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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

親野智可等氏  

2021-12-04 17:58:46 | 文化

 

>東洋経済オンライン >日本の子が授業中「座っているだけ」に陥る真因 「置いてけぼり続出」の一斉授業をどうすべきか > 親野 智可等 2021/11/24 11:00

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> 「わが子が勉強しない。 >勉強が嫌いで学力がつかない。 >もっと進んで勉強するようになって欲しい」「いつまでたっても宿題をやらない。 >さんざん叱られて泣きながらやる」 > こういった悩みを抱えている親御さんは本当に多いです。  

 

そうですね。現代における日本人の不幸ですね。   

 

> では、なぜ、こういう事態が常態化しているのでしょうか? >その理由と対策についてゼロベースで考えてみたいと思います。> はたして、子どもたちは勉強ができるようになりたいと思っていないのでしょうか? >なぜ、子どもたちの多くが勉強を進んでやろうとしないのでしょうか?  

 

それは自分にやる意思の無い事柄を強制されるからでしょう。 

 

>子どもたちは勉強ができるようになりたい  > 私は23年間にわたって小学校の教壇に立ってきましたが、その経験で言えば、本当は子どもたちはみんな勉強ができるようになりたいと思っていますし、教科書やテストの問題を解けるようになりたいと思っているのです。  

 

本当にそうですね。   

 

>でも、それができないままでいるのです。 > では、どこに原因があるのでしょうか? >実は、原因は子どもたちにはありません。 >ひと言で言えば、個人の学力差を無視した全体主義的なカリキュラムの強制が原因です。  

 

そうですね。学校では子供個人が全体主義的なカリキュラムに蹂躙されていますね。  

 

>そして、解決策はカリキュラムを無学年制にして個別最適化に舵を切ることです。

 

そうですね。社会の勉強は無学年制にすることですね。個人本位が解決策になりますね。マラソン競技のように各人が自己の最適速度で走ることですね。           

 

> 日本のカリキュラムは文部科学省の学習指導要領が基になっています。 >そこには、何年生では何を学ぶかということが示されています。 >例えば5年生の算数なら、主に次のような内容と決められています。 > 小数の乗法と除法。 >分数の加法および減法。 >三角形や平行四辺形などの面積。 >直方体などの体積。 >角柱などの立体図形。 >百分率や円グラフ。 >比例。 > また、年間の標準授業時間数も決まっていて、5年生の算数は175時間です(この場合の1時間は1コマの授業時間45分間のこと)。 > では、なぜ5年生にこれらの内容が配分されているかというと、高校卒業までに数学3と数学Cが終わるというゴールがまずあり、それに間に合うように配分しているからです。 >つまり、全体の達成目標が大前提としてあり、それを小学1年生から高校3年生までの12年間で達成するために、「○年生ではこれとこれをやってここまで学習する必要がある」ということで配分されているのです。 > さらに、それを基に教科書が作られているので、「5年生の比例は○時間」「百分率は○時間」ということも決まっています。 > つまり、個々の子どもの学力とは無関係のところで、全体としての達成目標とそれを実現するためのカリキュラムがあるのです。 

 

そうですね。我が国の学校教育では個人主義が大きく損なわれていますね。個人の成長が大いに損なわれることに注意が集まりませんね。     

 

> もちろん、国レベルの判断として、「これくらいの達成目標でないと学力の国際標準に達することができない。 >学力の低下は国力の低下につながるからここまでやらなければならない」という判断もあるわけです。

 

上位にある者を押し縮めて、下位にある者を引き延ばす圧力が子供の勉強を不幸なものにしていますね。個性を伸ばす方針に切り替えると良い結果がえられるでしょうね。      

 

>一斉授業は「中の下」くらいの学力層が焦点  > とはいっても、個々の子どもの学力は千差万別です。 >例えば、5年生の比例の内容を、教科書では8時間で学習することになっていたとしても、それでは不十分な子もいます。 >その2倍の16時間とか、あるいはそれ以上の時間が必要な子もいるのです。 >逆に、23時間あれば充分な子もいます。 > それに加えて、日本の授業は、1人の先生が最大40人の子どもたちを相手に一斉授業を行うのが基本になっています。 >ですから、授業は「中の下」くらいの学力層に焦点を当てて進めることが多くなります。 >あまりレベルを上げると、ついてこられない子が増えます。 >逆に、あまり下げると進度が遅れて、教科書が終わらない事態になります。 > ですから、本当は23時間で学べる子にはつまらない授業になりますし、時間の無駄にもなります。 >でも、これでもついてこられない子たちはたくさんいて、彼らには個別指導が必要なのです。 >でも、それをしているとほかの子たちを放っておくことになり、授業が成立しなくなります。 >ですから、大人数の一斉授業のまま授業時間数を増やしても、わからない子はわからないまま座っている時間が増えてしまうのです。 

 

一斉授業は子供の個性に合わせた教育ができないということになりますね。   

 

> では、どうすればいいのでしょうか。 >冒頭で書いたように、解決策はカリキュラムを無学年制にして個別最適化の学習に舵を切ることです。 >つまり、子ども各自の理解度に応じて学習を進めるのです。

>その点で参考になるのが、無学年制で個別最適化されている公文式、学研教室、すららなどです。 > 「○年生ではここからここまで」という学年制の縛りをやめて、個別最適化された学習にすれば、どの子も自分の学力に応じたペースで進められます。 >ある内容を23時間で終了できた子は次に進みます。 >逆に、理解できない場合は、その内容に何時間かけてもいいわけです。 > ですから、例えば5年生の子でも、6年生や中学生の内容に進んでいくことができます。 >逆に、5年生の子が4年生やそれ以前の内容を着実に踏み固めながら進んでいってもいいのです。 

 

つまり、授業の解決法はすでに見つかっているのですね。   

 

>家庭学習も個別最適化された内容にできる  > このように個別最適化された学習なら、どの子も自分のペースで少しずつ進めるので、達成感を感じながら楽しく勉強することができます。 >それによって、学力も確実に向上していきますし、自信もついてきます。 

 

達成感は大切ですね。良いことづくめですね。   

 

>一斉授業の中でわけがわからないまま座っているなどという、惨めで無駄な時間はなくなります。 > その延長線上で宿題などの家庭学習も個別最適化された内容になれば、親が「わが子が勉強しない」と嘆くような状況も大いに改善されていきます。 . そして、今やこのような授業が実現できる環境もすでにあるのです。 >子どもたちは各自タブレットを持っていますし、学校の通信環境もこの数年で一気によくなりました。 >教材にしても、すでに民間に優秀なソフトが複数ありますから、それを使えばいいのです。 >もちろん、今後、文部科学省や教科書会社が作っていくことも必要ですが、とりあえずは今ある物を活用すればいいと思います。 > もちろん、すべてタブレットでよいというわけではなく、紙のノートに書いたりすることも必要ですが、基本的にはタブレットの「一対一対応力」を活用して進んでいくということです。 > さらに言えば、本当は先生の数を増やして、タブレットだけでなく先生も1人ひとりに対応できるようにすればいちばんいいのですが、日本のお寒い教育予算では難しいのが現状です。  

 

先生の数を増やすことですね。お寒い教育予算の改善も必要ですね。  

 

> 読者の中には、「そんな提案は初めて聞いた」と感じる人もいるかもしれません。 >でも、今は耳新しいかも知れませんが、数十年後には「無学年制と個別最適化」が当たり前になっていると思います。 

 

文部省の考えが古いのですね。政治は時代の先取りをする内容でないと能率よく機能しませんね。さるまね・後追いの時代は終わりにしましょう。

 

> その時代の人たちに今の実態を聞かせれば、「えっ? 昔は何十人もの子どもたちが、1人の先生から全員一斉に同じ授業を受けて、同じ勉強をしてたの? > わからない子はどうしていたの? >えっ? わからないまま座っていただけ? >それで先生は平気だったの? >親もそれでよしとしていたの? >昔の子どもたち、本当にかわいそう」と言うでしょう。 

 

我が国民の意識改革が必要ですね。学校で序列順位の競争ばかりさせていては、わが国は福祉国家にはなれませんね。      

 

> 現在も、すでにタブレットを使った授業が行われるようになってきていますが、その使い方は次のように、一斉授業の中で補完的に使う形が一般的です。 >▼一斉授業の中で出された問題について自分で調べたり、意見をまとめたりする >▼調べたことや自分の意見を、タブレットを使って発表する >▼練習問題を解く >もちろんこういった使い方も有効ですが、タブレット本来の能力を十分使っているとは言えません。 >一斉授業という枠内に止まっている限り、内容を理解できていない子がいても、標準の授業時間数が終われば次に進まなければならないという点は変わらないのです。  

 

そうですね。教育から個人主義が抜け落ちていますね。一斉授業は個人主義の敵ですね。      

 

>話し合いと授業の場を分ける   > ところで、学校の授業というと、子どもたちの活発な話し合いをイメージする人が多いと思います。 >ですから、個別最適化された授業でそれがなくなることに抵抗を感じる人は多いと思います。 >でも、私は、例えば比例の内容を理解したり円の面積を求める式を理解したりするために話し合いをする必要はないと考えます。   

 

そうですね。   

 

> 話し合いは、次のようなことで行えばいいのです。 >▼学校・学級の諸問題について話し合い、問題解決する >▼校則や学級の約束について民主的に話し合い、改善する >▼学校・学級行事について話し合い主体的に運営する  >▼地球温暖化などの環境問題、貧困、差別、平和、少子高齢化など、社会的な問題について話し合って意識を高め、主体的な行動につなげる  >▼読んだ本の感想や解釈について話し合い、多様な考え方に触れる >こういった内容の話し合いなら、どの子も対等に話し合いに参加できる可能性が高まります。  

 

そうですね。日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

> 日本の学校は、何事も全員一斉に足並みをそろえて行うことが前提の設計になっています。  

 

そうですね。昭和の時代は過ぎ去りました。ご唱和の教育も終わりにしましょうね。    

 

>それによって、息苦しさを感じてうつ的な症状が出たり不登校になったりする児童・生徒が増加しています。  

 

そうですね。それは学校により児童・生徒個人が抑圧されているからでしょうね。   

 

> 彼らは「もうそういうやり方は通用しない。 >学校は制度疲労を起こしている」ということを教えてくれているのです。 

 

そうですね。制度疲労ですね。日本人には儀式 (作法) があって、教義 (教え) がない。だから、制度を変えることも難しい。憲法改正の問題も、同様な精神状態から発生しているといえますね。     

 

> 世界は多様性を受け入れる方向に向かっています。>価値観もそうなってきていますし、ICTの発達で技術的にもそれが可能になっています。[ICT: Information and Communication Technology (情報通信技術)] 

 

そうですね。多様性は個性豊かな社会を実現しますね。   

 

>「みんな同じでみんないい」時代は終わり、「みんな違ってみんないい」時代になりつつあるのです。>それは言い換えると「みんな同じじゃみんなダメ」な時代でもあるのです。

 

そうですね。没個性ではだめですね。     

 

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伊吹文明氏  

2021-12-04 10:38:35 | 文化

>単刀直言 伊吹文明元衆院議長 政治家は信念に基づく発言を > 2021/12/03 16:29

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>38年間の議員生活を終え、日々の緊張感が少しなくなった、そんな感じですかね。>国民の主権を預かって東京へ出てきているので、投票してくれた方々に恥をかかせちゃいけないと常に行動してきましたから。 

 

政治家は支持者の信頼を裏切ることはできませんね。    

 

>振り返れば、政治で一番おもしろいのはやはり政策を実現していく政略ですね。  

 

そうでしようね。それは無から有を生じさせる努力ですね。張り合いがありますね。        

 

>新聞記者の中にも政治記者という政局記者がいるように、政局はある意味で非常におもしろい。 >失敗もあれば、うまくいったこともいろいろありました。 >関係者の多くはお元気だからまだ語れないけどもね。 

 

それは太平洋戦争の責任問題のようなものですね。まだ語れない。    

 

>岸田文雄政権を評価するのはまだ早いでしょう。 >先の衆院選は、事前の予想と比べてよかったというだけで、勝ったという雰囲気ではない。 

 

そうですね。   

 

>立憲民主党は共産党の固い票があったから、結果的に選挙区で若干議席を増やしたが、比例議席はがた減りですね。 >来年夏の参院選は1人区が多いから、共産党との関係をどうするのかな。 

 

御都合主義に狂奔する政党には未来がないですね。政治には何よりも信頼が大切ですね。       

 

>立民の新執行部の方針にもよるが、日本維新の会の出方も含め、自民党は注意して臨まないといけない。 >岸田政権が安定政権になるかは、一つは支持率が落ちてきたときでもバックアップしてくれる基盤を作ること、もう一つは政策で国民の支持を得ること。 >岸田さんには、目先の人気取りよりも、国民になるほどと思わせるような政策を期待しています。  

 

そうですね。彼は無哲学・能天気ではいられませんね。     

 

>例えば、岸田さんが掲げる「デジタル田園都市国家構想」とは具体的にどんなものなのか。  

 

岸田さんはその内容を熱を持って国民に語り掛けると良いですね。お題目だけでは空念仏ですね。      

 

>宏池会(岸田派)の大先輩の大平正芳元首相の「田園都市構想」は教育や文化を包含した豊かな住環境を地方につくることだった。>これができれば、海外に出てしまった日本企業の工場を呼び戻すことも可能になる。 

 

一極集中は昔からあるわが国の習慣でしたからね。もちろん日本だけにある習慣でもありませんがね。     

 

>「アベノミクス」で成長と分配の好循環が生まれなかったのは、金融緩和で良い条件をつくっても、国内で設備投資を起こさせる環境が整わず、海外に投資が逃げたから乗数効果が内需として生じなかった。 

 

残念なことですね。   

 

>今の70代は元気だ。>若い人も働く場所さえあれば祖先の土地にとどまって暮らしたいと思う人も多い。>こうしたことが実現できれば、工場も戻り、サプライチェーン(供給網)も安定し宏池会の先輩の志も生きてくるでしょう。  

 

そうですね。田舎には人間の生活に適した広い土地がある。      

 

>憲法は時代に合わせて変えるべきです。  

 

そうですね。日本人はルールを変えるに躊躇しますね。無哲学・能天気であるから政治哲学も無い。この状態は政治家による変革には馴染みがないですね。   

わが国の文化は儀式 (作法) があって、教義 (教え) が無いのが特徴である。考え (非現実) が疎かであっては作法 (現実) を変えることは難しい。         

 

>維新と国民民主党が改憲議論を進めようとしていることに期待感を持っています。  

 

そうですね。既成の枠内にとどまることのない態度が我々には必要ですね。    

 

>現状の改憲勢力と協力し、どのように各党に働きかけていくのか。  

 

日本人には世界観がないですね。だから熱い心の内を打ち明けて語る習慣がない。      

 

>これは内閣ではなく自民党の責任です。

 

総国民の責任ですね。    

 

>私が以前「新型コロナウイルスは憲法改正の実験台と考えた方がいい」と発言したら、「コロナに便乗するな」とずいぶん批判されました。>共産を除く政党は何らかの改正が必要だと考えている。

 

この際自分の求めるものが何であるかをはっきりさせる必要がありますね。   

 

>コロナ禍の状況を考えれば、緊急事態条項創設なら意見が一致する可能性はある。  

 

そうですね。日本人には意思がない。だから、思い切ったスタートが切れない。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

 

>憲法改正の発議権は、憲法により内閣でなく国会にある。>国民投票が否決された場合、だれの責任かも議論しておく必要がある。

 

日本人には意思がない。意思の無い人間には責任も無い。だから、日本人は責任の所在を言い当てるのに昔から苦労している。   

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)    

 

>政治的には最大与党の党首の責任でしょうが、形式的、法的には発議した衆参両院議長の責任でもある。 

 

そうですね。衆参両院議長の個人責任ですね。意見は人によりまちまちです。一億総懺悔にはならない。    

 

>そうしたことも踏まえ、両院の憲法審査会で積極的に議論してほしい。>憲法改正については国会の責任は重いですね。

 

そうですね。日本人は特に議論下手ですからね。    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。   

 

>私が引退したことで、財政規律を考える人が減ってしまうことが心配です。 >お金をもらえば、だれもがうれしいが、18歳以下への10万円相当の給付はどれだけの国民が望んでいたのだろうか。 >その経済効果はどうなのか。 

 

その場しのぎの方策でしようね。   

 

>財源は国債で、国債は将来世代にその納税で利払いや償還の義務を課します。 >保守の支柱エドマンド・バークは「国家とは受け継ぎ、護(まも)り、次世代に引き渡す共同体」と言っています。 >保守を自認する政治家には大切にしてもらいたい言葉です。 

 

そうですね。政治家が宵越しの銭は持たぬ気風では困りますね。

フランク・ギブニー氏の著書 <人は城、人は石垣> には、以下のような指摘があります。

日本語は英語のように、キチンとしたアリストテレス的文法に閉じこめられていない。言語として、日本語は「いま、ここ」に根ざしている。判断より気分に興味をもつ。意味より感受性に関心がある。英語を使うのは絶えず理論的な価値判断を行なう言語を使っていることであり、英語が価値判断を行わせる。一方、日本語は論理的、法的ないし哲学的判断を敬遠する。たとえば、日本語には to be に当る適当な動詞がない。”being とか reality のような概念は明治時代、漢字から人工的につくらねばならなかった。「概念」 (concept) でさえ人工的につくらねばならなかった。 (引用終り)    

 

>これからの政治家は、目先の票や時の流れにおもねるのではなく、信念に基づく発言をしてほしい。 >同時に、政策を実現するには与党内はもちろん、野党との信頼関係や人脈を作ることですね。 

 

そうですね。その場限りの口実では困りますね。信頼関係の構築には政治家個人の政治哲学が必要ですね。    

 

>数学の世界と違い、人間のやることには絶対正しい答えはないわけで、異なる意見にも寛容、妥協を図ることも大事、しかし筋は通す。 

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは考えではない。矛盾を含んでない文章は、全て正しい考えを表している。矛盾を含んでいる考えも、その矛盾を取り除けば正しい考えになる。矛盾を発見し取り除くためには議論・対話が有効である。議論・対話を普及させよう。考えの内容は、人によりまちまちである。だから、正解は一つではない。幾らでもあるから、人間は個性的になる。考えのない人達は没個性的である。だから、自己実現が難しい。   

 

>多数決万能でなく、与党の政治家は特に考えてほしいですね。  

 

そうですね。数合わせに専念しないことですね。衆愚政治をさけるために必要なことですね。   

 

>福田赳夫先生の評伝を読むと、「国会議員を引退しても、政治からは引退しない」とおっしゃっている。 >私はそこまでの迫力はないけど、一人の有権者として、日本の政治や社会のあり方について必要なことは発言していこうと思っています。

 

それは大切ですね。無哲学能天気ではいられませんね。

我が国は、頭脳流入の国にならなければならないですね。それにはわが国の研究環境を良くすることが必要ですね。

生活環境が劣悪であると難民流出の国となる。生活環境が良好であると難民流入の国となる。

研究環境が劣悪であると頭脳流出の国となる。研究環境が良好であると頭脳流入の国となる。 

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で自己の哲学の政策に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから大学在学中の4年間を退屈男・退屈女になって遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。日本人の歌は文章になっていないから意味がない。    

 

>(広池慶一)   

 

 

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