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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

文は人なり

2018-05-09 23:14:39 | 政治

‘文は人なり’ (Style is the man himself.) という。
優れた人物は、優れた文章を書くに違いない。優れた文章を書く人は、優れた人物であるに違いない。
英米の週刊誌は、世界に影響力を持っている。世界に影響力を持つ人物が、執筆しているに違いない。我が国の週刊誌は、影響力を持たない。そのような人物が執筆しているということになる。
世界に影響力を持つ人物の地理的分布についても、同様な傾向を示すに違いない。我々は、影響力を持つ国々から文章を学ばなくてはならない。さすれば、優れた日本人が輩出するでしょう。だから、’文は人なり’ Comte de Buffon (1701-1788) は正しい見方だと思う。

自己主張には、’あるべき姿’ の内容が必要である。’あるべき姿’ は、’今はない姿’ である。’今はない姿’ を ‘今ある姿’ に変えることが出来れば、それは創造である。人間の知力のたまものである。政治改革にもなる。
‘あるべき姿’ (things as they should be) は、頭の中にある内容で、今ある姿 (things as they are) は、頭の外 (現実) にある内容である。両者は所在が異なるので、内容も同じにはならない。
非現実の内容を文章にするには、時制 (tense) というものが必要である。時制は、英文法にはあるが日本語文法にはない。時制があると、非現実の内容を文章にすることが出来る。非現実の内容を文章として脳裏に定着させることができる。
現実の世界はただ一つであるが、非現実の世界は三つ (過去・現在・未来) ある。‘あるべき姿’ の内容は、’過去から見た未来’ の内容になる。このような内容は、現実離れしているので、日本人には信じがたい。だから、日本人は、非現実の内容に関する考えが無い。それで、無哲学・脳天気になっている。

日本人は、’文法・哲学・不毛な議論’ の話題が嫌いである。これらの話題は、日本人生活には重要でないからである。
だから、文法学校 (grammar school) の伝統を持つ西洋の言語を覚えるのが日本人は苦手である。
日本人は、実学 (技術) が得意で、哲学 (非現実) が苦手である。現実は、見ることが出来る。見ればわかる。非現実 (考え) は見ることが出来ない。ただの話である。だが、非現実の内容は学問になる。日本人は、単なる話を聞くことが得意でない。だから、学問体系も構築出来ない。
不毛な議論という指摘は日本人の反発を呼ぶ。’文章を作るのは、自己の意味を表すため’ であるということを日本人が理解できないからである。バラバラな単語は意味を構成しない。が、’バラバラな単語とその忖度 (推察)’ を容認する我が国の言語環境の中で生活している日本人には、不毛な議論というものが理解できない。聞き手が忖度から自分勝手に意味を得ているからである。その反面、歌詠みのようなものは高く評価されている。単語の忖度、和歌・俳句の鑑賞は、非言語の活動である。文章に関する意味と理解の関係の外にある。全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。非言語の活動には、絵画・彫刻・音楽などの様なものがある。これらは言語活動ではない。

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

もしも、世界に影響力を持つ日本人を育てる必要があるのなら、正しい (矛盾を含まない) 作文と、それを理解する能力を習得する教育を確立する必要がある。正しい文章は、すべて正しい考えを示している。その中に、世界に大きな影響力を持つ考えが存在する。世界に大きな影響力を持つ人物が存在する。このような情勢と改革の方策を理解して教育改革に励めば、我が国は精神的にも世界に対して影響力を及ぼす国となるでしょう。


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主体性

2018-05-09 09:02:10 | 教育


>2022年、「社会科」の授業が大きく変わる。>新学習指導要領にともない、これまでの歴史的事実の羅列を覚えるだけの いわゆる「暗記科目」から現実社会で生きていくうえで本当の意味での社会を知る科目へと変貌をとげる予定だ。

本当の意味が大切ですね。

>そもそも今までの社会科で学ぶ歴史も日本で学ぶ歴史と海外で周知されている歴史は大きく異なる。

日本は、特殊な国ですからね。風変りが、当たり前だったのでしょう。

>戦後の日本の教育があらゆる価値判断や因果関係を排除したちぐはぐな事実になっていることが要因といえるが、そのちぐはぐさがより歴史の授業を意味のないものに陥れていると言える。

そうですね。文章が無ければ、意味もない。バラバラの単語を並べて、用事を済ませるような我が国の言語環境では、価値判断や因果関係は表現できませんね。文章になれば、意味もある。矛盾があれば、それも指摘できる。だから、議論もできる。外国語の単語を丸暗記しても、それでは文章にはならない。文を作るのには、文法が必要である。だが、我が国には、文法学校 (grammar school) というような考えは存在しない。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻語でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>新しく制定される社会科の中では公共の場において主体となって意思決定や行動のできる、主体性を育てることに注目した教育になっている。

主体性を育てることは、我われにとって大切ですね。しかし、日本人には意思が無い。だから、意思決定ができない。優柔不断・意志薄弱に見えます。
意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがないので、未来時制もない。だから、日本人には意思が無い。仕方がないから、無為無策でいる。自分自身で動きがとれない。だから、主体性が無い。
英文法には、時制がある。だから、英米人には、意思がある。有能な指導者が現れて、意思決定をする。
日本人には意思は無いが、恣意 (私意・我がまま・身勝手) が有る。だが、恣意決定は出来ない。恣意は、どこの国でも認められていないからである。バカ殿さまの理不尽な申しつけの様なものに成る。恣意は、バラバラな単語になって、腹の底に溜まっている。そして、腹芸の原動力となります。

>今までのちぐはぐな事実の羅列を教える反復学習からの脱却の糸口となりえる可能性を感じる。

素読ばかりの勉強では、時代について行けませんね。事実の羅列の原因を理解することが大切ですね。

>今後の教育について必要なのは事実の暗記ではなくどれだけ主体性をもって社会に関わっていくか。

意思のあるところに方法 (仕方) が有る。Where there’s a will, there’s a way. 意思のある人には、解決法がある。だから、責任者になる資格がある。

>2022年の改定が良い方向に舵をきってくれることに期待する。

そうですね。‘他力本願・神頼み’ ですね。どうなることやら。


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