ある娼婦
大阪市西成区愛隣地区といえば、厳しい人生の風雨にさらされて、おちぶれた人々の吹きだまりの様なところである。
その愛隣地区近くの路上で、刑事とは知らずに、客引きをした45歳になる、売春常習者が警察に摘発された。
20代、30代ならともかくも、45歳にもなって、正業に就くことなく、身を売ることによって、生活を支えるなければ、どうにも立ち行かない環境に置かれた、彼女の心の内には、どんな嵐が吹いていたのであろうか。
身売りをしなくては、生活が立ち行かなかったのは、何らかのやむにやまれない事情によるもので、普通の人間であれば、誰が好んで人の蔑む身売りなどをするものであろうか。彼女の場合もよくよくのことがあってのことだろうと私は思った。
私個人の覗き趣味からではなく、一歩踏みはずせば、どう狂っていくか、わかんない人生の不確かさの実例として、私はこの娼婦に非常に興味を持つようになった。
警察の調書をもとに、正確な追跡を行い、事実関係を調べあげた上での、話ではないのだが、だいたいの様子は新聞記事から読み取れるし、第1に、一挙手一投足も克明に、記述したところで、それは話の展開にあまり関係がないことである。
この種の人たちに共通していることだが、普通の家庭に生まれ育っていない事が多い。彼女の場合、父の名前も、何もわからなければ、母も途中から、この子を残して出奔してしまい、いわゆる家庭という心の安らぎの場所もなく、食べることさえこと欠きながら、今の歳まで生きてきたと言うのである。
その過程のなかで、自分の境遇と同様に、彼女は身障者の父なし子を産み落としている。
彼女には幸せの女神はそっぽを向いているのだろうか。こういう不幸な人なればこそ、神仏のご加護があっても良いと思うのだが、神仏も意に沿わない人や、神仏の教えに救いを求めて来ない人には神仏ですらも、いつも背を向けているのであろうか。
幾日か過ぎて、彼女の裁きの日がやってきた。
検察官からの詳細な訴状に目を通した裁判官は、彼女に、今度こそ立ち直るように諭しながら、執行猶予付きの寛刑を言い渡した。私は他人ごとながら我がことのように、安堵の吐息をもらした。
この話に、もう一つ、心温まる話が加わった。
この婦人をある飲食店の店主が、食堂の従業員として雇い入れたのである。今までのすさんだ生活に、慣れ染まって、身も心もボロボロになった彼女が、果たしてこんな正業を無事に勤めるあげることができるか。幾ばくかの懸念はぬぐいされないが、それにしても、彼女にとっては、善意に満ちた配慮以外の何物でもないのだから、今度こそは立ち直ってほしい。
考えるに、大勢の人間が、己の才覚で、自由競争をし、適者生存のみを基本原則にして生きると、生まれながらにして、ハンデイを背負っている人は、どうしてもおってけぼりを食ったり、下方を目指して落ちて行かざるを得ない場合が多い。それを社会的な落伍者と烙印を押すのは、いとも簡単であるが、それだけでは決して社会はよくならない。よくならない社会に住む庶民も、どこかでとばっちりを受けて足を引っ張られる結果になる。それ故にちょっとした思いやりとか、暖かい心遣いを心がけることによって、人間の社会はまだまだ住みやすいように改善できる。
殺人だ、火事、事故だ、毎日うっとうしいことの多いニュースとは逆に、このうっとうしい娼婦の話は、一人の人間の行為と、それを取り巻く人間模様の中に、一陣の春風を吹き込んだようで、私は心温まる想いがして、すがすがしい気分になった。
大阪市西成区愛隣地区といえば、厳しい人生の風雨にさらされて、おちぶれた人々の吹きだまりの様なところである。
その愛隣地区近くの路上で、刑事とは知らずに、客引きをした45歳になる、売春常習者が警察に摘発された。
20代、30代ならともかくも、45歳にもなって、正業に就くことなく、身を売ることによって、生活を支えるなければ、どうにも立ち行かない環境に置かれた、彼女の心の内には、どんな嵐が吹いていたのであろうか。
身売りをしなくては、生活が立ち行かなかったのは、何らかのやむにやまれない事情によるもので、普通の人間であれば、誰が好んで人の蔑む身売りなどをするものであろうか。彼女の場合もよくよくのことがあってのことだろうと私は思った。
私個人の覗き趣味からではなく、一歩踏みはずせば、どう狂っていくか、わかんない人生の不確かさの実例として、私はこの娼婦に非常に興味を持つようになった。
警察の調書をもとに、正確な追跡を行い、事実関係を調べあげた上での、話ではないのだが、だいたいの様子は新聞記事から読み取れるし、第1に、一挙手一投足も克明に、記述したところで、それは話の展開にあまり関係がないことである。
この種の人たちに共通していることだが、普通の家庭に生まれ育っていない事が多い。彼女の場合、父の名前も、何もわからなければ、母も途中から、この子を残して出奔してしまい、いわゆる家庭という心の安らぎの場所もなく、食べることさえこと欠きながら、今の歳まで生きてきたと言うのである。
その過程のなかで、自分の境遇と同様に、彼女は身障者の父なし子を産み落としている。
彼女には幸せの女神はそっぽを向いているのだろうか。こういう不幸な人なればこそ、神仏のご加護があっても良いと思うのだが、神仏も意に沿わない人や、神仏の教えに救いを求めて来ない人には神仏ですらも、いつも背を向けているのであろうか。
幾日か過ぎて、彼女の裁きの日がやってきた。
検察官からの詳細な訴状に目を通した裁判官は、彼女に、今度こそ立ち直るように諭しながら、執行猶予付きの寛刑を言い渡した。私は他人ごとながら我がことのように、安堵の吐息をもらした。
この話に、もう一つ、心温まる話が加わった。
この婦人をある飲食店の店主が、食堂の従業員として雇い入れたのである。今までのすさんだ生活に、慣れ染まって、身も心もボロボロになった彼女が、果たしてこんな正業を無事に勤めるあげることができるか。幾ばくかの懸念はぬぐいされないが、それにしても、彼女にとっては、善意に満ちた配慮以外の何物でもないのだから、今度こそは立ち直ってほしい。
考えるに、大勢の人間が、己の才覚で、自由競争をし、適者生存のみを基本原則にして生きると、生まれながらにして、ハンデイを背負っている人は、どうしてもおってけぼりを食ったり、下方を目指して落ちて行かざるを得ない場合が多い。それを社会的な落伍者と烙印を押すのは、いとも簡単であるが、それだけでは決して社会はよくならない。よくならない社会に住む庶民も、どこかでとばっちりを受けて足を引っ張られる結果になる。それ故にちょっとした思いやりとか、暖かい心遣いを心がけることによって、人間の社会はまだまだ住みやすいように改善できる。
殺人だ、火事、事故だ、毎日うっとうしいことの多いニュースとは逆に、このうっとうしい娼婦の話は、一人の人間の行為と、それを取り巻く人間模様の中に、一陣の春風を吹き込んだようで、私は心温まる想いがして、すがすがしい気分になった。