中国四川省の大地震
2008年5月12日午後2時半。
中国の内陸部、四川省で大地震が起こった。四川省は広大な中国の内陸部にある一つの省で、ぼくは南隣の雲南省には行ったが、四川省にはいかなかった。
成都行きの切符を買うために昆明の駅にいったが、凄まじい行列の長さに閉口して、昆明から直接、バンコクへ帰ることにした。
人類が今までに経験したことがないような四川省大地震だが、マグニチュードも7.8から7.9、さらに8.0に訂正された。その規模や放出されたエネルギーは阪神淡路大地震の30倍に達するとか。その被災面積たるや日本国土の4分の1に当たるのだそうだ。
それはどれほどのものかというと、300kmの長さで、幅40kmにわたり、断層のずれが生じたというのだ。日本に例えれば、大阪から静岡までの距離で、幅40キロにわたり断層がずれたということになる。あまりにもスケールが大きすぎて、どう考えてみても、今回の未曾有の大地震には、対応の仕様がなかったのではないかと思う。
死者はおそらく10万人近くなるのではないだろうか。被災して家を失った人々が500万人以上とのことである。
災害発生市から生き埋めになった人の、生存の生理的限界と言われる生存率は72時間を境にして、ぐっと減るらしい。しかし、一人でも多くの人を助けたいのが、国際世論であろう。どの国であれ平和に暮らす人々の世界中の気持ちだろう。
72時間以内に何とかしなくてはと、気がせいたのは大勢の人の思いだろう。
わが国も救援を申し出たが、最初は中国は辞退していた。ところが、生存の生理的限界の72時間間際になって派遣を要請してきた
第1陣31名は成田から現地へ向かって出発した。おそらく睡眠も十分には取れていないはず。しかし、1秒を争う事態だから、ここは日本人の熱い救援熱で、がんばって欲しいのー言だ。日本が隣人・中国を思う友人であることを行動やその結果で示してほしい。
この大災害に、中国は軍隊と警察を合わせて、13万人出動させた。それでも手つかずのところが多いと聞く。
これだけスケールが大きい大災害が起こると、日頃からからどのように気をつけたらいいのか。途方に暮れてしまう。
当然のことながら、世界各国はそれぞれの事情に応じて救援物資や人を派遣している。
日本では自衛隊機による救援物資輸送という案が検討された。火急の時だいうのに、何の異論があるだろうか。一刻も早くと思えば、自衛隊機であろうと、民間機であろうと、何だってかまわない。
僕は最初は日本人としての立場だけで、物を考えた。しかし、よく考えてみると、過去に忘れられない大きさの傷を負った中国民が日の丸をつけた軍用輸送機に対してどれほどのアレルギーを持っているか。そこまで気が回らなかった。救援物資の輸送は結果として、民間機で運ぶことになった。それにしても悪夢の帝国主義侵略軍隊のイメージが、今なお厳然として、残っていることを忘れてはならない。普段はうっかり忘れている問題だ。
話は変わる。
僕は直接には、なんの被害も受けていないが、テレビの映像から見る、その惨状には、何回も涙がこぼれた。言葉にならないほど、気の毒な場面を見た。
名前は忘れたが、30代前半の男性が、8日ぶりに助けたされた時のことである。
建物のガレキに挟まれた彼の姿を大きく、テレビが映し出していた。
何か必要なものをと、リポーターが励ましに行ったときに、彼は携帯電話をほしいと言った。
それを差し出すと、彼の妻の名前を呼んで「お前と僕は永遠に一緒にいる。」といった。
彼は助けたされた。大勢の人の拍手に見送られながら、彼はタンカーで運ばれたが、救出された瞬間に容態が急変して結果は不帰の人になった。
声こそ出さなかったが、とめどなく、涙は溢れて、泣けた。泣けた。今まで彼はガレキの下でがんばっていたのだ。助けだされた時は、テレビで見ている僕も、思わず拍手をしてがんばれと叫んだ。だのに、彼は生還してはくれなかった。夫婦愛を飛び越えて、すばらしい人間愛いっぱいのこの言葉を残して、テレビの前で、彼は事切れたのだ。
ああ良かったと思ったのもつかの間、逆転の深い悲しみが体中に広がった。
彼は逝ったけれども、彼は最後の力を振り絞って、愛妻への思いをテレビの前で語ってくれた。その言葉が今も耳について離れない。
自然災害だから、誰を恨むということはないけれども、あまりにもムゴイと僕は思った。強いて恨むとすれば、天意外にはない。どうしようもない、もどかしさのみが渦巻いている。
再度、話は変わるが、
中国と違って、アメリカと日本の戦後関係は今まで、おおむね良好である。
星条旗を見て、アレルギーを起こす日本人は少ない。
沖縄戦では20万人以上の命が失われ、東京大空襲で10万人以上が焼き殺され、さらに原子爆弾を2発も喰って、戦後60年を経てなお、後遺症に悩み、裁判沙汰になっている原爆症状の患者がいる。
広島、長崎で直接被ばくして死んだ人の人数も10万をくだらないし、そのあとの後遺症で悩み苦しんで、死んでいった人は、60万人を越えているはずだ。
そんなひどい目に遭っても、中国国民が日本に対して抱くほど、根深い怨念は持っていないのが、日本人の心情である。どこが違うのか。
それはアメリカの占領政策が功を奏したことにもよるだろう。たとえば、軍国主義一掃や食糧援助や民主主義を定着させたことなどと、大いに関係があるだろうが。熱しやすく冷めやすいと言う軽い国民性もあるのかも知れない。
ひるがえって、戦後の日中関係は日本人が窮乏のどん底で敗戦を迎え、耐乏生活を脱して、ようやく昭和30年代後半から、経済が自立できる状態で、とても賠償まで手が回っていなかった。
歴史の展望が開ける一部の指導者を除いて、大多数の中国人が日本軍国主義のためにひどい目に遭わされたという怨念を、いまだに解いていないのも、わからないわけではない。
だが、中国国民に理解してほしい。あの帝国主義的軍国主義は昭和20年を境にして葬りさられたということを。
あの忌わしい、太平洋戦争終結後の日本は、軍国主義を否定し、平和憲法をもち、他国を再び侵略することは無い。憲法にはそう決められている。
国が1000兆円の借金に苦しみながらも、国連を通してODAにお金を出し続けていることも知ってほしい。
今回の大地震の被災地については、できるだけ日本人の行動を人道的善意として受け止めてほしい。
過去の軍国主義の悪夢というフィルターを通して、日本人の救援活動を見ると、そこには日本人の真心が欠落してしまう。日本人は大変残念に思うだろう。
中国に対して希望したいことは、過去の歴史と、戦後60年経つ現在の日本の歴史と実情を国民的レベルでよく理解してほしい
甚大な災害を受けた中国民は、日本人が持っている救援活動をありのままに受け止めてほしい。ここには火事場泥棒的発想もなければ、商魂もなく、唯純粋に被災され困っている隣人、四川省の人々へのひたむきな救援の想いである。これを通して現在の日本人の心根をそのまま受け取ってほしい。
日本では今、中国の被災者のためにあらゆるマスコミを通して募金活動を行なっている。
これもまた隣人中国への人々への日本人の率直な想いである。
2008年5月12日午後2時半。
中国の内陸部、四川省で大地震が起こった。四川省は広大な中国の内陸部にある一つの省で、ぼくは南隣の雲南省には行ったが、四川省にはいかなかった。
成都行きの切符を買うために昆明の駅にいったが、凄まじい行列の長さに閉口して、昆明から直接、バンコクへ帰ることにした。
人類が今までに経験したことがないような四川省大地震だが、マグニチュードも7.8から7.9、さらに8.0に訂正された。その規模や放出されたエネルギーは阪神淡路大地震の30倍に達するとか。その被災面積たるや日本国土の4分の1に当たるのだそうだ。
それはどれほどのものかというと、300kmの長さで、幅40kmにわたり、断層のずれが生じたというのだ。日本に例えれば、大阪から静岡までの距離で、幅40キロにわたり断層がずれたということになる。あまりにもスケールが大きすぎて、どう考えてみても、今回の未曾有の大地震には、対応の仕様がなかったのではないかと思う。
死者はおそらく10万人近くなるのではないだろうか。被災して家を失った人々が500万人以上とのことである。
災害発生市から生き埋めになった人の、生存の生理的限界と言われる生存率は72時間を境にして、ぐっと減るらしい。しかし、一人でも多くの人を助けたいのが、国際世論であろう。どの国であれ平和に暮らす人々の世界中の気持ちだろう。
72時間以内に何とかしなくてはと、気がせいたのは大勢の人の思いだろう。
わが国も救援を申し出たが、最初は中国は辞退していた。ところが、生存の生理的限界の72時間間際になって派遣を要請してきた
第1陣31名は成田から現地へ向かって出発した。おそらく睡眠も十分には取れていないはず。しかし、1秒を争う事態だから、ここは日本人の熱い救援熱で、がんばって欲しいのー言だ。日本が隣人・中国を思う友人であることを行動やその結果で示してほしい。
この大災害に、中国は軍隊と警察を合わせて、13万人出動させた。それでも手つかずのところが多いと聞く。
これだけスケールが大きい大災害が起こると、日頃からからどのように気をつけたらいいのか。途方に暮れてしまう。
当然のことながら、世界各国はそれぞれの事情に応じて救援物資や人を派遣している。
日本では自衛隊機による救援物資輸送という案が検討された。火急の時だいうのに、何の異論があるだろうか。一刻も早くと思えば、自衛隊機であろうと、民間機であろうと、何だってかまわない。
僕は最初は日本人としての立場だけで、物を考えた。しかし、よく考えてみると、過去に忘れられない大きさの傷を負った中国民が日の丸をつけた軍用輸送機に対してどれほどのアレルギーを持っているか。そこまで気が回らなかった。救援物資の輸送は結果として、民間機で運ぶことになった。それにしても悪夢の帝国主義侵略軍隊のイメージが、今なお厳然として、残っていることを忘れてはならない。普段はうっかり忘れている問題だ。
話は変わる。
僕は直接には、なんの被害も受けていないが、テレビの映像から見る、その惨状には、何回も涙がこぼれた。言葉にならないほど、気の毒な場面を見た。
名前は忘れたが、30代前半の男性が、8日ぶりに助けたされた時のことである。
建物のガレキに挟まれた彼の姿を大きく、テレビが映し出していた。
何か必要なものをと、リポーターが励ましに行ったときに、彼は携帯電話をほしいと言った。
それを差し出すと、彼の妻の名前を呼んで「お前と僕は永遠に一緒にいる。」といった。
彼は助けたされた。大勢の人の拍手に見送られながら、彼はタンカーで運ばれたが、救出された瞬間に容態が急変して結果は不帰の人になった。
声こそ出さなかったが、とめどなく、涙は溢れて、泣けた。泣けた。今まで彼はガレキの下でがんばっていたのだ。助けだされた時は、テレビで見ている僕も、思わず拍手をしてがんばれと叫んだ。だのに、彼は生還してはくれなかった。夫婦愛を飛び越えて、すばらしい人間愛いっぱいのこの言葉を残して、テレビの前で、彼は事切れたのだ。
ああ良かったと思ったのもつかの間、逆転の深い悲しみが体中に広がった。
彼は逝ったけれども、彼は最後の力を振り絞って、愛妻への思いをテレビの前で語ってくれた。その言葉が今も耳について離れない。
自然災害だから、誰を恨むということはないけれども、あまりにもムゴイと僕は思った。強いて恨むとすれば、天意外にはない。どうしようもない、もどかしさのみが渦巻いている。
再度、話は変わるが、
中国と違って、アメリカと日本の戦後関係は今まで、おおむね良好である。
星条旗を見て、アレルギーを起こす日本人は少ない。
沖縄戦では20万人以上の命が失われ、東京大空襲で10万人以上が焼き殺され、さらに原子爆弾を2発も喰って、戦後60年を経てなお、後遺症に悩み、裁判沙汰になっている原爆症状の患者がいる。
広島、長崎で直接被ばくして死んだ人の人数も10万をくだらないし、そのあとの後遺症で悩み苦しんで、死んでいった人は、60万人を越えているはずだ。
そんなひどい目に遭っても、中国国民が日本に対して抱くほど、根深い怨念は持っていないのが、日本人の心情である。どこが違うのか。
それはアメリカの占領政策が功を奏したことにもよるだろう。たとえば、軍国主義一掃や食糧援助や民主主義を定着させたことなどと、大いに関係があるだろうが。熱しやすく冷めやすいと言う軽い国民性もあるのかも知れない。
ひるがえって、戦後の日中関係は日本人が窮乏のどん底で敗戦を迎え、耐乏生活を脱して、ようやく昭和30年代後半から、経済が自立できる状態で、とても賠償まで手が回っていなかった。
歴史の展望が開ける一部の指導者を除いて、大多数の中国人が日本軍国主義のためにひどい目に遭わされたという怨念を、いまだに解いていないのも、わからないわけではない。
だが、中国国民に理解してほしい。あの帝国主義的軍国主義は昭和20年を境にして葬りさられたということを。
あの忌わしい、太平洋戦争終結後の日本は、軍国主義を否定し、平和憲法をもち、他国を再び侵略することは無い。憲法にはそう決められている。
国が1000兆円の借金に苦しみながらも、国連を通してODAにお金を出し続けていることも知ってほしい。
今回の大地震の被災地については、できるだけ日本人の行動を人道的善意として受け止めてほしい。
過去の軍国主義の悪夢というフィルターを通して、日本人の救援活動を見ると、そこには日本人の真心が欠落してしまう。日本人は大変残念に思うだろう。
中国に対して希望したいことは、過去の歴史と、戦後60年経つ現在の日本の歴史と実情を国民的レベルでよく理解してほしい
甚大な災害を受けた中国民は、日本人が持っている救援活動をありのままに受け止めてほしい。ここには火事場泥棒的発想もなければ、商魂もなく、唯純粋に被災され困っている隣人、四川省の人々へのひたむきな救援の想いである。これを通して現在の日本人の心根をそのまま受け取ってほしい。
日本では今、中国の被災者のためにあらゆるマスコミを通して募金活動を行なっている。
これもまた隣人中国への人々への日本人の率直な想いである。