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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

意思の自由

2018-05-18 22:43:34 | 教育


>人生をどのように生きたいのかという願望は、子ども自身のものでなくてはならない。

そうですね。大人は、’将来何になりたいか’ と子供に尋ねます。

>しかし、まだ幼い未熟な子どもが、将来の目標を立てることは難しいから、その子どもの「願い」や「希望」に対する周囲の大人たちの共感的な援助が不可欠となる。

子供には、意思がありませんからね。

>子どもを取り巻く大人たちが、子どもが将来「なりたい」あるいは「したい」という目標の具体的な内容に対して共感的に関わる姿勢(価値感受性への共感)をもつことが極めて重要である。

そうですね。それにより、子供は自分の考えに自信を持てるようになります。

>大人たちの「願い」や「希望」を、その子どもの「願い」や「希望」にどう関係させるかということも、教育の非常にデリケ一卜な、しかしとても重要な課題である。>親が子どもに対して明確な「希望」も「願い」ももたないないならば、その子どもの人生に対する考え方もまた不明確なものにならざるを得ない。

そうでしょうね。

> 略
>近頃では伝記がすたれてしまっているが、そこには人類のために尽くした多くの偉人達の話が載っている。>そうした人々の伝記は、人生の生き方を考える際の大きな参考になる。

そうですね。偉人伝は、歴史の一種ですね。

>「伝記に表されているような人間の生き方はできないから無駄である」とあきらめるのではなく、「そういう生き方もできるかも知れない」として、可能性に賭けることが大切である。

‘少年よ、大志を抱け’ ということですかね。Boys, be ambitious!

>「変えよう」と思わなくては、世界は変わらない。

そうですね。社会変革には、‘変えよう’ と思う内容の意思が必要ですね。
すべての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の世界は眼前にあるただ一つの内容である。
日本人には世界観がない。だから、どのように変えるかの構想は立たてられない。日本語脳には時制がないので、現実とは別の世界は見えてこない。我々は、どこにも行かない。お変わりのないことは、何よりなことである。これは、天下泰平の証である。

世界観は、非現実の内容である。非現実の内容は、考えの内容である。過去・現在・未来の三世界がある。それぞれの世界は時制により分けられているので、考えの上で一つの世界にはならない。
現実の世界は、頭の外にある。その内容を見ることができる。非現実 (考え) の世界は、頭の中にある。内容を見ることはできない。ただの話である。だが、これは学問になる。
非現実の世界は、三世界。過去が現在へ、現在から未来へと移行する。だから、考える人は、それぞれの世界の内容を考えなくてはならない。無哲学・能天気ではいられない。

>「自分が働きかければ世界は変わる」という信念が大切なのである。

そうですね。信念が大切ですね。日本人には、未来時制がない。来るべき世界の内容が、脳裏に浮かばないようでは、信念になりませんね。

>大脳は、そのような信念によって活性化する。

大脳は、未来構想で活性化されますね。夢と希望のある人生ですね。

>そうした行動に駆り立てる意識こそが、真の主体性であるとするならば、その主体性をどう育むかがこれからの教育の大きな課題となる。

そうですね。意思のあるところに、方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. だが、日本人には、意思がない。意思は未来時制の文章内容あるが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、未来時制もなく、日本人には意思がない。優柔不断・意志薄弱に見える。意思のない人には、主体性もない。夢と希望を追いかけることもできない。

>主体性は、放任しておいても育つ能力ではない。

日本人には、意思はないが恣意 (私意・わがまま・身勝手) がある。通常、日本人は恣意を鼓舞して、行動に走らせる。恣意を意地・根性・大和魂などとして鍛え抜く。恣意の人は、自発的ではあるが、その行動は容認されるものではない。自由とは、意思の自由のことである。恣意の自由は許されない。恣意の自由は、’自由のはき違え’ である。だから、昔通り、’不自由を常と思えば、不足なし’ で通すのが正しいと思います。意思を持つことが、幸福へのカギを握ることになります。

>子どもが将来的にもつ希望や願いを周囲の大人たちも親身になって一緒に考え、共にそれへ向かう最善の方法を模索するなかで強まり、育まれていく能力なのである。

意思の自由を教えるよりほかに、方法はないでしょうね。意思が持てるようになれば、夢や希望のある生活が送れます。
さて、意思の持ち方であるが、それは英米人に教えてもらうことですね。英文法には、時制があります。英米人には、意思があります。ですから、彼らと一緒に行動して、その行動様式を学ぶことです。ついでに、英語を学ぶとよいです。さすれば、我々日本人にも意思が獲得できます。だから、我々の未来は明るいです。



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立命館アジア太平洋大学

2018-05-18 16:10:24 | 教育

>――言語だけでなく、異文化理解力の大切さに気づいていない企業も多そうです。
>プラブネ:そうですね。「グローバル化」とよく言うけれど、そもそもグローバル化の定義が必要ですね。なぜ「インターナショナル」ではないのか。海外でモノを売りたいということであれば、インターナショナル。グローバルは、世界では“共通認識”なんてありえないということを理解することだと、私は解釈しています。

FTP (Free Trade Agreement ) とTPP (Trans Pacific Partnership) のような違いを拡大したようなものですね。

>自分の言っていることが、いくらロジカルだと思っても、それは自分が今まで経験した、自分の文化をベースにしたものにしかすぎない話であって、真実はどこにもない。認識は、みんなそれぞれバラバラのはずです。

未知なる世界に住んでいるのですね。

>グローバル化にあたっては、それをそのまま受け入れる、何も変えようとしないというスキルが必要。そのスキルは、職場に入って「これからグローバルになります」と言ってできるものではなく、教育の現場から変わらないと難しいと思います。

それは難しい問題ですね。

>プラブネ:ちょっとおもしろいエピソードがあります。私には高校生の娘がいて、東京・江東区のインド系インターナショナルスクールに通っているんですが、この学校ができた2004年当時はインド人生徒だけだったんです。>でも、2007年ごろインド式計算がブームになって、私自身も関連本を編集したり、本(晋遊舎『インド式計算パズルインドラ―遊びながら数字に強くなる魔法の計算パズル』)を書いたりしたのですが、その頃から日本人の子どもたちが入学するようになったんですよ。>今、娘のクラスは、14人が日本人。インド人が5人。日本人のほうが多い。この子たちは日本人として日本にいながらインドの文化の中で暮らしているわけです。彼らが世の中に出ていく時にはグローバル人材になっているでしょう。

広く知識を世界に求め、、、、ですね。

>日本は「オンリーワン」になるべき
>プラブネ:そう考えると、海外から人を呼ぶより、自分の国でグローバル人材を育てたほうがいいんじゃないかと思うんです。必ずしも海外から人を呼べば社会がよくなるわけではないですから。異なる文化を我慢するのではなく、受け入れることは結構難しいですからね。

そうですね。異文化を受け入れることは、難しいですからね。

>――しかし、今、日本人口が急激に減っています。海外からの雇用や、海外市場への進出は避けられないのでは。
>プラブネ:人口減はいいことじゃないですか。

昔は長いこと、わが国の人口は3000万人であった。その程度が住みやすいのではないですか。

>――え!? いいことですか?
>プラブネ:私は理想、というか、必ずしも悪いことじゃないと思うし、ライフスタイルを見直す機会だと思う。世界で1位になりたいのであれば、それなりの経済パフォーマンスが必要だけれども、SMAPの歌にも「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」とあるでしょう? オンリーワンになれば、人口に頼る必要はありません。>私は仕事でいろいろな社長さんに会うんですけど、必ず「日本でモノが売れないのは、人口減少が……」という話になります。そうじゃなくて「売れるモノを作ってないだけじゃないの?」と思う。特別なオンリーワンを見つけるといいと思います。

そうですね。オンリーワンは、よいですね。

>ショハルフベック:僕は日本に来るまでまったく海外に出ていないんです。でも、日本の大学に来て、めっちゃ人生が変わった。物事をいろいろな立場から見られるようになりました。(出身校の)立命館アジア太平洋大学(APU)には、当時100カ国くらいから学生がきていた。ちょっとしたパーティや食事会でも少なくとも10カ国以上の人が集まるのです。

日本人学生の疑似海外経験になりますね。貴重な学習環境になりますね。

>――国連みたいですね。
>ショハルフベック:いつも冗談で言うんですけど、「APUは十文字原という別府の山にある小さな地球」なんです。ここには日本の文化も入っていない。なので、みんなで一緒に日本の文化も含めていろいろな国の文化を学ぶんです。それを体で感じる。それと比べると、1週間の研修とかで「グローバル」を学ぶのは無理じゃないかと思う。>グローバルという言葉は危険?

グローバルの内容は、哲学ですね。

>プラブネ:カルロスさんの母国スペインも多様性がありますよね。

そうですね。国の中にも国があるのでしょう。

>ドンデリス:あります。スペインの中でもそうだし、ヨーロッパにおいても周りの国はだいぶ違う。グローバルは、難しい、というか、危ない言葉かもしれない。>たとえば、僕はスペインのほぼ真ん中にあるマドリード出身だけれども、同じスペインでも北と南は文化も考え方もだいぶ違う。そして、もうちょっと北のほうに行くと、フランス、イタリア、南のほうに行くとアフリカがあって、これらの国々もそれぞれ全然違う。>「グローバル」というと、スペインや周辺国のことだけじゃなくて、アメリカのことも、日本のことも理解していないといけない。外国に住むと、頭の中がいろいろと変わってくる。いろいろな視点が生まれます。今の日本の学生は、留学などをしてそういう体験をしていると思いますので、これから日本もだいぶ変わるのではないでしょうか。少しずつグローバルということも生まれるかもしれません。

時代の趨勢というのですかね。

>ショハルフベック:ちょっと気をつけてほしいのは、グローバルは大事だけれど、自分のアイデンティティを守ることも大事だということ。外国人を受け入れると同時に、日本らしさも残しておかないといけないですね。僕は日本語を話せるけど日本人じゃなくて、ウズベキスタン人だというアイデンティティを持っているのが大事なんだと思う。

そうですね。たいていの日本人は、日本を売り物にしていますからね。愛国心が強い。我田引水が強いです。

>そのうえで、お互い「違う」ことを受け入れるのが大切です。「あいつは、考え方や文化が違うから合わない」と壁を作るのではなく、自分のアイデンティティを持ちながら、ほかの人も受け入れる。それが大事なんじゃないかと思います。

そうですね。国際的な相互理解が必要ですね。’外人・非国民’ 呼ばわりはやめましょう。



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日本に来ない

2018-05-18 13:51:44 | 文化


(略)
>カルロス・ドンデリス氏 >スペイン出身、日本在住歴7年。クラウド名刺管理サービスのSansanでシステムエンジニアとして働いている。
>イブラギモブ・ショハルフベック氏 >ウズベキスタン出身、日本在住歴12年。通称ショーン。ヤンマーに入社8年目。マーケティング部の市場調査や競合他社分析の仕事をしている。
>マニッシュ・プラブネ氏 >インド出身、日本在住歴20年。アドビシステムズで、ビジネス開発のコンサルティング責任者を務めている。

出身国も滞在期間も職種も異なる3人ですね。

>――日本で外国人が働くために、改善してほしい点はありますか?
>ショハルフベック:長期休暇を制度化してほしいですね。1カ月ほど休んで、故郷のウズベキスタンに帰省したいんです。これまで連休と有給休暇を組み合わせて最長24日間の休暇を取ったことがありますが、それを制度化してもらえたらな、と。>難しいとは思うけれど、たとえば仕事を見える化したり、共通化したりして、「この人がいないとできない」というものをコントロールできるようになれば、と思うんです。僕だけでなく今後入ってくる後輩たちのためにも、年に1、2回、長期で休んで自国に帰りやすくしてほしい。

外国人は、長期休暇をとって、海外旅行を楽しんでいるようですね。

>ドンデリス:確かにそうですね。僕が「改善してほしい」というか、「もう少し理解してほしい」と思うのは、当たり前のことではあるんですが、“外国人”はみんな同じではなく、それぞれ違うということですね。

そうですね。わが国には個人主義の理解が浅いので、個性の違いに重きを置いていませんね。絶えず、’皆が、、、皆が、、、’ と言っている。

>ドンデリス:よく聞かれるんです、「日本はいつまでですか?」「いつスペインに帰るんですか?」と。僕は特に帰る予定はないのに、外国人はある一定期間だけ日本で仕事をして、そのあとは必ずみんな帰るというイメージがあるようです。でも、日本にずっと住みたい人もいますよ。

日本人の ‘出稼ぎ根性’ 丸出しですね。’一旗組’ か。

>ショハルフベック:わかります。外国人といっても必ずしも母国語は英語ではないのに、「ショーンはTOEIC取らなくてもいいよな」と言われます。やっぱり外国人は英語が話せるというイメージがあるんですね。それぞれ違うのに。

わが国では、’人それぞれ’ は認められませんね。絶えず、’みんなが、、、みんなが、、、’ と言っている。

>優秀なインド人が日本に来ない理由
>プラブネ:私が思うのは、まずどういう人材がほしいか明確にして、そのためにはどうすればいいのか日本人自身が気づいて社会づくりをすべき、ということですね。今、アドビシステムズ、マイクロソフト、グーグルという3社のCEOはインド人です。しかし、インド人は今、積極的に日本で働こうとは思っていない。理由は、外国人には「キャリアの壁」があるのではないか、と思われているから。

わが国には、人手不足はあっても頭脳不足はありませんからね。天下の秀才なら一杯います。

>本当にフェアに自分を扱ってくれるのかどうかわからないところに、わざわざ自分の人生を預けられないのです。今後日本が単に働く人数を増やしたいなら、困っている人たちを呼べばいいけれど、優秀な人材に来てほしいのであれば、成果主義に変える必要があるでしょう。ただ、それは外国人が「こう変えろ」というものではなくて、日本人が自ら気づいて、考えて社会づくりをしないといけない。

そうですね。日本人には自主性が必要ですね。もう、GHQもなくなったことだし。

>ショハルフベック:そうですね。外国に人材を求めるのは、労働者が欲しいのか、プロフェッショナルの人材が欲しいのかということですよね。今後、日本の企業を元気にさせたい、グローバルに展開したいというのであれば、単なる労働ではないと思う。能力、知識、経験ですよね。であれば、それなりのものを提供しないといけない。外国人を雇用する意義、目的ですよね。

そうですね。意義・目的ですね。日本人には、哲学がない。

>よく聞く話なんですが、日本企業では、いい大学を出たスキルのある外国人社員に通訳をさせていることがある。しかも、違う部署の通訳をさせられることも少なくない。そこで本人のスキルが生かせるわけではないのでそういうのでちょっと嫌になってしまうんです。それはすごくもったいない。>だから、マニッシュさんが言うように、外国人を雇用するのならばまず目的をハッキリさせなければならない。そして要求があるのであれば、きちんと提供もしないといけないということです。

そうですね。Shepherd dog か、bulldog が必要か、をよく考える。

>プラブネ:「自分のキャリアプランは何なのか」というのを、もっと会社と話せるようにしたいですね。自分を成長させて、それに見合った報酬を得て、一体感を持ってほかの社員と仕事をしていきたいのか、それとも、2、3年のショートタームで働くのか。それによって働き方は決定的に変わってくると思う。日本の会社でもこういう会話は始まってきています。そうじゃないと日本に残っていません(笑)。

個人の個性に着目する必要がりますね。

>それともう1つ、変えられるのであれば、社内で日本人も英語で会話ができたら、と思う。完璧でなくていい。完璧を求めてしまうと、「自分の英語はまだまだだから」と、話せなくなりますよね。完璧でなくても、言いたいことが伝わればいいと思うくらいで積極的に英語を使うようにすれば、世界にどんどん出ていけるんじゃないかなと思いますね。

そうですね。同感です。

>「グローバル化」の定義って何だ?
>ドンデリス:コミュニケーションさえ取れればいいんですよね。ベンチャーで働いている人やエンジニアは、新しいテクノロジーに関する資料は英語だから、みんな英語を読んで理解することはできる。ただ、しゃべれない。理由は恥ずかしいから。

そうですね。日本は、恥の文化の国ですからね。誤りがあれば、謝らなくてはならない。さすれば ‘勝負あった’ となる。これは恥ずかしい。上下社会の厳しさです。

>でも、たとえば楽天さんは、社内の公用語を英語にしました。そうすると海外の技術者は「日本語は話せないけど、こういう会社なら働きたい」と思うはず。大きい会社だといきなり変えることは難しいかもしれないけど、ベンチャーなど小規模であれば、変えることは比較的簡単だろうし、やったほうがいいと思う。

そうですね。

(略)


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擬声音

2018-05-18 10:36:23 | 日本語脳
> (中略)
>どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。>ひとつは言霊(ことだま)です。>言葉に魂が宿る。
>(中略)
> 2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。>オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。>擬声語は、たとえば >わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、あるいは、おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。>おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

そうですね。日本の鶏はkokekokko と鳴き、アメリカの鶏は、cock-a-doodle-doo と鳴きますね。鶏もちゃんと国籍を意識しているのかな。

>(中略)>ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。> 実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

そうですね。いうなれば、受け止める側の勝手な解釈によるものですね。

>このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。
>つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

そうでしょうね。日本人は、人の声・自然の音を聞いて、その内容を忖度 (推察) していたのでしょうね。音楽・絵画・彫刻のような非言語の世界の鑑賞の仕方と同じですね。

>だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

忖度は、聞き手の勝手な解釈によるものです。話者・自然の音源に責任はありません。だから、議論をすれば、独りよがりということになります。議論もできません。
すべての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。我々日本人は、話者の考えを理解しようと努力していない。音源と忖度に力を入れている。だから、建設的な話し合いができない。残念なことです。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、ばらばらな単語 (小言・片言・独り言) でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。>言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。>なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。>そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。(略) >ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。>そして1万7千年前 は縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。>(中略)>こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、>「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千~三万年前に新石器時代を迎えていた。」と述べています。> 言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

なるほどねえ。わたくしは、日本は世界最古の文明のある国だとは知りませんでした。英国人の探求は、進んでいますね。

 

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