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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

佐伯啓思氏  

2022-06-25 18:38:31 | 文化

>東洋経済オンライン   >誰も本心では信じていない民意に全てを委ねる訳 「国民の意思」がデモクラシーを崩壊させる   > 佐伯 啓思 2022/06/23 10:30  

(略)

>7月10日には参議院選挙の投開票が行われる。 >選挙とは「民意」を問うものであり、民主主義の根幹をなす制度といわれる。 >だが、今日の不安定な政治や、国民の政治への無関心は、政治家やメディアが、なんら実体のない「民意」を持ち上げることによって、もたらされているのではないか。   

 

日本人は無哲学・能天気であるからノンポリ・政治音痴になっている。だから、政治には無関心である。だから我が国の政治には実体がない。      

 

>ウクライナ危機、コロナ禍、グローバル経済の矛盾、民主主義の危うさなど、現代社会の重要な問題について、思想家・佐伯啓思氏が文明論的視座から論じた新刊『さらば、欲望 資本主義の隘路をどう脱出するか』(幻冬舎新書)から一部抜粋してお届けする。   

>民意という亡霊がうろついている  >「ヨーロッパをひとつの亡霊がうろついている、共産主義という亡霊が」というよく知られたマルクスの言葉にならえば、今日、「日本をひとつの亡霊がうろついている、民意という亡霊が」といってもさしつかえなかろう。   

 

わが国民は政治に無関心ですから、悲惨な政治の結果にも責任も感じていませんね。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

 

>もちろん、マルクスとはまったく違った意味である。  >亡霊がやがて世界を支配することを期待したマルクスとは逆に、今日、われわれにとりついている亡霊は、われわれを破滅へと導くものかもしれない。   

 

そうですね。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)         

 

>ここで亡霊という比喩が多少意味をもつのは、それが、実体でもないが、かといってまったくの幻覚でもない、という点にあろう。>確かな存在でもないが、まったく存在しないというわけでもない。   

 

‘ありそうで、なさそうで’といったところですね。‘いかにも、、、、らしい’といった雰囲気ですかね。日本人の場合には、非現実 (考え)の内容を文章にする構文がないので、考え(非現実)の内容は哲学にはならずして妄想・空想の類になりますね。  

おかげさまで、わが国の高等教育の方はさっぱりだめですが、漫画・アニメの世界では大国になりましたね。           

 

>有と無の間を揺れ動く、この不確かであやふやなものがわれわれの社会に憑依(ハウント)している。>憑依されたものは、「ミンイ、ミンイ」と騒ぐが、それが何を意味しているのかは誰もわからない。   

 

気分・雰囲気にもとずく掛け声でしょうね。歌詠みのようなものか。 論理に責任を持つものはどこにもいないでしょうね。       

 

>「ミンイ」では言葉の重みにかけるので、「国民の意思」と政治学風に言い換えても事態は変わらない。  >にもかかわらず、新聞、テレビ等のマスメディアを通して、連日、この言葉によって視覚聴覚を刺激されておれば、いつのまにか、「民意」やら「国民の意思」なるものが本当に臨在しているかのように思われてくる。   

 

そうですね。その意思のことであるが、日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。  

   

>姿形をもたない不確かなものを、あたかもそこにあるかのように捉えること、すなわち評論家の山本七平のいう「臨在感的把握」が生み出される。 >「亡霊」というより「言霊(ことだま)」とでもいうべきであろう。 >「民意」や「国民の意思」という言葉が、何かある価値をもってひとつの規範となる。  >言葉の「霊」がわれわれを支配する。 >「言霊的臨在」である。  

 

なんだか頼りないものですね。漫画・アニメの世界にいるような感じですね。       

 

>それが、この21世紀の、かつてない科学やデータの時代、両方合わせてデータ・サイエンス万能の時代にあっても、決定的な役割を果たしている。 >脳科学がすべてを解明できるかのように喧伝される時代に、「言霊」がわれわれの脳を占領するという不可思議な霊的憑依が生じているのだ。 >もちろん、言霊的憑依現象は「民意」だけではない。 >今日、次々と新手のミニ言霊が浮かびあらわれる。  

 

日本語の環境は英米流高等教育の成り立ちにくい環境を作っていますね。非現実の文章がなくては意味もなく非現実(考え)の体系を構築できませんね。   

 

>「多様性」「LGBT」「データ」「実証」「可視化」「説明責任」「SDGs」「クリーンエネルギー」「脱炭素化」「改革」、それに依然として「経済成長」。 >少し前までは、「平和」「平等」「民主」「人権」が圧倒的に憑依能力をもっていた。  >その意味するものが不透明であるがゆえに、引用者の都合のよいように解釈され、一定の気分を伴って社会の空気を支配する。   

 

日本では気分・雰囲気の問題が重要ですね。独りよがりということでしょうかね。      

 

>ここで私が論じてみたいのは、もっぱら「民意」、つまり「国民の意思」である。 >この、有るとはいえないが、無いともいえない「憑依的存在(憑在)」が、どれほどデモクラシーと呼ばれる今日の政治を不安定化しているかが私には気になるからだ。   

 

お察し申し上げます。 日本人に哲学がなければ、その政治家には政治哲学がない。だから、その政治も不安定ですね。   

 

>「民意」の便利使いをするメディア  >一例をあげれば、2021年10月末の総選挙で、自民党も立憲民主党も議席を減らした。  >そこでたとえば朝日新聞は社説で次のようなことを書いていた。 >「甘利幹事長の小選挙区での落選は、自民一強体制への批判という民意の表明である」と。 >また、毎日新聞の論説には次のようにある。 >「与党も野党も決定的に勝たせない、というのが民意である」と。 >どう見ても恣意的というほかない。 >「民意」の便利使いである。   

 

日本人は意思がないので、恣意を意思の代わりに使うことがありますね。便利使いの話どころではありませんね。これは危険きわまりない行為ですね。      

 

>自民党も立憲民主党も確かに議席は減らしたものの、その意味はまったく違っていた。 >共産党との共闘を企図した立民は、明らかに敗北した。  >自民の議席減は、前回選挙での野党の大混乱に起因する地滑り的勝利から 通常水準に戻っただけで、それでも261議席の絶対安定多数を確保した。 >これは十分に勝利である。 >しかも小選挙区の当落は、この選挙制度と選挙戦略によるところが大きい。 

 

そうでしょうね。   

  

>にもかかわらず、どうして「民意」を持ち出したいのだろうか。 >理由ははっきりしている。  >そこに「国民の意思」というものを読み込みたいのだ。 >「意思」とはやっかいな言葉である。 >強い信念や信条がそこには示されており、確固たるものが暗示されている。  

 

そうですね。日本人には意思がないのですから。日本人は恣意を鍛えて意地・根性・大和魂として利用していますね。   

 

>その結果、「国民の意思」を人質にとれば、正当性が生まれる。 >朝日は、「民意」という言葉を無理やりに人質にとって、「自民一強体制」への批判を正当化しようとし、毎日は与党の勝利を認めまいとする。  >自らの主張を「民意」によって正当化しようとしているだけである。   

 

そうですね。無哲学・能天気ですね。     

 

>「民意」にすり寄る政治家  >もちろん、これは朝日、毎日という反自民系の新聞だけのことではない。 >与党支持派は、この結果を、自民による政治の安定こそは「民意」であるというであろう。  >ここでもまた「民意」を持ち出す。  >選挙は「民意」を問うものだということになっている。 >さして主張のない候補者に限って、自分こそは「民意を国会に届ける」と選挙で訴え、新たに選出された首相は、これまた必ず「民意を大事にする」というのが通例になっている。 

 

さしたる自己主張のない議員は、その得票数が存在理由の全てですからね。    

  

>「民の声は天の声」といわんばかりに、政治家は「民意」にすり寄る。 >まさしく言霊憑依である。 

 

個人主義のないお国柄ですね。 哲学が疎外されています。    

   

>しかし、「民意」とはいったい何なのであろうか。 >なぜ誰もそれを問おうとはしないのか。

 

民意とは選挙民の信託ですね。    

 

>それも理由ははっきりしている。 >まともな政治家が本心から「民意」を信じているなどとはまず考えられまい。  

 

自己の政治哲学がないからですね。    

 

>まともな政治家であれば、「民意」などというよりも前に、世界や日本社会についての自らの見解や信念があるだろう。   

 

そうですね。だが、日本人には政治哲学がない。  

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官) 

 

>また、マスメディアの政治部の記者やジャーナリストがこれまた本心から「民意」を正当なものと信じているとも思えない。  >その危うさなど、普段からいやというほど見聞きしているだろう。  >政治家やジャーナリストがもし本当に民意など信じているとすれば、われわれは、とんでもなくナイーブで子供じみた情報環境に置かれているということであり、それこそが恐るべき事態というほかない。   

 

日本人はまだ12歳の少年ですからね。  

 

>ナチスは民意の支持を得て政権をとった  >にもかかわらず、われわれは「民意」なるものを擬装し、その前にぬかずき、そこで思考を停止する。 >どうしてそんなことをするのか。 >これも答えは簡単で、民意とは何かを問うことはまさしくデモクラシーとは何かと問うことであり、民意の正当性に疑問符を突き付けることは、デモクラシーの正当性を疑うことになるからである。

 

チャーチルの名言

民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。

 

>政治家もマスメディアも、まさしく、デモクラシーという土俵の上で仕事をしている。 >当然、この土俵を疑うわけにはいかない。 >土俵が崩れれば、彼らの存在意義もなくなってしまう。 >どんなりっぱな金魚でも金魚鉢が壊れてしまえば生きることはできない。 >だから彼らは、自らが信じてもいない「民意」なるものを、信じたことにするほかないであろう。 >この擬装によって、デモクラシーを成立させようとするのである。  

 

チャーチルの立場と同じですね。   

 

>ところが「民意」なる言葉を絶対化してしまったために、逆に、デモクラシーまでもが崩壊することもありうる。  

 

権力者はともすれば腐敗しがちですからね。有権者のたえざる監視の目が必要ですね。      

 

>わかりやすい例をあげれば、1930年代のドイツでナチスは圧倒的な「民意」の支持を受けて政権をとった。 >それがデモクラシーを崩壊させたのである。 

 

そうですね。政治の丸投げは極めて危険な行いですね。   

  

>われわれはナチスからも「民意」の危うさを学んだはずであり、それを無条件に信じることなどできるはずはない。 >にもかかわらずそれを手放すこともできない。  >こういう奇妙なディレンマに陥っている。 

 

そうですね。これが現在あるところの最良の政治形態ですね。    

  

>本心では信じていない民意にすべてを委ねるほかないのであり、それが、今日の、政治への不信、政治の不安定、政治への無関心、政治のエンタメ化の核心にある。   

 

そうですね。自己の哲学を持たない政治家を排除することが大切ですね。      

 

>とすれば、これは「民意が政治を崩壊させる」というべき深刻な事態ではなかろうか。   

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。     

 

 

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大澤真幸氏  

2022-06-23 16:47:24 | 文化

>静岡新聞 令和4年 (2022年) 6月23日 木曜日 総合 (4) 時代の岐路、本質的議論を (識者談話)

>ロシアによるウクライナ侵攻や新型コロナウイルス禍、気候変動など世界が変化し時代の岐路にさしかかっているにもかかわらず、これらに対する本質的な議論が行われていない。   >そのことが最大の問題だ。   

 

そうですね。 日本人は議論下手ですからね。  大問題ですね。      

 

>どのような世界をつくっていくかが問われているのに、与党も野党も主体的に参加する気がないと言っているに等しい。   

 

そうですね。   

日本人には世界観がありませんからね。どのような世界を作るかは常に大衆の想定外になっていますね。    

 

>物価高も円安も、ロシアの侵攻が原因でもある。 >グローバルな社会で海外の問題と日本の身近な問題は直結している。  

 

そうですね。目先・手先の問題だけを扱っていても解決しませんね。   

 

>世界が平和でなければ日本も平和になれず、国ごとだけで繁栄は保てない。   

 

そうですね。地球は一蓮托生の世界になっていますね。    

 

>気候変動や核戦争の可能性が指摘されている中、世界では「持続可能性」がキーワードになっている。  >このままでは人類の存亡に関わる。  >困難な状況になると、政治はできるだけ安全で現実的な道を歩もうと考えがちだが、これまでのやり方が安全でなくなっている。   

 

そうですね。   

 

>他国に追随するだけでは変化に取り残され、気付かないまま破局に向かうことになる。   

 

そうですね。受け売り・後追いばかりの政治では破局に向かいますね。 政治には時代の先取りが必要ですね。   

 

>ロシアに経済制裁を科すことで物価高を招くなどの犠牲は伴っても、自由や民主主義といった普遍的価値を守り実現するためには仕方がないと、政治家は国民を説得し主張すべきだ。   

 

そうですね。政治家の政治哲学が大切ですね。だが、それが日本人には難しい。    

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)     

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

 

>そうであれば有権者も思い切った選択ができる。  

 

そうですね。偉大な政治家に導かれた有権者は大きな力を発揮しますね。    

 

>これからの政治が私たちの子孫の運命を決めることを政治家はもっと自覚してほしい。  

 

そうですね。   

日本人には現実があって非現実 (考え) がない。だから、処世術 (損得勘定) があって学問 (哲学) がない。これが我が民族の大問題ですね。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.      

日本語の文法には時制というものがないので、過去・現在・未来の非現実の内容を独立して脳裏に蓄えることができない。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

>参院選では、本質的な議論を深め、有権者に自分も政治に積極的にかかわらなければと思わせることが重要だ。  

 

そうですね。   

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’   (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) 

 

>与党か野党かのどちらが勝つかだけでなく、全体として投票率を伸ばせるかが問われる。   

 

有権者に未来指向が無ければ政治は単なる勝負事の段階にとどまりますね。その結果、無哲学・能天気の民はノンポリ・政治音痴の状態を保ちながら国の破局を迎えるでしょうね。        

 

………………………………………………………

>社会学者 大澤真幸氏 おおさわ・まさち 1958年生まれ。   

>長野県出身。   

>京都大教授などを歴任。   

>著書に「新世紀のコミュニズムへ」など。  

 

 

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日本低迷  

2022-06-22 00:15:22 | 文化

 

>AERA dot.   >日本低迷の元凶「思考停止社会」を変える、日本人の強靭な強みとは   > 2022/06/21 07:00   (略)  >「どの部署で仕事をするか、勤務地をどこにするか」は、場合によっては自分の人生を決定づけてしまうような重大事項です。 >しかし日本では、それらが自分の意向とは無関係に他の人の判断で決まることが当たり前のように行われてきました。 >そのような思考停止した日本企業の経営姿勢にこそ、日本低迷の原因が潜んでいると、『日本的「勤勉」のワナ』の著者で、約30年にわたって日本企業の変革の現場に身を置いてきた柴田昌治さんは言います。 >その真意を本書から一部を抜粋・加筆して解説します。   

>*  *  *   

>■予定調和や前例踏襲が生む「枠内思考」  > 多くの日本の会社が安定優先の経営姿勢を長年続けてきたことが、安定重視の社会規範を私たちの意識の中に蔓延させています。 >その結果、「予定調和」であるとか「前例踏襲」といった思考姿勢が多くの伝統ある会社では当たり前の規範となっているのが現状です。    

そうですね。私たち日本人は何処の新しい世界にも行きませんね。   

> では具体的に、「予定調和」や「前例踏襲」で組織が運営されると、どういう状況で思考停止は生まれてしまうのでしょうか。 >「予定調和」というのは、そもそも最初から確定している結論に向かって、そこから逆算した道筋をただ辿っていく仕事の進め方です。 >そこにいる人間は無意識のうちに予定された結果を念頭に置き、つまり、予定された結果を前提に業務を処理します。  > そのような状態を、私は「結論が『動かせない前提』という枠となっている」と表現しています。 >この場合、業務は枠の範囲(頭の中にある想定)で処理すれば済むので、自分の頭でものごとの本質を深く考え抜くといった必要は基本的にありません。 >「前例踏襲」も同じです。 

予定調和はあまり面白い仕事ではなさそうですね。   

>前例という過去の経験を枠として、それをなぞってことを進めればいいのですから、そこでも新しい発想や頭を使って考えることは必要ないのです。 > 不動の前提を枠とし、その枠の範囲で業務を処理するのは効率的で、気持ちの上でも、頭を使わないという意味でも、楽なのです。 >この楽で効率的な思考を「枠内思考」と呼んでいます。 

前例踏襲・枠内思考は面白くないですね。   

>■多くの日本の会社が抱える本質的で致命的な問題点  > 意識して努力をしない限り、楽なほうを選んでしまうのが人間という生き物です。 >気がつけば、非常に多くの無自覚な「規範」が枠となっているのが現実です。 > 無自覚な「規範」というのを具体的にあげてみると、先ほどから出てきている予定調和の考え方、前例、上司の意向、お客様の意向、社内の作法、法規、予算、部門の壁などいくらでもあります。 > 無理をして面倒なことを考えるより、それで済むなら何も考えずに動くことを選択してしまいやすいのが、私たち人間です。 >上司やまわりの空気から、考えないことを望まれていると感じるなら、なおさらそうしてしまう人が多くなるのは当然だということです。 > この楽で無自覚な枠内思考という思考停止状態は、平成以降、多くの日本の会社がいつの間にかなじんでしまった本質的で致命的な問題点です。 

そうですね。思考停止の状態は日本社会の本質的で致命的な問題点ですね。      

> つまり、変化をめざすことが不可避である状況になっているにもかかわらず、無自覚の中にこうした多くの規範が枠をつくり上げ、思考停止を呼び起こしてしまっているのです。 >こういう状況に気づけば、思考停止を排除できなくなっている事態がありとあらゆるところで起きている、ということがわかります。 > そして、これこそが日本低迷の発生源と言ってもよいのです。 

そうですね。我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話は聞いたことがないですね。 

>■無自覚な思考停止を放置してはいけない  > 日本、そして、日本の会社の将来にとって問題なのは、結局のところ、思考停止という現象がまさに日常茶飯な現象となってしまっている、ということに集約されます。   

そうですね。 無哲学で能天気な人はノンポリで政治音痴になっていますね。だから未来社会の建設に役立ちませんね。          

> 規律や作法や思惑が枠となって社員の思考を縛り、制限された行動が強く出る環境の中で、考える力は育つはずがないのです。  

そうですね。我が国のような序列社会においては、忖度ばかりが発達していますね。   

> 枠内思考という思考停止は、身近で無自覚に根深く存在しているからこそ、最も大きなダメージを与えている、ということでもあるのです。 

思考(考え)は日本人に意味をなさない。思考の内容は非現実であるが、非現実の内容は日本語の文章になりません。それは日本語の文法に時制というものがないからです。ですから、考えの内容は日本人の脳裏では想定外になっています。だから、思考停止は無自覚です。     

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。 (引用終り)     

> 日本人が持つこの無自覚な思考停止という性向を放置したままだと、経営の中枢(本社部門など)も今まで通りの発想で「混乱回避」を上位に置いた仕事を続けることでしょう。 >そのようなことでは、前例踏襲で動き続ける組織が減るわけがないのです。 > これを変えようと思うなら、経営陣一人ひとりが本当に本気でチームとなり、組織風土改革も織り込んだ方針の大転換をすることが必須です。 >今のままだと、どうしても深く掘り下げる思考が働かないままになってしまう、ということです。   

しかし、日本人には意思がない。どうなることやら。     

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は指導者としては適当でない。 

>■日本人が持つ、人間関係における強靭な強み  > そのような問題意識もあり、私はこれまで、企業改革のサポートを自らの社会的な使命と定め、取り組んできました。 > 企業改革の推進力を強化するためには、改革をしたいという思いを持つ企業人同士の連携を高めることがどうしても必要になります。 > そして、連携を高めるためには、互いの心理的な安心感をつくり上げるステップを重視しなくてはなりません。 > 日本の場合、この心理的安心感をつくり上げるのは他の先進国と比べると、実のところそれほど難しくはないのです。 > というのも、一定の環境さえ用意すれば、お互いに自分に似た「何か」を共有しようする感覚を多くの人が持っている、という人間関係における強靭な強みが日本人にはあるからです。 >この感覚を私は「日本人が持つ共感力」と名付けています。 > 先輩後輩意識や互いが持つ甘えの関係がプラスに働くシチュエーションや環境を用意するのは、やり方さえ間違わなければ、それほど難しくはないのです。   

日本人の人間関係は一族郎党の構成員の自己序列に対する帰属意識によるものですね。  

 日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。   

>■日本人の生き方に潜む大きな問題   > 企業改革の最初のステップでは、「ジブンガタリ」という、一人ひとりが自分のことを自らの言葉でじっくりと語る時間を大切にしています。 >単なる経歴ではなく、自分が経てきた人生の中で感じたことや考えたことなど、自身の生きざまを互いに語り合ってもらうのです。  > この時間での唯一の譲ることのできないルールは、互いに相手の話に耳を傾けて、その人が本当に言いたいことをじっくりと聴く、ということだけです。 > こうした時間を、話しやすい雰囲気を醸成してから持つことができれば、参加者はかなりオープンに自分のことを話します。 > そんな機会を非常に多く体験してきた私ですが、実は、たくさんの人のこうした話を聴く中で、日本人の生き方には非常に大きな問題が潜んでいる、と感じていることがあるのです。  > それは、企業人の多く、特に中枢に位置する人ほど、自分の人生の中で非常に重要な意味を持つはずの自身の人生の転機を、自分の意志とはまったく関係なく、会社の意志、もしくはそのときの人事を担当した他人の意志で決めていることです。   

日本人には意思が無いので、意思の内容に考えを集中することが難しいです。  

> 日本の人事や採用の仕組みがそうなっているので、これは日本企業としてはごく当たり前のことです。  >ですから、多くの人は特に意識していないのですが、よく考えてみると人生の在り方にとっては非常に重要な意味を持っているのです。   

そうですね。 >「どの部署で仕事をするか、勤務地をどこにするか」は、場合によっては自分の人生を決定づけてしまうような重大な事項であるにもかかわらず、自分の意向とは無関係に他の人の判断で決まるのが、日本という国の基本的な仕組みだということです。   

そうですね。意思のない人には責任という観念もなく、罪の意識も薄いですね。      

> 日本企業が成り立っている人事の仕組みそのものがそうなっているのだから、一人ひとりにとっては仕方がないことではあるのです。   

だから、わが国には個人主義が浸透しません。  

> ただし、企業では当たり前のこととはいえ、日本のサラリーマン人生はそういうことの連続なのだ、ということの持つ潜在的な意味の大きさを思わずにはいられません。   

同感ですね。人材の無駄使いですね。     

> これは日本ではごく普通のことですから、会社勤めをしている人の多くがそうやっているわけで、取り立てて問題がそこにあるとは思っていません。  >問題自体は薄々感じてはいても、仕方のないこと、受け入れざるをえないことだと思っているわけです。 >■順調な会社員人生を送ってきた人に欠けている経験   > 確かに、受け入れざるをえないというのが現実でしょう。  >そこに問題があるというのなら、日本での会社人生はそもそも成り立たないからです。 > しかし、私がこうしたことにあらためて問題を感じるようになったのは、そこに生じている「違い」に非常に大きな意味があることがわかってきたからです。  > その「違い」とは何か、といえば、自分の人生を会社の意志で決めてきた人と、自分の意志で決めてきた人の、思考の在り方の「違い」です。  

そうですね。自分の意思で決めた人には個人主義 (個人の考えを尊重すること)の良さがありますね。   

> 多くの人の「ジブンガタリ」を聴いていると、少数ではあるのですが、自分の意志で自分の人生をつくり上げてきた、という人にも出会います。  > それはどういう人なのかといえば、一つは自分の意志でリスクの伴う転職を決行してきた人です。 >自分の人生をリスクの伴う自らの決断で決めてきた、という経験は、順調に過ごしているサラリーマンでは味わうことのない経験です。  

そうですね。自ら決断した人には自分の人生に自信がありますね。   

> それが上手くいったかどうか、本人が自覚しているかどうかは別にして、非常に重要な痕跡をその人の思考姿勢の中に残していることが見えてくるのです。  > つまり、普通の会社員なら、多くの場合には向き合う機会のない、「働くとはそもそも自分の人生にとって何を意味することなのだろう」とか、「この会社で働くことが自分の人生にもたらす意味は何だろう」とか、簡単には答えの出ない問いと向き合わざるをえない経験をいつの間にかしている可能性がある、ということです。   

そうですね。彼らは自己の哲学を作り上げていますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

>■今、日本企業が最も必要としている力   > 転職のような「人生の荒波にもまれる経験」はそのほかにもいろいろあります。  >もう一つの例でいうと、海外の子会社などで、重要な意思決定を自分の責任でせざるをえないような立場を経験してきた人もそうです。   > 会社にもよりますが、日本にいるときとは違い、言葉も人種も商習慣も異なる厳しい環境の中で、本社からの余計な干渉が少ない代わりに、サポートもあまり期待できない状態を経験している、ということです。  > この人たちも、自分の意志で転職を決断してきた人と同じように、過去の経験から答えを簡単には導き出すことのできない、正解のない「問い」と向き合わざるをえない経験を知らず知らずのうちにしてきているのです。   

そうですね。 私の知人にもJICA (国際協力機構) に参加して海外で自信をつけた人もいます。    

> さらに付け加えれば、がんなどの重い病気や大けがで何カ月もの入院を余儀なくされてきた人、もしくは会社人生で降格、左遷といった大きな挫折を味わったことがある人なども、そうです。 

学校の外では答えのない問いに直面しますね。    

> これらの人たちに共通するのは、順調な人生なら特に見直す必要もないような「問い」──つまり、自分の人生とはそもそも何だったのか、何のために人は生きているのか、働くとはそもそも何なのだろうか、といった本質的な「問い」──と向き合う時間を持ってきた、もしくは、持たざるをえなかった、ということです。   

各人に哲学は必要ですね。 そのために英米流の高等教育は必要です。        

> こうした「問い」は、私たち日本人にとってあまり慣れてはいない、決まった一つの正解が用意されているわけではない「問い」です。 

これは大人になるための勉強ですね。我々日本人は12歳ではいられない。      

> しかも、考えることなしには、思考力なしには向き合うことができない「問い」でもあるのです。 > つまり、これらの人たちは、本人が意識しているかどうかは別にして、今、日本企業が最も必要としている「考える力」を駆使せざるをえないような経験をしてきたということです。  

‘艱難汝を玉にす’ ですね。   

>私が言う「違い」の持つ意味とは、まさにこのことです。 >■考える力を身につけるために欠かせないステップ  > このことからわかるのは、考える力を身につけるためには、正解が用意されていない「問い」と本気で向き合うというステップがどうしても必要とされるということなのです。   

そうですね。 初等・中等教育では得られない教育効果ですね。     

> ただ、残念なことに優秀であったはずの企業人の多くは、こうした経験をまったくしないままに会社人生を送っていることに何の疑問も持っていないのが現実です。   

そうですね。我が国の英米流高等教育は台無しですね。高等教育では自分で答えを見つける訓練をします。ですから、大発見のチャンスもあります。英米流の高等教育の成り立たない我が国は無哲学・能天気の社会になっています。   

> それというのも、特に「考える」という力を持っていなくとも、「どうやるか」さえ考えていれば、従来通りの日常業務なら回していくことはどうにかこうにか可能であるため、自分が思考停止に陥っていることに気づきにくいからです。 

そうですね。 我が国は処世術(損得勘定)と実学(技術)が発達していますからね。現実の中では困りませんね。      

>「どうやるか」だけでさばくような思考姿勢であっても、予定調和や前例踏襲での対応を求められるだけであれば、特に問題は出てこないのです。   

そうですね。人生は順調という事ですかね。   

> この「どうやるか」だけでさばく思考姿勢こそが、私が問題にしている無自覚の「枠内思考」というものです。   

そうですね。日本人の文化には形式だけがあって、内容がありませんからね。   

> つまり、何らかのルールや約束事、または前例などを制約条件として、それを枠と捉えることで、枠を前提として枠の範囲で「どうやるか」だけを選択肢の中から選ぶ、という思考の仕方に無自覚になっている、ということです。   

そうですね。日本人には思考の条件となる現実の枠が存在しますからね。    

 

 

 

 

 


船橋洋一氏  

2022-06-21 02:05:32 | 文化

>東洋経済オンライン   >日本と中国「正常化」という永続的プロセスの本質 日本に求められるパワーと国際秩序における役割   > API地経学ブリーフィング 2022/06/20 09:00   

(略)

>米中貿易戦争により幕を開けた、国家が地政学的な目的のために経済を手段として使う「地経学」の時代。   >独立したグローバルなシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアティブ(API)」の専門家が、コロナウイルス後の国際政治と世界経済の新たな潮流の兆しをいち早く見つけ、その地政学的かつ地経学的重要性を考察し、日本の国益と戦略にとっての意味合いを、順次配信していく。

>正常化を経て巨大な変化を遂げた日中関係   >日中国交正常化からの半世紀、日中関係は巨大な変化を遂げた。  >1972年、日本のGDPは中国の約3倍だったが、現在、日本の経済規模は中国の3分の1である。  >1972年、対中貿易額は全体の2%だったが、いま、それは4分の1弱まで高まっている。 >国防費は1989年の時点で日本は中国の2.4倍だったが、現在、中国は日本の5.4倍に膨張している。  >両国は尖閣諸島の領有権をめぐって争っており、台湾海峡の緊張と合わせて、中国は日本の海洋安全保障と日米同盟に対する根本的な挑戦を投げかけている。  (略)  >正常化によって中国を国際社会に迎え入れ、中国の経済を“離陸”させ、国民の生活を豊かにすることが日中関係の安定、発展にも望ましいとの期待が当時はあった。  

それは当時のバラ色の夢ですね。  

>しかしいま、戦狼外交を繰り広げる習近平体制下の中国はそうした期待をことごとく裏切る存在として受け止められている。  

ロシアのプーチン大統領も似たような性質ですね。  

>日本の国民のうち中国に「よくない印象」を持っている人々は90%強に高止まりしている。 >中国においても依然66%が日本に「よくない印象」を抱いている。 >双方とも相手に対する嫌悪感の岩盤が凝固している。   

‘人を呪わば穴二つ’ ですね。  

>半世紀前の正常化イニシアティブの帰結が、この岩盤数字であることをどう考えればよいのだろうか。    

それは少々難しい説明になりますね。 中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 (お) う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。

中華 (ちゅうか)  [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる]    東夷 (とうい)  [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した]     南蛮 (なんばん)  [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう)  [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき)  [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。   

>正常化の後の世界の地政学的衝撃が日中関係の文脈を変え、新たな挑戦を双方に突き付けた。 >天安門事件・ソ連崩壊、リーマンショック・尖閣領有権問題、そしてコロナ危機・ウクライナ危機という3つの時代を画する分水嶺があった。

>1989年の天安門事件は「社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である」(1972年「日中共同声明」)との前提を揺さぶった。  

両国は甘い夢を見すぎたようですね。    

>グローバル化が進む中、普遍的価値・原則に係る問題を中国が体制「内部」の問題として処理することを民主主義国が黙認することは難しい。   

そうですね。ITの時代になって内部の黒い部分を温存することは難しくなりましたね。       

>日本はG7の国々とともに対中経済制裁を実施した。  

我が国は、他国の受け売り・後追いで一生懸命にやっていますね。 先進国の仲間入りに成功していますね。       

 >中国は、日本の歴史問題を武器化することで応えた。 >また、1991年のソ連の崩壊は中国にとっての日本の戦略的価値を低下させた。   >それまで「歓迎はしないが受け入れる」立場で許容してきた日米同盟を中国は敵視するようになった。    

普遍的価値、原則は、西洋哲学ですからね。中国は当然それを敵視するでしょうね。今や中国は自己主張できる経済状態に至ったからですね。   

我が国も元をただせば中国と似たようなものですからね。ただ中国と違うところは、日本は外国の影響を受けやすいことでしょうね。我が国は忖度が発達していて自己がない。         

'どのような状況にも普遍的に通用する真理や法則、基本概念や倫理がありうるという考え方が、日本にはほとんど存在しない。' (カレル・ヴァン・ウォルフレン)    

‘周りの影響を受けずに、真に独立した考えができる知識人がいない。’ ( グレゴリー・クラーク)   

 ‘日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。’  (ウスビ・サコ)   

>次に、2008~2010年のリーマンショックと尖閣諸島の領有権をめぐる日中の対立である。  >中国は、台湾侵攻に不可欠な東シナ海と南シナ海の制海権と制空権を握るため第一列島線を突破させない、すなわちA2AD(接近阻止・領域拒否)の軍事ドクトリンを追求した。 >2008年5月の胡錦涛訪日の際、合意された日中間の「戦略的互恵関係」は立ち枯れ状態となった。 >また、中国は2010年9月の尖閣ショックに関連してレアアースの事実上の対日禁輸を行った。  >それまで一応建前としては維持してきた「政経分離」が崩壊した。

‘義を見てせざるは勇なきなり’ですからね。政治の齟齬は無視できませんね。    

>そして、2020年以降のコロナ危機とウクライナ危機。 >日本は医薬品の原材料だけでなくワクチンの注射針も中国に依存していることを知った。   

何もかも中国に丸投げでしたね。  

>市場支配、先端技術覇権、勢力圏をめぐって中国が地経学的攻勢を強める中、日本は「チャイナ・プラス・ワン」やリショアリングを志向するものの、対中投資は増加し続けている。 >日本のGDPに占める対中輸出の割合(2020年)は34%に達し、台湾(32%)、インドネシア(30%)、フィリピン(27%)を上回る。 >日本の対中依存度と地経学的脆弱性は高まる一方である。  

‘治に居て乱を忘れず’ が大切ですね。     

>ウクライナ戦争に対して、岸田文雄首相は「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」との認識の下、対ロ制裁措置を実施している。 >日本の対応は、ロシアの軍事侵攻を失敗させ、対価を払わせることで、台湾に対する中国の軍事侵攻のハードルを上げる対中抑止力構築の性格をも帯びつつある。“中露ブロック”の重圧をすでに日本は感じ始めている。

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。 北方領土だ。 だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。 (小野寺元防衛相)   

>一貫して変わらないアメリカの存在の大きさ  >日中関係の環境の大きな変化の中で、一貫して変わらないのはアメリカの存在の大きさである。 

アメリカは我々の頼みの綱ですね。   

>日本の対中関係においてアメリカは最も重要な要素であり、日本の対米関係において中国が最も重要な要素であり続けてきた。 >1972年9月の田中訪中そのものがその年2月のニクソン訪中の連鎖反応の側面を持った。 >天安門事件に対する対中経済制裁とその後の再関与への切り替え、さらには中国の世界貿易機関(WTO)加盟支援も、日本はアメリカと歩調を合わせた。 >しかし、2010年代に入って日米の対中政策にズレが生じた。 >民主党政権時代の「東アジア共同体」構想と尖閣諸島の領有権問題、安倍政権時代の首相の靖国神社参拝と米中間の「新式の大国関係」構想などいずれもそうである。 >日本は、「日米中の罠」ともいうべき三角関係の陥穽(かんせい)に注意しなければならない。  

我が国は民主主義の国ですから、権威主義の中国とは常に距離を置いた方が良いですね。   

>日米中の三角関係の安定・維持は戦前、戦後を通じて日本の外交政策の最大の難問であり続けた。  

そうですね。米中は大国ですからね。エネルギ-があります。     

>そこには、勢力圏、人種、イデオロギー、核、P5、“瓶のふた”、“力の真空”、G2、人権、「冷戦時代の残渣」など、三角関係をゼロ・サム化させる力学が潜んでいる。 >そして、これからの時代、最も恐ろしい「日米中の罠」は米中対決の中で日本が外交の選択肢を奪われてしまう罠である。 >日中関係を安定させるうえで、アメリカとの不断の意思疎通ときめ細かい政策協調を行わなければならない。   

そうですね。だが、日本人には意思がない。だからアメリカ人との意思疎通は難しい。 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようですね。     

>日米関係を強化するに当たって、中国との安定的な関係を維持するよう細心の配慮が必要である。 >日本に望まれる役割  >その際、日本は、パワーと国際秩序の両面においてより自立した役割を探求することが望まれる。

そうですね。わが国民には ‘独立・自尊’ の気風が必要ですね。   

>パワー・バランスにおいては、アメリカとの同盟深化と対中抑止力強化を引き続き図ることが肝心である。   

そうですね。わが国には強力な抑止力と対処力が必要ですね。    

>その際、日本自らの抑止力をも強固にし、自らの防衛にもっと責任を持たなければならない。   

そうですね。自前の戦争ができない国には、アメリカも介入を控えるでしょうね。   

‘アフガニスタン軍自身が戦う意思のない戦争を米軍が戦うべきでない。米国の国益に合致せず、米国民が求めているものでもない。’ (バイデン米大統領)  

>アメリカは今後、世界への選択的関与の度合いを強めるだろう。   

そうでしょうね。アメリカも独りよがりばかりをしてはいられませんからね。  

>同盟は責任分担と協同作業へと向かう。>日米同盟は今後、相互運用性にとどまらず相互依存性を強めざるをえない。   

‘助けられたり、助けたり’ の関係ですね。   

>同時に、中国との関係を安定させるには、経済安全保障を強化し、中国の経済的威圧に対抗できる抑止力とレジリエンスを実装する必要がある。   

そうですね。経済的威圧に対しても抑止力と対処力を持つ必要がありますね。 力は正義ですからね。      

>日本の生産性と国際競争力を高めることが大切である。 >中国の戦略理論家、閻学通は「中国が強くなったから現状維持が変わったことはその通りだが、アメリカと日本が弱くなったからそれは変わったこともまた確かなのだ」と喝破している。 >中国を「修正主義勢力」と呼ぶのなら日米もまた修正主義勢力ではないか、というのである。   

現実界の全ては力関係ですからね。      

>中国のこの種のレアルポリティークの詭弁を打ち負かすには日本の不断の成長と革新が必要である。 >対中関係経営においては、中国の軍民融合政策と国家情報法の下、「政経分離」は便法としても使えないことを知るべきである。 

そうですね。彼らは力の一点ばりですからね。   

>中国が彼我の政治体制の非対称性を搾取し、「影響力工作」を推進するのを防ぐため関係維持における機会と権利義務の「相互主義原則」を導入するべきであろう。 >国際秩序においては、日本はアジア太平洋の国際秩序の再構築に向けて積極的な安定力としての役割を果たす必要がある。 >“中露ブロック”に駆動されるユーラシア地政学に「フロントライン国家」としていかに立ち向かうか。   

ロシアも手ごわいユーラシアの大国ですからね。粛清・暗殺・みな殺しの習慣が国のど真ん中に存在します。     

‘だが、さらに重要なのはロシア人の性格や制度に歴史が及ぼしている根深い影響である。つまり中央集権、序列に対する盲目的崇拝、人々の素朴な外国人嫌い、疎外された知識人のとるにたりないあら探し、母なるロシアに対するロシア人の強い愛着、最高権力者に対する大衆の習慣的従順さ、支配者と被支配者の間に横たわる深い溝を無批判に受け入れることなどである。’  <<ロシア人>> (ヘンドリック・スミス)   

>国際秩序とルール形成のための環境醸成における日本の役割はさらに大きくなるだろう。  

力は正義であることをくれぐれも忘れてはなりませんね。    

>秩序とルールの形成では中国とも協力できるものは協力する姿勢が大切である。 >安倍政権時代、日本は「一帯一路」に対して「開放性、透明性、経済性、債務持続可能性」の4つの条件を付けて協力する意向を示し、中国はそれを自らの原則に織り込み、日中の第三国市場協力への道を開いた。 >ここでの外交は、価値観(人権)より原則(国際法)が、正義(最終解決)より賢明さ(共通項の活用と異なる見解・立場の認識)が求められる。  

そうですね。人権と最終解決の理解には英米流の高等教育が必要ですからね。おいそれとは実現しませんね。   

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

>(船橋洋一/アジア・パシフィック・イニシアティブ理事長)  

 

 

 

 

 

 


9党の党首  

2022-06-19 11:45:46 | 文化

 

>22日の参議院議員選挙の公示を前に、与野党9党の党首がインターネット動画サイトで、物価高騰対策などをめぐり意見を交わした。   

>自民党 岸田総裁「日本の物価高騰、エネルギーと食料品がほとんどです。   

>ぜひ、この2点に特化した物価高騰対策を行わなければいけない」、「(金融所得税課税については)お金を取るよりは所得を増やす、分配する方を優先する、これが順番ではないかと」   

>立憲民主党 泉代表「(小麦は)全く対策が取れてない分野。   

>年金の追加給付が必要だということ。   

>やっぱり消費税減税、これは絶対に外せない。   

>これだけ物価が上がってますから、可処分所得を増やす。   

>それは消費税減税でやっていかなければいけない」   

>公明党 山口代表「これから選挙の前後、政治空白が生じるので、補正予算を用意して、予備費5.5兆円を生かしてこれからの変動にしっかり対応したいと思います」   

>国民民主党 玉木代表「物価以上に賃金が上がらないことが一番の問題だと思っているので」、「困っている人はみんなですから、10万円の一律給付をして消費税減税、ガソリン減税をやって、可処分所得の減少を抑えていきます」   

>維新 松井代表「今、エネルギー価格が一番値上がりしている。   

>可処分所得を増やすことで物価高騰対策を実施したい」、「規制緩和で新しい産業を生み出したいと思う」   

>共産党 志位委員長「最も効果的な物価対策は、消費税を5%に減税することです」、「年金削減はストップする」、「軍事費2倍と言いますが、財源をどうするつもりでしょうか」   

>れいわ 山本代表「戦争によって輸入物価が上昇し続けてると。   

>政治がやるべきは、上がった物価を下げること、消費税廃止です」   

>社民党 福島党首「性と生殖における自己決定権のまさに保障です。   

>中絶や出産への支援です」   

>NHK 立花党首「若者がワクワクドキドキするような選挙や政治をやっていくと」、「正々堂々とNHKの受信料を払わないことで、NHKをぶっ壊す」   

>参院選は、710日投開票となっている。   

 

憲法改正の話はどうなっているのですかね。真の政治には時代の先取りが大切ですね。処世術では誰がやっても大した違いはありません。受け売り・後追いの政治姿勢ではただただ時代に翻弄されるばかりです。ちゃらんぽらんの政治家ばかりが存在する。私は処世術 (損得勘定) が不必要だと思っているわけではないのですが、政治哲学のない処世術ばかりの政治はその日暮らしの空しい励みであると思います。

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)      

我が国においては未来に関する考え (非現実) の内容には有権者も政治家も興味がないようですね。これはわが国の政治に関する深刻な問題であるとおもいます。わが国の未来に対する有権者からの質問も無ければ答えもない。日本人には文法に時制がなく、脳裡に世界観がないから、我々は何処に行くのかの命題は想定外になっている。だから、我々日本人には未来社会の建設に対する夢も希望もない。我々日本人が政治哲学を持ち、それを語れば、外国人からも信頼されるようになるでしょうね。

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)               

 

 

 

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