>文春オンライン >”エリート育ち“の東大出身者は「普通の日本人」を知らない…両親高卒・地方出身の ”苦労人“ 東大生が、大学入学後に抱いた違和感の正体 >矢口太一によるストーリー・ >10時間・
>〈 「僕には生活費すらない」地方公立校から塾ナシで東大合格→仕送りナシで“貧困生活”…地方出身の東大生が、入学後に突きつけられた“厳しい現実” 〉から続く
> 複数の上場企業で活躍しながら、東大大学院に通う矢口太一さん25歳。
>「両親高卒、地方生まれ、塾ナシ」で東大に入学した。
>しかし、「仕送りナシ、貯金ナシ、学費・生活費自費」で学生生活を送らなければならなかったという。
このような世の中では教育立国にはなれないでしょうね。
>彼は東大でどんなことを学び、どうやって卒業したのか?
> ここでは、矢口さんの著書『 この不平等な世界で、僕たちがスタートラインに立つために 』(朝日新聞出版)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/ 1回目から続く )
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>多様性を構成するメンバーが「高学歴」の人たちばかり
> 東京大学に入学してから、「多様性」というキーワードの議論に居合わせることが多くなった。
>「組織には多様性が必要だ」「多様な個性を活かせる社会にするべきだ」 僕もそう思う。
>言っていることはすごくわかる。
> ただ、僕はこうした議論に居合わせるたび、もやもやする気持ちが湧いてきて、いい気分がしなかった。
>友人たちと大学の講義や雑談の中で「多様性」や「これからの日本・社会」を話すとき、僕はどうしても、その議論の中の「国民・市民」の中に、僕が生まれ育った地域の幼馴染、両親、そして僕のような人たちが入っていない、そんな気がしてならなかった。
そうですね。人間の多様性は生まれ育った環境に影響されますね。
しかし真の多様性は意思の中にあるのではないでしょうか。だからアニマルには意思が無いので多様性もない。
日本人には意思がない。だから没個性である。それでわが国では個人主義が通用しない。
日本人には意思が無いが恣意がある。恣意には意味がないので他言できない。それで日本人は説明責任を取ることができない。
>「どうしてや? いま議論しとる『多様性』に入っている人たち、議論で想定している対象者、みんな英語喋れて、高学歴で、収入多そうなんやけど…。
>めっちゃ『多様な』経験積んだ人ばっかりかもしれん…」
> 多様性の議論で、「マイノリティ」をはじめその多様性の構成員として認められるためには、まずその議論に参加をしている必要があるのではないか。
そうですね。
>多様性を構成するメンバーが、どうしても東大生を含め「高学歴」の人たちばかりな気がしてならなかった。
そうですね。天下の秀才ぞろいではどうにもなりませんね。
他人の受け売りとその後追いで序列競争をしている人たちですね。
> 僕たちの社会や組織の「何か」を決めるとき、「誰か」が議論をして意思決定をしていく。
>きっと、東京大学の友人たちは、行政や政治、民間組織のそういった意思決定の場に参加することが多くなっていく人たちだろう。
>「偉く」なって、この社会や組織の「ルール」を決めていく人たちになる可能性が高い。
そうですね。しかし、日本人はルール作りが下手ですね。
「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
>幼少期に海外に住んでいたり、両親が大企業の管理職だったり…東大生の実態
> ただ、彼らの中で、両親が高卒だったり、家が裕福でなくて苦学したり、女の子だから浪人してはいけないなんて言われたりした、ある意味で「普通の人たち」は、この社会全体の平均と比べれば、とても少ない。
そうですね。日本人は没個性で多様性が足りないですね。
> 逆に、幼少期に海外に住んでいたり、両親が大企業の管理職だったり、家が裕福だったり、教育に理解があったり、いわば「エリートコース」に属している、そんな人たちが、社会全体の平均と比べて、とても多い。
>「普通の人たち」はそもそも意思決定の場に立てる人が少ない。
>それは事実なんだと思う。
そうですね。日本人には意思がない。意思の無い人間には責任がない。責任のない人間は信頼されない。民、信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]
‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>だから、生まれながらに与えられた周りの環境や制度で、能力や可能性を発揮できなかったことを変えようとか、苦学生にとってもっと実効性のある奨学金制度に変えようとか、そういう議論がそもそも起こりにくいのだ。
そうですね。日本人には世界観がない。だから、’あるべき姿’ の内容が脳裏になく、現実と理想の比較ができない。批判精神 (critical thinking) というものが無いので議論に進歩がない。
> だって意思決定者がそんな現実を知らないから。
そうですね。教養とは体験することですね。
>意思決定の場に参加できていない以上、僕たち「普通の人たち」はしばしばその「多様性」の構成員から漏れている。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
>この本を執筆するモチベーション
> 僕は、自分のふるさとに住んでいる「普通の人たち」、自分の生まれ育った家庭のような決して社会階層が高くはない人たちの「代弁者」になろう、そう思うようになっていった。
>いろんな幸運が重なって、こんな世界に迷い込んだ以上、僕は「国民・市民」の中から、かつての僕や両親、幼馴染たちが決して漏れないようにする。そう決めた。
> この本を執筆するモチベーションもここにある。
>1人でも多くの「普通の人たち」が、ロールモデルを得て、スタートラインに立ち、意思決定の場に参加すること。
>そのことが誰もがスタートラインに立てる社会を作っていくために必要だと信じるからだ。
御尤もですね。
>(矢口 太一/Webオリジナル(外部転載))
英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。英米流の高等教育は子供に哲学を獲得するための教育である。子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。かれらの文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。未来時制を使って自己の意思を表すこともできるようになる。すると加害者意識も経験することになる。それが高じて罪の意識も理解できるようになる。深い反省にも陥るので原因の究明が行われる。うやむやにならない。魂の救済を必要とする人も出て来る。贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。こうしたことで浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。
哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。日本語は現実の内容だけを話す言語である。日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。嘘ばかりでは学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する者はいない。
今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育のお陰である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。
当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。難関出身者が序列社会で優位に立つ話ばかりを気にしている。世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっている。国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。
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