日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

紅葉 

2008年12月02日 | Weblog
          
紅葉 081202

 寒くなってきた。あれだけ暑かった、今年の夏だったけど、どこかへ行ってしまった。今は、吐く息も白い。指の先は冷たくて、手袋をはめている。それでも、紅葉が真っ赤に紅葉しないところをみると、、寒さはまだ足りないということか。
 今日は11月最後の日曜日で、12月と隣り合わせだ。やっぱり行ってみよう。どんなに素晴らしい紅葉が見えるかもしれないから。

 私はそう自分に言い聞かせて家を出た。嵐山にしようか。それとも、東山にしようか。
どちらもみるところがあるので迷ったが、最後は、八橋が販売されているという理由で、東山にした。八橋くらいなら、嵐山でも売っているから、これは理由にならない理由だった。

 四条河原町を降りると、もう人波は大変なもので、歩行者天国の新宿みたいだ。その人波に、乗り込んで、僕は東山を目指した。八坂神社を横切って、上手の方に上がって行くと、円山公園に出る。ぐるりと1周すると、紅葉は木によって赤さが違う。
 紅葉も人間と同じで、いろいろあるなあと思いながら歩いていると、知恩院さんの前に出た。

 正面の道を西をさして歩いてゆくと、とつぜん胸を横切ったものがある。ハッと、思い返してみると、今からだと、もう何年前になるか。少なくとも10年はとうに過ぎているはずだが。

 寂しそうな顔立ちだったが、眼鏡をかけた顔はまじめそのもの。美人いえば言い過ぎになるかもしれないが。決して不美人ではない。
 教壇に立つとま正面に座っている。彼女は、いやがおうでも、目に入る。その彼女がある日を境にして、いつも顔を机に伏せて寝ているような格好で、授業を受けるようになった。
 おかしい。一体何があったんだろう。僕は担任の先生に事情を聞いてみたところ、お母さんガンらしいという話だった。

 彼女は一人っ子で、聾唖者である。彼女の話は僕には半分も理解できなかった。通じ合わなくて、お互いに歯がゆい思いをしたのは、幾たびとなく経験している。

 推測するに、彼女の思いを百パーセント理解し合えることができたのは、実の母親たった一人だったのではなかろうか。
 すなわち、何が何でも彼女には母親が必要だったのである。
それはあたかも人という文字が、お互いを支えあってはじめて成り立っているように、どちらかが一人が抜けてることは許されない関係つまり、どちらかが、いなくなれば、両方がなくなる。倒れるという関係になっていた。
そういう中で、母親がガンにかかってしまい、床に伏すという事態になってしまったんだ。

 僕が最初に気がついてから半年目に、母親は他界した。彼女はひどくとり乱したふうでもなく、ある程度覚悟はできていたみたいだった。

 年が明けて3学期が始まると、彼女は姿勢を伸ばして、授業を受け始めた。どこか淋しい影が宿っていたが、それはみるも、無残というようなものではなかった。2月の末には、卒業式があった。

 学校は彼女の人並み以上の努力とがんばりに対して、賞状でもって応えた。
しかも、身体のハンディを乗り切って、彼女は京都にある短期大学に進学が決まっていた。おそらく、大学側は彼女の体のハンディを考慮しても、なお勉強できると、判断していたのだろう。そしてその判断は正しいと僕は思った。健常者と同じように授業を受けていて、何ら不都合なことは無かったし、成績はいつも上位にいて、成績で勝負するというのなら、堂々と勝てると思っていたから。大学の入学試験に合格したのも当然だと思った。

彼女の自殺の方に接したのは、1時間目の授業が始まる直前だった。電話はお父さんからのものであった。
昨夜、夜中に小用に起きた。
ガス管が彼女の部屋に引き込んである。不気味な予感が走って、しまったと思って部屋に飛び込んだが、間に合わなかった。体はまだ暖かかったが呼吸は完全に止まっていた。すぐ救急車を呼んだが、結末は帰らない人になっていたというのだ。

 いったいどこまで不幸が付きまとうのだろうか。この一報聞いたとき僕はやり場の無い怒りに体を震わせた。この悲しみをどこへぶつけて良いのか。この腹立たしさをどこへ持っていけば良いのか。
 人間が生きて行く上で起こってくるさまざまな不条理に、心が切り刻まれる感じがした。その感覚は今も鮮やかに僕の胸の内にある。

どこをどう歩いたのか知らない。車の警笛でびっくりして、はっと我に返ったとき、僕は
華頂短大の前の道を山門の方に向けていうターンしていた。

紅葉も人波もそんなものは全然目に入らない。今は彼女がどの辺りにいるのだろう。
ここに出てきて、僕に思い出して欲しいと催促してくるからには、近くにいるはずだ。
 確かに死んだら肉体はなくなるが、魂までなくなるとは、思えない。僕はこう自問自答した。

 10年以上も昔ことであるにもかかわらず、まるで映画のスクリーンを見るかのような鮮やかさで、頭の中に繰り広げされるストーリー展開に、僕は夢を見ているかのような錯覚に陥った。
 紅葉は今日でなくてもいつでも見れる。そう思って、足早に、帰宅の途についた。