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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

善の善  

2024-07-21 14:05:40 | 文化

読売新聞   核兵器を含む拡大抑止を明文化、日米が初の共同文書…中国・ロシア念頭に年内策定を目指す  読売新聞によるストーリー・   5時間・   

> 日米両政府は、米国の核を含む戦力で日本を守る拡大抑止に関する初の共同文書をとりまとめる方針を固めた。   

>日米の外務・防衛担当閣僚が今月下旬、東京で、核抑止力などを巡る協議を開催して方向性を確認する。   

>中国やロシアなどによる核の脅威が増す中、米国の方針が揺るがないことを文書で明確化することで、抑止力を高める。   

 

抑止力を高めることは良い事ですね。   

 

> 複数の日本政府関係者が明らかにした。   

>日米両政府は2010年に外務・防衛担当の実務者による定例の拡大抑止協議を設置し、議論を重ねてきた。   

>日本政府関係者によると、これまでの蓄積を踏まえ、共同文書には、抑止力を発揮するための日米両政府の考え方を明記する。   

>年内の策定を目指すという。   

> 具体的には、米国が核兵器などを通じて日本周辺の抑止に貢献するとの決意を文書に盛り込む。   

>日本がどのような事態に直面した場合、米国が第三国に対する報復を実施するか――など、平時から有事までを想定して米側が提供する能力について整理し、方向性を記すものとみられる。   

> 日米間の拡大抑止を巡る実務者協議の内容は、軍事行動に関する機微なやりとりが含まれるため、詳細な公表が控えられてきた。   

>だが、近年は「日米が緊密に意思疎通していることを外国に見せること自体が抑止力になる」(日本政府関係者)との考えから、協議内容の概要に限って公表されるようになっている。   

 

日米は内外に対して抑止の決意を示す必要がありますね。   

 

> 共同文書の詳細は安全保障上の理由で公表されない見込みだが、文書の作成自体は対外的に打ち出す方向だ。   

> 2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵略は、北大西洋条約機構(NATO)側が軍事介入の意思を示さなかったことが引き金の一つとなったと指摘されている。   

 

そうですね。

ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。

これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。

「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領

‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’  (マシュー・ポッティンジャー) 

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相     

戦って敵に勝つことが善であるならば、戦わずして勝つことは善の善である。わが国は平和国家であるから、善の善を目指さなくてはならない。我が自衛隊はその目的にたいする備えを怠るべきでない。強大な抑止力が必要である。 

'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)  

 

> 日米両政府は、拡大抑止に関する方針を明文化した共同文書をまとめることで米国が日本を守る意思を示したい考えだ。   

 

人間には意思決定が大切ですね。意思の無い人間には責任が無い。   

これはちょうど死刑執行人の立場のようなものである。彼らは人が死んでも殺人罪には問われない。彼らには殺意という意思がないからである。  

 

> 日本周辺では、中国が、核兵器を含む軍事力の拡大を不透明な形で図っている。   

>中国が日本を侵攻する場合、米国の介入を阻むことが前提だとされており、日本は米国の関与を重視している。

 

日本人には意思が無い。だから、日本人には責任が無い。日本人は責任者捜しに苦労している。    

たとえば【英対する開戦の詔勅】では

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。   

となる。  

天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。  

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて ) 

だから重大事件の事後処理は常にうやむやになる。兎角この世は無責任。

 

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

かようなわけで、日本人の責任者捜しは日本残酷物語の様相を呈する。だから、日本人は ‘責任者を出すな’ という。我々の習慣が無責任体制の根幹をなしている。    

 

> ◆ 拡大抑止 =自国に限らず、同盟国が武力攻撃された場合にも報復する意図を示すことで、第三国による攻撃を未然に防ぐ安全保障政策。   

>米国は「核の傘」に加え、通常兵器も含める形で、日本や韓国、北大西洋条約機構(NATO)加盟国に抑止力を提供している。   

 

抑止力は戦わずして勝つ道ですね。善の善なるものですね。明るい見通しが立ちますね。   

 

 

 

 

 

 

 

 


大高意具氏  

2024-07-20 11:44:12 | 文化

>朝日新聞デジタル(地域)    岡崎空襲から79年で慰霊祭や平和祈念式 犠牲者悼み平和を誓う   >朝日新聞社によるストーリー・   >38分   

 太平洋戦争末期の岡崎空襲の犠牲者らを悼む催しが19日、愛知県岡崎市で開かれた。   

>参加者らは79年前の空襲へ思いをはせ、平和への決意を新たにした。   

> 1945720日未明、米軍のB29爆撃機120機余りが焼夷(しょうい)弾など12千発を投下した岡崎空襲により市中心部は壊滅し、市によると、市民ら279人が亡くなった。   

> 慰霊碑と犠牲者名が刻まれた板が立つ市中心部の広場では19日朝、「岡崎空襲を記録する会」主催の市民慰霊祭があり、中根康浩市長や市民ら約40人が献花した。   

11歳で空襲を体験した大高意具(よしとも)さん(90)は「防空ずきんも忘れて必死に逃げた。   

>戦争で一番犠牲になるのは子どもだ。   

>戦争のない世界になってほしい」などと訴えた。   

 

そうですね。為せば成るでしょうね。      

 

> 市主催の平和祈念式も同日、市図書館交流プラザりぶらで開かれ、中根市長や戦災遺族ら約90人が参列した。   

>式の運営にも携わる岡崎女子大学の学生が「誓いの言葉」を述べ、「岡崎の街をもう二度と失わないよう、平和を強く願い、未来を築くと誓う」などと宣言した。   

 

他力本願・神頼みだけでは平和は守れそうにありませんね。   

ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。

これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。

「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領

‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’  (マシュー・ポッティンジャー) 

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相     

戦って敵に勝つことが善であるならば、戦わずして勝つことは善の善である。わが国は平和国家であるから、善の善を目指さなくてはならない。我が自衛隊はその目的の備えを怠るべきでない。 

'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)   

 

>(前川浩之)   

 

 

 

 

 

 


吉見俊哉氏  

2024-07-18 17:19:08 | 文化

>ダイヤモンド・オンライン   >「理系は文系より役に立つ」と考える人が決定的に見落としている視点   >吉見俊哉によるストーリー・   >12時間・   

>即時的なメリットを追求しがちな現代において、「大学は役に立たない」という意見も少なくない。   

 

そうですね。   

 

>そんな、世の中の言説と空気に東大名誉教授が答えた。   

>本稿は、吉見俊哉著『さらば東大 越境する知識人の半世紀』(集英社新書)を一部抜粋・編集したものです。   

>理系学部は役に立っているか?   >学部と就職は対応していない   

>――先生が『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社新書、2016年)で、「文系は役に立つ」と言いきられたことには異論はありませんが、しかし実際に目の前にいる文系学部の学生にとって「大学が役に立つ」とはどういうことか、やはり考えてしまう現実もあります。   

> ほとんどの学生にとって、大学は「大卒」の資格や就職に使える「ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)」を得るために行くところになっているかもしれない。   

>そんな彼らが「高い学費を払っても、大学で学問に触れられてよかったな」と思えるためには、どうすればいいんでしょうか。   

>吉見 今の質問に答える前にひとつ聞いておきたいのですが、では、理系ならば大学教育は役に立っているのでしょうか?   

>――おそらく世の中では、そう思われていますね。   

>文系より理系のほうが就職もよい、と。   

>吉見 しかし、1990年代末からですが、工学部の学生が大学で学ぶ分野と実際に就職する職場の分野が全然対応しない傾向が顕著になっています。   

>就職後、専門を活かせているかという点では、文系のみならず工学系も大学で学ぶことがどんどん役に立たなくなっているのです。   

> それでも国の政策では、「役に立つ」人材を育成するために、大学で先端的なデータサイエンスや理系の教育をもっとやれと言っていますね。   

ITやデータサイエンスの教育を大学教育に導入すること自体に私は反対ではないのですが、しかし、だからといってそれで本当にそれらの教育を受けた学生が、その教育を活かす職に就けるわけではありません。   

 

高度の職業人には絶えざるリスキリングが必要ですね。   

 

>昔のプログラマーのように、教育が技能研修的なものにしかならない可能性もあります。   

 

大学教育を職に生かすためには職業教育をする学校が必要ですね。   

 

> 要するに、そうしたことが必要だとしても、それが大学の本領ではないのです。   

>私はAIが人間の知的想像力を超える日がくるとはまったく思いませんが、しかし比較的複雑な事務労働のかなりの部分は、これからAIに取って代わられるでしょう。   

>専門知識の比較的単純な応用力だってコンピュータは人間を凌駕するはずです。   

> そうした技術革新にあわせて社会基盤が整備されていけば、かなりの職種がたしかに消える。   

>そんな未来がもうすぐ先に見えてきているときに、「役に立つ」知識とはいったい何なのでしょうか?    

>本当は、「すぐ役に立つ」特定の先端技能を身につけさせるために大学があるのではありません。   

 

そうですね。  

 

>「目立ちたくない」学生たち   >その理由は生育環境にあり   

>――おっしゃることは、よくわかります。   

>ただ、ずっと東大の大学院で教えてきた先生にはわからないかもしれませんが、学生たちにそういうたくましさを身につけてもらおうと、たとえば議論する力を鍛える機会を増やしたり、自由に発表する機会を作ったりしても、「目立つのは嫌だ」「意識高い系に見られたくない」と思っている学生には伝わりにくいんです。   

 

そうですね。雉も鳴かずば撃たれまいですね。   

 

>吉見 つまり、吉見の大学論は高踏的すぎてエリートでない大学生には役に立たない、という批判ですね。   

>しかし、今、言われた「目立つのは嫌だ」「意識高い系に見られたくない」というのは、その学生の知的能力がどうかではなく、高校までにその学生がどう育てられてきたかに由来するのではないですか?   

> つまり、ここ30年間くらいの日本社会、そして教育全体に問題があって、その結果、多くの大学生からチャレンジ精神のようなものが消えてしまった。   

> 実際、おっしゃられた大学生の間でのたくましさの喪失は、エリートも含めて広がっている現象だと思います。   

 

日本人には意思が無い。自立性、自発性が無い。優柔不断・意志薄弱である。     

 

>直感的には、高校段階までの教育で、たとえば「国語」を「演劇」に変えてしまうとか、「社会」をフィールドワークに変えるとか、大学入試を高3の夏に前倒しし、高校と大学を実質的に連続化するとか手をいろいろ打っていくことで、ごく普通の大学生がもっと積極的になっていくようにする方法はあるはずです。   

> あるいは今、世界で注目を集めている全寮制のミネルヴァ大学のように、オンライン教育を徹底させつつ、世界各地に学寮を用意し、それらの学寮のある都市を学生たちにめぐらせていく。   

>それらの都市で学生たちをNGOだとか、インターンだとかに参加させ、現実の問題状況に直面させていくというのもひとつの方法でしょう。   

 

求めよさらば与えられんですね。 (自ら積極的に求める態度が必要であるという事)  

 

> 私は大学生が積極的になるために、専門的な知識が必要だとはまったく思いません。   

>彼らが学ぶことに積極的になれないのは、社会的に困難な問題状況に直面する、あるいはその中に身を置く経験が少なすぎるからでもありそうです。   

>キャンパスや教室よりも都市の路上のほうが学びは多い   

>――かつての日本の大学にも、学生の溜まり場的な場所がたくさんあって、そこで知的なコミュニティが成立していたのだと思いますが、今の大学は建て替えなどできれいになった一方、そうした空間がほとんど排除されてしまっています。   

> 一応、カフェやアカデミック・コモンズといった、学生たちが自由に何かをするためのスペースが用意されてはいます。   

>でも、今の大学生は本当に忙しくて、学内でコミュニティを作る時間がそもそもありません。   

>昔の大学生と違って、大学にはよく来ているし、授業にもきちんと出席するのですが、とにかく現代の日本の大学生は忙しい。   

 

そうですね。日本人には意思が無い。日本人の勉強には何事にも上からの指示・指導が必要ですね。   

やって見せ 言って聞かせて させて見せ 褒めてやらねば 人は動かじ (山本五十六)     

 

>吉見 わかりました。   

>――えっ、何がわかったんですか。   

>吉見 どうすれば学生たちにとって大学が役に立つものになるか、ということです。   

> まず、キャンパスから溜まり場になる場所が消えていっていることを憂うなら、みんなで大学の外に出て行けばいいではないですか。   

>どうして大学のキャンパス内部、それから教室にとどまることにこだわるのですか。   

> 私は、教室やキャンパスよりも都市の路上のほうが、大学生たちが学べることはよほど多いと思います。   

>それから、学生たちの忙しさを軽減するには、科目の数を圧倒的に減らさなくてはなりません。   

>とにかく、日本の大学は科目の数が多すぎるのです。   

 

そうですね。日本人には意思が無い。日本人の勉強には上からの指示・指導が必要である。   

 

>『大学は何処へ』にも書きましたが、学生たちの「忙しさ」を解決するためには、学生が履修する授業の科目数を今の半分以下に減らさなければならないということです。   

>今、大学1年生だったら1週間の履修科目数は10から14科目くらいでしょう?   

>――1年生だったら、20科目ぐらい取っている人もいます。   

>今の若者はコスパ意識が高いし、そもそもまじめなので。   

>吉見 世界のどこにも、大学でそんなにたくさんの科目を同時に履修させる国はありません。   

>明治以来、知識の効率的な注入を軸にカリキュラムを設計してきたから、その習慣から抜け出せていないのです。   

 

そうですね。日本人は他人の受け売りが仕事ですからね。   

 

> 学生の学びの実質を軸にするなら、1学期の履修科目数は6科目を超えるべきではありません。   

>半分どころか、現在の3分の1です。   

>それを少人数でする仕組みにしていけば、今よりはるかに実質的な教育ができます。   

> 大学教育はそもそも、多くの日本の大学で制度化されているような広く浅い学びではないことを、改めて確認するべきです。   

 

そうですね。我々日本人には思慮深くなるための励みが必要ですね。      

 

>教師と学生の密な関係を築き、知的トレーニングをしていくには、1学期につき1科目を4単位以上にし、それぞれの科目で1週間に23回、授業が開講される。   

> 現在のゼミのような科目が並ぶ仕組みにすべきなのです。   

>そうすれば、学生は集中的に深く学ばざるをえなくなる。   

>同じ教員と学生がともにする時間は現在の3倍近くになります。   

>こういうカリキュラムになると、大学の「科目履修」の意味が大きく変わりますね。   

>カリキュラムの構造化を、形式的に示すのではなく実質的に組織することになるでしょう。   

 

そうですね。日本人の文化には形式があって内容 (実質) が無い。   

 

>学生にとって「大学が役に立つ」は大学が提供するコンテンツの問題ではない    

>―おっしゃる通りですが、それをやるためには少人数教育のための教室の数がもっと必要になりますし、海外の大学のように訓練された院生などの補助教員から成るTA(ティーチングアシスタント)もいないといけません。   

> そういうコストをかけられない大学も多いでしょうし、もともと博士課程の院生が少ない大学ではTAの確保が難しいことも考えると、結局、東大のような大学でないと無理なんじゃないでしょうか。   

 

高等教育には金がかかりますね。   

 

>吉見 いやいや、東大は一番難しいでしょうね。   

>現実にはいろいろな問題があって、簡単にはいかないのはわかっています。   

>でも、たとえばTAの問題にしても、大学間の横断的な連携を強化していけばなんとかなるはずです。   

>私たちは、科研費の共同研究は大学を越えて、かなり横断的にやっていますよね。

> 同じように、博士課程やポスドクの若手研究者の初期キャリアについても、大学横断的な仕組みを作っていくべきです。   

 

そうですね。   

 

>それぞれの大学が、タテ割りタコツボでやっていける時代ではありません。   

 

我が国のような序列社会の序列人間には難しいかもしれませんね。その上思考を停止していますからね。      

 

>その発想をやめなければ、日本の多くの大学は18歳人口の急激な減少に対応できず、潰れていくでしょう。   

> 研究だけでなく、教師も、TAも、そしてとりわけ学生も、複数の大学に所属して、自分が探究しようとするテーマにしたがって大学や学部、指導してくれるシニアの先生方の間を渡り歩いていくべきなのです。   

> その際、忘れてならないのは、学生にとって「大学が役に立つ」というのは、大学が提供するコンテンツの種類の問題ではないということです。   

>大学が、特定の専門知識によって社会の「役に立つ」という認識には誤りがあります。   

 

そうですね。   

 

>そうではなく、大学はそれ自体が一種のパフォーマンスなのであって、知的演技力のある俳優たちを育てているのです。   

>優れた俳優は、さまざまなジャンルの知識の体系を自分のものとして演じていくことができます。   

> 上演論的に言えば、個々の授業はもちろん、大学のカリキュラム全体も一群のドラマの集合体です。   

>ドラマというものは時間を構造化することによって成立しているパフォーマンスですから、大学において時間がどう構造化されているかが重要です。   

> そのドラマの上演において、学生たちは決して観客ではなく俳優です。   

 

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、わが国は世界の中に在って、世界に属していない。高踏派の住民の住む孤高の国か。 

 

>大学という知の舞台において、学生たちはまだ新米の俳優ですから、彼らが自分たちでシナリオを作り、演じられる俳優になっていくためには手助けが必要です。   

>その役割を果たすのが、大学教員なのです。   

 

 

 

 

 

 

 


スキル不足  

2024-07-15 11:23:05 | 文化

>現代ビジネス   >日本が「先進国」から没落する…日本全体が「スキル不足」という「厳しすぎる現実」   >河合雅司(作家・ジャーナリスト) によるストーリー・   >12時間・   

>国立社会保障・人口問題研究所が最新の将来推計人口を発表し、大きな話題になった。   

50年後の2070年には総人口が約8700万人、100年後の2120年には5000万人を割るという。   

>ただ、多くの人が「人口減少日本で何が起こるのか」を本当の意味では理解していない。   

>そして、どう変わればいいのか、明確な答えを持っていない。   

 

そうですね。   

 

>ベストセラー『未来の年表 業界大変化』は、製造・金融・自動車・物流・医療などの各業界で起きることを可視化し、人口減少を克服するための方策を明確に示した1冊だ。   

>※本記事は河合雅司『未来の年表 業界大変化』から抜粋・編集したものです。   

>日本全体が「スキル不足」だった   

>人口が安定的に増え続け、年功序列や終身雇用に守られていた「安泰の時代」においては、一部の人材や専門部署を除き、一般従業員がスキルを磨き続けることを求められる場面は少なかった。   

 

そうですね。わが国においては勉強は子供のすることですからね。   

 

>むしろ協調性といったチームワークや人脈、人間関係を築く能力が重要視されてきた。   

 

そうですね。和気あいあいが日本人の理想ですね。      

 

>その結果、日本全体がそれぞれの分野で「スキル不足」に陥ってきた。   

>だが、人口減少という“黒船”が到来した今、働く全員のスキルアップを図って“稼ぐ力”を底上げしていかなければ勤労世代の目減りをカバーできない。   

 

そうですね。社内に働かないおじさんばかりが増えますからね。   

 

>企業の競争力は保てず、日本経済も浮上しない。   

>問題となるのは従業員1人あたりの労働生産性を向上させるための方策だ。   

>一人一人が好き勝手に技量を身に付けていたのではうまくいかない。   

>当然ながら、各従業員は企業の方針に従い、必要とされる能力の開発をしなければ意味をなさない。   

>これまで多くの日本企業では採用は人事部門が担当し、採用基準は必ずしも経営戦略を反映したものではなかった。   

>それ以前に経営戦略が明確ではない企業が少なくなかった。   

 

そうですね。日本人は未来に対する見通しが不得意ですからね。      .

 

>経営戦略と人事戦略の連動   

>だが、国内マーケットが永続的に縮小するという未曽有の経営環境の変化が訪れつつある。   

>今後は経営戦略と人事戦略をきちんと連動させ、必要とする人材をどう確保するのかを考えることが求められる。   

>そのためには、まず企業のトップが目指す方向性を経営戦略として示し、その実現のためにどういう能力を求めているのかを全従業員に明確にする必要がある。   

 

そうですね。   

 

>同時に、経営戦略を実現させるための人事戦略を描くことである。   

 

現実は千変万化して止まる所を知らない。CEOが変わるごとに新たな戦略を換えなくてはならない。      

 

>プロ野球球団の編成担当をイメージすれば分かりやすい。   

>チームを俯瞰し、どのポジションが手薄になってきているのか、年齢やけがの状態など所属選手の引退時期も予想しながら補強のポイントを定めて、スカウト活動を進めたり、ドラフトやトレードなどを実施したりする。   

>それと同じで、経営戦略を実現させるためには、人材を質・量の両面で充足し、最適化させることが求められる。   

>これまでは現時点で抱えている人材やスキルをベースに「現有勢力の範囲内で可能なこと」を考える企業が多かった。   

>だが、マーケットが縮小する時代では経営戦略の実現や新たなビジネスモデルへの対応といった将来的な目標からバックキャストする形で必要となる人材の要件を定義し、それを満たす人材を獲得、もしくは育成する形へと変える必要があるということだ。   

 

絶えず人事の刷新が必要ですね。       

 

>経営トップが立てた経営戦略の内容を末端従業員に至るまで徹底すると、従業員は各自が「自分が何をすべきか」を理解し、それぞれの目標を明確にできる。   

 

末端従業員は会社の指示に従って行動する必要がありますね。  

 

>その上で経営戦略に基づいて求める能力を個別具体的に指示し、学び直しをしてもらうのである。   

 

そうですね。ヘッドハンチングなども必要でしょうね。   

 

>「必要となる人材」の確保に関しては中途採用で即戦力をスカウトすることもあるだろうが、これは計画通りにいくかどうかは分からない。   

>それよりも、多くの企業は既存従業員のスキルアップで対応することになると見られる。   

>「戦略的に縮む」過程において不要部門をリストラしたことで生じた余剰人材を、「残す」と決めた部門にシフトし、戦力として活用すべくリスキリングすることが喫緊の課題となる。   

 

各々個性がありますからね。個人主導のリスキリングでないと成果が上がらないでしょうね。       

やって見せ 言って聞かせて させて見せ 褒めてやらねば 人は動かじ (山本五十六)    

 

>必要な人材が獲得できた後も、「重要業績評価指標」(KPI=Key Performance Indicator)を用いて課題ごとに現状評価を行い、組織が掲げた経営戦略との齟齬(そご)が生じていないか定期的にチェックすることだ。   

>齟齬が生じていたならば人事戦略を見直し、経営戦略の実行に向けて態勢を立て直す。   

>人材はコストではなく、新たな利益を生む「資本」として捉えるのである。   

>昨今、「エンゲージメント経営」(企業と従業員による双方の信頼関係を高める経営)の必要性が重んじられるようになり導入企業も増えてきたが、経営戦略と人事戦略を連動させると必然的に所属する組織への愛着もわくだろう。   

>愛着がわけば、モチベーションにつながり、従業員の業務パフォーマンスを最大限に引き出すこともできよう。   

>結果として、製品やサービスの付加価値アップを実現しやすくなる。   

()  

 

 

 

 

 


近藤紘子氏  

2024-07-14 02:57:22 | 文化

>毎日新聞   >「憎むべきは戦争」被爆後、米国に敵意を抱いていた女性の思い   >毎日新聞によるストーリー・   >9時間・   

> 広島原爆で被爆した近藤紘子(こうこ)さん(79)=兵庫県三木市=が同県宝塚市立長尾小学校で講演した。   

>生い立ちや被爆者支援に尽くした父のこと、原爆を投下した米国への思いなどを語る中、ひときわ力を込めた言葉があった。   

>「私が本当に憎むべきは戦争だった」。   

>今もなくならない戦争の愚かさを、次の時代を担う子どもたちに伝えたいと思った。   

> 194586日朝、近藤さんは生後8カ月で被爆した。   

>爆心地から約11キロ。   

>母の腕に抱かれたまま、爆風で倒壊した建物の下敷きになったが、命を取り留めた。   

> 牧師の父、谷本清さん(故人)は戦後、被爆者の救済や平和運動に尽力した。   

>教会には親を亡くした孤児や熱線で顔や手にやけどを負った若い女性らが訪ねてきて、一緒に遊んだ記憶がある。   

>くしで優しく髪をとかしてくれた「お姉さん」の手にはケロイドが残っていた。   

>「たった1発の爆弾」で、多くの人が不幸になった。   

>米国人に敵意を抱くようになった。   

 

そうですね。恨み骨髄ですね。   

 

> 敵がい心が一掃される機会が訪れた。   

>小学5年生の時、父を取り上げた米国のテレビ番組に出演するため家族で渡米。   

>番組収録で対面したのが、原爆を投下した爆撃機の副操縦士だった。   

>彼は「まちが消えていた」と語り、飛行日誌に「神様、私たちは何をしてしまったのか」と記したことを涙をためて明かした。   

>「この人もずっと悩んでいた。   

>憎むべきなのは人間ではない。   

>戦争こそ憎むべきなんだ」。   

 

そうですね。たとえば【英対する開戦の詔勅】では

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。   

となる。  

天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。  

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任も無い。だから、わが国では責任者を探すのに苦労する。    

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて ) 

兎角この世は無責任。   

 

>近づいて、そっと手に触れたという。   

> その後、近藤さんは米国に留学し大学などで学んだ。   

40代から本格的に国内外で被爆体験を語るようになり、副操縦士とのエピソードを繰り返し語ってきた。   

 

アメリ人には意思がある。意思のある人間には加害者意識がある。罪の意識もある。だから、謝罪もある。   

日本人には意思が無い。だから加害者意識も無い。有るのは被害者意識だけである。わが国は被害者だけが住む国である。はたして被害者に平和が訪れるであろうか。      

求めよさらば与えられん。(自ら積極的に求める態度が必要であるという事。)   

 

>日本で行き場を失った子どもを海外に養子として紹介する「国際養子縁組」の活動も続ける。   

> 20165月、オバマ米大統領(当時)が広島を訪問し「原爆を落とした爆撃機のパイロットを許した女性がいた。   

>それは、自分が本当に嫌悪しているのは戦争そのものだと気付いたからだ」と演説した。   

 

ウクライナはソ連崩壊により核兵器を放棄した。しかし、プーチン大統領は非核国ウクライナに侵攻し核兵器使用をちらつかせて恫喝した。

これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消滅した。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すものと1967 (S42) 12月に佐藤栄作首相は説明した。日本人のお花畑はもうない。

「世界大戦を含むあらゆる戦争はすぐ終わらせられる。講和条約を結んだ場合、あるいは1945年の米国による広島と長崎への原爆投下と同じことをした場合だ」 (ロシアのメドベージェフ前大統領

‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’  (マシュー・ポッティンジャー) 

‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相     

我が国は平和国家である。だから我が国は敵国には戦わずして勝つ必要がある。わが国の自衛隊はその目的に相応しい抑止力を持つことが急務である。

'為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)  

 

>近藤さんは「この女性が自分のことかどうか分からない。   

>いつか会う機会があれば聞いてみたい」と話した。   

> そして最後に「被爆者の願いである世界平和をあなたたちの手に委ねたい。   

>素晴らしい地球を守ってください」と締めくくった。   

 

他力本願・神頼みですね。   

 

>    ◇   

> 近藤さんの講演は9日にあり、広島への修学旅行(9月)を控えた6年生に語りかけた。   

>近藤さんは講演でいつも「世界のあちこちで起きている戦火」が頭から去らないという。   

>この日も、ロシアのウクライナ侵攻や、パレスチナ自治区ガザ地区でのイスラム組織ハマスとイスラエルの戦闘などを念頭に「どんなことがあっても人が人を殺してはならない。   

>子どもが犠牲になるのはもってのほかだ」と語った。   

 

そうですね。   

 

>【土居和弘】