日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

股下3寸パンチラ2-39

2008年06月22日 | Weblog
股下3寸パンチラ

股下3寸。これは勝手におれが名付けた。何のことはない。
おれの目から見て超ミニスカートをはいた女を見つけて驚いて、言葉探しをしたら
股下3寸と言う言葉がひらめいたもんだ。もっと気の利いた言葉はないのか。横文字にするとか。
しけてるなー。我ながら己の石頭に、情けなさがこみ上げてきた。

下品ではないが、要するにスカートの裾がパンツすれすれなのである。
色気むんむんで断然男を挑発するスタイルである。
色は白いは、肌はプリプリ。

男の視線を完全に意識して仕掛けている。腰を曲げてお辞儀でもしようものなら、パンツ丸見えじゃないか。面白い。知らん顔して彼女のそばに財布でも落としてひらってもらうか。そしてほんの何分の1秒の間にチラッと視線を向けて、覗き見するか。
普通の男なら見るなと言われても、視線は釘付けになって、あらぬ妄想に耽るだろう。
挑発しなくても、痴漢は男の専売特許なのに、こうあからさまに挑発されたら、痴漢する方がぜったに悪いとは言い切れない。どっちもどっちという気がしてきた。
かといって痴漢をする勇気はないし、この年をひっさげて痴漢して、お縄頂戴なんて死ぬより恥ずかしい事だから、手出しはしない。女の側から見ると完全に安全パイである。

頭の中でいろいろ肥大した妄想を巡らせることが関の山だ。妄想を楽しむ?人間は、特に男はこの分野が得意に生まれついているのか。

こういう大胆なポーズがとれる女の年齢層はどうなんだろう。30代の女性?全然むり。25歳は?この服装ではババアが腰巻きという感じで似合わない。とすると
18くらいから精々22,3歳くらいまでか。

ピチピチギャルといったって、あと20年も経てばマドンナを通り越してうば桜。
花の命は短くて、苦しきことのみおおかりき。名言を吐いた林女史の実感が伝わってくる。

となると花の命を謳歌できる時には、謳歌すべしと言う理屈に突き当たる。
ここまでくると女の美を楽しむ、賛美するという次元から離れてしっちゃかめっちゃかの理屈をこね回して、抱く妄想の世界の言い訳がましいことを一人でほざくことになる。

それにしても、見るだけよ、と言う世界だけではつまらないな。何とか根性が頭をもたげる。へっへっへー。人生は考えようってもんだ。

今日はこんな事を考えながら、心斎橋から難波まで、雨に濡れて、御堂筋を歩きながら、一人で悦にはいっていた。

ところで股下3寸なんて江戸時代に使われた言葉みたいで、どうも引っかかる。
そこで思いついたのが、パンチラだ。これなら大部ハイカラになった気分になるが、お宅は如何?

宮崎勤の死刑執行について

2008年06月22日 | Weblog
宮崎勤の死刑執行について

鳩山法務大臣の言い分。

自信と責任を持って執行できる人を選んだ。

正義の実現のために粛々と実行。

裁判所ででた判決を行政の裁量で執行を引き延ばす方がおかしい。

死刑制度は国民の80%が望んでいる。

朝日新聞は 次のように書いた。
就任1年未満で13人執行 死刑執行粛々と加速。これまでの慣例は鳩山法相の下で次々覆される。

僕の言い分。
朝日新聞のような書き方をすると、鳩山法務大臣の今回の死刑執行には物言いがついているかのような印象を与える。
彼以前の法務大臣が刑事訴訟法の定めを忠実に実行しなかった責任追及はどうして行われないのだ。執行書のサインと刑訴法の整合性はどのように説明するのか。

加速ではないのだ。以前が怠慢すぎて執行数が0だったり、少なかったりしたのだ。どうしてそこを追求しないのだ。追求すれば大きな問題が浮かび上がってこよう。そこを素通りして「、加速」というのは完全に片手落ちだ。僕の考えでは怠慢から抜け出て、やっとその職責を全うする法務大臣が現れて職務を忠実に行ったと思っている。
新聞社氏よ。 反論を期待したい。

鳩山法務大臣の主張に対して
死刑廃止論者の国会議員で作る死刑廃止議員連盟は危機感をあらわにした。
彼らの意見は今忖度するには当たらない。次元が違う話だからだ。口を挟むなら死刑制度の存廃についての話だ。



宮崎務事件

4人の幼女を誘拐して殺害 そのうちの一人は遺骨にして被害者の団地の自宅前において、さらに犯行声明を出した。
この事件を機に子どもが外で遊ぶ姿が消えたという。犯人の持つ残虐性、凶悪性
と社会にあたえた衝撃と震撼の大きさは計り知れない。

20年の長きにわたって、裁判は慎重に行われ、いずれも死刑以外の選択肢はないと結論つけた。この事件を総観すると犯人の異様さに薄気味悪いものさえ感じる。
死刑判決は当然である。それ以外に選択肢は無い。

このような猟奇殺人はタイの首都バンコクでも起こった。子どもを5人誘拐して、殺害し、食べてしまったのである。
犯人のシーウイは処刑後、本人を樹脂で固め、シリラット病院の中にある犯罪博物館に展示されている。大きなガラスケースに立ち姿で入れてあり、誰でも見学できる。処刑して済ませる問題ではないと考えられたから、標本にしてあるのだ。僕は実物を見てきたが、これは当然のことだと思った。
シーウイの標本を目の前にして、むらむらと憎悪の炎が燃え上がった。正義感を持つ人間なら、みなそう思うのではなかろうか。

再審請求をしようとしている、常識欠如の弁護士がいるのははなはだ情けない。
加害者の人権など、問題にする方が異常人間で、彼らこそ社会の安寧を壊す破壊者だと断じた。

特別被害者の肩を持つわけではないが、これだけの凶悪な殺人をしでかしたのだから、社会的には死刑以外に、モット大きなお仕置きを受けても当然だとさえおもう。

一方、時たま死刑が残酷だと主張する意見がある。だが物事の本質を考えてみるが良い。死刑よりはモット残酷に、無慈悲に殺された被害者の受けた残酷さを思い出すがよい。そして現行の死刑の残酷さと比較すれば、どちらが残酷か。一目瞭然だ。僕の考えでは死刑が残酷だなんて問題外の話だ。
この世の事は、すべて自己責任だ。己の行った事のすべての責任は自分が背負うのが基本原則で、これを恣意的に、ゆがめるわけにはいかない。ゆがめたら法律の根本がゆらいで収拾がつかなくなる。
だから自分の行った犯行については、刑罰を受けて責任をとるときにはその残虐性も当然背負わなくてはならない。そこに何の論理矛盾も感じないのは当然だ。なぜなら、この世の中の事は、すべてこの原理で動いているわけだから。