません。
ため口が禁じられていて、対等な立場で議論することができない。だから子供も大人も自由な発想で議論することが出来ない。日本人は大切なものを見逃している。 (ため口: 相手と対等な立場でモノを言うこと)
日本テレビの単独インタビューで「このままでは日本人は滅びる」と日本の将来に危機感をあらわにしていた、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長。[2024年 10月] 10日の会見でも「日本人同士のなれ合いみたいなことは廃止すべき」と改めて警鐘を鳴らしました。
日本人は‘なあなあ主義’ で話をする。‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませること。 ‘以心伝心・阿吽の呼吸’といったところか。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
日本人は学校で受け売り・後追いの練習ばかりをしている。自己の見解 (非現実) を述べる訓練をしていない。すると、知性の欠けた人間の跋扈する奇妙な社会が出来上がる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。
評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても国家目標に到達しない。だから、政治はわが国の若者にも夢と希望を与えない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。
何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
(略)