久々、道場ブログです^^
新年も明けまして、だいぶたちましたね。
時々、我が道場では心の勉強会をするのですが、先日は各道場、感謝の謝は、何故あやまると書くのか‥そんなテ-マで御話をしました。
内容は‥秘密ですネ(笑)
ただ面白かったのは、次の週の稽古、ある質問をしたわけで、
『なぜお寺では、食事中の会話をしないのか?』
そのような質問。じつは、それはあるテレビ番組にあったクイズのようなものの一つでして、それを生徒達に聴いてみたわけです。
そして私が驚いたのは、テレビ番組の大人達よりウチの道場の数人の子供達は、じつに明確に答えが出せていたということ。それは表現を含めて。
その中には小3の子もいたから、なおビックリなわけで。
もちろんコトの本当の意味を、子供達は大人ほど感じられるのかと言えば、それはないでしょう。
そもそも人生としての経験値が少なく、それらを体感できていないわけですから。
まぁ頭半分、あくまで方向性と言ったところでしょうか。
でも、それでも、その方向性が人生において、今後も大きな意味をなして行くことは想像できるのです。知ると知らぬの大きな違い。
前回の勉強会での捉え方が軸となり、考え方の方向性がハッキリしていれば、それらの問題は応用力をもちいて理解できる‥
そんなの〔人それぞれ〕じゃないか?
そのように語る人も一般的には多いと思いますが、それは人の成長の段階的なものを示すもの。
当然、小学生と大学生では経験値という脳内の情報量、積み重ねからして違うわけで、また育ちの環境も違えば、人は表現や受け取り方だって違ってきます。
でも、どちらが良いとか悪いとかなんて、立ち位置が違うからキリがないんですよね。それこそ答えなんか見いだせないわけで。
それでは確かなものはないのか?
いや、それは捉え方を変えれば、あるのだと思います。
それは見るべき視点を変え、人と人との共通性を探すこと。
たとえば四年前に同時に空手を始めた二人がいるとする。一人は大会で優勝し、もう一人は負け続けた空手人生だったけれど、努力賞は受賞した‥
さて、どちらの空手人生が価値があり、意味があったのか‥?
もう一つの例えとして、世界中の食事の時の礼儀作法は、どの国が一番正しいカタチなのだろうか?
ちょっと例え話がヘタですが‥(笑)
でも、そのような問いかけがあったとして、そりゃあ人間の意見はバラバラになるのも、また自然なことでしょう。
ただ、物事の本当に大事な部分を考えるなら、そこにシッカリと共通性は見いだせるのです。
たとえ人によって表現力は多少違ったとしても、見るべき視点を工夫すれば、また方向性が同じならば、それは誰もが共通する捉え方にもなるということ。
それは、とてもシンプルなことの中に存在するともいえますし、その部分の感覚を養いたい・・
また機会があれば、道場や夏季合宿なんかでも子供達と一緒に、そのようなこと一つ、語り合えたら良いなと思います。
それぞれの考え方で語るのか。
本質‥不変的な部分で語るのか。
考え方の違いでも、よく人は争います。
でも物事の本当に大切なものは、誰もが持つ共通性の中に、あるような気がします‥ m(__)m