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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

核廃絶のフットボール

2016-05-30 15:00:55 | 国際・政治

>広島平和記念公園にオバマ大統領が、「核のフットボール」を携えた将校を伴って訪れたとき、核廃絶の演説をその場で行ったとき、これを矛盾ととるのか、詭弁ととるのか。さまざまでしょうが、間違いなくこれが、国際社会の現実なのです。この、装甲ブリーフケースの存在を知らずに、オバマさんの演説を絶賛する「お花畑」にはなりたくないものです。

「核のフットボール」は、現実の内容です。核廃絶は、理想 (非現実) の内容です。
現実と非現実の内容が同時に頭の中に併存しても、それは矛盾でもなければ、詭弁でもない。お互いに別世界の内容です。ですから、英米人には哲学があり、科学があります。考えついた非現実の内容に矛盾が無ければ、同じ話の筋を現実に適用して制御できる可能性があります。むしろ、現実と非現実をごっちゃにして、その矛盾を熱心に指摘する考え方の方が異常に見えます。「お花畑」に狂喜するのは、場合により、非現実を受け入れて現実を脳裏から排除する言語の作用があるからです。

現実の内容ばかりを表現する日本語を使いながら、現実直視のできない瞬間が日本人にはあるのです。時制のない言語・日本語によるものです。現実と非現実の内容を同時に頭の中に入れておくことはできません。二者択一の日本語脳は、きわめて危険です。シャーマンのような神がかりの危険というものでしょうか。

日本語は、現実の内容を表現する言語であります。非現実は語れません。
もしも、異常な事態が発生すると、現実用の言語で非現実を語るようになるとしますと、このときには、現実の内容は日本人の脳裏から消えてなくなります。これは、日本人が現実直視のできなくなる事態で、きわめて危険な状態であります。リーズン (理性・理由・適当) を失った行動に出る状況にあるときであります。


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意思と謝罪

2016-04-23 13:09:36 | 国際・政治
>太平洋戦争で日本への原爆投下を承認したアメリカのトルーマン大統領の孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルさんは・・・・・みずからも2012年に初めて広島と長崎を訪れたことに触れ、「被爆者が求めたのは謝罪ではなく、原爆が2度と使われないよう体験を語り継ぐことだった」と述べました。そして、「オバマ大統領も犠牲者を追悼するために広島を訪問すべきだ。被爆者と面会し、話を聞くことが重要だ」と強調しました。
>アメリカ国内では、原爆投下について戦争を早期に終結させたとして正当化する意見も根強い一方、オバマ大統領に広島訪問を促す声も増えていて、オバマ大統領はこうした世論も見極めながら判断する方針です。

犯人探し・捕り物帳が大好きだ。これらの内容は全て過去のこと。覆水盆に返らず。
我々には、未来への展望が大切である。
原爆投下は、日本の指導者に一億総玉砕を思いとどまらせてくれた。それで、私は命拾いをした。感謝に耐えない。だが、トルーマンの決断に対する感謝祭はない。悪意があれば謝罪しなくてはならない。そうでなければ、謝罪の必要はない。
過去の時点における、未来に対する展望の内容がどのようなものであったかを詳しく検討する必要がある。その展望が、我々の幸福度を決めることになる。我々は自分たちの生活を幸福に見放された浪花節にしてはならない。
意思は未来時制の文章内容である。日本語には時制が無く、日本人には意思がない。だから、善意の力を高く評価することもない。それで、残酷物語も拡大する。我々は、個人の意思に無関心な陋習を捨てなくてはならない。

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、意思に関する下のような事柄が記されています。
徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)




有言・無言の説得力

2016-04-16 16:10:19 | 国際・政治
日本語には、無言の説得力を育む力がある。
日本語脳は目先・手先に精神力を集中させるので、細工物の仕上がりが良く、我が国の製品は全世界で受けている。
このおかげで、我が国は経済大国になった。

日本語には、有言の説得力を育む力が無い。
哲学が無い。政治家には政治哲学が無いので、政治音痴になっている。
日本人同士なら忖度 (そんたく) で切り抜けられる。’忖度する’というのは「相手の気持ちや真意を推し量ること」で、日本人には、これ以外に対応手段がない。ただの推測であるから、議論・理解の必要は生じない。
外国人は理解を求めるから、我が国の政治家は、外国人との議論に難渋している。

マックニール*氏曰く、
>……2014年の夏に菅官房長官が外国特派員協会の会見に出たのですが、「事前に質問内容を出してほしい」と言われて、僕たちはそれを断りました。彼らは外国のメディアに厳しい質問を浴びせられるのを嫌がっているのだと思います。そして、この年の秋以降、政府や自民党の政治家は外国特派員協会の会見には出ていません。

理解することなく事を進める日本人には恐ろしい結果が待っている。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
理解を無視する習慣は、戦前・戦後で変わらない。この危険に対する我が国民の理解をぜひお願いしたい。


*デイビッド・マックニール
アイルランド出身。東京大学大学院に留学した後、2000年に再来日し、英紙「エコノミスト」や「インデペンデント」に寄稿している。



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謝罪か、リーズンか

2016-04-14 19:58:06 | 国際・政治
>米国は一貫して原爆投下について謝罪の意思がないようである。原爆投下は自らの被害を抑えるためには必要であったからようがないということだろうか。また米国は文民保護条約の批准にも積極的ではなく無差別大量殺人兵器をもつことに執着しているきらいがある。 ・・・・・・ 当時の日本は全国民が一丸となり戦時下で国民総動員法が発令されている。すなわち国民すべてが 文民ではなく戦闘員であると思われてもしょうがないくらいに婦女子・子供までもが竹槍や刀の玩具を利用したり戦意高揚の時代であった。そういう意味では無差別殺人兵器と我々は思っても、それを使用する側は、日本人はすべて戦闘員ではないかという危惧が」あったのである。

原爆投下、無条件降伏、それで私は‘一億総玉砕’をまぬかれた。命拾いをした。だから、私はトルーマン大統領の決断に感謝している。わが大日本帝国の政府は、東京大空襲の悲惨な結果を見定めた後も、我々臣民に生き延びる道を与えようとはしなかった。国がひっくり返った時にも、その野蛮な構想の責任者は出なかった。日本人には意思がなく、個人に対するリーズン (理性・理由・適当) の追求もなく、すべてはうやむやに闇の中へと葬り去られた。このような状態が永続するから、過ちを繰り返さないと誓っても、それは空念仏になるのである。ああ、むなしい。

犯人探し・捕り物帳は、我々日本人の娯楽である。だが、これらは全て事後の内容である。取り返しはつかない。飛行機事故が起こってから、その原因を熱心に追究するようなものである。こうした努力では、未然に事故を防ぐことはできない。防止策は未来時制の内容でなくてはならない。
悲惨な事故の発生を未然に防ぐ方策が賢明な策である。未来の内容を的確に予測して対処しなければならない。それには過去における未来の内容の誤りを綿密に調査する能力が必要である。

調査には、リーズンと意思を明らかにすることが必要である。リーズンという概念があれば、リーズナブルな答えというものが期待できる。それを示せば個人は説明責任を果たしたことになる。文章が無ければ、誰も説明責任は果たせない。とかく、この世は無責任となる。
日本人には、リーズンがなくて意思がない。だから、すべてはうやむやに闇の中に葬り去られることになる。日本語には過去時制も未来時制もないので、原因究明・再発防止のような調査は日本人にとって困難を極める。一向にリーズンには焦点が合わさらなくて、結果論ばかりが盛り上がる。日本人の謝罪要求は感情本位で、原因究明から発するものではない。一億総玉砕を決めたときと同じである。今でも考え方に進歩が無い。だから、過ちを繰り返す。

日本人には恥の文化があって、罪の文化がない。罪の意識のない日本人に贖罪をさせようとしたら、それは自虐になる。下とみられたことになる。理不尽な辱めを受けたと考えて憤る。深い反省には至らない。
罪の世界と恥の世界の住民は、相互理解が可能であるか。それとも両世界の住民には、住み分けが必要であるか。我々は、未来の世界について、よく考えてみなければならない。


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自分探し・世界探し

2016-03-23 05:27:32 | 国際・政治
>「自分探し」とは、謙虚に自分を見つめ、これまでの自分を検証して、自分自身をよく知ること、即ち「自己観照」することです。
>そして、「ありたい自分」「なりたい自分」を目指すために どんな「考え方」や「観点」が必要なのか、それを妨げているものは何なのかを、従来の価値観に囚われずに見つけ出すことです。

‘上とみるか、下とみるか’ の判断に慣らされている日本人には、謙虚になることが難しい。これは、日本語に階称 (言葉遣い) があるためである。自己慶賀の内容に酔いしれると、すぐに有頂天になる。
「ありたい自分」「なりたい自分」は、’罪穢れのない自分’である。贖罪により魂は救済される。
意思のないない人間には、罪穢れはない。その人は無心・無罪である。例えば、死刑執行人は殺意がないので、殺人罪には問われない。意思のないところに責任はない。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。
日本人には意思がない。意思は未来時制の文章内容で、日本語には時制がない。だから、日本人には意思が無く、罪の意識が極めて薄い。このような事情で、我が国には、贖罪のための宗教 (キリスト教) は育ちが悪い。
だが、日本人には恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。罪悪感は弱くとも、良心の咎めることは数多くある。そこで、供養をする。供養は広く行われていて何回も繰り返されるが、その内容の詳細は朧げなもので、深刻な反省には至らない。

自分を中心にした考え方では、新しい世界は開けてこない。自分たちを中心にした考え方でなくては社会性は無く、その内容はグローバルにも、ユニバーサルにもなにらない。’自分さえ善ければ’、’独りよがり’ にとどまりがちである。
‘あるべき姿の世界’とか、’自分の作りたい世界’ の内容を考えよう。そして、’来るべき世界’ の内容を友達と語り合おう。民主的な未来社会に関する建設的な話し合いで、その意思を示し合おう。片務を考えることなく、相互を考えよう。
この活動には、世界観が必要である。世界観の作成を妨げているものは、時制のない言語 (日本語) である。時制のない言語では、非現実の内容は語れない。世界観は非現実の内容であるから、日本人には想定外となっている。英語を学んで、この難関を突破しよう。

矛盾を含まない文章は、正しい文章である。それが非現実の内容であっても、正しい考え方である。正しい内容が語れるように英米流の高等教育を受けて訓練しよう。さすれば英語圏の人々と建設的な協力ができる。


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