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唯我独尊

2019-05-27 02:35:59 | 哲学

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>他人から鬱陶しがられそうな言動を繰り返していても、相互不干渉がマナーになっている現代社会では、誰かが叱ったり注意したりしてくれることは少ない。

個人に対する干渉は、御法度ですね。

> 自分を叱ってくれる人、それもちゃんと心に刺さるようなかたちで叱ってくれる人は貴重な存在だ。

それは、神様しかいないでしょうね。それも、自己の意思を示す神様でないと駄目でしょうね。

> 大人の世界では、他人がまずい言動を繰り返していても叱ってくれる人はいない。>ただ黙っていられるか、距離を取られてしまうだけである。

そうですね。自主的な判断を待つばかりですね。大人の社会ですね。

>ひょっとしたらこの男性の兄弟や妻も、最初のうちは注意や忠告ぐらいはしていたのかもしれない。>だが、言うだけ無駄、言っても逆恨みされるのが関の山、と思って距離を取ることにしたのだろう。>こんな具合に、まずい言動を繰り返している大人は、自分の何がまずいのかを自覚する機会も無いまま、人が離れていき、唯我独尊に陥ってしまう。

困ったことですね。国際社会でも、そうした態度の国はあるでしょうね。

>■叱られにくく、自省もしにくい社会
> 私たちは今、相互不干渉が通念として定着した、誰かに叱られたり注意されたりしにくい生活空間で暮らしている。> 赤の他人から叱られる機会は非常に少ない。

そうですね。大人による叱責・体罰は子供の世界ですね。

>近所の人や地域の人から「おまえ、そんなバカなことやってどうすんの」などと言われる筋合いなどどこにも無くなった。

バカなことをしでかすのは、個人責任ですね。自主的な判断を待つばかりです。

> 万が一そのように言われたとしても、「どういう筋合いでお前はそういうことを言っているのか」と反感が先立つのがおちである。

個人に干渉すると仕返しがありますね。

>そして年を取り、何らかの地位に就いていれば、ますます叱られにくくなり、注意も忠告もされなくなる。>コミュニケーションの失敗確率が高くなるような言動を繰り返していても、面と向かってそれを注意してくれる人はそういない。

自己責任ですね。他人の判断は、当てになりませんね。

>「お互いに争わない」「お互いのストレスを回避する」といった言葉は、相互不干渉を貫く恰好の大義名分になる。>家族や兄弟ですら、3度も言って変わらなければ「もう言うだけ無駄だからなるべく離れて暮らそう」になってしまうし、一人暮らしをしている場合などは、誰も! 本当に誰も! 自分を叱ったり注意したりしてくれない。> 相互不干渉を是とし、お互いのしがらみを最小化し、アトム化した個人主義者として皆が暮らしていく社会ができあがったことによって、私たちは、他人から叱られる・注意される・忠告されるといった学習ルートを失ってしまった。

すぐに戦争を仕掛けることなく、ならず者の国に経済制裁を加えるようなものですね。これは、自分で考え直す機会を与えるものです。

> 失ったと言って言い過ぎだとしたら、「そういう学習ルートが希少になった」と言い換えていただいて構わない。

直接的な個人干渉は子供向けですね。叱責・体罰はアニマルに対する調教のようなものですね。

>そのような社会では、むやみに争うこともないし、ストレスも回避できる一方で、自分自身の言動のまずい点を省みる力が乏しければ自分の言動が改められない。

それは、個人の責任になりますね。個人の責任を認めなければ、おせっかい (不当干渉) になりますね。

>信頼できる他人から叱られたり注意されたりすることもなしに、自分自身の言動を省みるのは非常に難しい。

我々は、考える人になる必要がありますね。大人は、幼児期を卒業する必要がありますね。そうでなければ、知恵遅れです。

>そして自分自身の言動を省みることに慣れていない人は、かりに誰かから何かを言われても、えてして自分自身の言動を省みない。

それは、その人個人の責任ですね。

>だとすれば、この相互不干渉の浸透した個人主義社会は、自分自身を省みる機会も能力も無い唯我独尊の人間を大量生産する社会、になってしまっているのではないだろうか。

そうですね。個人主義の社会は、唯我独尊の社会ですね。個人の人権を認める社会ですね。全ての責任は、個人にかかります。個人主義がなければ、国がひっくり返った時にも責任者は出ませんね。

>■ネットは自省よりも自己正当化を促してしまう
> こう書くと、一部の人は「ネットを使ってコミュニケーションすれば自分のことが省みられるじゃないか」と考えたがるかもしれない。>ネットを介して自省する筋道も無くはないだろう。>だが、実際はほとんど期待できないのではないだろうか。

それは、個人次第ですね。

> 自分自身を省みる力もない人がネットをよすがとした時、たとえばネトウヨのようなアイデンティティの入れ物におさまるというのはよくわかる話だし、実例も見かける。>政治的なセクト・思想的なセクト・趣味的なセクト、その他いろいろあるが、とにかくネットではセクトができやすい。

デジタルによるツーカーですね。類は友を呼ぶ。Birds of a feather flock together.

>セクトと一体になることによってその人の承認欲求や所属欲求が充たされ、アイデンティティも補償されるのだから、可否はともかく、セクトができるのは理解できる。>だが、セクト化した人は、えてして自分自身を省みなくなる。>セクトメンバーとつるむなかで、「自分たちは悪くない」「悪いのは自分以外のあいつら」といった考えに傾いてしまう。

それは本人の勝手な解釈によるものですね。現実直視から外れますね。

>この文章のテーマに立ち返って考えるに、そういったセクトは唯我独尊に対するブレーキたり得るものだろうか。

それは、無理でしょうね。考える機会が失われていますからね。

>いや、おそらくブレーキにはならず、自己正当化のためのアクセルになってしまうのではないだろうか。

そうですね。アクセルですね。

>意見の同じ者同士はつるみやすいけれども、意見を異にする者・異議を唱える者とは対立しやすい、>このSNSというアーキテクチャ自体が、私たちに自省よりも自己正当化を促しているきらいがあるとしたら、ネットで唯我独尊を避けるのはリアル以上に難しいのではないだろうか。

個人主義は、唯我独尊を擁護します。考えの内容は、人さまざまですからね。他人の考えにも興味を持つ必要がありますね。

>こんな具合に、幾重にも重なった、唯我独尊に陥りやすい社会の構造のなかで私たちは暮らしている。

個人主義の社会構造ですからね。対話・議論を盛んにしましょう。意思疎通が大切ですね。友好的にならないと、話も通じないですね。

>だとしたら、唯我独尊はお金持ちやナルシストだけの問題というより、貧富を問わず、誰もが陥りやすい現代社会の風土病みたいなものだと解釈しておいたほうが事実に近いように、私には思われる。

我々には、意見交換が必要ですね。自分自身の意見があったら世界中に広めよう。百花繚乱の世の中になるか。


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