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尾崎俊介氏  

2025-03-12 18:16:28 | 文化

>現代ビジネス   意外と考えたことがない、日本文化とアメリカ文化の「決定的な違い」   >尾崎俊介 (愛知教育大学教授) の意見・   >9時間・   

>学期末や卒業前になると噴出する「レポート・論文ってどう書いたらいいんだろう」という疑問――。   

>テーマをどう選べばいいか、なぜ文章が書き出せないのか、良い論文と悪い論文の決定的な違いとは、絶対やっちゃダメなこととは……新刊『ゼロから始める 無敵のレポート・論文術』では、指導経験豊富な大学教授が「極意」を書き尽くしている。   

>※本記事は尾崎俊介『ゼロから始める 無敵のレポート・論文術』から抜粋・編集したものです。   

>伝記型論文   

>前章では文系論文の一つの型として「論争型論文」を紹介しましたが、もちろんこれだけが論文のタイプではありません。   

>賛否両論が巻き起こっているような社会問題を取り上げるのではなく、特定の国(本書の場合はアメリカ)の歴史や文化に関連の深い人物や事物について、その伝記的な事実を掘り起こしていくタイプの論文だってあり得るはず。   

>主に伝記的な事実を扱うので、とりあえずこれを「伝記型論文」と名づけておきますが、私のゼミ生がかつて取り組んだ卒論のテーマでいいますと、「ブルース音楽が白人社会に与えた影響」「アメリカ初の全国紙USA TODAYの成立史」「ブロードウェイ・ミュージカルの歴史」「ラルフ・ネーダーと消費者運動」「雑誌広告の変遷」「ボーイ・スカウト運動の発展史」「マクドナルドの歴史」「アメリカ現代写真とフォトジャーナリズムのルーツ:アンリ・カルティエ=ブレッソンからロバート・フランクまで」「ソウル・ミュージックの歴史」「アメリカにおける女子教育の変遷」「スミソニアン博物館の歴史」「ジョン・ケージの音楽」「保安官制度から見るアメリカ警察組織」「カリフォルニア・ワインの歴史」といったあたりが伝記型論文の代表例ということになるでしょうか。   

>またこれは人物・事物ではありませんが、「アメリカにおける清潔概念」といったテーマも伝記型論文の範疇に入ります。   

>アメリカ文化の特質   

>ところで、これらのテーマがアメリカ文化研究の対象になり得ること自体、アメリカ文化の特質をよく表していることには、ぜひご注目ください。   

>そのことは、日本文化の特質と比較するとよくわかるのですが、仮にあなたが「日本文化って何?」と尋ねられたとします。   

>そのとき、あなたは何と答えるでしょうか?   

>もちろんこの問いに対してはいろいろな答え方があると思いますが、仮に「日本文化、それは侘び・寂びの世界だよ」「陰翳礼讃の感性かな」「和を尊ぶ精神でしょう」などと答えたとしましょう。   

>たしかにこれらは皆、日本文化の特質といえそうです。   

>しかし、これら日本文化の特質なるものを外国人に説明するとなると、これはけっこう難しいと思います。   

>なぜなら、「侘び・寂び」も「陰翳礼讃」も「和」も、すべて観念上の一つの傾向だからです。   

 

ああでもなければ、こうでもないということですね。歌詠みは文にならない。意味をなさない。   

照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜(づきよ)にしく物ぞなき(大江千里) <意味>さやかに照るのでもなく、といって全く曇ってしまうのでもない、春の夜のおぼろにかすむ月の美しさに及ぶものはない。

無哲学・能天気ですね。下位の文化ですね。     

 

>それに対してアメリカ文化は、割と簡単に説明できます。   

>「アメリカとは、コーラを飲んでハンバーガーを頬張ることである」といったとしたら、それは当たらずといえども遠からず。   

>「アメリカとは、ハーレーに乗ってフリーウェイをかっ飛ばすことである」—これまたある程度当たっています。   

>同じように、「ディズニーランドこそアメリカの産物だ」といってもいいし、「ハリウッド映画こそアメリカだ」「ジャズこそアメリカだ」「サーフィンこそアメリカだ」「大リーグこそアメリカだ」「マリリン・モンローこそアメリカだ」という言い方もできる。   

>つまり、アメリカの文化というのは、それを体現する人物や事物によって言い表すことが比較的に容易な文化なんですね。   

>だからこそアメリカ文化は世界中に伝播しやすいわけですが、とにかく、いかにもアメリカ人らしい人物や、いかにもアメリカらしい事物のことを語っていくと、それがそのままアメリカ文化を語ることにつながるというところがある。   

>人物や事物の伝記的研究がそのまま文化研究に結びつくというのは、そうしたアメリカ文化の特質を踏まえてのことなのです。   

>ですから仮にアメリカ文化について伝記型論文を書くのであれば、いかにもアメリカを感じさせるような人物・事物を選び出し、その人物・事物のことを徹底的に調べ上げていけばいいわけです。   

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

高等教育機関において自己の個人的な見解を明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)    

 

>ただその際、忘れてならないのは、その人物・事物があなたにとって興味の持てるものであるかどうか、ということです。   

>何度もいいますが、論文というのはあくまで自分の好きなことを研究するものでなくてはなりません。   

 

そうですね。好きこそ物の上手なれ。     

 

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはならない。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

 

 

 

 

 



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