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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

日本の教育 2/2

2017-08-30 19:56:21 | 教育
> ○理不尽でも黙って指示に従うのが正しい生き方か?
>「みんな仲良く」だとか「人類みな兄弟」みたいな教育があまりにも徹底され過ぎて、何があっても怒りという感情を抑えなければならないと教育されたらどうなるのか。
>「怒りを感じたらいけない……」

‘怒りは敵と思え’ ということですね。

>「理不尽なことをされても仲良くしなければ……」 「自分が我慢しなければ……」

‘忍耐は無事長久の基’ ということか。

>このような思考回路になっていくのは容易に推測できる。とにかく協調性を崩さず、その場を丸く収めることばかり求められるようになり、不安の中で生きるしかなくなってしまう。

‘和をもって貴しとなす’ の教えですね。

> (中略)
>ただ「面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け続ける」だけしか学ばないで義務教育を終われば、面倒や対立やトラブルだらけの社会では押し潰される。 世の中が理不尽なことや危険なことを教えるべきだ。

そうですね。
平和憲法があるから我が国は安全だとか、自分が武器を持っていなければ相手を心配することはないとか、横断歩道の上を歩けば安全だ、等、独りよがりの想いに酔いしれている。危険極まりないですよね。要は、自己の安全は相手の意思次第であるということです。
日本人には意思が無い。だから、自分の意思を表明しようとする努力もなく、相手の意思の内容を知ろうとする励みもない。あるのは自分に都合の良い忖度のみ。我々は、オオカミと七匹の子ヤギたちの話の中の子ヤギの状態にあります。オオカミの意思の内容についての詮索はない。

>その中で押し潰されないようにする方法を教えないから、若者たちはどうしたらいいのか分からずに、最初から最後まで自分を殺して生きることになってしまう。

‘不自由を常と思えば不足なし’ ということか。

>なぜ、「正しいことを主張する」ことを教えないのかというと、今の学校は若者をサラリーマンにするための養成学校のようになっており、「主張するより上司に従うこと」が優先されるからである。

日本人には、意思が無いのだから、意思の表明はできません。相手に従うしか手がありませんね。意思は未来時制の文章内容であり、日本語文法には時制というものがありません。だから、日本人には意思がありません。だが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) はある。
意思は、文章になるから意味がある。矛盾があれば、それを指摘することもできる。だから、議論になる。
恣意は、文章にはならずに、バラバラの単語のままである。意味もなければ、矛盾すらない。小言、片言、独り言として発せられた単語を、関係者が忖度 (推察) してことを運ぶ。まるで三つ子の世話をするみたいである。曖昧な言語の運命によるものか。

>「上司の命令が理不尽でも黙って指示に従うのが正しい生き方だ」というのを学校から教えて社会に出して、サラリーマン社会でクビにされないようにしているのだ。

日本人にはリーズン (理性・理由・適当) が無いのであるから、リーズナブルな答えなどは、とても期待できないですね。だから、問答無用になるのです。

> 相手がどんなに理不尽なことを言ってきても、自分の主張は殺してひとまず謝罪したり賠償したりするように教えているということでもある。

自分に ‘あるべき姿’ の内容が無いので、自己主張ができない。友人ができない。孤立無援で、自分さえ良ければの考えに走る。

>こんな生き方を義務教育で徹底されたら、誰でも主体性を失って流れるように生きるしかない。本当に、こんなことでいいのだろうか。

‘あるべき姿’ の内容が無ければ、主体性はない。’子どものような大人’ で良いはずが無い。意思のある人間を作る必要があります。それには、英米流の高等教育が必要です。



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日本の教育 1/2

2017-08-30 09:57:43 | 教育
>若者たちは、2000年代に入った頃から明らかに精神的に変わってしまったという。>30年近く各大学病院で思春期外来を勤めていた鍋田恭孝氏は、その著書『子どものまま中年化する若者たち』で、若者たちがどのように変化しているのかを克明に記している。

日本人は、無哲学・能天気ですから、昔から子どものような大人であったはずですがね。

> 「何とか立ち直ろうとする力が落ちている」

日本人には意思が無い。意思の無いところには、方法もない。無為無策・座して死を待つ。だから、立ち直れない。

> 「悩む力が落ちている」

誰でも悩みを持ちたくない、悩みは解消したいですね。解脱のみちを探したい。

> 「主体的に動く力も落ちている」

日本人には意思が無い。だから、主体的にはなれない。どうしても従属的になる。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制というものがない。だから、日本人には意思が無い。優柔不断・意志薄弱に見える。忖度 (推察) により、周りのものが面倒を見る。

> 「疲れない付き合いだけに限定する」

付き合い方は、ストレス解消を図る一つの手段になりますね。

> 「漠然たる不安を抱えている」

日本語には時制が無いので、非現実の三世界 (過去・現在・未来) は脳裏に残らない。過去は疾く風化し、一寸先は闇。不透明な非現実の世界に対して、日本人は漠然たる不安を感じる。

>これらに共通するのは、面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け、自分が傷つかないように自我を必死に守り、傷つくくらいなら何もしないことを選択する受動的な生き方であると言える。

日本人には意思が無い。だから能動的でなく、受動的になる。無為無策しか残らない。

>多くの若年層が等しくそうした傾向になってしまったということは、教育の現場がそのような若者たちを作っているということでもある。(日本の学校は、考えない人間を5つの方法で生み出している)

日本語脳の持ち主は、’考える人’ にはなれないでしょうね。だから、哲学の勉強は流行らない。

>○世の中には怒りを持たなければならない場面もある
>若者たちが同時期にこのような問題を抱えるようになったというのであれば教育が問題なのだと誰もが気付く。>若者たちの性格の傾向は受けた教育にも影響される。

なにしろ日本語教育ですからね。英米流とは違いますね。

>「面倒を避け、対立を避け、トラブルを避け続ける若者たち」が大量に産まれているということは、教育の現場で若者たちがそのようになることを求めたということである。

日本語は、議論に適していないので、対立を避けることによりトラブルを避けるしかないでしょう。これは、日本国家の方針とも一致しているのではないでしょうか。

>(中略)
>「みんな仲良くしなさい、協調性を持ちなさい」という面をことさら強調し、逆に強い信念や自分の主張をしないように抑える教育が意識的にも無意識的にも為されている。

いかなる内容に仲良くするのか、いかなる内容に協調するのか。無哲学・能天気では、自己主張はできませんね。

>(中略)
> 人は理不尽なことをされたら怒りを感じるものだ。

リーズン (理性・理由・適当) が無ければ、アンリーズナブル (理不尽) もない。怒りも定かではない。

>社会の不正にも怒りを感じるはずだ。

無哲学・能天気では、どうにもならないですね。正を信じられなければ、不正もない。

>弱い者がいじめられていても怒りを感じる。

力は、正義である。(Might is right). 自分自身の正義を実現させるためには、自分自身の力をを示す必要がありますね。

>そして、間違ったことがまかり通っているのを発見しても怒りを感じて当然だ。

無哲学でいては、自己に基準が無いので、何が間違いかもはっきりしませんね。

>あるいは、自分が、自分の家族が、自分の国が、おとしめられていても激しく怒りを感じるはずだ。

自己保存本能ですね。

>自分や自分の家族や国が他国の人間に馬鹿にされてヘラヘラ笑っているような人はまともではない。

ただの反発だけでは、解決しないでしょうね。

>意味のない怒りもあるのだが、一方で社会正義としての怒り、正当防衛としての怒りもある。

神様にも怒りがある。仁王は仏法の守護神であるが、不法に対する怒りを示している。そしてその実力を示している。強者の怒りは、抑止力になる。

>世の中には、怒りを持たなければならない場面もある。

その通りですね。だが、日本人は感情的になって恣意 (私意・我がまま・身勝手) の決定をしやすいですね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。


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国語教育

2017-08-30 03:00:38 | 教育
>先週の実現塾リンクの話題は、言語能力。大変興味深い議論だった。>一番印象に残ったのは、配布された資料で読んだ唱歌「朧月夜」の歌詞。>この歳になってあらためて読んでみると、昔の人の言語能力、日本語の深さに驚いた。
> 1.菜の花畠に、入日薄れ、   見わたす山の端は、霞ふかし。   春風そよふく、空を見れば、   夕月かかりて、にほひ淡し。> 2.里わの火影ほかげも、森の色も、   田中の小路をたどる人も、   蛙かはづのなくねも、かねの音も、   さながら霞める 朧月夜。
>かつて、日本のどこにでもあった夕暮れ。作者はそれを丹精に言葉にしている。

この歌詞は、一般的な共通認識に基づいていますね。

>◆言葉の量 ≠ 伝達される情報量
>あらためて驚いたのは、文章の短さだ。>1番の歌詞は(句読点を除くと)、わずか43文字しかない。>しかし、伝わってくる情報量は多い。

日本語は、言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがあるということになりますか。

>春の夕暮れの風景が脳内に(かなり高い解像度で)イメージされる。

現実の風景ですね。忖度 (推測) に因る内容ですね。

>これが日本語の真髄だろうと思う。

そうでしょうね。

>「高文脈言語」(313279)の最極端に分類される日本語は、発せられた言葉以上に多くの情報(文脈)が伝達される。>それは、相手の気持ちになる=同化することで可能になる。>いわば、心がつながる状態。

心から心へと連絡が可能になる状態ですね。

>心がつながるので、言葉が少なくても意思が通う。

便利というのか、不便というのか。正確な情報は地の果てに住む人々にまでは届かないでしょうね。

>詩のような作品の場合、相手の心、すなわち潜在思念に訴えかける発信が出来るかが名作と凡作の違いだろう。>したがって、言葉の量と情報量は比例しない。>朧月夜の歌詞を読むと、含蓄に富んだ語彙を、端的に、リズム感を含めて遣っていくことがポイントのようだ。

日本人は、言語を芸術作品に仕上げていますね。言語本来の伝達手段も顧みないと良くないですね。ちょうど、食品であるチョコレートを材料にして、彫像を製作するようなもので、像の芸術性ばかりを評価して、食品本来の生産目的を軽視すると、困ったことも起こるでしょう。

>◆感受性と同化力
>朧月夜の風景は、かつての日本にはどこにでもあった。>要は、珍しくない。

そうですね。一般的な共通認識に基づいていますね。

>しかし、作者はその風景に感動している。>日常的な風景の美しさを見逃さず、感動できる。>作者が持つ感受性は、現代の我々よりはるかに高い。

そうですね。立派な作品ですね。

>この感受性の高さは、同化能力の高さの条件だろう。>感動とは、何かに同化した結果、言葉以前の感情が震えることだ。

感受性は、人それぞれでしょうね。一億総歌詠みになれるでしょうかね。

>その入口になっているのが、様々なことを感じ取るアンテナ=感受性。>多くのことが感じられると、対象への同化は深くなるし、同化対象自体も広がる。>同化の対象が広く、かつ深く同化するから、素通りしそうな日常の光景が美しく感じられるのだろう。

言語と感受性の話になっていますね。気分・雰囲気にとらわれない内容、すなわち考え (非現実) の方にも正当な評価が必要ですね。

>◆言語能力と同化力
>言葉を発する動機は「相手と共感したい」という充足欠乏によって生じる。>言葉そのものを欲する欠乏も、相手と共感充足するため。

そうですね。共感を得たいのが動機ですね。

>最終的には、共感を深めるために多くの語彙を習得して、自在に使いこなせるところを目指す。>このとき、同化力が課題になってくる。

語彙の数を増やすのですね。でも、語数は減らすのですね。これは、日本人の行き方ですね。

>会話の場合は、相手への同化。>相手の想いを的確に察し、それに相当する的確な言葉を返すことで会話が弾む。

忖度 (推察) による返答ですね。忖度は、自分勝手な解釈でしょう。’的確な’ には、客観性がありませんね。独りよがりのもどかしさがありますね。

>一方、詩(文学作品)の場合は、自らの感情等を書き表すことになるので、その感情が生じた背景が課題になる。

言葉以外に状況や文脈も情報を伝達することになりますね。

>すなわち、対象から何を感じ取ったのか=どこまで深く同化したのか。

忖度 (推察) ですか。重要な情報でも言葉に表現されないことがあるということになるのでしょうね。

>これが作品の奥深さを規定する。

理論的には、つかみどころがないですね。形に表すとか、言語を離れた表現方法を利用すると部外者 (外人) にも分かりやすいですね。

>そのうえで、自分勝手な思い込みでなく、読み手に同化し言葉として出力する。>的確な語彙・言葉遣いがなければ、駄文にしかならない。

言葉を使わない方が、部外者にもわかりやすいですね。以心伝心・不立文字で行きましょう。
我が国の国語教育を、正しい (矛盾を混入させない) 文章の書き方、正しい文章の理解の仕方に向かわせる必要があるのではないでしょうか。

>同化力が高ければ高いほど、共感充足を欲する欠乏も深くなる。>その結果、言葉への欠乏が高まり、言語能力が高まっていくということではないか。

非言語の領域において努力されると国際的にも評価されやすいですね。

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
伝達される情報は言葉の中で全て提示される。矛盾を含まない内容は、すべて正しい。
趣味は論拠にならない。だから、気分・雰囲気の内容は、議論にはなじまない。日本人の文章は、歌詠みになるのか。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

我が国の歌人・俳人・小説家も、現代生活において生涯のつまずきをしないように気をつけるべきですね。正しい作文・正しい解釈の勉強を国語教育の根幹に据えましょう。



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