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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

没個性

2018-05-05 17:03:01 | 政治


>民主主義。>国民投票に代表される選挙制度の中核でもある多数決の原理。>個人の意見を平等に尊重し、公平に集団の総意として物事を決める。>それはまさに共認原理の潮流に沿った理想のシステムである。>と、多くの人が誤解している。

そうですね。裏話もありますね。

>それは明らかに洗脳によるものだ。>多数決とは仕組まれた罠あり、巧みに作られた偽装共認のシステムである。>意外にも思われるかもしれないが、人類の本源原理に照らし合わせれば、最も非人間的・非人道的なシステムなのである。>本質的には「数の原理」により、「体制派」と「少数派」を作りあぶりだし、少数派を完全否定=抹殺することにより全体を統制する粛清システムである。

少数派の弾圧は良くないですね。思想の自由・言論の自由ですから。

>それは、独裁や統制をもくろむ人々にとって最も都合のよい手法なのである。

残念ながら、それは避けられませんでしたね。

>重要なのは多数決が問われる内容が事実であるか?論理整合性が高いか?可能性を感じるか?とは無縁に、多数派の意見。いいかえれば空気だけですべてのものごとが決まり進められるという、人類集団の適応原理からすれば危険極まりないシステムである。

そうですね。危険ですね。理性が無い。空気の研究も必要ですね。

>賛成の数さえ多ければなんでも好き勝手に決められるということは、人類集団本来の共認原理からは完全に逸脱している(近年の国内外の不正選挙などは「数の原理」その本質が、最も端的に表れたものであろう)。

そうですね。民主主義は、最低の政治形態ですね。しかし、この政治形態を凌駕する形態は、まだ見つかっていない。ですから、当分の間は、世界は民主政治で行くことになるでしょう。

>そもそも歴史貫通的にも可能性を見出し、可能性を切り開くのは常に無名の少数派である。>大衆を無能化し、少数の体制にそぐわない(既存体制以上の更なる可能性を見出す)志を持つものを抹殺する。>これほど既存体制にとって都合のよいシステムはない。>そしてその罠にまんまと嵌っているのが今の日本人である。

そうですね。ですが、それは結果論でしょうね。既存体制の節度ある態度を期待しますね。

>戦後GHQ主導の教育=個人脳・暗記脳・受験脳化により無能にされ、同時に社会は70年貧困の消滅により序列崩壊から共認原理に移行、結果。表層的な共認原理は多数決の罠にはまり、ついに21世紀。>仲間世代は仲間の顔色(集団内評価)ばかり気にして集団内の空気でしか物事を判断できなくなってしまった。

忖度 (推察) は、相手の顔色を窺う事でその内容が決まりますね。通常、自分自身の考えを持たない人が選ぶ方法ですね。

>言い換えれば集団内の「多数派なかまこそが正義」なのである。

そうですね。無哲学・能天気な人々は、烏合の衆ですからね。’多数が正義’ ですね。これは、’力が正義’ と似ていますね。 Might is right.

>思考を開放するということは「数の原理」という判断軸からの思考離脱であり、自集団内評価から社会的=構造的追求評価のパラダイムシフトである。

‘あるべき姿’ の追求ですね。そのためには、我々は ‘考える人’ になる必要がありますね。それが、またまた難しい。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
現実の内容は、頭の外にある。考え (非現実) の内容は、頭の中にある。現実は見ることが出来るが、考え (非現実) は、見ることが出来ない。ただの話である。
現実の世界は、ただ一つ。非現実 (考え) の世界は、三つ (過去・現在・未来) ある。
現実の世界では、見えるものは本当のもの。見えないものは、嘘である。嘘・本当に分かれる世界である。
非現実の世界には、嘘が無い。辻褄の合う内容は、すべて正しい考えである。だから、思想に個人の自由がある。矛盾のある内容は、考えではない。
非現実の内容を文章にするには、文法に時制 (tense) というものが必要である。時制は、英語にあって、日本語にはない。
だから、日本人は、自分の考え (非現実) を述べることも、文章に表すことも難しい。そして、選挙においても有権者は候補者の個人選びが難しい。

>それは、人類本来の構造的整合性の地平における事実の追及=「質の原理」によってこそなされるものである。

話が、難しくなりましたね。要するに、民主主義を形式的なものから、実質的なものに変えなければならないということでしょう。もっとも、これは私の想像によるものですがね。


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