日々雑感

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白毫寺 閻魔寺

2008年06月30日 | Weblog
           白毫寺 閻魔寺

白毫寺は奈良市の南 志賀直哉が生前、住んだことのある邸宅、高畑町から歩いて南に下がること、約20分くらいである。高円山の中腹にあり、藪や雑木林に隠れて、道ばたから見えない。

入山するまでは、石段が長々と続く。石段の両側には、萩が植えられていて、見頃になると石段を覆い被さるような形で、道をふさぐ。シーズンになると、テレビが取材して、放映してくれるので、居ながらにして、見事な萩を鑑賞できる。

石段を登り詰めると、拝観料と引き替えに、寺の案内書を貰う。ここの宗派は真言律宗で本山は西大寺である。律と言えば、仏教の法律みたいな物で、その律に縛られて、(守ることによって)ずいぶんと非人間的な生活を、強いられることだろうと、気の毒に思った。

人間は片時も、おなじところに所に、とどまることはなく、心のむくまま、気の向くまま、ふらふらするのが、本来の姿であるからだ。常に流れている。いや常に揺れ動いている。
その本来の性向が律によって制約を受ける。つまり律が認めた範囲でしか、自由がないと窮屈がるのは、凡人の淺智恵といえばよいのか。

この寺の名物は、五色椿(県木)と閻魔サンが祀られていること。そのほかに、中腹にある寺の境内から市街地を眺める眺望の良さや、置かれたベンチに腰掛けて、木陰に身を寄せ吹き上げて通り過ぎていく極楽風を、体一杯に受けることにあるだろう。

勿論季節になれば、萩も見物できるし、なんと言っても、市街の中心から離れているので、静かである。
時折通り過ぎる風に身を任せ、雑木林の葉擦れの音を聞き、鳥の声を身に受けていると、しばし仏の境地を、味わうかのようである。


仏の境地といえば、本堂の入り口のとびらに、小さく書かれた佐佐木信綱博士の
「山高き 御寺のうちに あるほどは 我もしばしの 仏なりけり」という短歌が実感をもって迫ってくる。

僕はかってこの詩を詠み込んで「白毫寺」という題を付けて作曲したことがある。
勿論歌詞は3番までとした。
2番は当山の御詠歌として、3番は
「その昔の 志貴皇子の白毫寺 五色椿は 今盛りなり」 と僕が詠んだ。

五色椿は不思議な木である。一本の木の枝に色の違った椿の花が咲くのである。
白、紅など花の色は5色(正確には分からない)に分かれている。珍しい木である。勿論県指定の県木になっている。
この五色椿の北側に本堂があり、さらに北に宝蔵がある。
宝蔵の入り口には禁撮影の文字がある。そこには何故写真に撮ってはいけないのか、
理由が説明されている。曰く「仏像は拝む対象で、美術品ではない」。理屈はその通りである。
しかし地獄極楽、閻魔さんの姿など見たこともないから、人目がないのを幸いに、シャッターを押そうとしたが、やはりやめた。先ほどの薬が効いている。
加えてもし閻魔さんの裁きを受ける時がやってきて、「お前は盗みどりした犯人だ」とでも冒頭に図星でもさされる日には、後々の返答に困ると計算したからである。

ところで地獄極楽は、あの世にもあるのだろうか。この世にあるというのなら話は分かる。
今日この寺に来るのに、女房の誇大妄想狂のお陰で、地獄を味わった。妻たる私を連れて行かないで、他の女性を助手席に乗せて、連れて行くとは何事か。その声と顔たるや、ここに鎮まる閻魔さんの憤怒像よりも、すごい形相で、火を噴きそうと言うだけではなく、憎らしさの余り、とって食い殺されるか、と憤怒激怒の顔が、声の向こうにある。

女房がいくら悋気しようとて、僕にはそんな実態は、影も形もないから、まるで平気である
なんと言うことを想像する女だと、こちらも怒る。しかし今日は正真正味、独りで来ている。助手席には誰も乗っていない。女性を連れて浮気をしていると言うのは、彼女の誇大妄想以外の何ものでもない。全く関係がないところで、地獄へ突き落とされたような気分だ。いくらこちらに正義が有り、と頑張っても、気分の悪いこと、おびただしい。

この世には地獄が確実にある。つくづくそう実感した。そして不合理だと思ったのは、自分に何の落ち度も、責任もないところに、地獄の風が吹いて、真っ逆さまに地獄へおとされる不愉快さである。
僕はベンチに腰掛けながら、携帯電話という物は、時として、地獄行きの道具に早変わりすることがある事を知った。文明の利器は必ずしも、人を幸せにするだけの物ではない。

こういう地獄の風も、時が経つにつれて収まり、僕は高円山の中腹、白毫寺の境内に吹き上げてくる、心地よい風に身を任せていたので、地獄界から徐々に抜け出て、極楽世界の方に、向かうことになった。

頭で今までの家内とのやりとりを、反芻してはダメ。反芻すると、たちまちにして地獄直行になる。だから出来るだけ、頭と体を切り離して、自分の世界に籠もるようにした。
我独りの世界を取り戻すと、この境内は極楽世界だった。そして僕は閻魔さんに次のように言って置いた。
「全てにわたり、真実を追求される閻魔さん。先ほどは携帯電話を使って、地獄へ行って参りました。ご存じのように、今日はガールフレンドを同伴しておりません。先ほど声を荒げて、もうめちゃくちゃに、ののしったのは妻です。彼女の妄想です。今回ばかりは一人っきりで来ているので、彼女が言うように、助手席には、誰もいません。そこの所をはっきりとえんま帳に記入しておいてほしいのです。今日は紛れもなく、独りで御前に詣でていることは一目瞭然でしょ。

{「だがしかし、それでは二人づれの事もしっかり記録しておく}と。おっしゃることは尤もです。しかし人の世というものは、閻魔さんの思われるほど、単純な物ではありません。色々複雑で、相反するようなことも、現実には起こりうるのです。そこをうまくかき分け、かき分け生きているのが、人間の生活です。その現実を無視して、これは定め、だからの一点張りで、裁かれた日には、たまったものじゃありません。

閻魔さんは神さんか、仏さんかは知らないが、少なくとも人間レベルよりは上の筈。事情ご賢察の上、真実に基づいて公平にお裁き願います。
人間世界では、閻魔さんの名前はよく売れています。そこらそんじょの洟垂れ小僧でも、よく存じております。しかしながら、どのようなお働きをなさるのか、については、皆目存じておりません。ウソをついたら閻魔さんに舌を抜かれる、と言うことだけが、定着しております。
次回はインターネット上で、判る範囲で調べ上げて報告し、世の人々にしらしめる事に勤めたい、と存じております。しばしお時間を頂戴いたします。では今日はこの辺で」。