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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

的場昭弘氏  

2022-03-14 11:37:09 | 文化

>日本ではなぜ「学者犬」教育が続けられるのか  >弟子が師に抵抗できる「熟慮」の教育が必要   

前ページ  >的場 昭弘 : 哲学者、経済学者、神奈川大学副学長   >著者フォロー  >2021/04/13 15:00

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>しかし、さすが21世紀には、こうした教育はまったく役に立たなくなっている。 >今必要なものは、知識ではなく、知識をどう使うかである。 >知識であればいつでも携帯電話のホームページなどを使って、ただちに調べることができる。 >必要なのは、知識の意味であり、その知識は本当に使えるものなのかどうかという熟慮、本当に役に立つものはなにかという想像力のほうである。  

 

想像力は創造力につながりますね。   

 

>熟慮とは知識の意味するところを知ることであり、その知識が生まれた背景を、根源までさかのぼって、しっかりと知ることである。 >そうなると教師はそれを説明しなければならないし、答えられなければ弟子と一緒に考え、場合によってはそんな知識など捨ててしまう勇気を持たざるをえない。 

 

そうですね。教師と弟子は一緒に真理の探求をしなくてはならなくなりますね。   

 

>教師はむやみに教えようとするな  >急がず、一歩立ち止まって考えることが重要である。 >だから、教師はむやみに教えようとしないことである。 >教師の役割は熟慮するよう仕向けることである。 >生徒は自分で考えるものなのだ。 

 

そうですね。生徒は自ら考えることが必要ですね。   

 

>その意味で中江兆民の師弟関係などは、日本に根付いてほしいものであったといえる。>死を前にして彼が書いた『一年有半』の中で、こう日本の教育を批判しているが、これは今、衰退している私たち日本人にとって、心にずしんと響く言葉だといえる。

 

彼は時代の先覚者でしたね。無哲学・能天気のわが国の庶民には受け入れられなかったでしょうね。    

 

>次から次へと熟慮せず西洋の学問を追い求め、自らの哲学思想もなくことにあたり、受け売りの知識だけを肥大化させた小賢しい人々、こうした人々を養成することをいますぐやめ、自分で考える「活きた人民」をつくりあげろというのだ。

 

それは大切なことですね。    

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。だから、ご唱和の内容になる。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)    

 

>「旧来の風習を一変してこれを洋風に改めて、絶えて戸籍せざる所以なり。 >而してその浮躁軽薄の大病根も、またまさにここにあり。 >その薄志弱行の大病根も、またまさにここにあり。 >その独造の哲学なく、政治においても主義なく、党争において継続なき、その因実ここにあり。 >これ一種小怜悧、小狡知にして、而して偉業を建立するに不適当なる所以なり。 >極めて常識に富める民なり、常識以上に挺出することは到底望むべからずなり。 >すみやかに教育の根本を改革して、死学者よりも活人民を打出するに務るを要するは、これがためのみ」 >(中江兆民『一年半・続一年半』岩波文庫、1995年、32ぺージ)

 

>(現代文訳、鶴ヶ谷真一訳、光文社古典新訳文書から) >「古くからの風習を惜しげもなく改めて洋風にしてしまったのも、同様の事情であった。 >しかしながら、浮かれやすく軽薄というその大きな病根もまさにここにある。 >意気地も根気もないという大きな病根もまさにここにある。 >独自の哲学を持たず、政治において主義がなく、党争にも持続性がない原因もじつにここにある。  

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)    

 

>これは一種の小利口で小賢しく、偉業を達成するには向かない。 >きわめて常識に富める民は、常識以上に抜きんでることはとうてい望めない。 >速やかに教育を根本的に改革し、死んだ学者よりも生きた民衆を生み出さなければならないのは、こうした事情によるのである。」   

 

そうですね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。 

 

 

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田久保忠衛氏  

2022-03-14 01:15:41 | 文化

 

>「日本は眠っているようなもの」杏林大・田久保名誉教授 長州「正論」懇話会  >2022/3/13 17:59

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>長州「正論」懇話会の第40回講演会が13日、山口県下関市の市生涯学習プラザで開かれ、杏林大学名誉教授の田久保忠衛氏が、ロシアによるウクライナ侵攻などで混迷を極める国際情勢について講演した。

>田久保氏は、プーチン露大統領が旧ソ連崩壊を「悲劇だった」との認識を示していたことに触れ「侵攻はロシアの帝国主義的な性格の発露だ」とした上で「『中国の夢』として、清朝時代の版図を取り戻そうとする習近平国家主席と同じだ」と指摘した。

 

そうですね。ロシヤの夢中国の夢は同じですね。   

中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 () う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

・・・・・

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北てき (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。  

 

>また、「軍事への忌避が強かったドイツでさえ自分の身に危機が迫ると立ち上がった。  

 

身に危険が迫るのは困りますからね。態度を改めますね。      

 

>これに対し日本は眠っているようなものだ。

 

徳川260年間の泰平の眠りですね。日本人には意思がない。日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではない。 

日本人は意思を認めることのできないので、意思決定に難渋して行動開始が遅れる。この事実は以前から外国人にも知られていた。

フランク・ギブニー (Frank Gibney)  氏の著書 <人は城、人は石垣> には、日本人の意思決定に関して次のようなことが書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)        

 

>外交防衛政策を米国に依存し、自分で決めてこなかった未熟さがある」と政府のウクライナ問題への対応を批判。  

 

そうですね。意思決定は日本人にとって重荷でしかない。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。         

 

>「日本は今のままでは今後の米中対立で生きる道がなくなる」と訴えた。

 

そうですね。自己の意思を表明すれば、当事者・関係者となる。表明しなければ傍観者にとどまる。わが国は世界の中にあって、世界に属していない。日本人には意思がないからである。         

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>講演会は、新型コロナウイルス感染症対策を徹底した上で開催した。     

 

 

 

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小沢一郎衆議院議員

2022-03-13 10:01:30 | 文化

>共同通信  >立民小沢氏、執行部に苦言 「胸に来る訴えない」 > 共同通信社 2022/03/12 22:09

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> 立憲民主党の小沢一郎衆院議員は12日、東京都内で講演し、党に国民の期待が集まっていないとした上で「国民の胸にビンと来るような主張、訴えをしないからだ」と執行部に苦言を呈した。

 

そうですね。ノンポリ・政治音痴の国民には政治家の訴えは通じませんね。   

 

> 党が掲げる「ジェンダー平等」に関し「どういうことだと聞かれても、ほとんどの人が分からない」と主張。  

 

わが国はジェンダー差別の激しい国ですね。男言葉・女言葉が発達していますからね。古い頭は直らない。    

 

>小沢氏が提唱してきた「国民の生活が第一」を例に挙げ「政治の主張はきちんとした哲学、論理に基づき、国民にとって分かりやすいものでなければならない」と語った。

 

そうですね。政治家には政治哲学が必要ですね。    

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。だから、ご唱和の内容になる。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。     

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)     

 

 

 

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日本の誇り  

2022-03-12 16:51:52 | 文化

>zakzak  >日本の誇り 安倍晋三 「核抑止の議論」必要 議論もさせないのは「日本の危機」を前に思考停止に陥っている 賢明な政治家や国民は目を覚ましたのでは  > 2022/03/12 10:00

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>ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。 >明確な国際法違反であり、断じて許されない。 >われわれが築き上げてきた国際秩序への深刻な挑戦でもある。

 

そうですね。断じて許されませんね。      

 

>私は前回コラム(2月18日発行)で、「外交的解決の道を」と訴えたが、ウラジーミル・プーチン大統領には通じなかった 。>極めて残念だ。

 

プーチン大統領とあなたは水と油の関係にあるのでしょうね。    

 

>紛争や戦争が勃発する原因は、主に2つある。 >「敵対国同士の軍事バランスが崩れること」と、「敵対国が、相手国の意思や能力を見誤り、自己を過信すること」だ。

 

そうですね。   

 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)    

 

>ウクライナには同盟国がなく、軍事力ではロシアが圧倒していた。  

 

戦争を避けるためには同盟国と軍事力が必要ですね。   

 

>ウクライナやNATO(北大西洋条約機構)も当初、「ロシアが全面侵攻するはずがない」と思っていた。 >ロシアとしても、ウクライナがこれほど抵抗するとは思っていなかっただろう。

 

彼を知り己を知れば百戦あやうからず。(孫子・謀攻  

 

>今回の教訓は多い。 >まず、同盟国ではない国のために戦ってくれる国は存在しないという、国際社会の冷徹な現実である。 >日本は「自分の国は自分で守る」という基本を踏まえ、安全保障の基軸である日米同盟を強化・維持するために、信頼関係を深める努力を続けなければならない。

 

そうですね。  

 

>さらに、日本と米国、オーストラリア、インドによる戦略的枠組み「QUAD(クアッド)」の安全保障面での強化を図り、「自由で開かれたインド太平洋」に賛同してくれる国々との連携を進めることも重要だ。 >プーチン氏が、核兵器による恫喝(どうかつ)を行ったことを受け、世界の政治家は、国民の生命と財産、国家の独立を守るために、自国の「核抑止」について見直すことが迫られた。 >日本の周囲には、ロシアや中国、北朝鮮という核保有国が存在している。

 

わが国の隣国の中には本当に物騒な国が集まっていますね。    

 

>私は先月末、フジテレビ系「日曜報道 THE PRIME」で、「日本は核拡散防止条約(NPT)の加盟国であり、『非核三原則』(=核兵器を『持たず、作らず、持ち込ませず』)があるが、世界ではどのように安全が守られているかという現実について議論していくことをタブー視してはならない」と問題提起した。 

 

それは時宜を得た問題提起ですね。   

 

>そのうえで、NATO(北大西洋条約機構)が採用している「ニュークリア・シェアリング(核共有)」について説明した。 >これは、ロシアの「核の脅威」に対抗するため、非核保有国であるドイツとイタリア、オランダ、ベルギー、トルコに米国の核兵器を配備することで、「核抑止力を共有する政策」である。 >日本は現在、米国が核抑止力の対象を同盟国に広げる「拡大核抑止(核の傘)」の中にいる。 >ただ、ウクライナ侵攻で示されたように、「敵対国が相手国の意思や能力を見誤る」ことはあり得る。 >もし、「実は、核の傘は機能しないのではないか?」と思えば、わが国の核抑止力は低下する。

 

そうですね。同盟国との信頼関係が大切ですね。   

 

>政府には「非核三原則」に関する答弁との整合性がある。>ここは与野党が率先して、「わが国に核兵器を撃ち込ませない」ために、さまざまな選択肢を視野に入れて議論しなければならない。

 

そうですね。わが国には核の抑止力が必要ですね。     

 

>ところが、一部の野党やメディアは、「こんな議論を絶対に許すわけにはいかない」(共産党の志位和夫委員長)、「議論だけはいいなんていうのは詭弁(きべん)」(立憲民主党の泉健太代表)、「戦争被爆国としての自覚と責務がみじんも感じられない」(朝日新聞、1日社説)などと、いつものように反発してきた。

 

自由な議論を認めない人たちがいるのは残念でね。   

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。だが非現実 (考え) の内容は見ることができない。しかし文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含んでいない文は全て正しい考えを示している。考えは人人により違っている。だから、考えの正解は無数にある。  

文は、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて単語の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界の中にある。その対極は ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ である。これらは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。歌詠みのようなものである。かくして、日本人の対話は不可能になる。  

 

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>議論もさせないとは、「世界の危機」「日本の危機」を前にして、思考停止に陥っていると言わざるを得ない。

 

そうですね。問答無用・切り捨て御免ですから昔風ですね。危険極まりない風潮ですね。         

 

>社会民主党と緑の党の連立政権であるドイツですら、国防費の大幅増を決断した。  

 

そうですね。国防の大切さの理解を深めたのですね。  

 

>これでは、非核三原則に「言わせず、考えさせず」を加えた「非核五原則」ではないか。

 

そうですね。ノンポリ・政治音痴・封建的 (権威主義) ですね。

中国の薛剣・大阪総領事: ウクライナ問題から得た「一大教訓」は「弱い人は絶対に強い人に喧嘩を売る様な愚か(な行為)をしてはいけないこと」  

弱小国のわが国は肩身が狭いですね。   

 

>ただ、彼らの批判はそれほど支持を得ていないように感じる。  

 

そうですね。やはり言論の自由がよろしいようですね。       

 

>北朝鮮がミサイル発射と核実験を強行した2006年、当時の中川昭一・自民党政調会長が「核抑止の議論」を提起した際は、左派勢力を中心に猛烈な批判が起こった。 >ただ、今回は自民党の茂木敏充幹事長や高市早苗政調会長らだけでなく、日本維新の会も「議論すべきだ」と主張している。  

 

Deliberative assemblies shall be widely established and all matters shall be decided by general discussion based on public mind.  広く会議を興し万機公論に決すべし  (明治天皇)  

 

>世界の厳しい現実を見て、賢明な政治家や国民は目を覚ましたのではないか。 

 

そうですね。我々には現実直視が必要ですね。    

 

>(自民党衆院議員)  

 

 

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出川哲朗氏  

2022-03-09 17:25:11 | 文化

 

>出川哲朗 警察に激怒!「刺されないと捕まえられないんだよ、って」 ファンに襲撃されて助けを求めるも…   > スポーツニッポン新聞社 2022/03/04 14:24

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> お笑いタレントの出川哲朗(58)が3日深夜放送のMBSテレビ「かまいたちの知らんけど」(木曜後1156)に出演。 >ファンに自宅を襲撃された際、助けを求めた警察に冷たく対応されたことを明かした。  

 

それは大変なことでしたね。     

 

> 出川はプライベートで外を歩いていても、ファンから声を掛けられやすいようで、「外でも地獄、地獄」と苦笑い。 

 

それは持てる者の悩みですね。   

 

>さらには若手時代を振り返って「だって、いつも家にまで来るんだもん。 >夜中の2時、3時にピンポン、ピンポンって。 >何で知らないやつと遊ばきゃなんないのよ」と語った。  

 

ファンに対するサービスが大変ですね。   

 

> ファンには何度も痛い目にあってきた出川だが、中でも忘れられない事件があるという。 >それはファンに玄関ののぞき穴を壊され、まだ修理できていなかった日のこと。 >「ピンポンって鳴って『また来た、チーマー…』って思ってのぞいたら、桐でガンッ!ってやられて…」と振り返る。 >さすがに我慢の限界を超えたそうで、「もう、これはダメだと思って、次の日に警察に行って、『毎晩来るので捕まえてください』って言ったら、『出川さん、刺されないと捕まえられないんだよね』って(言われた)」と呆れ顔。

 

さうですね。残念ですね。日本人は意思の存在を認めない。だから、意思の内容を詮索もしない。これでは犯罪も防げない。事後の処置では後の祭りとなる。   

意思は非現実 (考え) の内容である。日本人には非現実がない。だから、犯行の予測をたてることが難しい。起こってからわかる程度のものになる。これでは防犯にはならない。  

英文の非現実の内容は時制 (文法) により、過去、現在、未来の三世界になっている。文の時制が違うから、三世界の内容はゴッチャにはならない。意思は未来の世界の内容である。未来の事は未来の事としてはっきりと把握される。

だが、日本語脳では未来時制の内容を真剣に取り扱おうとする日本人はいない。だから、未来の内容は想定外になっている。かくして日本人の未来に対する構えは不用心になる。      

 

>「その瞬間、オレは『あ、ストーカー事件ってこういう風に起こるんだな』って思った」と真剣な表情で訴えた。   

 

そうですね。未来の内容が想定外になっていては防犯に役立たないですね。これは恐ろしいことですね。   

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は世論指導者としては適格ではない。 

 

 

 

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