>現代ビジネス >仏教はなぜここまで日本で受け入れられたのか…私たちの根源に埋め込まれた「空」というメッセージ >藤田正勝の意見・ >9時間
>明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。
>「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。
>そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。
日本人は抽象語の理解が苦手ですからね。日本語は現実の内容を表す言葉ですからね。
>『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。
>※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
>「空」とは何か
>「空」という概念をめぐって、西谷啓治が「空と即」(『講座仏教思想』第五巻、一九八二年)という論文のなかで興味深いことを記している。
>西谷によれば、「空」の概念はインドで──たとえば先ほど見た「色即是空」の場合のように──すべての事物がそれ自体として存在しているのではないということを言い表す理論上の概念として成立したが、それが日本に伝えられたとき、純粋に理論的な概念としてではなく、むしろ感情や情緒と結びつく仕方で受け入れられた。
>その背景には、そもそも日本では「死」というものが、「はかない」とか「むなしい」といった感情と深く結びついたものとしてとらえられていたことがあったと考えられる。
そうですね。死は情緒的に ‘はかなく・空しい’ ものですね。
>もちろん人間の有限性、あるいはすべてのものが移ろいゆくということは、日本でも、インドでも、あるいはヨーロッパでも同じであって、日本においてだけとくに人間の有限性ということが言われるわけではない。
>無常感、そしてそれを基礎とした無常観という世界観は、どこにも共通して見られる。
>たとえば、よく引用されることばであるが、『旧約聖書』の「伝道の書」には、「空の空、すべては空なり」ということばがある。
>しかし西谷は──これは別の論文「芭蕉について」においてであるが──東洋と西洋とでは、無常というものが感じられる地盤は同じではないと言う。
>西洋においては、すべてが移ろうと言われる場合にも、その根底に、何らかの意味で移ろわぬもの、永遠なものが考えられているというのである。
そうですね。西洋には現実と非現実がありますね。現実(事実)は移ろうものであり、非現実(考え・哲学)は移ろわぬものですね。
>たとえばイデアというような考え方もそうであるし、キリスト教の神もそうである。
そうですね。非現実の内容は絶対ですね。
>西洋の無常というのは、そういう永遠なものに支えられた、あるいはそれに基礎づけられた無常である。
そうですね。現実は無常、非現実は永遠ですね。
>それに対して東洋の場合には、そういう移ろいゆくものの背後に永遠なるものが見られず、そのために、その無常感、あるいは心の「むなしさ」といったものがどこまでも深くなっていくところがあると西谷は述べている。
そうですね。日本人には永遠なるものが見られませんね。日本人は無哲学・能天気ですからね。日本語には非現実の内容を表す構文がないので日本人は思考を停止していますからね。
>私たちはたとえば自然の諸事物を見たり、聞いたりする場合でも、それを単なる知の対象としてではなく、むしろ情意の対象として、つまり気分的なものと結びついたものとして受けとっている。
そうですね。我々は物事を気分・雰囲気・感情の問題として捉えますね。
>晴れ渡った青空を見れば、さわやかさを感じ、心も晴れ晴れとするし、無邪気にほほえむ赤ちゃんの顔を見れば、見ているこちらの心もおのずから和んでくる。
>知るということと、気分、感情、情緒というのは深く結びついているのである。
そうですね。歌詠みは気分・雰囲気・感情を対象にしていますね。
>西洋と東洋の違い
>一般的にそのように言えるが、仏教の「空」という概念が日本に受け入れられたときにも、──蓮如の『御文章』の「はかない」とか、「あわれ」という表現に端的に見られるように──単なる理論的な概念としてではなく、情緒と深く結びつくような仕方で受けとられた。
日本人は非現実がありませんから、表現は気分・雰囲気・感情として表すことになりますね。
>そのように情意のレベルで受けとられた「空」を西谷は「情意における空」ということばで言い表している。
日本人には哲学がありませんから ‘情意における’ ですね。
>もちろん、「空」という概念は中国においてもすでに情意的なものと結びついて受けとられたということも言える。
そうですね。孔子も非現実を語らなかった。中国人にも哲学がない。だから怪力乱神を語らずですね。
>空、つまりシューニヤ(śūnya)というインドで成立した概念が「空」という中国語に移されたとき、純粋に理論の上でというよりも、「空」ないし「虚空」のもともとの意味である「目に見えるそら」と結びつく形で受容されたと西谷は指摘している。
目に見えない内容は嘘であるという判断によるものでしょうね。
>目に見えない永遠無限なものであるシューニヤが、人間にとって目で見ることのできる唯一の永遠なるものである「そら」と結びつけて受容されたのである。
仕方のないことですね。文法に時制 (tense) のある印欧語の内容を時制の無い言語に翻訳するとそのようになるしかないのでしょうね。ヒンズー語は世界観 (過去・現在・未来の三世界) のある言葉であるが、日本語・中国語は世界観の無い言葉ですからね。
>概念の受容の歴史という観点から見たときたいへん面白い点である。
そうですね。概念は非現実 (考え・哲学) の内容ですからね。’見ればわかる’ (Seeing is believing.) というわけにはゆかない。
>異なった文化のなかの新しい概念に接したとき、それをどのように受容するかというのは、つねに大きな困難を伴う作業であるが、中国の人たちは、目に見えない無限である「空」を理解するために、目に見える無限を手がかりとしたのである。
それは日本人も同じですね。何時も現実の中で考えている。
>「空」ということばは中国でも、いっさいは空であると観取することから生じる特有の「気分」をも言い表すことばとして使われた。
>しかし日本ではより強く「はかなさ」や「むなしさ」、そういった気分と結びついたものとして「空」の概念が受け入れられていった。
日本人は歌詠みですからね。情緒的でなくていけない。
>西谷はそうした例の一つとして、次の西行の歌を挙げている。「風に靡くふじの煙の空に消えて行方もしらぬわが思ひかな」という歌である。
>ここでは自分の思いのはかなさ、あるいは自分の存在の虚しさが、空に消えていく煙のはかなさと、それを消していく空の虚ろさに重ねあわされている。
無哲学・能天気では、はかなさ・虚しさが身にしみますね。
>その背後には、もちろん仏教の「空」の思想がある。
>それがここでは空に消えていく煙のはかなさと、そして自らの存在の不確かさと重ねあわされている。
>そのように「空」が受けとめられたということは、本来なかったものがそこに付け加えられたということでもあるが、しかしそれによって教理がゆがめられたとは単純には言えないであろう。
>仏教の理論がこのように気分的なもの、情緒的なものと深く結びつく仕方で受けとめられたために、日本では仏教が人々のあいだに受け入れられ、深く浸透していったということも言える。
そうですね。日本人は情緒的ですからね。(インド) 哲学の理解は不可能ですね。
>そうでなかったら、仏教は日本でこれほど深く根を下ろすことはできなかったかもしれない。
そうですね。情緒の国に哲学が根を下ろすことはない。
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる (西行)
(略)