ヴァイオリンとフルートのRio

ヴァイオリンとフルートに取り組んでいます。

恒例の終戦記念日

2018年08月15日 08時33分01秒 | その他
 昭和20年8月15日(水)正午にいわゆる玉音放送が行なわれました。玉音放送とは昭和天皇が録音して行われた終戦の詔勅の放送を指し、これにより一般国民に終戦が周知されました。玉音の「玉」(ぎょく)は天皇を意味します。

 明治以降、日本は清国、ロシアに連勝しましたけれど、日支事変を経て引き起こした三度目の大東亜戦争で連合国に敗れました。

 大東亜戦争に兵隊として出征した人、家を守った人、徴用されて軍務に協力した人など、戦時中に置かれた立場は人それぞれと思いますが、多くの人達が戦中戦後の日本を支え、今日に至っています。

 戦時中の出来事を語り継ごうと言う動きも各地で見られますけれども、語る事自体がはばかられたり、また語れば非難を招いた事もあって、多くの記憶がそのまま埋もれて消失したものと思います。

 現在、大東亜戦争そのものを「悪」ととらえる人が多いのは、敗戦に至る悲惨な経過を見れば無理からぬ事と思いますが、父親に聞いた話では当時の知識人(実は戦争に批判的)に共通した考えとして、開戦はやむを得なかった、ただし昭和17年のシンガポール陥落を好機として戦争を終結すべきであったと言う事だったらしい。「悪」ととらえようとするのは後の人達。

 さて、かく言う私は戦後生まれなので、戦争中に自分で見聞きした事は無く、こうして書いている事は両親から聞いた話がメインになります。終戦の昭和20年が73年前になりますから、その人の理解力や記憶力にもよりますが、当時5歳だった78歳以上の人が子供の時に終戦を知った事になります。

 しかし、戦争の意味するところや戦時中に親が苦労した点を理解していたかと言う点で考えれば、当時5歳では少々頼りなく、理解していたのはもう少し年長の人ではなかったかと思います。私のような70歳くらいの者が戦争を実感したかのように発言すればそれは全くのウソ。

 私の父親は兵隊時代に見聞きした悲惨な話が有るとは言いましたが、何の話題かについてはほとんど口をつぐんだまま亡くなりました。唯一話したのが都内の空襲跡の焼死体の片付けに従事した話で、手足を持ってトラックの荷台にほうり上げたとの事で、感覚が麻痺していて何の感慨も無かったと聞いたのが唯一。

 父親はまた、外地(=海外の占領地)でののどかな話は多少冗舌にしてくれましたが、これとて戦争を美化するものと非難される恐れが有るためか、家の外では口外しなかったものと思います。

 戦時中の経験談の扱いについてはこのような面がいつまでも残ったようで、聞く側が批判せずに語らせ、教訓として残すべきであったと思いますが、時既に遅し。

 戦争中の話が秘かに語り継がれているかと言うと、終戦当時20歳であった人(兵隊としての経験談をお持ちの筈)は現在93歳、話を引き継いだ子供は一世代30年とすると現在63歳、まあお元気でしょうから聞いた話は記憶されていると思います。今のうちにまとめておくべきかと思います。

 孫はとなると同様な計算なら現在33歳と言う事になりますが、核家族化が進みましたから、戦争中の話が伝わっていない可能性が大きいでしょう。かくして貴重な経験談の多くは伝わらないまま。

 「戦争法案反対」などと口を揃えて叫ぶのは我が国では権利として認められていますから決して悪いとは言いませんが、過去の歴史を殊更封印するのではなく、教訓としてまとめてから叫ぶべきではないかと思います。これこそ歴史認識の誤り。


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