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福田達夫氏  

2022-08-02 02:00:19 | 文化

 

>ひろゆき氏「人としてどうかと思う」 自民・福田氏の「何が問題か分からない」発言に

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> 実業家のひろゆき氏が31日、TBS系「サンデー・ジャポン」に出演。 >政治家と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関係について言及した。 > 番組では、自民党と旧統一教会の関係を問われた自民党の福田達夫総務会長の発言について議論。 >福田氏が「正直僕自身が個人的に全く関係がないのでなんでこんなに騒いでいるのか正直よく分からないというのはあります」「我が党が組織的にある団体から強い影響を受けて政治を動かしているのであれば問題かもしれないが、僕の今の理解の範疇だとそういうことが一切ない」「正直言います。 >何が問題なのか僕はよく分からない」などとコメントしたことを紹介。

 

自民党の福田達夫総務会長は批判精神ゼロの人のようですね。日本人とては人並みの発言でしょうかね。      

 

>その後、「社会的に問題が指導されている団体との関係が問題であることは言うまでもありません」との釈明文書を出したことも伝えた。  

 

福田氏はわが国の関係者か、それとも傍観者か。   

 

> ひろゆき氏は「被害総額だけで1200億円以上あると言われていて」と切り出すと、「親が統一教会でした。 >親が喜ぶと思ってずっとその教えを聞いて、結局、合同結婚式で中卒の無職の韓国の人と結婚させられて韓国で生活することになって。 >無職で働かないから、日本で借金し続けて離婚して自己破産した」と被害に遭った元信者の女性の例を挙げた。  

 

カルト集団での生活というのでしょうかね。   

 

> その上で「そういう被害が発生しているのを見て、“何の問題もないよねこの団体”って思える時点で、ちょっと人としてどうかと思う。   

 

自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がないので、常に傍観者になる。序列関係のない深刻な事態には高みの見物をしている。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。  

 

>政治家より前に」と福田氏の発言をバッサリ切り捨てていた。   

 

政治家には政治哲学が必要ですね。  

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

 

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