>『あらゆる権威全般が失墜してしまった世界、日本の悲劇』
>今まで心から信じていた永久不変の絶対天皇制が『外』(アメリカ)によって脆くも崩壊する現実を目の前で見た日本人は、『永遠であるものなど何も無い』ことを、 『人間以外の何かが我々の世界を保証しているのではない』ということを、したがって『全ての文明は滅びる』ものであり、いわんや極東の島国の秩序は何時でも、『変わり得るものに過ぎない』ということを、 変われば前の世界で通用していたものは後の世界ではまったく通用しなくなると言うことを、 『理論』としてではなく、『経験』として理解する。
そうですね。体験学習ですね。
>要するに、自分たちの永遠だと信じていた世界は相対的であると理解する必要があったのである。
日本人は、現実しか頭の中にありませんからね。現実界は千変万化していますから、目の前の内容を真理と捉えていたら信念の入れ替えに追われますね。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
>しかもこの場合に一番決定的で問題だったのは、世界は(自分たちによって)『変えられる。』ものではなく、世界は(誰かによって)『変わる。』ものだった経験であろう。
日本人には、意思がない。だから、’変える’ (他動詞) よりも ‘変わる’ (自動詞) の方が考え方として馴染みやすい。
>敗戦による一種の革命は外部から突然きて起きた変化として受け止められたのであるから、それなら本居宣長の『もののあわれ』や『無常観』が『再確認?された』ことにもなる。
内外の区別が成り立ちますね。人災と天災の区別はつくのだろうか。
>日本以外の他の国々では、歴史的意識は一つの世界をその内側から壊して別の世界を築きあげる経験の蓄積でしか獲得されない。>そのときには古い現在の権威は、来るべき新しい権威によって否定される。
別の世界が想定内に入っている。だから、歴史は動く。
>しかし1945年の日本の状況は、そうではなかった。>来るべき新しい権威だった筈の『近代民主主義』は不完全にしか構築されなかったが、(永遠と信じられていた)旧来の秩序や生活の基盤となる権威の大部分は動揺し、くずれ、失われたのである。
無哲学・能天気の民による民主主義は、衆愚政治になるでしょう。旧来の序列権威は、アメリカの力の前に敢無く消滅した。
>このときに大多数の国民の意識の中で失われたのは『天皇の絶対的権威』ではなくて全般的な『権威そのもの』だった。
序列メンタリティに基づく日本人の権威構築そのものに疑念が生じたわけですね。しかし、哲学を求めることはなかった。
>日本人の間に、民主主義の歴史相対主義ではなくて、目の前にある『どういう価値も信じない』という末世的な現象が起きるのは当然の成り行きだった。
日本人が頼りにしている現実界の内容は、基準としての価値を持たないということですね。
>日本の権威一般に対する国民の不信感は深刻で、今の新しい最高権威である戦後『民主主義』自体にも向けられたのは当然な成り行きであった。
民主主義を超える政治形態が発見されていない今日では、仕方のないことですね。
>敗戦後に日本国でも一応は民主主義が根づいたが、それは一面的表層的現象にとどまり不幸にも、それ以前の社会の天皇の権威に代わる、『あらゆる価値を支える原理』としてでは無かった。
日本人は、現実界の序列の存在を絶対的なものと信じていたのですね。それは、日本語の階称 (言葉遣い) による判断で、’上とみるか・下とみるか’ の世俗的な知識ですね。国際的に通用する価値判断ではないですね。
>天皇を中心とした世界の崩壊により生まれた(民主主義原理を含む)権威一般に対する拭いがたい不信感(権威一般が信頼されない)虚無的な現在の危機的状況の克服には、日の丸君が代の強制や極右政治家安部晋三の復古主義(レジーム・チェンジ)などの、はるか昔に崩壊してしまったもの(天皇の権威)の復活によっては絶対に解決出来ないのは自明の理である。
そうですね。我々は、’力は正義’ (Might is right.) であることを体験しましたからね。現実の中に判断の基準を求めることは、むなしいことですね。非現実の中に哲学の内容を求めるのが正しい行き方でしょうね。哲学なら、国際的な理解と連携も可能になることでしょうね。
>歴史の過ちは、単純には絶対に繰り返さないのである。
‘何が過ちであったか’ は、今も明らかになっていませんね。過ちが何であるかわからないと、繰り返しを避ける方法も習得できませんね。この道は、いつか来た道。
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