物事を一つの言葉で一括にする…って、よくある話ですよね?
『ボクは、ワタシは、スゴく頑張った!』とか。
頑張った…
なら、それはどのへんで図るのか?
確かに言葉には限界がありますし、また都合よく使えたりもする。家庭も学校も、だからこその表現力や認識力などの育成の場だったりもしますが、子供達は人生としての経験値上、当然、伝え方は単純的だったりもします。
まず、ウチの道場にも受験生がいたり黒帯を目指す生徒がたくさんいるのですが、その頑張りは、どこで見るのだろう?ということで考えてみます。
まず物事には脳科学的にみても目標設定が重要なのですが、
その目標にすら届いていないのに……
たとえばお勉強なら、志望校に行くために○○くらいの点数が必要なのに、そこに届かないのに…
『頑張った!』
たとえば空手なら、大会で優勝したいのに、週1回の稽古だけで、まるでソコに届かないのに、それでも…
『頑張った!』
とか…(苦笑)
まずは、目標…そこを達成できているかが一番の目安になりますから、
たとえば私立高校でもいい…
自分はかなり勉強ができないけど、それでも一時期はシッカリ勉強して、その私立高校に行くと言って、そこに行くまでの準備が出来ているなら…
これは良し。
たとえば空手の黒帯になれなくとも、中学までの数年間の空手修行をやり切ると…
これも目的は違ったとしても、とても尊いものなのだと思うのです。
ようは目的意識…【高い目標】を持ち、それが【達成】できるのか?
そこがもっとも重要なのであり、それは恐ろしいことに…特別な例を除けば、すべて数字として出てしまうのです。
たとえば自主勉強なら…ダラダラと長くやることが頑張りなのではなく、内容を理解し、点数を出して行くことが目的なはず。
空手でもそうですが、いくら全日本レベルの選手が集まる強化稽古会に毎週のように来たとしても、個人の中に目的意識と稽古への集中力が無ければ、それはとても目標には届かないはずなのです。
そう、その部分での世界…その全体を見渡したうえでの【本当の頑張り】とは、【自分なりの頑張り】とは違うのです。
物事を頑張ることの目標にもよりますが、目的意識と内容が問われるのなら…まだ、そこに辿り着けていないのなら…
それはヤリ方や量の問題も含めて、物事を向上させるための分析や工夫という努力が必要なのでしょう。
人のことばかり言ってるようでなんですから、私自身に目をむければ、
競技空手の選手としてはダメ、残念でした、努力が足りなかった…とか、
少年空手の指導者としては頑張ってますね…
ということになるのでしょうかね?…(笑)
そう、勉強も空手もそうですが、基本的な頑張りとは目標にそった数字が決めて行くものなのだし、大人達が、その『頑張り』をシッカリと分析・管理をし、未来ある子供達を育ててゆかなければと、
最近、切に思うのです。
★写真は…トウイ
※少年空手の最高位二段取得、全日本選手権のレギュラールール、エキスパートルールも制覇、武道啓明賞なども受賞と、まさにグランドスラム達成のトウイ君。ここ最近の禅道会少年空手の世界として考えても、親御さんも彼も…一番頑張った!と言っても、言い過ぎではないでしょう…^_^