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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本語学習の難関

2016-03-20 09:30:11 | 国際・政治
>漢字の学習をされているAさんが来られて3ヶ月が経ちました。
>毎週、休むことなく来られているし、漢字の勉強を続けたいという気持ちは変わらないようなのですが
>最近、家での予習・復習を全くしなくなったようです。
>復習をしないので、せっかく覚えた漢字も次から次へと忘れて行ってるようで
>せめてそれを食い止める為、教室では復習ばかりになってしまっています。

日本人が世界で指導的貢献をするためには、日本語を理解する人の数を増して、世界の共通語にしなくてはならない。
日本語の有用性を認識した、第二言語としての日本語を学ぶ意気ある学習者に親しみある言語に我が国語を変えなくてはならない。
日本語の学習者に日本人だけを対象にして考える時代は疾うに過ぎ去った。
日本語は特に習得が難しい言語というわけではない。だが、その表記法には大きな問題がある。
特に非漢字圏に人たちには、漢字表記が日本語の学習の妨げになっている。
漢字を使用すると、振り仮名・送り仮名の問題も生じる。
日本語を、トルコ語のように、ローマ字表記にすべきである。この改善策は、その場で効果を発揮する。
漢字圏の人口は、非漢字圏の人口よりも少ない。新しい概念は、最近、主として非漢字圏から多く入ってくる。
漢字は漢人 (中国人) の考えを示すために作られた文字で、非漢字圏の人々の考えを表していない。
漢字の数が増えないのは、中国人に新しい概念が生まれないからである。彼らは、異文化の概念を漢字で表現する努力をしない。
日本語の外来語も ‘エア・メイル’ とカナ書きにせず、’AIR MAIL’ と原語で表記すれば、世界中で通用する。
’コーヒー’ を ’COFFEE’ と表記することにより、英語に親しむようにする。知識の源 (英語の出版物) と直接接触を保つことにより国際人の育成につとめる。
地名なども、’東京’ と漢字を使わずに ‘TOKYO’ とローマ字表記にすれば、世界中で通用する。

日本語のかな漢字表記法は、我が国の国際貢献に対する大きな足かせとなっている。
我が国の政治家はこの問題に真摯に向き合って解決を図らなくてはならない。優柔不断・意志薄弱ではいられない。現実に対処せよ。



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非常に興味深い事実

2016-03-11 21:38:44 | 国際・政治




山本七平は「『空気』の研究」のなかで、日本人のメンタリティの欠点を指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

これは、’意思’ (will) 対 ‘恣意’ (self-will) の問題である。
明確な根拠に基づく ‘意思’ の方は、文章で表すとかできる。だから、矛盾が淘汰でき、正しい考えになる。
根拠はもっぱら空気とする ‘恣意’ (私意・我がまま・身勝手) は、文章で表すことができない。文章に表せないものは、考えでない。矛盾でもない。
恣意は、文章にはならないから、考えの埒外である。だがしかし、それは気分・雰囲気となって現実に現れる。そして、その場の空気を読む人たちにより察知され、大きな感動を与えるものとなる。
意思は、未来時制の文章内容であり、非現実の内容である。この現実離れをした内容は日本人に親しみが無い。
一方、気分・雰囲気は現実の内容であるから、実況放送・現状報告の内容となる。かようなわけで、日本人の最終的決定は現実に流されざるを得ない状況にある。無言の圧力を受けているというのか。浪花節の内容か。これは、時制のない現実肯定主義の欠点である。その理由は、付和雷同して正しい考えを見捨てるからである。

理解ができないときには、’訳が分からない’ という。日本人のいう ’訳’ (わけ) というのは、事の次第・成り行きのことである。実況放送・現状報告の内容 (things-as-they-are) である。だから、確たる行動指針にはならず、日和見主義になる。他人からの信頼を得ることが難しい。
英語のリーズン (理由・理性・適当) は、それとは違って、あるべき姿 (things-as-they-should-be) のことである。日本人の口からは、この時制に基づくリーズンは出てこない。
哲学を示して、その実現の意思を自ら示す。この誓いが人々の信頼を勝ち得る方法である。
日本人には哲学が無いから、政治家にも政治哲学が無く、’あるべき姿’・’行き着く先’ (大同) を示せない。それで彼らは政治音痴になる。議員は小異にこだわり離合集散を繰り返し、処世術を頼りにして、恣意で行動する。

日本人には意思がない。意思決定に難渋している。だから、無為無策でいる。座して死を待つ。挫折する。意思のあるところに方法がある。 (Where there’s a will, there’s a way) ‘意思が無ければ、挫折もないのではないか’ という人もいるが、挫折はある。意思はないが、恣意が有る。堪え難きをたえ、忍び難きを忍んで恣意の実現に励めば、南の島に雪が降る。



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特別な国

2016-03-06 21:33:30 | 国際・政治

>こんにちは。いいですね、「平和主義」。世界中にいろんな「~主義」「~イズム」がある中で、これが一番心に響きます。ガンジーの「非暴力主義」もいいですが、日本には十七条憲法の『和をもって尊しとなす』があるので「平和主義」が日本らしくていいと思います。

釈迦如来の手のひらの上で、平和主義者らしくふるまって得意顔をしているのは誰ですか。それは孫悟空 (斉天大聖) である。国際舞台の準備・支度が無くては、舞台の上で有頂天の踊りなどできないでしょう。誰が立派な舞台を用意したのかを考えたことがあるでしょうか。孫悟空には世界観がない。だから、五行山の下で自由を拘束された。

>戦後、軍事力を行使しまくるアメリカの同盟国なのにも関わらず、日本が70年もの間戦争せずに国際貢献してこられたのはひとえに9条のおかげだと思っています。

国際貢献できたのはアメリカさんのおかげです。強者の怒りは抑止力になるからである。だが、9条などではない。弱者の願いは空念仏となり、現実を動かすには至らない。
何のお膳立てもすることなく、ただ特攻と玉砕戦法を繰り返していれば、我が国運は開けけるものと思い込むようなものである。精神主義か、妄想か。この道は、いつか来た道。ああ、そうだよ。我が国民のメンタリティは今も昔も変わらない。

>あれがあるからこそ、血ではなく汗を流して、知恵をいろいろ絞り、国際的な問題を解決していかなくちゃいけないわけで。(つまり相当脳みそをフル回転させなくちゃいけないわけです。) しかも、それが可能だということを世界に知らしめたのがこの70年間の日本の最大の国際貢献だと思います。

自己中心的な考え方ですね。自分さえ善ければの考え方です。外国との相互扶助もなければ友愛もない。舞台の建設に汗を流してもいなければ、知恵を絞ってもいない。特攻・玉砕・精神主義への道。妄想の美辞麗句に酔って、その時々に歌を詠む。何の脈絡もない。最大の国際貢献だと思い込むのは勘違い。お膳立てに力を尽くしたのは、どこの国であるか。平和の基礎が無ければ何の建設できない。この世において、不可能を可能にして見せたのは、一体どの国ですか。

屁理屈と唯我独尊の状態で、のぼせ上がる。国粋主義の再来か。
唯我独尊の状態になるのは、議論ができないためである。議論ができないのは、自分自身に考えがないためである。考えが無いのは、世界観がないためである。借りて来た内容ばかりを頭の中に詰め込んで、体系だった世界観ができない。’ああ言えば、こう言う’ の形式の議論になる。曲学阿世は治らない。不毛の議論になっても後悔はないようだ。修身の徳目を暗記するような勉強では、人は教条的になる。自分自身の体系は得られない。哲学は一人ひとりに必要である。そうでなければ、自分自身の意見は語れない。

この世の中は、過不足なく成り立っている。非現実の世の中も、過不足なく成り立てば、それはその人の考えとなる。日本人には世界観 (非現実) がない。
’話の内容が現実離れしていて、信じることができない’ という。だから、話の内容が実況放送・現状報告ばかりになる。非現実の世の中の過不足は精査できない。だから、妄想になる。日本語では、非現実の文章内容自体が存在し得ない。そして、世界観比べが個人単位で議論にならない。そこで、唯我独尊の状態になる。

>他国が日本に銃を向けないのは、もちろんアメリカの後ろ盾もあるのでしょうが、この日本の国際貢献の在り方も相当な影響があるからと考えています。

友達の窮状をよそに、自己慶賀に力を入れる。国際社会の中で、名誉ある地位を占めたいと思うばかりである。序列メンタリティによる勝手な解釈により有頂天になり、国粋主義 (超国家主義) を醸し出している。独りよがりの奇妙な性格ですね。真面目になれない。今日も国際貢献ができるのは、アメリカさんのおかげです。アメリカさんよ、ありがとう。

>なぜなら、アメリカ自体がテロ国家に狙われ、他の同盟国も同じように狙われているにもかかわらず、日本はその標的からとりあえずは外されているのはなぜ?と考えるからです。日本の国際貢献のやり方がすごく大変なのは良く分かっています。が、実はこれこそ人類が求めていた平和的共存の方法の一つなのではないかと考えます。

‘自分さえ善ければ’ の考え方ですね。自分にも成り立つ、他人にも成り立つ内容ではない。自己中心的というのか、まるで子どものようですね。矛盾と同居した架空の世界に生きようとしている。地球村には、自分のほかに誰が住んでいるのですか。民主主義でやるのですか。意見発表はできるのですか。我が国の国際貢献のあり方を、どの国が下支えしているのかを考えたことはありますか。踊りを踊る練習ばかりに専念しているのではないのでしょうね。

>これを最大限アピールし、「普通の国」など目指さず、「特別な国」として世界中に認知をしてもらうことこそ「積極的平和主義」の肩書に沿うのではと思っています。

我が国は、世界の中にあって、世界に属していない ‘特別な国’ です。無哲学・能天気で常に孤軍奮闘して、高踏的か、哀しからずや。外国との相互扶助・友愛が見られない。
アメリカ人が日本防衛のために血を流すのは良い。日本人がアメリカ防衛のために血を流すのは良くない。片務協定を心から喜ぶ。安保ただ乗りか。その内容は、グローバルでもユニバーサルでもない。哲学ではなく、処世術である。非現実の内容は心にもなく、自己利益を図るための単なる口実として使われている。我々は、’あるべき姿・行き着く先’ を示さなくてはならない。日々の努力の積み重ねをどこにおくのか。その答えがなければ、我々の人生はその日暮らしになる。

日本人は、自分たち自らが立ち上がることはない。その意思がない。
為政者の圧力に耐えかねて、やむを得ず立ち上がる。減圧されれば、元に戻る。浪花節か。
混乱の後に新しい社会への移行は考えられない。それを誘導する世界観がない。
積極的に平和を築く基礎が無い。哲学が無いから水辺に漂う浮草・根無し草のようなもの。’積極的平和主義’ とは、自己利益を図る口実のことか。うまいやり方・処世術のことか。

漫画も哲学も、どちらの内容も非現実である。矛盾を問題にして淘汰すれば哲学になる。矛盾を問題にしなければ空想・妄想になる。英米は、世界のエリートを教育して哲学博士 (Doctor of Philosophy; Ph. D.) の生産国となった。空想・妄想の内容は漫画・アニメとして表現できる。我が国は、世界の子供に漫画・アニメを供給する漫画大国となった。’今のは、冗談で言ったのだ’ というばかりでは、真面目になれない。真面目になれない人たちが、和を尊ぶのは難しい。つかみどころがない相手では信頼できない。漫画は子供にでもわかるが、哲学はわからない。我が国には哲学が無い。だから、その政治家にも政治哲学が無い。議員は政治音痴になり離合集散を繰り返している。この行動様式を議員の本分と考えているのかもしれない。


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主観の暴走

2016-03-05 15:31:51 | 国際・政治
>「主観の暴走」、「都合のいいシナリオありきの意志決定」というキーワード。

>第二次大戦での敗戦しかり、原発事故しかり、経済政策の失敗しかり、いくらでも当てはまる状況が日本にはあります。

>たしかに、日本という国と日本人という国民の最大の欠陥の一つなのだと言えるでしょう。



‘主観の暴走’ とは、’独りよがり’ のことでしょうか。矛盾を気にしないシナリオは、常に自分の都合の良いものになるでしょう。

考え (非現実) とういうものが文章にならない。文章にならないものは、考えではない。考えもなく、行動に出る。これが暴走である。



>これを自ら意識的に修正できる力が発揮できなければ日本人はいくらでも破滅的な過ちをおかし続けるのでしょう。



そうですね。大切なご指摘だと思います。過ちは、繰り返しますから。

日本人には意思 (will) がない。意思は未来時制の文章内容である。日本語には時制 (tense) がない。だから、日本人には意思がない。

文章があれば、意味もある。意味が通らなければ、その矛盾を指摘することもできる。矛盾を除去すれば、正しい考えとなる。

日本人には意思はないが恣意 (self-will) が有る。恣意 (私意・我がまま・身勝手) は文章の内容にならない。文章にならないものには意味もなく、矛盾も指摘できない。

恣意による暴走は、壊滅的な過ちを起こす。



英米の高等教育機関では、正しい考え方を教えている。実況放送・現状報告の内容 (現実) ばかりでは無く、時制を使った非現実の内容の作文も教える。

時制を使った作文は、非現実な内容になる。非現実の内容は脳裏に存在する内容であり、考えである。これにより、人間は考える人に成る。

これに対して、現実の内容は頭の外に存在する。考えのない人は、目の前の現象に一喜一憂するばかりである。

時制を使うと過去・現在・未来の文章内容をそれぞれ独立に展開できて、それぞれの世界が脳裏に出来上がる。各世界は、時制の一致 (the sequence of tenses) により独立して存在する。時制の一致により、非現実の過去・現在・未来の世界が過不足なく展開できる。時制に基づく文章が世界観の内容になり、正しい考えに発展する。

それぞれの非現実の世界は、考えの世界であるので個人個人で違っている。だから、お互いに意見を述べ合う価値が有る。世界の ‘あるべき姿’ を語ることもできる。だから、話が高尚になる。独りよがりも避けられる。



>それに気づいて自ら過ちを指摘して自ら正せる日本人が一人でも多くなるようにとメモさせていただきました。



それに気づくためには、英語で高等教育を受ける必要がありますね。だから、各国ともにエリートは子弟を英米に留学させることになります。政治家の国際会議は、英米の大学の同窓会のようなものになるのでしょうか。





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見てきたような嘘の価値

2015-12-25 10:32:56 | 国際・政治
我が国の問題として人口減少がある。難民を受け入れて、話の通じない人たちが我が国の社会に増えるのは困る。
わが国には、多数の技術研修生が海外より派遣されてきている。彼らは話すことはできても、漢字交じりの和文に難渋している。
日本語をローマ字表記にしたら非漢字圏の人たちにもより簡単に日本語を親しんでもらうことができる。話ができる。日本人の考えを理解してもらえば、日本人の意見を支持してもらう機会も増え、日本人は指導力を発揮する機会が増える。さすれば、我が国も世界に対してさらに大きく貢献をなすことができる。
日本語のローマ字化は、我が国の人口問題と言語の問題の双方を良い方向へと導いてくれる。
意思の無いところに方法は無い。意思決定に難渋する国民性にも問題がある。優柔不断・意志薄弱では改革は遅々として進まない。思い切った改革断行には、考え方の質の違いに注目しなくてはならない。

日本語脳では ‘来るべき世界’ が想定できない。だから、その生活には、その日暮らしの観がある。’移行すべき未来社会’ の内容が一向に見えてこない。一寸先は闇か。
未来のことを現在時制で語れば、それは英文法上では正しい考え方には成らない。だから、英米人には、正しい考え方を植え付けるための高等教育が必要である。かくして、彼らは哲学博士 (Ph. D.) の生産国になった。学問を求める世界中の若者は、英米の高等教育機関に向かっている。
日本人は、現在のことしか語らない。現実と非現実を混ぜ合わせたら、その内容はダジャレになるからである。現実の外に出て真面目になる機会がない。かくして、我が国は、漫画・アニメ大国になった。お笑いを求める世界中の庶民は、日本の製品を買い求める。

現実と非現実を区別することなく語れば、それは矛盾である。時制も無く、非現実を表す文章を作ることができなければ、非現実の考え自体を停止せざるを得ない。そうでなければ、正しい考えは作れない。
‘だって、本当にそう思ったのだから、仕方がないではないか‘と言い訳する。矛盾のあるなしを問題にしない。だから、正しい考え方というもの自体が存在しない。矛盾を指摘して考えの間違えを指摘することもできない。かくして、我が国は歌詠みの世の中になっている。
日本語の考えには、現実と非現実の区別が無い。というよりも、現実だけがある。
非現実の内容は、雑念として、常に脳裏から払拭されている。非現実は、この世の嘘にしかならない。現実離れがしていては信じられない。精神統一が必要である。だから、日本人の考えには深みが無い。洞察力が無いので、創造の世界に対する開発が進まない。

恐竜時代には、人間は誰一人住んでいなかった。それにもかかわらず、英米人は見てきたような嘘 (非現実) を書く。その能力は、どうしたら得られるのか。それが我々の問題である。

徒競走のやり方は、’追いつけ追い越せ’ である。これは、同次元の努力を積み重ねて行う序列の競争である。
実社会の競争には、これとは違う異次元の競争がある。先進国に ‘追いつけ追い越せ’ という文明開化の競争は、それである。
追いつく過程と、追い越す過程では、努力の質が違う。追いつく努力は先進国を模倣すること。
追い越す努力は発展途上国自身の創造による。質の違いが進歩の壁になっている。
現実の内容を再現して見せれば、それは模倣である。非現実の内容を実現すれば、それは創造である。
特亜三国 (日本・中国・韓国) の言語には、時制が無い。非現実の内容を文章にすることができない。だから、その励みも勢い現実の内容に集中する。つまり、模倣の次元だけに限られる。模倣の競争は創造に比べたら格段に易しいので参入者も多い。偽物も多く出回り、それだけに競争は厳しくなる。模倣の努力と自己満足で自己を正当化するだけの世の中はむなしい。新しい個性豊かな創造のゆとりある競争社会を求めよう。

戦争は異次元の競争である。それを同次元の競争と捉える民族の末路は厳しい。<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族敗退の過程は見て取れる。以下にその内容を引用して終りとする。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)



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