>ご存じの通り「失敗を認めず、失敗を検証せず、失敗を重ねた」というのは大日本帝国戦争指導部の「失敗」の構造そのものです。
そうですね。日本人には、探求の意欲か見られませんね。失敗学などというものが、外国にもあるのでしょうかね。物事を詳しく調べれば、成功もあり失敗もあるでしょうに。
>そのせいで、日本人は国家主権を失い、国土を失い、国民的な誇りを失った。
それも本当ですね。不勉強のせいでも反省はない。いたって呑気ですね。
>その失敗から戦後日本は重要な教訓を得たはずでした。>でも、今の日本を見ていると、この歴史的経験から学んだようには見えません。
同感です。重要な教訓など、どこ吹く風か。価値観が違いますね。我々の価値観は、風流にありか。
>現に、敗戦に至る政治過程の失敗を「失敗」と認めない人たちが政権の中枢を占めている。
そうですね。国民に反省の色はない。相変わらず、無哲学・能天気ですね。
現実直視ができない。日本人の理解というのは、文章の意味を正しくとらえることでない。ばらばらな単語を忖度 (推察) でとらえることである。この奇想天外の意味づけを本人も気づくことなく堂々と述べるから、国際的な相互理解も得られず、わが国は孤立するのである。わが国の常識は、世界の非常識。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上>の中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。
“信念”が社会・政治的状況によって変わり、”リアリティ”も操作できるものであるとすれば、多種多様な虚構 (フィクション)を維持するのはかなり容易になる。このような虚構によってもたらされる国際的な言語表現上の混乱は、日本の評論家や官僚が”理解”ということばを口にするときの特別な意味づけによって、さらに複雑になる。”相互理解”をさらに深めることかが急務である、という表現をもって強調されることが多い。
ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
>敗戦という近代日本最大の惨禍を正しく受け止め、なぜこれほどひどい失敗を犯したのかその理由を吟味し、二度と同じ失敗をしないようにシステムを補正するという作業を拒否する人たちが日本の国の方針を決定する立場にある。
残念ながら、それも本当のことですね。真の日本人かな。
日本人には意思がない。意思がない人には、加害者意識もない。加害者意識は罪の意識にもなる。罪の意識が強くて、自分の人生を変えてしまった人も欧米にはいる。
罪の意識のない人には、反省の色もない。子供のようなものである。無理に周りから謝罪をさせようとすると、自虐を強要するものとなる。だから、反省には至らない。
大の大人でありながら、罪の意識のない人を眺めると恨めしくなる。化けて出るのか。
犯罪・謝罪・贖罪など、およそ罪と名の付くものは、日本人生活に縁が遠い。だから、最大の惨禍を正しく受け止めることも難しい。贖罪のための宗教 (キリスト教) など、わが国においては勢力を持つことはない。
>そこに僕は大日本帝国の破局的失敗から何一つ学ぶまいという強固な意思のようなものを感じます。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. 意思のないところには、方法がない。仕方がないので、無為無策でいる。その態度が、強固な意志のようなものに見る人には感じられる。
意思は未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には、時制 (tense) というものがないので、未来時制もない。それで、日本人には意思がない。優柔不断・意思薄弱に見える。
>僕の考える「国を愛する」というのは、現代日本についてなら、「国家主権を回復する」「国土に外国軍隊を常駐させない」「不平等条約である日米地位協定を平等で双務的なものに改定する」といった散文的な課題を一つひとつこつこつと仕上げてゆくことに他なりません。
自主・独立 (independent) の気風ですね。一人前の大人の気分ですね。
>日本は過去一度も失敗なんかしたことがないし、昔も今も世界中から敬愛されているというような夜郎自大な自己評価にしがみつくことでも、目を血走らせて「非国民」探しをすることでもありません。
そうですね。日本人は、相変わらず ‘気分・雰囲気’ を求めていますね。
>でも、主権国家として当然のこれらの重い政治課題を何よりも先に解決しようという強い意欲を今の日本人からは僕は感じることができません。
そうですね。無哲学・能天気ではね。政治音痴ですね。
.